龍 18 関東T
 私達は東京駅を出て、アルンの用意した車に乗り込む。空は快晴だった。

「エディ、さっきの続きだけど、祟るってどう言う事?」
「それがね、将門に関してはつい最近まで祟りの噂があるんだよ。このすぐ傍の大手町のオフィス街に首塚があるんだけど、それに無礼を働くと祟るんだ」
「どんなところなの?」
「綺麗に整備された所だよ。行ってみるかい?」
「ええ、そうね。船が着くまでにはまだ時間があるんでしょう?」
「はい。船は明日正午の入港だ」
「じゃあ、行ってみましょう」
 私がそう言うとアルンが頷いて、車を発進させた。

 久しぶりの東京。バリ島での休日が、遠い昔の事のように思えた。アルンは覚悟を決めたのか、いつもの表情に戻っていた。

 十五分ほどで、車は首塚に着いた。エディが言ったように全くのオフィス街の中に、ひっそりとそれはあった。場所的には、稲荷か戎のように、商売に関する神を祭ってあっても良いような所だ。

 私達は車を降りて首塚の入口に立つ。
「これが祟るなんて信じられないわね」私がそう言うと、エディが頷いて言った。
「そうだね。とても静かな眠りの中にいるようだ」
「私もそう思うわ。とても静かで、穏やかな感情を感じる」
「戦争が終わるまで、ここは大蔵省の敷地内になっていて、邪魔だと言って何度も取り壊そうとしたんだが、その度に怪我人や死んだ人まで出たんだ。戦後になって、アメリカ軍もここを壊そうとしたが、やっぱりブルドーザーがひっくり返ると言うような信じられない事故があって、取り壊せなかったらしい。今でも、この塚に背中を向けて座るしかないビジネスマン達は、椅子の背に正面という字を書いた紙を貼ったりするそうだよ」
「おしりを向けたら失礼って言う事かしら?」
「そうだね」
 私は首を一振りし、心を静めて敷地内に足を踏み入れた。
 中に入って私は静かに心を開く。自分の意識を鎮めて、そこに入って来る意識や想いを許すという感じだ。すると、自らの意志で静まろうとする者の気配を感じた。それは、ボロブドゥールで感じた龍の意志と似ていた。そしてなぜそこを動こうとしないのかがすぐに理解できた。その場所はとても特殊な場所だったのだ。将門などとは関係なく、大昔から龍と繋がる場所。たくさんの龍使いが、この場所で祭祀を行い、この場所を大切にしてきている。決してみだりに血を流すべきでない場所。ここで流す血は龍に届き、龍に力を与える。つまり、龍使いが龍を使うために生贄を捧げた場所だ。龍を理解した者が、本当に必要なときにだけ龍を目覚めさせる場所。しかし過去において、人々の欲望のためだけに随分沢山の血が流されている。なぜいつも人はしてはいけない場所でしてはいけない事をしてしまうのだろう。
 私の頬を涙が伝うのが判った。エディがハンカチを出してそれを拭ってくれた。そして私の肩を抱き寄せると言った。「さぁ、行こうか」
 私は頷いて、その首塚に一礼をし、敷地の外に出た。
 エディがドアを開けてくれた車に乗り込み、もう一度首塚を見る。
「静かに、静かに静まったままでいて」心の中で私はそう祈った。
 アルンが尋ねる。「将門は怒っているのかい?」
 私は首を振って答える。「いいえ、あそこは将門とは関係ないわ。ずっと、ずっと昔から龍と繋がる特殊な場所なのよ。とても大切にすべき場所よ」
 アルンがよく判らないというように首を振った。
「君達はそんなに古い怨霊までも目覚めさせて、戦うのか?」
 私はそれに答えられない。エディがきっぱりとした声で答えた。
「いや、ここの龍には、このまま静まっていてもらいたい。取敢ず、僕達の目的は出雲の龍だからね。そのために最澄が富士の龍を切り離してくれているんだ。出雲の龍が目覚めた後のことは判らないが、今はこのまま、静かな眠りの中にいてもらいたいと想っているよ」
「そうか。良かった。神戸を襲ったような地震が今この東京を襲ったら、どれだけの被害が出るか想像もつかない。あの関東大震災と、戦時中の大空襲で、この街は二度も破壊したんだ。もう沢山だよ」
「はい。しかし、ここの龍をこの皇居で守り続けるかぎり、この街は蘇る。それも龍の力なんだ。ただ、怒り、壊すだけが龍の力じゃない。それを良く覚えておいてくれ」
 エディがアルンに向かってそう言った。その言葉は私の心にも強い力を与えてくれた。
 私はつぶやく。「壊すだけじゃない。作るのも龍の力なんだ」
 エディがとても美しく笑ってみせた。私はそれをとても心地好く受け止めた。
 アルンが尋ねる。「皇居で龍を祀っているのか?」
 エディが答える。「はい。天皇家は何もかも知っているさ。出雲の神のことも、三輪の神のこともね。この国の真実の歴史を唯一知っているのが天皇家だからね。表の歴史は、昔なら豪族、今は政治家が作る。しかし、裏に隠された真実を天皇家が守っている。今も昔もね」
 アルンはそれについて何か尋ねたそうだったが、エディが私の肩を抱いて目を閉じたのをミラーで確認すると、質問を諦めた。

