龍 18 関東U
 私達はもう一度会場に戻った。エディはもう一度マイクを貰って、スピーチを始めた。「みなさん!せっかくの春節祭のパーティーなのに、トラブルをお見せして申し訳ございません。もう、トラブルは解決しました。このとおり全く問題はありません」
 そう言って傷ついた方の手を広げて振ってみせた。会場から拍手が起こる。それが収まるのを待って、彼は続けた。
「今年が、皆様にとって素晴らしい年であることを、再度祈ります!」そう言って彼が頭を下げると、もう一度大きな拍手が巻き起こった。

 私はマダムローザを見つけた。
「マダーム、お久しぶりです。お元気でしたか?」
「ええ、頗る元気よ。何だかもう一度春が巡ってきたみたいな気分なの。あなたの龍も素晴らしく育ったわね。あの時よりも、数段も力を付けたみたい」
「ありがとうございます。ここに座っていいですか?」私がそう尋ねると彼女は椅子をさして「どうぞ」と言って微笑んだ。
「失礼します」私はそう言ってそこに腰を降ろす。それを待っていたようにマダムローザが尋ねた。
「エディ坊やは大丈夫なの?随分血が出ていたみたいだけど」
 私は微笑んで言う。「それは本人に聞いて下さい」
 エディが後ろからマダムをのぞき込むようにして言った。
「マダム!お久しぶりです。みっともない所をお見せしてしまって申し訳ありません。僕もご一緒していいですか?」
「もちろんよ」マダムローザがそう答えるのを聞いてエディも隣に腰を降ろした。
「マダム、ほら、全然平気そうでしょう?」そう言ってマダムの前に手を広げてみせた。
 マダムはその手を取って左手に乗せ、右手でそれを包み込むようにして言った。
「完璧ね。このぐらい傷跡は男の勲章よ」そう言ってポンポンと二度ほど叩くとエディの手を放した。
「ありがとうございます。今日は マダムにぜひお尋ねしたいことがあるのですが、いいですか?」エディがそう言うと、マダムがそれに大きく頷き「どうぞ何でも聞いて」と答えた。
 エディが言う。「マダーム、本当に若返られましたね。先日アルン隊長に『マダムはとても若返って美しくなられた』と聞いていたので、お会い出来るのを楽しみにしていたのですが、本当にますます美しくなられておいでです。お尋ねしたいことというのは、先日妻が、マダムと祖父の間に恋愛感情があったのではないかって言っていたのですが、今日はその真相を・・・」
「あらっ、随分昔のことが聞きたくなったのね。ヨーコは何故そんなふうに思ったの?」
 私が答える。「何となくです。女の勘って言うのでしょうか?」
 マダムが笑って答える。「女の勘ね。それにはかなわないわね」
 エディが言う。「と言うことは、やっぱり?」
 マダムが言う。「そうよ。大龍は私にプロポーズしてくれたわ。私も大龍のことが嫌いじゃなかった。でも、プロポーズされてすぐにOKするのもちょっとみっともないし、少し返事を先延ばししている間に戦争が起こって、それ所じゃ無くなったの。そしてアドルフとの問題が起こって、龍神族としては、自分の恋愛感情なんかにこだわっている場合じゃ無くなっていたのよ。そして、戦後になっても私の傷ついた心で大龍を受け入れることなんて出来なかった。それで大龍はあなたのお婆様と結婚して、私はアドルフの石と一緒に生きてきたの。それだけのことよ。でも、本当にあなたのお爺様は、とっても愛情深くって、その上今のあなたよりもっとハンサムだったのよ。ちょっとした映画俳優なんて、足元にも及ばないぐらい」
 私が言う。「辛い時代だったんですね」
 マダムが答える。「でも、とてもスリリングで、エキサイティングな時代だったのよ。お陰で今の私がこうしていられるし、長く生きていたからあなたにアドルフを渡すことも出来た。私にとっては最高の人生だったと思うわ」
 とても重みのある言葉だった。
 マダムが続ける。「これからも、もう少しこの人生を楽しみたいって思っているのよ」
 エディが言う。「素晴らしい。マダムが僕達の目標です。僕達も、与えられた人生を精一杯楽しみます。それがどのぐらいの長さかは判らないけれど、もし短ければ苦しみも短くて済むということですから」