 私達の車は高速道路に入り、横浜へ向かった。

 横浜の街は、私の知っている神戸の街に良く似ている。今の神戸はどうなってしまったのだろう?西洋と東洋が入り交じり、それに日本的な味付けのされた街。それは本当の意味で、そこに生活する者たちが作り上げた街だ。決して役人達が紙の上で作った街ではない。もちろん、綺麗に整備され開発されたところもあるが、それはただの飾りにしか過ぎない。本当の街とは、いろんな価値観や生活が互いに折り合いを付けながら出来上がったものだ。それがこの街には感じられた。
「エディ、ここにもナーガラージャのホテルがあるんでしょうね」
 私がそう尋ねると彼は微笑んで頷いた。
「もしかして、龍の間もあるのかしら?」彼が声を立てて笑う。
「龍の間はないよ。あれは香港の僕の家と芦屋のホテルだけさ」
「そう。残念ね」
 エディが笑い続けて言った。「ヨーコは余程龍の間が気に入ったみたいだね。今度各ホテルに付けるように言っておくよ」
「もう、必要ないわ。きっと間に合わないもの」
「大丈夫さ。また生まれ変わった時に使うといい」
「気の長い話ね」
「まったく」

 アルンが車を付けたのは、海の見える丘の上に建つとても現代的な建物だった。
「着いたよ」アルンがそう言ってサイドブレーキを引き、振り返った。
「どうもありがとう」私がそう言うとホテルのボーイがドアを開けてくれた。
 車を降りて、そのホテルを見上げる。
 エディが笑って言う。「感想は?」
 私が答える。「いつもと少し感じが違うわね」
「気に入らないかい?」
「気に入らなかったら、立て直して貰えるのかしら?」
「もちろんだよ。君のためのホテルなんだから」
「気に入ったわ。どうせ、私達の部屋は最上階なんでしょう?眺めが良さそうね」
 エディが笑って頷く。「はい。海も丘も、どっちも綺麗に見えるよ」そう言って私に手を差し伸べる。私はその手を取って、ホテルの中に入った。

 案内された部屋は、白とブルーを基調にしたシンプルな、しかし、やはりとてもお金のかかったインテリアの施された部屋だった。壁一面の大きな窓が両側に開いていて、海と丘が各窓から見えた。ベッドルームの窓からは海岸線をはさんでその両方が見えた。
 私はリビングのソファーに寝そべって伸びをする。「エディ、船が着くまで私は何をすればいいのかしら?」
「そうやって伸びをしていたらいいんじゃないの?」
「じゃあ、船が着いたら何をすればいいの?」
「そうだね。船室でやっぱり伸びをするといいよ」
「ずっと伸びばかりしていればいいの?」
「君が飽きるまではね」
 私はソファーに起き上がって言う。「エディ、私もう伸びをするのに飽きちゃったんだけど、どうしたらいいのかしら?」
「えっ、もう飽きちゃったの?だったら街へでも行ってみるかい?」
「危険じゃない?」
「君の龍にとって危険なことって、今の僕には思い付かないよ」
「だったらアルンは私達を何から守っているの?」
「アルンは、僕達が間違わないように、つまり君の龍の歴史を守っているのさ」
「もう、敵は居ないって言う事?」
「そうだね。CIAもKGBも君を狙っては来ない。アマテラスの勢力も今の君には恐れるに足りないだろう」
「今の私って無敵なの?」
「そう。君は何も恐れるものが無い。でも、僕はその君が一番恐ろしいよ」
「随分な言われ方ね。まるでゴジラにでもなった様な気分よ」
「ゴジラか。それは良い。だったら僕はモスラかな?」
「そうね。ゴジラとモスラで街へ行きましょう」
 エディはアルンに電話をかけて、車の手配をした。十分ほどでアルンから連絡が来る。
「ヨーコ、車の用意が出来たよ」エディがそう言って立ち上がる。私もコートを持って部屋を出た。

 車に乗ってアルンに尋ねる。「ねぇ、私達って今何人の人に守られているの?」
 アルンがミラーを確認して答える。「二十人ぐらいだよ」
 私は笑ってエディに言う。「ゴジラとモスラを守るのに二十人の人でいいのかしら?」
 エディも笑いながら答える。「気持ちの問題だから」
「気持ちのね」私も繰り返して笑った。
 アルンが言う。「ゴジラとモスラってなんだい?」
 笑いながら私が答える。「私達のことよ。そうだアルンはバルタン星人にしてあげましょう」
 アルンは首を振って言う。「それは酷い。出来ればウルトラマンにしてくれないか?」
「三分しか持たないのよ。それで構わないの?」
「そうだな。やっぱりバルタン星人の方がいいか」
「そうよ。正義の味方だけが強いとは限らないもの」
「ところで奥様、何処までお連れすればよろしいのですか?」
「うわー、気持ち悪い。私って奥様なの?」
「そうだよ。奥様じゃなかったら何なの?」
「私はゴジラよ」
「はい判りました。ヨーコゴジラ様、何処へお連れしましょう?」
「アルンバルタン星人よ。横浜と言えば中華街。おいしい飲茶のお店まで」
 エディが隣でひっくり返って笑っていた。私はそんなエディの肩を揺すって言う。
「ねぇ、エディモスラ。何処が一番おいしいの?」
「アッハッハッ 久しぶりに君達のコメディーを見たよ。本当にいいコンビだ」
「判ったわよ。それより美味しいお店」
「アルン、いつもの所へ頼む」アルンにそう声をかけると私の肩を抱いていう。
「ヨーコ、僕が不味い店に連れていくと思うかい?」
「それもそうね。あなたが不味いものを食べるなんて考えられないわ」
「そうだろう。だから心配しなくていいよ」
 私達はそうして冗談を言って笑うことで、先の判った恐怖から逃れようとしていた。
 普通恐怖というものは先が見えないことによってもたらされる。しかし、私達の今抱えている恐怖は、すべて先が判っているにもかかわらず、恐怖であり続けていた。とても強力な恐怖だ。何に対して恐怖を抱いているのだろうか?巨大な龍の力だろうか?それとも死に対する恐れだろうか?それはそのどちらでもあり得なかった。何故なら龍は人の力であり、死は誰にでも均等に訪れるものであるからだ。強いて言うなら私達が恐れているのは、今の幸福な時間が終わってしまうということに対してなのかも知れない。私は本当に幸せだった。愛する者に守られているということは、この上ない幸福感をもたらせる。その上私はエディにもアルンにも愛されていた。愛情の種類が違えど、愛であることに変わりはない。
 生きていたいと心から思った。このまま、生き続けていたいと。この幸福が失われたとしても、生きていたい。生きているということは、いろんな変化を受け入れることであるということが理解できた。私には、それが出来そうな気がしていた。エディとの愛が終りを迎え、私一人で生きる日が来ようと、それを甘んじて受入ながらも生きていたかった。それが、生まれてきた一番の意味だということに、その時初めて気付いた。
 私は首を一振りして窓の外を見た。パリモンマルトルのティールームで思ったように、ここでも道行く人は皆生きていた。そして、この車の中の私もまた生きている。
 エディが静かに私の手を握り締めた。私は彼に笑って言った。
「あなたに捨てられるぐらいだったら、死んだ方がましよ」
 彼が言う。「僕だって。ヨーコが僕以外の男と一緒にいるところを見るぐらいなら、この目を自分で潰してしまうさ」

 アルンは知らん振りをして車を走らせていた。

 アルンは中華街の入口で車を止めると車を降り、私の横のドアを開けて言った。「ここで降りて、後は歩いた方がいいよ」
 私は彼の手を取って降り、エディも降りた。
「僕は車を止めてから行くよ」そう言ってアルンはまた運転席に乗り込むと、車を発進させた。
「ちょっと寄り道しようよ」エディがそう言って私達は、混雑した街を香港の時のように手を繋いで街を歩く。
 春節祭の飾り付けがされた華やかな街を、沢山の人が楽しそうに歩いていた。
 私は言う。「中国の人達のパワーって、みんなを元気で幸せにするのね」
 エディが私の肩に手を回して言う。「そうだよ。生きることに一生懸命だからね。恋をすることも、食べることも、セックスすることも、お金儲けをすることだって、僕の国では生きるって言う事なんだ。そう言う根本的なことを大切にしていれば、みんな元気で幸せになれるんだよ」
「気取ってたりしたら元気には成れないのね」
「日本人って、欲の塊のくせにそれを隠そうとするから変なんだよ。『私は何も欲しくないですよ』みたいな顔をしてすごいことをするんだ。前の戦争でもそうだったし、今のビジネスマン達だってそう」
「あなたはそれで日本人が嫌いなの?」
「そうかも知れないね。でも、ヨーコを見てると、何となくそれでもいいような気もしてきてるよ」
「どう言う事かしら?」
「そうだね。欲望を隠そうとしているだけじゃなくて、本当にそれを抑えようとしているような気がするんだ。ただ、それだけの力が無いだけで、だまそうとして欲望を隠しているだけじゃ無いような気がするようになったよ。僕の国の人達は、皆初めっからそんな無駄なことをしないだけさ。日本人は無駄にもかかわらず、取敢えずやってみようとして、結局失敗しているだけなんだ」
「そんなものなのかしらね。でも、結局は同じなんでしょう?」
「そりゃあそうだよ。だって同じ人間だからね」
「そうよね。皆同じ人間なんだ。目の色も、肌の色も、髪の色だって同じだわ。だってあなただって黙っていたら誰も外国人だって判らないもの。私だって黙っていればあなたの国の人達と変わらなかったわ」
「そうさ、君のチャイナドレス姿はとっても綺麗だったよ」
「どうもありがとう。また着てみようかしら?」
「それはいい考えだ。新しいのを買おうよ」
「これから買うの?」
「はい。良い店がある」
「でも、もったいないわよ。もう、そんなに着る機会なんてないし」
「大丈夫さ。今夜着ればいい。だって今夜は春節祭のパーティーなんだよ。チャイナドレスで出ようよ」
「ナーガラージャの?」
「はい」

 彼に手を引かれて、小さな路地を曲がったところにあるお店に入る。

「こんにちわ」彼は店の人にそう声をかけて、店の奥にある階段を上がる。そこには沢山のチャイナドレスが掛けてあった。その奥に、香港のお爺さんのように肥ったおじさんが椅子に座っていた。その人がエディを見つけると嬉しそうに立ち上がり、中国の言葉でエディに話しかけ、彼の手を取って握手して抱き寄せた。エディもとても嬉そうに何か話していた。そして私の方を向いて、「妻のヨーコです」と日本語で紹介し、そのおじさんを「コウさん」と言って私に紹介してくれた。
 コウさんは私にも手を差し伸べて「ようこそいらっしゃいました」と言って笑う。
 私もその手を取って、「こんにちわ。よろしくお願いします」と言って笑った。
 エディが多分広東語で何か言う。するとコウさんは頷いて、沢山のドレスの中から幾つか選び出してくれた。
 スカイブルーに銀糸で刺繍した物、黒地に色とりどりの糸で花の刺繍をあしらった物、白地に淡い色の糸で刺繍とビーズを縫い付けた物、それと目の覚めるようなショッキングピンクに金糸で刺繍した物の四点を選び出した。
「サイズはピッタリだと思うよ」コウさんはそう言った。エディは頷いてその四点を見比べる。私は白地の物が気に入っていた。
 エディが言う。「僕は白のドレスがいいと思うんだけど、君はどう?」
「私も白がいいわ」
 エディは顔一杯で笑うと言う。「一度着てみて」
 私は頷いて、コウさんに案内されたフィッティングに入る。洋服を脱ぎながら外にいるエディに向かって言う。「エディ、アルンが待っているんじゃないかしら?」
 エディが笑いながら言う。「ヨーコ、君はさっき『何人の人に守られてるの?』って尋ねてなかったかい?その時アルンはなんて答えたっけ?」
「二十人って言ったわ」
「ちゃんと僕達が何をしているかぐらい隊長はお見通しだよ」
「それもそうね」
 私は着替え終わってカーテンを開ける。
「ヨーコ、いいよ」エディが言った。
「奥さん、とても良く似合うよ」コウさんが言った。私は少し顔が赤くなるのを感じた。やっぱり私ってエディの奥さんなのだ。初めて会った人にそう呼ばれたことで、何となく恥ずかしく思えた。
 エディが腰の辺りの緩みをチェックして言う。「サイズもバッチリだね。さすがコウさんだ」
 コウさんが言う。「この仕事も長いからね。オーダーメイドだと、もっといいの出来るよ」
 エディが答える。「明日のお昼までしかここにいられないんだ。また何時か来るよ。その時にはちゃんとしたのを誂えてもらう」
「そうするといいよ」
 私はもう一度カーテンを閉めて着替えた。もう一度来れることがあるのだろうか?私達にまた何時かという時があるのだろうか?
「なるべく早く生まれ変わろう。そうしてお爺さんになったコウさんに誂えてもらおう」私は心の中でそうつぶやいてからフィッテングルームを出た。
 エディはお金を払ってドレスを袋に入れてもらった。それを持って店を出る。
 相変わらず私には、アルンの部隊の人達がどこにいるのか全然判らない。一つ溜息をついて首を振った。エディは呆れた様子で私に言う。「美味しいもの、食べに行こう」
 私も頷いて歩き始めた。