 マダムが言う。「そうね。人は、やるべきことをやり終わるまでは何があっても死ねないものよ。途中で死んでしまったように見えても、本人にはそれだけの人生だったって言うことだから。ちゃんと愛し合って生きなさいよ。決してお互いを放さないでね」
「ありがとうございます。きっと最後まで一緒に居ます」エディがそう言って私を見た。私もそれに頷いてみせた。
 エディが言う。「マダーム。もし祖父がもう一度マダムにプロポーズしたら、お受けになりますか?」
 マダムが笑って答える。「そうね。もしもそんなことがあったら、お受けしても良いかしら?でも、そうしたら私があなた達のおばあさんって言うことになるのよ。それでも良いの?」
「もちろんです」二人で声を揃えてそう答えた。
 マダムが言う。「あら、イヤーね。あばあさんより、今のままお友達の方が良いわ」
「そうですね。お婆様って呼ぶには、マダムは美しすぎます」私は本心からそう言った。
「お上手言っても何も出ないわよ」そうマダムが言って元気な声で笑った。そして続ける。「これからが大変ね。神戸もあんなことになっちゃって・・・」
「はい。しかし、きっと人々も街も必ず蘇ります。そうして歴史は作られてきたのですから」エディがそう言った。
「そうね。あの辛い戦争の後も、本当に蘇ったものね。でも、随分沢山の人が大きな傷を負ったわ。外から見えない傷が癒えるのには随分時間がかかるでしょうね」マダムが溜息交じりにそう言った。
「はい。でもマダム、龍の時間は永遠です。何度も生まれ変わり死に変わりして、人々はカルマを浄化します」
「そうね。そのとおりだわ。私も次に生まれた時には、今みたいに肥っていない、あなたよりずっとハンサムなタイロンと結婚しましょう。そして、普通の女の幸せを味わってみたいものだわ」
「マダーム。でも、すぐに今の祖父みたいに肥ってしまいますよ。その時に嫌いになったりしないでくださいね」
「もちろんよ。その時には私もおばさんですもの。お互い様よ」そう言ってまた声を上げて笑った。
 エディがマダムの笑いがおさまるのを見計らって言う。
「マダーム。今日は素敵なお話をありがとうございました。次にお会い出来るのがいつになるかは判りませんが、きっとまたお会いしましょう。すべての仕事が終わって、アドルフの最後の仕事などが、ご報告出来ればよいのですが・・・」
「エディ坊や、そんなこと考えないで良いのよ。アドルフはいつも私と一緒に居るの。アドルフの龍はヨーコに上げたけれど、彼の愛は私と一緒よ。あなたが龍でないヨーコを愛しているように、私もアドルフを愛しているの。彼の龍はもうヨーコに渡してしまったのだから、私に何の気兼ねもいらない。思う存分彼の龍には仕事をしてもらいなさい」そう言って私にウインクをしてみせた。
 私も頷いて言う。「マダーム、本当にありがとうございます。私、マダムにお会い出来て、年を取ることがとても楽しみになりました。私も一生懸命頑張って、マダムのように素敵な年を重ねたいって思います」
「そうね。年を取るってそんなに辛いことばかりじゃ無いのよ。若さなんかよりもっと素晴らしいものがあるの。それを見つけたら、後はずっと楽しいことばかりよ」
「楽しみにしています」そう言ってエディがマダムに手を差し伸べて握手を求めた。
 マダムもその手を取って言う。「辛かったら止めるのよ。急ぐ事なんて無いんだから」そして私にも「人としてのあなたの幸せは、エディに任せるのよ。龍なんかに振り回されないでね」と言った。私はその言葉に思わず涙が零れそうになったが、かろうじてそれを押しとどめ、微笑みながら大きく頷いた。

 私達はマダムの席を離れ、アルンの元へ戻る。
「ねぇ、私疲れちゃったんだけど、部屋に戻ってもいいかしら?」私がそう言う。
「順一君のことはどうするの?」エディが言った。
「そうだったわね。そうだ、西野君も明日船に乗ってもらえば?」
 アルンが驚いて言う。「ヨーコ、少しでも危険なことは避けてくれないか?」
 私は、西野君に尋ねる。「ねぇ、あなた明日からしばらく私達の船で働いてくれない?一緒に旅をしましょう。その間にあなたの知りたいことがきっと判ると思うの。それに幾らエディがここの責任者にちゃんと言ってくれても、ここで働き続けるのはあなたも辛いと思う。命の保証は出来ないけれど生活の保障ぐらいだったらエディがしてくれるわ。確か、あなたは神のために命を捨てるって言ったわよね。それに一緒にいれば、偽物の神を懲らしめることも出来るんじゃないかしら?」
「少し考えさせてくれませんか?」西野青年が言った。
「だめよ。今ここで決めなさい」私はそう言い放つ。
 彼はしばらくうつ向いて考えていたが、何度か頷いてから顔を上げて言った。
「宜しくお願いします。僕も連れて行って下さい」
 アルンが困ったような声で言う。「ヨーコ」
「隊長。頼んだわよ」私がそう言うと彼も覚悟を決めたように大きく頷いてみせた。
「エディ、もう部屋に戻ってもいいかしら?」
「もちろんだよ。神様も大変だね」そう言って笑う。
「本当に!!」私もそう言って笑った。

 部屋に戻って私達は寛ぐ。
「ヨーコ、なぜ順一に考える時間を上げなかったの?」ワインを飲みながらそうエディが尋ねた。
 部屋着に着替え、ソファーに寝っ転がった私が答える。
「インスピレーションよ」
「インスピレーションがどうしたの?」
「イワノフがね、私と出逢ってから彼のインスピレーションで動いているって言ったの。多分、それが神の声なんだと思うの。だから、色んなことを考える前に西野君に答えを出して貰いたかったのよ。一番インスピレーションに近い状態で選択をして貰いたかった。それだけよ」
「なるほど。でも君は彼が一緒に来ることを知っていたんだろう?」
「そうね。だって、何か意味があって彼はあんな行動に出たはずよ。彼サイドの意味じゃ無くって、私達サイドの意味。少しは痛い思いをしたけれど、別に実害はなかったし、とても衝撃的な出逢いではあるでしょう?だからきっと何かが繋がってるんだと思うの。これからの何かのために必要な人間なんじゃないかしら?でも、そんなことより、何となく彼に親しみを感じたの。とても不安定で、扱い難いタイプだけど、どこと無く憎めないのよ。きっと何かの縁で結ばれていたんじゃないかしら?」
「かも知れない。でもアルンは怒ってたよ」
「だって私が神なんですもの、仕方がないじゃないの。アルンとあなたが私をこんなに調子に乗せたのよ。自業自得って言うのじゃないの?」
「厳しいお言葉だ。でも、正しい判断でもある。それでいいんだよ。アルンが泣こうが怒ろうが、君は君の思うままに振る舞うべきだ。その為にアルン達が居るんだからね」
「でも、後で謝っておいてね。アルンに嫌われちゃったら、食事の手配に差が付きそうだもの」
「それもそうだ。食べ物が悪くなると困るね。明日からはずっと船の上だし・・。判った、巧く機嫌を取っておくよ」
「お願いね」
 私達は、そんな冗談を言いながら寛いだ。

 窓からは、小雨に煙る港町が見えていた。香港のようにゴージャスではなかったが、しっとりとした美しさがそこにあった。



 翌朝私はまだ夜が明ける前に目覚めた。エディはまだ眠りの中にいた。
 私は一人でそっとベッドを抜け出し、リビングの薄闇の中のソファーに腰を下ろした。「私はいったい何をしているのだろう?」私は独り言でつぶやいた。
 私の存在がいったい何人の人生に影響を及ぼしてしまったのだろう?
 イワノフは私が存在しなければ、ロシアの優秀な諜報員のままでいられたはずだ。先に行ってどんなことが起こったかは判らないが、少なくとも今の時点では間違いなく国を裏切るような真似はしていなかったに違いない。あまり愛し合ってはいないにしても、奥さんが居て、可愛い子供達が居る。心に傷を負ったままでも、彼は家族と国のために働き続けただろう。今、彼の家族達はどうしているのだろうか?彼に帰る場所はまだ存在しているのだろうか?
 カズミは国に帰って、自分の居場所を見つけられただろうか?勝手に行動したカズミとジョージを国は認めてくれたのだろうか?私には判らない。
 アルンは、彼は私が存在しなければ今頃どうしていたのだろうか?いつものように隊員と訓練をし、万が一に備えていたのだろうか?世界中の隊員をまとめて、仮想の敵との戦いを演じていたのだろうか?