 アルンの待っているお店は、コウさんのお店から大通りに出てすぐ向かい側にあった。沢山の人の流れの中を縫うようにして反対側へ渡る。
 店に入ると、エディは「李聖龍です」と名乗った。店の人はとても丁寧に私達を奥の席に案内してくれた。アルンがお茶を飲みながら窓の外を見ていた。
 私達が席に着くとアルンが言った。「素敵なドレスはあったかい?」
 私は頷いて言う。「もちろんよ。アルンもミツコに買って行けば?」アルンはそれに対して首を振ってみせた。
 エディがウエイターを呼んで注文を始めた。食べるものは彼に任せておくのが一番良い方法だ。私は煙草に火を付けて窓の外に目をやった。沢山の人が目の前を歩いて行く。その中に見覚えのある後ろ姿を見つけて私は声を上げた。
「アッ」私は驚いてアルンに尋ねる。「イワノフじゃないの?」
 アルンが答える。「そうだよ。奴は余程ヨーコに惚れてるらしい。ずっと着いて来てるんだ」
 私が言う。「もしかして彼も二十人の中に入っていたの?」
「二十人ぐらいだって答えただろう?ぐらいの中の一人だよ」
「なるほど。でも、彼、もう帰った方がいいわ」
「何度もそう言ってやったけど、奴は笑うだけなんだ」
「じゃあ、連絡を付けてくれない?今夜一緒に食事をしましょうって。ねぇエディ、いいわよね」
 エディは注文を中断して首を傾げる。「今夜、イワノフも一緒にパーティーに出てもいいわよね」
「もちろんだよ。素敵なドレスを見せてあげるといいよ」そう言ってまた注文に戻る。
「判った。後で招待するよ」アルンがそう答えた。
 アルンに尋ねる。「ぐらいって、もしかしてまだ居るの?」
「ああ、カズミが居るよ。でも、彼は今夜の飛行機で帰るって言ってた」
「そう、カズミがね。何故あのままバリから国へ帰らなかったのかしら?」
「なんか、今の仕事が嫌になったって言ってたよ。ヨーコに逢って、何かが変わったんだって」
「私、大変なことをしちゃったのかしら?」
「さぁ?僕には判らないよ」アルンはそう言って首を振った。
 注文を終えたエディがそれに答える。
「ヨーコは気にすることなんてないさ。カズミにはカズミの人生があるんだ。ヨーコの事がきっかけになったとしても、考えて答えを出すのはカズミ自身だからね。そんなことまで気にしてたら、ヨーコがこの人類すべての責任をとらなくっちゃいけなくなるよ」
 私は頷いて言う。「私に取れる責任なんてあるのかしら?」
「君は、出雲の龍を押し込めてしまったものの責任を取るためにその命を賭けようとしているんだ」
「やだ。私、そんなのの責任なんて取りたくないわ」
「そうだね。僕だって嫌だよ。妻の命をそんな昔の人々のために使うなんてね。もう、やめちゃおうか?」
 私はそれに答えられなかった。嫌でも仕方がないのだ。私には特殊化した龍がいる。人が元来持っているとはいえ、特殊化し過ぎて、人には扱いきれない力を持ってしまっている。扱いきれない力を持ってしまった者は、それを封印するしかないのだ。フォンの夫がしたように、腿を切り裂いてこの石を埋めてしまえば良かった。
「エディ、なぜあなたは私の龍を眠らせておかなかったの?」
 エディが絶句してしまった。ちょうど彼の頼んだ料理が運ばれてきた。
 私は彼に謝る。「ごめんなさい。私がいけなかったわ。あなたは聖龍よ。あなたにとって当たり前の事をしただけなのよ。あなた達が何千年も待ち望んでいたものが私だったというだけよ。あなたが悪いわけじゃない。気にしないで。さぁ、食べましょう」
 エディが目を上げて言う。「ヨーコ、フォンの夫の方が今の僕より君を愛していたのだろうか?」
 私は首を振って言う。「そんな訳ないじゃないの。彼は、私の龍を恐れただけよ。愛していたんじゃないわ。だから私を傷つけ、龍を封じて船に乗せたのよ。そのせいであの時の私は死んだの。だから私は次に生まれ変わったときには彼を求めはしなかった。私が求めていたのはあなただけよ。さぁ、もう良いでしょう。食べましょう」私はそう言って運ばれてきた料理に箸をつける。アルンもエディも食べ始めた。
「エディ、さすがにあなたの選ぶものはいつも美味しいわね」
「一生懸命生きているからね」
 アルンが不思議そうに私達を見た。私達は顔を見合わせて笑う。
「夫婦の会話なんだろう?」アルンがすねた様に言った。
「そう、夫婦のね」エディと私が同時にそう言って、三人で笑った。
 珍しくアルンもとても沢山食べた。私が一番初めにギブアップを宣言して、戦線離脱。アルンとエディはいつに無く接戦を繰り広げている。しかし、最後のデザートで決着がついた。
「やっぱりエディはすごいわよね。アルンは善戦空しく最後のケーキを残して敗退って言うところね」
「ヨーコ、普通の人間は、あれだけ食べた後にゴマ団子五個で限界だよ。その後アンニン豆腐と、チョコレートケーキは無茶だ」
「私もそう思うわ。でも、エディは平気な顔をしてあなたの分まで食べちゃったわよ」
 エディが全部食べ終わって言う。「皆、一生懸命生なくっちゃだめだよ」
 アルンが食後のコーヒーを飲んで言った。「夫婦の会話は判らないよ。しかし、お前本当にもうすぐタイロンみたいになっちまうぞ。そうなったらヨーコに逃げられるかも知れないな」
 私が言う。「そうよね。お爺様みたいな体に今の顔が乗ってたら変よね。ちょっと不気味かもね」
「ヨーコ、馬鹿だなぁ。体が肥るって言う事は、顔だって肥るんだよ。きっと長髪の熊の縫いぐるみみたいになるよ」アルンがそう言った。エディが困った目で私を見る。仕方なく私が助け舟を出す。
「髪を切っちゃえばただの熊の縫いぐるみよ。そうしたらとっても可愛いじゃない。ねぇエディ。肥り初めたら、髪を切っちゃいましょうね。私縫いぐるみって大好きよ」
 エディが笑顔で頷く。アルンはあきれて、両手を上げて肩をすっくめてみせた。
「夫婦愛にはかなわないな」
 私もアルンの真似をして肩をすくめてみせて言う。「羨ましい?」
 アルンが答える。「ああ、ちょっとだけな」
「とても正直でよろしい。なるべく早くあなたも妻を持つように」私は尊大な態度でそう言い渡した。「ははーっ」アルンがテーブルにひれ伏して見せる。エディがまたおなかを抱えて笑っていた。今食べたものが出てこなければいいがと私は思った。
 アルンは地震のショックから立ち直りつつあった。タフな男だ。しかしそのタフなアルンがあれだけのショックを受けたことが、これから起こるであろう事を如実に物語っているようであった。しかし、まだもう少しみんなと一緒に居られる。明日にはまた船の旅が待っている。心を落ち着けて、自分らしく旅を続けようと思った。生の旅。そして死への旅。そしてその死がまた次の生に繋がっている。龍の時は穏やかに流れる。一度の生、一度の死など、ほんの一瞬のことでしかない。
「ヨーコ、ホテルに戻るかい?」エディが言った。
「少し歩きましょうよ。おなか一杯で苦しいわ」
「OK そうしよう。何か欲しいものはないかい?」
「そうね。今のところ何もないわ」
「じゃあ、丘の方へ行ってみようか?」
「そうしましょう。とってもロマンチィックよ」
 アルンが言う。「僕は消えて居た方がいいかな?」
 私が答える。「構わないわよ。一緒に散歩しましょう。あなたも少し運動しないと、肥るわよ」
「インド象みたいにか?」
「あら?あなたはそんなに小さくないわよ。きっと肥ったらアフリカ象になっちゃうわ」「それは困るよ。非国民になってしまう」
「随分古い言葉を知っているのね。きっと今は死語よ」
「日本語を教えてくれた先生が昔の人だったんだ」
 私は首を振ってみせてから言った。「さぁ、みんなで歩きましょう」