 エディは、エディはパリで私を見つけなければ、きっと聖龍なんかになってはいなかったはずだ。彼の中でもきっと龍の存在など、おとぎ話のまま終わらせられたのではないだろうか?当初の目的どおりに古城を見て、中世の装飾品の勉強をし、素敵なパリジェンヌと軽い恋をして素敵な思いでと共に香港に戻り、改装の終わった店で、気に入った仕事をし続けていたに違いない。
 じゃあ、私は?私はいったいどこからこの道に紛れ込んだのだろうか?パリに行ったところからだろうか?あのままパリのホテルのレストランの入口でエディと擦れ違っただけだったら、私はきっと当初の目的どおり、美術館を巡って、沢山の物を買ったり、カフェで街行く人を眺めたりして一週間のバカンスを過ごしたはずだ。そして帰国してからはきっとクレジットカードの支払のために一生懸命働いていたに違いない。今頃の季節なら夏物の企画も終え、秋物の企画にかかろうとしている頃だ。そしてそれが終わり、五月の連休ぐらいには友達達と香港へ旅をしたかも知れない。そこで、エディの店で買い物をしたかも知れない。その時私はとても魅力的な彼に一目惚れをしただろうか?そうかも知れない。でも、きっと写真を一緒に撮ってもらって記念に持ち帰るぐらいのものだ。そしてまた日常の中に戻る。離婚の時に受けた心の傷も時によって癒され、どこかで新しい恋をして、再婚しただろうか?私は大きく首を振って思った。「判らない」と。
 今の状況はいったい何なのだろうか?
 いったい何を意味しているのだろうか?
 私の龍が目覚めなければ、本当にあの震災は起きなかったのだろうか?
 そうだとしたら、私のせいであれだけの人が命を落とし、被害を受けたのだ。
 私がいったい何をしたと言うのだ。
 どんな間違いをおかしたと言うのだ?
 ただエディを愛し、彼に着いて来ただけではないか?
 それにどんな意味があったと言うのだ?
 あの時点でこんなことになるなんて誰に予測できただろう?
 しかし、私はまた新しく西野君の人生をもこんなことに引きずり込もうとしている。
 今日のお昼には船が着く。その船は戦艦だという。こんなに平和な世の中に生まれたのに。私はまた新しい西野君の人生を戦争へ引きずり込んだのだ。
「嫌だ!」私は強く思った。そして、言いようのない不快感が私の胃から胸の辺りを襲った。私は片手で口を押さえ、もう一方の手で胃の辺りを押さえてトイレに駆け込んだ。そして、吐いた。食べたものはもう消化されていて、戻ってくるのは胃液だけだった。戻すものが何もなくても、私は吐き続けた。頭の中が真白になり、脳味噌が膨らんでいくように感じた。割れるような頭痛が私を襲った。私は心の中で「嫌だ!嫌だ!」と叫び続けていた。
 エディが驚いてトイレに入って来たのを心のどこかで感じた。しかし膨らみ続けた私の脳味噌は、限界点に達して破裂した様に感じた。そこで私の意識はプッツリと跡切れた。


「ヨーコ!ヨーコ!」エディがヨーコの体を揺すっていた。そして、意識を失くしたヨーコを抱き上げ、ベッドに運ぶ。
 エディは焦っていた。それまで密接に繋がっていた二つの魂の一つが急に感じられなくなったのだ。声に出して呼び掛けながら、心でも繋がりを見つけだそうと必死に焦った。しかしその糸口がどこにも見つからなかった。
 龍はそこに居た。ゆらゆらと揺らめいていた。龍の目はしっかり開いていたが、そこには何も見えなかった。
 その時エディは初めて知った。それまで見ていた龍はヨーコその物であったことを。しかし、その時の龍はどこにもヨーコを宿していなかった。ヨーコが消えてしまっていた。
 アルンに連絡を取り、医者を頼む。アルンは慌てて部屋にやってきた。

「聖龍。どうしたんだ。ヨーコは?ヨーコはどうなってしまったんだ?」
「判らない。僕にも判らないんだ。突然ヨーコがいなくなった」
「居なくなった?じゃあここに寝ているのは誰だ?」
「すまない。ヨーコの心がここに居ないんだ」
「勝浦の時みたいにか?」
「判らない。本当に何も判らないんだ。あの時の感じとはちょっと違うようだが・・・。あの時には行き先が判っていた。でも、今度は全く判らないんだ」
「聖龍。落ち着いて、ゆっくり説明してくれ、医者はすぐに来る。脈はあるようだし、ヨーコの肉体が今すぐに死んでしまったりすることはないと思うから」アルンはヨーコの手を取って脈を診ながら穏やかな笑顔でエディを見上げた。
 エディはその笑顔に少し自分を取り戻したようだ。
「判った。悪かった。少し落ち着こう」そう言って一つ大きく息を吐いた。そして静かに息を吸い込み、目を閉じて少し止めた。そしてまたそれを静かに吐き出して目を開けた。「僕は夢を見ていた。ヨーコを見つける前の生活が今も続いていると言う夢を。パリに行って、普通の旅行を楽しんだ。そして、香港に帰って、新しい店のために忙しく働いていた。お前とも祖父の誕生パーティーで会った。お前はいつものように訓練に明け暮れていた。僕はみんなに早く結婚しろと言われて、うんざりしていたよ。結婚なんてまっぴらだって思っていたんだ。父のように妻や子供を捨てて不倫の恋をするぐらいなら、ずっと自由に恋をしていたいって思っていたから。夢の中での僕は父が龍使いだったことを知らないままだったし、聖龍の伝説など、思い出しもしなかった。自分がそうなることなど、全く考えもしない生活だ。忙しく働いていたよ。仕入れのことだとか、新しい店を増やしたいだとか、そんな生活の夢だった。そういえば、日本人の旅行者としてヨーコが店に買い物に来たよ。でも、ただのお客さんだった。頼まれて一緒に写真を撮って、ヨーコに良く似合うネックレスを選んであげた。それだけだった。そしてヨーコは店を出た。そこで目が覚めた。そうしたら本当にヨーコが居なくなった。もちろんベッドに居なかったのもそうなんだが、ずっと一つになっていた魂の気配が消えていた。もちろん物理的にヨーコを探したよ。そして魂のヨーコも。そしてトイレットでうずくまっていたヨーコの体は見つけられたけど、心はもういなかった」
 アルンが訪ねる。
「勝浦の時のように、ここの場所に何か関係があるのだろうか?富士の龍だとか、将門の祟りだとか、そんなものに影響を受けたのだろうか?」
「多分違うと思う。確かに新幹線の中で『来るな!』というような意識を感じはしたが、それが今のヨーコの龍に影響を及ぼす程の力を持っているとは感じられなかった。それに龍はそのまま残って居るんだ。見てみるか?」
 アルンは頷く。それを見てエディはヨーコの指輪を回した。

 いつものように龍はそこにいた。
 それを見たアルンが声を上げて、手で顔を覆ってしまった。
「おお!何と恐ろしい!これは違う!ヨーコの龍じゃない!」
 エディはまた指輪を回して龍を収めて言う。
「そうなんだ。これはただの龍だ。ヨーコの龍じゃない。ヨーコの龍はヨーコの魂によっていつも美しく穏やかに輝いていたんだ。つまり魂のない龍。龍の中にヨーコが居ないということだ」
「判った。それにしても何と恐ろしいものだ。ところで聖龍、聖龍として何か学んでいないのか?龍使いとして何かこの恐ろしい状態について学んでいないか?」
「判らないんだ。この状態が何を示しているのか?僕の見ていた夢とどういう関係があるのか?」
「絶望的ということか?」アルンが言った。
「はい」エディがそう答えた。

 外は空が白み始め、横浜の町が霧に煙っていた。
 アルンの呼んだ医者が着き、ベッドに横たわったヨーコを診察し、注射を打つ。
「ドクター、妻の様態は・・・妻はどうしてしまったのでしょうか?」
 医者が首を傾げながら言う。
「リーさん。別に変わったところはないようです。詳しく検査してみなければはっきりしたことは言えませんが、多分体に問題はないと思います。最近何か精神的に大きな負担になる様な事はありませんでしたか?」
「多分、ずっと大きなストレスを抱え続けていたと思います。でも、夕べ寝る前までは、全くいつもと変わりなかったのです。それが、今朝になって急に吐いて、そして気を失ってしまったのです」
「そうですか。今気付のための注射をしましたので、暫く様子を見てください。それで一時間経っても気がつかないようなら、病院の方へお連れください。脳の検査をしてみないと・・・。しかし、多分脳の異常ではないと思いますが・・・」
「そうですか。朝早くにありがとうございました」エディが礼を言って、アルンがドクターを送り出した。
 エディは祈っていた。誰に祈ったのだろう?エディはヨーコに祈っていた。