 私達は店を出て、中華街のお店を冷やかしながら歩く。沢山の食べ物屋や、輸入小物のお店。私は沢山並んだ中国やインドの小物を手に取ったり眺めたりして歩く。人混みの中でアルンは姿を消してしまう。きっと、あまり側に居ると守りにくいのだろう。
 私が店先でバティックを見ていると、先に奥に入ったエディが手招きをする。私はそれに気付いて中に入る。
「ヨーコ、これ綺麗だと思わない?」
 彼はとても綺麗な緑色のブレスレットを持っていた。
「あら、これ翡翠なんじゃないの?」
「そうだよ。とっても綺麗だろう?滅多にこんなに綺麗な石はないよ」そう言って私にそれを手渡した。私はそれを受け取り間近に眺める。確かに、それはとても澄んだ緑と少し乳白色がかった緑がマーブルのように入り交じって、綺麗な模様を描いていた。
 エディが言う。「これ買おうよ」
 私はそのブレスレットとエディの顔を見比べて言う。「あなたが欲しいのね」
「そうだよ。君の腕をこの石で飾ったらとっても素敵だって思うんだ」
「どうもありがとう」
 エディはそのブレスレットを買った。そして値札を外してもらうとそのまま私の腕につけて言う。「やっぱりとっても素敵だ」そしてその手を取り店を出て歩き始めた。
 私達は中華街を横切り、海の見える丘公園へ向かって歩いた。途中でアルンが戻ってきた。天気は薄曇りだけど、風が無いので暖かい。
「三人で歩くのって、高野山の時みたいね」
「あの時ヨーコは両手に花だって言ったんだよね」アルンがそう言った。
「そうよ。私っていい男にもてるのよ」そう言って二人の間に入り、両方の腕を組んだ。
 あの高野山でイワノフと出逢い、空海と出逢った。その後も、とても沢山の人達に出逢った。そういえば、あの朝初めてミツコと話したのだ。
「アルン、ミツコはどうしてるのかしら?」
「未だ出雲だよ。神戸であった地震の恐怖が抜けないんだ」
「あなたは会いに行ったの?」
「とんでもない。そんな時間なかったよ」
「そうね。でも、どうしても会いたいんだったら、私達のことなんて放っておいていいんだから、会いに行って頂戴ね」アルンは黙って首を振った。
 エディが言う。「ヨーコ、心配しなくってもまたすぐに会えるさ。明日になれば船が着く。そしてその船で僕達は出雲へ向かうんだ。それにアルンには先に出雲へ入ってもらって、しておいてもらわなければならないことだってあるからね」
 アルンが言う。「先に出雲へ?」
 エディが答える。「多分そうなると思う。未だそれがいつになるかは判らないが、そんなに遠い先ではないだろ。明日タイロン号で、先ずは室戸岬へ向かおうと思う」
 私が尋ねる。「室戸岬に何があるの?」
 エディが答える。「何があるかは判らない。でも、空海はきっと何か手がかりを残してくれているはずだ」
「空海の手がかりを探すよりも、直接本人に聞けばいいのに」私はそう言った。
「ヨーコ。そんなに急ぐことはない。それに、教えられてすむのなら、高野山で空海が教えてくれたはずだ。でも彼はそうしなかった。つまり、僕達にはそれを探し当てて、しなければならないことがあるって言う事なんだよ」
「それもそうね。そんなに急ぐ事もないわね」
 私が答えると、アルンが少し不満そうな顔で言った。
「そんなに悠長に構えていていいのか?その間にまた被害があったりしないのか?」
 エディが首を振って答える。
「それは判らない。しかし、時が必要なんだ。月が満ちる前に、幾ら潮を動かしたところで、それほど大きな力にはならない。そう言うことなんだ。すべてのタイミングを合わせなければ、仕事は為されない。人は何時か必ず死ぬ。そして、また生まれるんだ。それについて僕達は関与すべきではない。それは人が死んでいる時に、自ら決めれば良いことだからな。とにかく、僕達は先ず空海が仕組んだプログラムに添って事を運ぶべきだ。それには、しなければならない事と、費やさなければならない時間がちゃんと計算されているはずだ。何故なら、空海はちゃんと時についても理解していたからな」
 アルンが言う。「時の概念か・・・。未だ僕には判らない」
 私が言う。「難しいわね。要するにタイミングみたいなものなんだけど・・・。つまり一つのことだけを考えるのなら、そんなにタイミングって言っても難しくないのよね。でもね、いろんな事、沢山の人の為すべきことが一度に出来るように待たなければならないの。一つの事柄で、出来るだけ沢山の人が目的を果たせるようにするということも、時の概念の一つでもあるのよ。もちろん時にはもっと沢山の側面もあるんだけどね。タイミングに関して簡単に言っちゃえば、大きな出来事、例えば戦争だとか天災、そんな物が起こる時には沢山の人が力を合わせるのよ。辛いことだけど、そこから何かを学ぼうという人達が沢山集まってそれを起こしているの。何時かエディが言ってたことと重複するけど、人は、苦しみを体験するために生まれている。それを受け入れたところから考え始めないと、どうしても理解できないと思うわ」
「苦しみを体験するために・・・」
「そうよ。そして、喜びがその苦しみを受け入れた時に与えられるの。乗り越える必要なんて何もないのよ。ただ、受け入れればいいだけ。例えばセックスのことを考えてみて。とても大変で、疲れる行為だけれど、そこに快楽と相手に対する愛を確認できる事で人はそれを続けているでしょう?そう言う工夫が生というものの中に為されているのよ。でなければ、人はみな自ら死を選んでしまう程この生には苦しみが満ち溢れているのよ」
「辛いことだな。死んでいる時にはそれを判っているのだろう?なのになぜこんな地獄のような生を選ぶんだ」
「アルン、それをあなたが見つける為によ。ただ、今私があなたに伝えられる事と言ったら『愛』が鍵だって言う事ぐらいだわ」
 その時エディが笑って言った。
「ヨーコ、眩暈がしないかい?」
「どうして?」
「ほら、ロアールからパリへ戻る時に、僕が祖父から言われたことを君に伝えたら、君は眩暈がしたって言ってたじゃないか」
「まぁ!本当ね。でも今眩暈がしているのはアルンの方よ。アルン、大丈夫?」
「ああ、何とか歩いているよ。愛が鍵か?暫く考えてみるよ」
 エディと私は顔を見合わせて頷き合い、そして微笑んだ。