「ヨーコ、帰ってきてくれ。僕はまだ君を失いたくない。君が居なければ生きている価値が無いんだ。だからヨーコ、僕の元へ戻って」
 エディは神に祈りはしなかった。いや、彼の神に祈ったのだ。ただ彼の神がヨーコであったということなのだ。エディは小刻みに震えていた。ヨーコを失うことが、本当に恐ろしかったのだ。ヨーコの手を握りしめながら、強く、強く祈った。聖龍でも、龍使いでもなく、ただの夫として妻の帰りを祈った。前の生で、ヨーコを殺してしまったときの絶望感が蘇った。そしてその前の生の悲しみも、アルンはそんなエディの背中を見続けることが出来なかった。それはいつも堂々と人前に出る李聖龍とは全く別の後ろ姿だった。
「これが愛するということなのか?こんなに弱く情けない姿を見せることが愛の代償なのか?人とはこんなに弱く脆いものなのか?」アルンは心の中でそう思った。そしてその後自分に問い掛けた。
 自分はこれほど誰かを愛することが出来るだろうか?自分のことなど全く構わずに、妻だけの為に祈り続けることが出来るだろうか?聖龍は、エディはこの悲しみを何度味わったのだろうか?この祈りが輪廻を生み、何度も何度もヨーコの魂を呼び戻したのだろう。そのことをこの二人はずっと教え続けていたのだということに初めて気付いた。その時自分の中に暖かな感情が流れ始めるのを感じた。「愛」これがずっとヨーコの言い続けていた愛なのだ。
 アルンはヨーコのベッドに近付き、言った。
「ヨーコ、戻ってきてくれ。もっと、もっと君に学びたいことがあるんだ。まだ、僕は何も知らないんだ。愛することも、求めることも、魂のことだって。だから、戻って、君はまだ僕達に伝え終わっていないんだから」
 エディが一瞬のうちに穏やかな表情を見せた。そして言った。
「ヨーコを感じる。ヨーコが戻ってきた」そして寝ているヨーコをのぞき込むと彼女の肩を掴んで呼ぶ。「ヨーコ!ヨーコ!」
 ヨーコは微かに首を動かすとうっすら目を開けた。しかしすぐにまた目を閉じて動かなくなった。
 エディは立ち上がるとアルンに言った。
「奥様はおやすみだ。向こうの部屋へ行こう」いつもの聖龍の表情だった。アルンは戸惑いながらも聖龍に従う。
 エディは電話でコーヒーを頼むとソファーに腰掛けた。アルンもそれにならう。
 エディが言った。「ヨーコは戻ったよ。もう大丈夫だ。いつものようにここに居る」そう言って自分の胸に手を当てた。
 アルンが半信半疑で言う。「本当か?」
 エディは穏やかに微笑んで頷く。「はい」
「いったいどうしたと言うんだ?僕にはさっぱり判らない」アルンが投げ遣りに言った。
「魂が、戻って来たんだよ。もう少し寝たらいつものヨーコに戻ると思う。きっと僕も気付かないぐらい彼女は無理をしていたんだ。多分自分でも意識していなかった疲れだと思うよ。でも、思い出してみてくれ。バリから戻った後、ヨーコはずっと龍として振る舞っていただろう?」
「そういえば、坂本で地震を起こしたりしていた」
「そうさ。お前の恐れを取り除くために彼女は自分のキャラクターを龍のキャラクターに置き換えて行動したんだ。そして、昨日の西野君のこともそうだ。ヨーコの心のキャパシタンスを越えて龍として振る舞っていた。たぶんそれに対して心がギブアップしてしまったというところだろう」
「ヨーコは普通の人間だと言うことか?」アルンがそう言った。
「はい。もちろんだ。普通の人間だからこそ、ヨーコの龍はあれほど美しいんだ。お前も見ただろう?あの恐ろしい龍の姿を。心の無いものはあれほど恐ろしいんだ。底の知れない闇の恐ろしさだ」
 アルンが頷いて、言う。「それは判った。でもなぜヨーコの魂がいなくなったんだ?」 エディがそれに答える。「もしかしたら、時に係わることが原因かも知れない。僕にもよくは判らないんだ。多分、ヨーコは自分のしてきたことが恐ろしくてたまらなくなったのだと思う。人の運命を左右してしまうようなことばかりで、今までの自分のキャパをはるかに越える決断を強いられているということに気付いてしまったんじゃないだろうか。何故なら彼女は僕達にとって神であるからね。神のような力を持ち、神として存在することを求められ、神として振る舞えば、普通の人であるヨーコはどうなってしまうんだろう?」
「多分、耐えきれないだろうな」
「はい。だから僕はいつも彼女を一人にしないように気を付けていたんだ。彼女が眠るまで必ず起きていて、彼女が目覚めるときには自分も目覚めている様にね。大体において彼女は良く眠るから、全然不都合は無かったんだが、今朝だけは違った。僕は昨日の傷を治すのに体力を使い過ぎていて、ぐっすりと眠り込んでいた。そして彼女は一人で起き、彼女の力だけで考えてしまったんだと思う。それでパーンと破裂した」
「それと、時はどう関係があるんだ?」
「多分巧く説明できないと思う。とても信じられないような話だから。ただ、僕の見ていた夢が関係しているようなら、きっとナーガラージャの奥義、『時』の問題だ。僕の見ていた夢は多分、彼女の思考が反映したのだと思う」
「良く判らないよ。もっと判るように説明してくれないか?」アルンはじれったそうに言った。エディはうつむいて首を振る。
「今のお前にはきっとまだ理解できない。いや、お前は信じられないと感じるだろう。これに関しては次の生で学ぶことだ。もしかしたら僕達の仕事が終わるころには説明できるかもしれないが・・・」
 その時呼び鈴が鳴り、アルンが立ち上がって出た。エディの頼んだコーヒーが届いたのだ。ボーイを招き入れ、テーブルにセッティングしてもらう。そしてボーイが出て行くと同時に、ベッドルームのドアがそっと開いた。

「エディ、私の分はある?」
「奥様、お目覚めですか?残念ながら、コーヒーしか取って居ないんだ。すぐに頼んであげるから、ちょっとまってて」
 アルンが振り返って言う。「ヨーコ、大丈夫かい?心配したんだよ」
「ごめんなさい。自分でもよく判らないの。それにまだ頭が巧く働かなくて・・・」
「ヨーコ、紅茶が来たら呼んであげるからもう少し休んでいなさい」エディが優しい声でそう言った。


 私はドアを閉めてベッドに戻る。そしてベッドに腰掛けて思った。いったいどうしてしまったんだろう?まだ頭が少し痛かった。そうだ、今朝、まだ夜が明ける前に私は吐いたんだ。恐ろしさに胸を締め付けられ、胃を捕まれるような痛みに耐えられなくて吐いた。そして、頭の中で何かが爆発しtそのまま意識がなくなった。きっとエディ達は大騒ぎをしたのだろう。また、彼らに迷惑を掛けてしまった。
 私は立ち上がってバスルームに行き、簡単にシャワーを浴びて歯を磨いた。腕には注射の痕があった。そして、急いで身繕いをしてリビングに出た。

「本当にごめんなさいね。またお医者様を呼んでくださったのね」
「ヨーコ、本当にもう大丈夫なの?」アルンが心配そうに言った。
 私は頷いて言う。「多分大丈夫よ。まだ少しだけ頭が痛いけれど」
 エディが言う。「ここに座って。君の紅茶も来ているから」
 私は言われるように彼のとなりに腰を下ろした。そして注いでもらった紅茶をそっと口に運ぶ。
「大丈夫?気持ち悪くない?」エディが顔をのぞき込んで言った。
「ええ。大丈夫よ。いつもの紅茶の味がするもの」本当は全く味など判らなかったが、私は安心させるためにそう言った。そしてアルンに尋ねる。
「アルン、船はもう着いたの?」
「ちょっと待って」アルンはそう言うとどこかに電話を繋いで英語でしゃべった。そしてそれを切って言う。
「十分前に着いたらしい。まだ手続きに一時間ほどかかるが、お昼までには乗船できる。ヨーコは大丈夫かい?もし、体がつらいようなら、先に延ばしてもいいんだよ」
「大丈夫だと思うわ。でも、何故こんな事になっちゃったのかしら?」
 エディが答える。「ちょっと頑張り過ぎたからだよ。大丈夫、僕が付いているし、時間はまだある。また船旅を楽しもう」
 私が言う。「でも、戦艦なんでしょう?」
 エディが笑いながら言う。「ヨーコ、そんな訳ないじゃないか。そんな物騒なものを日本に持ってこれるって思う?確かに戦争になっても耐えられるように出来てはいるが、見た目はナーガラージャ号より一回り小さいだけで、ちゃんとした客船だよ。それに祖父の船なんだから、かなり豪華だと思っておいてくれ。でないとまた君は驚いて立ちすくんでしまうからね」
「ナーガラージャ号よりもっと豪華なの?」
「はい」エディとアルンが声をそろえてそう答えた。私はまた頭を抱えて言う。