 私達は、良く整備された公園の散歩道を、白い息を吐きながら歩いていた。空は少し雲が出て来て、朝のように晴れてはいなかったが、風が無いので、それほど寒さは感じなかった。木々の間からは、港が見え、沢山の船が休んでいるのが見えた。
「エディ、ここの風景は香港と何となく違うわね」私がそう言うとからが言った。
「二人で香港にいたのが、随分昔のことみたいだね。そう、ここの方が何となくおとなしい感じがするよ」
「確かにそうだわ。あなたの街は、もっとパワーが溢れててエキサイティングな感じだった。でも、あなたの街も、ここも、エキゾチックね」
「世界に開かれた港町だからね」
「私今朝、ここに車で着いた時、神戸に似てるって思ったの。アルン、今の神戸はどんなふうになっているのかしら?」
「すぐにまた、こんな風に戻るさ。街はもっと綺麗になるかも知れないよ。東京が焼け野原から立ち直ったように、神戸だってきっとすぐに立ち直る。だけど、力の無い者達はずっと傷ついたまま暮らすんだ」アルンが答えた。
「そうね。失ったものは取り戻せないのよ。それも時が過ぎるって言う事なのね」
「確かに。僕達だって、今こうしている穏やかで幸せな時間を失って行ってるんだ。この瞬間はもうどんなことをしても取り戻せない。今に良く似た、穏やかで幸せな瞬間が、これからも続けばいいと思う事しかできないって言う事だ」エディが言った。
 海の香りのする一陣の風が私達三人を優しく包み込んだ。
「ホテルに戻ろう。もうすぐ雨が来る」アルンがそう言って促した。
 私達はゆっくりと散歩道を下り、大きな道に出たところでアルンの用意した車に乗ってホテルに戻った。

 アルンの言ったように、夕方早い時間から雨が降り始めた。それはとても静かで、灰色の町を包み込むような降り方だった。

 ドレッサーの前で私は髪をまとめながら尋ねる。
「エディ、今夜のパーティーってどこであるの?」
「ここだよ。このホテルのメインダイニングだ」
「じゃあ、雨の中を出かけなくていいのね」
「はい」
「コートもいらないわね」
「はい」
 髪をまとめ終わり、コウさんの店で買ったドレスに着替えてエディの前に立つ。
「どう?」
「素晴らしい。ヨーコは世界一美しい」
「信じられないわ」
「信じて。僕が聖龍なんだ」
「そうだったわね。でも、プレイボーイのエディの言うことなんて信じてたら、危険すぎるわ」
「酷い言い方だ」
「だって前に日本に居た時の事をアルンから聞くと、本当にあなたって酷い男だったって思うもの」
「そんな事ないんだけどなぁ。あいつが堅すぎるだけさ。僕が普通だったんだよ」
「どのレベルの普通なの?」
「香港やイタリーかな?」
「なるほど。だったら立派なプレイボーイだわ」
 エディは両肩をすくめてみせると言った。「綺麗だって誉めたのに酷い言われようみたいだ」
「それもそうね。でも、普通の人ってそんなに誉めないのよ。だって私、あなたとパリで知り合うまで、綺麗だなんて言われたことなかったもの。だから誉め言葉を言われると、どうも馬鹿にされているような気がしてしまうの。でも、最近何となく慣れてきたけれどね」
「それはよかった。君は僕と居ることで、いろんな事に慣れる必要があったんだね」
「そうね。豪華な部屋や、パーティーや、優しい家族、そして誰かに守られたり愛されたりすることにね。でも、愛されるって言うことには本当はまだ慣れていないわ。ただ、あなたのことを愛してるだけよ」
「どうも有難う。僕達は愛し合ってる。今までも、そしてこれからもね。さぁパーティーに行こう!今夜はマダムローザも来ているはずだ」
「本当?」
「はい」

 私達はエレベーターでパーティー会場に向かった。
 会場に入ると、私達に気付いた人達から拍手が拡がり、最終的にはすべての人の拍手で迎えられた。私はその事にとても戸惑い、エディの陰に隠れる。エディは慣れた様子で微笑みを振りまいていた。そして私の戸惑いを感じると足を止めて私に向かって優しく言った。
「リラックス。いつもの君のままで居ればいいんだよ」
 私はそれに頷き、微笑んでみせる。
「OK それでいい」
 エディがそう言って私の腰に腕を回し、少しだけ前に押し出した。そして、ボーイの持ってきたマイクを受け取ると、会場の人達に向かって言った。
「皆さん!妻のヨーコです。昨年神戸での披露宴では代役で大変失礼いたしました。皆さんのご協力のお陰で、私達の仕事も順調に進んでおります。私達の待ち望んだ神も、こうしてここに在ります」
 そう言って彼は私の手を取り、指輪を回して龍を解き放った。会場に深い井戸のような沈黙が流れ、そしてもう一度拍手が巻き起こった。その拍手が収まるのを待ってエディが言う。
「この神が、皆さんの内なる神と共鳴し、すべての人々が自分の内なる神と共に生きることを願って止みません。悲しみと苦しみに満ちた世界ではありますが、皆さんの内なる神の光によって、すべてのものが輝き始めるのです。この妻の龍の輝きは皆さんご自身の輝きなのです。皆さんの益々のご発展をお祈りします」
 会場から大きな拍手が沸き起こった。本当にエディは上手にスピーチをする。私は彼の言ったように、私の龍がすべての人の上を舞い、その人達の龍と共に輝く姿をイメージした。そしてそのとおりに私の龍が恍惚とした表情を浮かべた人々の上を飛ぶのを見た。