「何だかまた頭が痛くなってきたわ」
 エディがアルンに言う。「ヨーコは豪華アレルギーなんだ」
 アルンがそれに答える。「かわいそうに、李家の嫁には一番向かないタイプだったんだな」
「はい」私はいつものエディを真似しておどけてみせた。
 アルンが言う。「いつものヨーコだ。じゃあ、さっきまで意識も無く蒼白な顔でベッドに横たわっていたのは誰だったんだろう?」
「ごめんなさい。何だかいろんな事を考えているうちに胃が痛くなって、頭の中で脳味噌が破裂したみたいな感じだったの。そのまま意識が遠くなって・・・。何となくエディが来てくれたのは感じたのよ。でも、その後のことが判らないの」
「何か夢は見ていなかった?」エディが尋ねた。
「そう言えば、何となく普通の生活をしていた頃の夢を見ていたみたいな気がするわ。でも、きっと気持ち悪くなる前にそんなことを考えていたからよ。パリでエディに出逢わなかったら今頃どうしていたんだろうって」
「やっぱりそうか。僕もそんな夢を見ていたよ。あのまま予定どおりパリの休日を楽しんで香港に帰り、忙しく働いている夢だよ」
「不思議ね。幾ら繋がっているからって、夢ぐらい自由に見たいものだわ」私はそう言って笑った。
「全く」エディもそう言って笑った。
 アルンが納得が行かないという顔で考え込んでいた。エディがそれを横目で見ながら言う。
「ヨーコ、君は僕の店に買い物に来たよね」
「ええ。あなたがあんまり素敵だから一緒に写真を撮ってもらったわ」
「僕の選んだネックレスは気に入ったかい?」
「ええ、とっても。ずっと大事にするつもりだった」
「ちょっと待ってくれないか?」アルンが悲壮な顔で言った。そして続ける。
「いったい君達はどうなっているんだ。夢の話なんだろう?それが何故繋がるんだ!」
 エディが答える。「それも現実だからだ」
「夢の話じゃ無いのか?」アルンが言う。
「はい。夢も現実も同じなんだ。さっき言ったように、多分まだお前には判らない。しかし、覚えておいてくれ。きっと何時かちゃんと理解できるから」
「僕の頭も破裂しそうだ」アルンがそう言って頭を抱えた。
「本当にごめんなさいね。私のせいでいったいどれだけの人に迷惑を掛ることになるのかしら?」
 エディが私の手を取って言う。「ヨーコ、何も心配することなんて無いんだよ。アルンにだってすぐに理解できるから。それに、君のせいで何かが変わったり、何かを失ったりする者なんてどこにも居ないんだ。君はただの人であって、何かを変える力なんて持って居ないんだから。ただ、普通の人であるヨーコが僕達の神を演じているだけさ。ただの役者、いやとても巧い役者だって思っていればいいんだよ。ストーリーはすでにある。そしてそのストーリーはそれに関するすべての魂が、肉体を持つ前に決めて来たんだ。だからココにいる限り何をしてもいいんだ」
 私のなかにエディの知識が流れ込んできた。彼がココと表現したものが、ただの場所を指し示していないことが判った。そして私達の夢の意味も、それがどういう意味かも。それは突拍子もないことだった。しかしそれが真理だということを今は忘れてしまっていたが、生まれる前には知っていた事を思い出した。エディは、アルンがまだそれを知る段階にないから、そういう言葉でそれを表現したことも理解できた。
 私は軽く微笑んで言う。「また今日も立派な神様を演じましょうか。アルン隊長!よろしくね!!」
 アルンは大きく首を一振りして、言う。
「了解。我々はどんな困難な任務も、速やかに遂行することを誓います」
「どうもありがとう。もう暫くは神様のわがままに付き合ってね」
 エディがいつものように笑っていた。

 エディは朝食を部屋に運ばせて、ゆっくり時間をかけて食べた。私も少しだけ食べ物を胃のなかに流し込む。まだ少し自分の体が借り物のような感じがしたが、それはそれで当たり前だと思った。確かに肉体は借り物でしかないのだから。しかしそれは日常生活に取っては少し不便なことでもあった。
 エディがそんな私に言う。「リラックス。暫くは何も考えないでいてくれないかい?また僕を置いて行かれちゃかなわないから」
「判ったわ。ココでの仕事に専念すればいいのね」
「はい」

 私達はお昼前にアルンの用意した車で港へ向かった。