 エディの「乾杯」の声と共にパーティーは始まった。沢山の人がエディに挨拶にやってくる。エディはいつものように感じの良い微笑みを浮かべながらそつ無く応対する。それが途切れたところでエディは私の龍を収めると、人々の中に入って行った。会場の片隅にアルンと談笑するイワノフの姿があった。私は持っていたグラスをボーイに渡して人の間を縫うようにして彼の元へ行く。
「イワノフ!来てくださってどうも有り難う!」
 私がそう言うと彼は、微笑みで私を迎え、両手で私の手を取って暖かく包み込んでくれた。
「何故かバリから国へ帰らなかったの?」
「飛行機の乗り継ぎが悪くってね」
 彼の冗談にアルンが笑った。
「本当に有難う。とっても会いたかったわ」
「もちろん私もだ。でも、私はいつもヨーコを見ているよ」
 私は頷いて言う。「アルンの部隊に入れてもらえば?」
 アルンが笑って言う。「ヨーコ、それはまずいよ。僕の仕事が無くなってしまう」
「本当ね。アルンよりイワノフの方が私を愛してくれるものね」
 アルンが「そんな怖れ多いこと、僕には出来ないよ」と言って笑った。
「ところで、イワノフはこれからどうするの?」
「さぁ、どうしようかね」
「私達は明日、船にのっちゃうのよ。イワノフも一緒に乗る?」
「いや、私はもっと違うことをするべきだって言う感じがするんだ」
「もっと違うことって?」
「まだ良くは判らないんだが、ヨーコと出逢ってから、何かインスピレーションのようなものに動かされているような気がしてる。だから、これからの事も、自然に任せようと思っているよ」
「そう。でも、きっとまた会えるわよね」
 イワノフは微笑みを浮かべ、大きく頷いてみせた。
 その時私は、きっと彼は生まれ変わっても、私を守ってくれると思った。そして、生まれ変わる前にも私を守っていてくれたのだということを思い出していた。
「ねぇ、イワノフ。あなた前世で中国人だった事が有るのよ」
 イワノフが驚いて言った。「どうして?」
 アルンも興味深そうに私の顔を見た。
「だって私、今思い出したの。あなたは、私がフォンであった時の父親だったって。とても愛情深く私を育ててくれたのよ。でも、私が十歳位の時に盗賊に殺されちゃったの」
「いつ頃の事だい?」
「さぁ?時代的な事は良く判らないんだけど、今の前のその前の生の時のことよ。着ているものも、こんなピッタリとしたドレスじゃ無くって、もっとゆったりとしていたわ」
 イワノフが首を振って言う。「生まれ変わりか?私には良く判らない考え方だ。でも、確かにヨーコは昔知っていたような・・・。いや、それ以上にいとおしいような・・・。やっぱり、良く判らないよ」
 アルンが言う。「ヨーコ、座って話せば?」
 私は頷いて、近くのテーブルに付いた。アルンが三人分の飲物を貰ってくれた。
 私はそれを一口飲んでからイワノフに言う。
「きっと、今生であなたが殺した人達は、その時の盗賊なのね。それで償いをするためにあなたに殺されたのよ。だから、あなたはもうそれに対して罪悪感を持つ必要はないの。お互いのカルマを消し合っただけなのよ。後はまた新しいカルマを作り出さないように生きることだわ。あなたが、直感で動いているって言うのは、それにとってとてもいいことかも知れないわね。直感って言うのは、神の言葉なのよ。するべきことをする時が来た時に、それはやって来るの。自分が生まれてきた意味を思い出すって言うことに繋がるのかな。私もまだ良くは判らないんだけど・・・。中国とロシアって地続きですもの。きっと馬で大陸を駆け回っていたのね」
 私は広大な大地を馬に乗って駆けるイワノフを見ていた。
 イワノフが言う。「神の言葉にしたがって生きろっていうことかな?」
「そうよ。でも、必ずしも生きている人間にとって都合のいい結果が待っているとは限らないわよ。魂にとって都合のいい結果が用意されているだけだから。だから、あなたに殺された人達は、わざわざ殺されてくれたわけでしょう?多分彼らは直感に導かれてそうしたのよ」
「じゃあ、奴等は神の意志で私に殺されたっていうのかい?」
「そう。神の意志であり、自分の意志であり、イワノフあなたの意志でもあるの。難しいわね。でも、私に龍がいるように、誰もに龍がいることに気付いた時に私には判ったの。誰もが役割に添って生きているんだって。この人間の体にいろんな役割がある様にね。手と足は比較的似た役割をするけれど形が違うし、目と心臓だったら形も役割も全然別のものでしょう?でも、同じ私の体なのよ。もっと細かく見て、細胞のレベルまで行くと、随分違う役割があると思うの。でも、もっともっと先の原子、分子、量子、なんて言う物理のレベルまで遡ると、みんなが同じものになってしまう。つまり、私もあなたもエディもアルンもみんな同じものなのよ。ただ、そう言うものがこの皮膚に閉じこめられているって思うからいけないのよ。だって、この皮膚だって、物理のレベルまで遡れば、ただ細かい何かが振動してそこにエネルギーを放っているからそんなふうに見えているだけでしょう?だから、龍の意志があなた達に伝わったり、姿が見えたりすることも、そんなに不思議じゃ無いのよ。多分そこに何らかのエネルギーの場が出来るだけの事じゃないかしら。だから速く走れる人と、そうでない人の違いぐらいで、誰もに出来るの。たまたま私は奇形って思える程、その能力が強かっただけだと思う。そしてそれを持ってしまったために神がどんなものであるのかまで理解してしまったの」
「ヨーコの理解した神って、どんなものなの?」
「私の理解した神は、愛その物よ。私達戦後の日本人って、あなたやジョージ達みたいに明確な名前を持った神を持たずに育ったのよ。戦後の教育方針と、前の戦争の時に神のために戦って、結局負けた後に、それまで神様だったのに突然『本当は人間でした』なんて言われて価値観が根底から崩れたりしたことが影響しているのかも知れないけど、とにかく神様は、お願い事をするためだけにあるの。もちろんそれが叶えられればいいなとは思うけれど、本当にその神様を信じているわけでもない。あなた達にとっての聖書みたいなものは、お経と言って、昔のインドの言葉で書かれていたり、それを大昔に中国の言葉に訳したものであったりして、今の私達には全く意味が判らないまま読まれるし、あなた達が教会に行って教えを受けるようにお寺や神社に行ったりはしない。誰かが死んだときに訳の判らないお経を聞いたり、特別なお願い事があるときに神社へ行って手を合わせて拝むだけ。ほとんどの人が生きていくうえの教えを聞きに行ったりはしないわ。だから神様が何を欲して居るかなんて知らないまま生きてきたって言っても過言じゃ無いと思う。だからこそ、私には判ったんだと思うの。名前を持たないって言うことは、違う名前の神を排除することも無いって言うことなのよね。つまり、宗教戦争が起こり様が無いって言うことね。神の意志が人の言葉で語られないかぎり、人の都合の良い判断も起こらないって言うことだと思わない?」
「それはそうだ。でも、ヨーコの言い方だと、神は名前を持たないだけで、存在はしているようだね」
「そうよ。無神論者ではないの。割と大雑把な感じかも知れないけど、みんな人を超えたものの存在はどこかで信じてはいるのよ。信じているというよりも知っていると言った方がいいかも知れないわね。でも、それが誰かは判らないの。だから、もしかしたらそれが仏陀って言う名前かもしれないし、キリストって言う名前かも知れないし、その他の沢山の神の名前かも知れないから、どれでも機会があったら拝んじゃったりするのよね。だってもしかしたらどれかが当たりかもしれないもの」
「随分いい加減なんだね」
「でも、どの神様も過不足なく拝むのよ。それってすごいことじゃない?」
「要するに、どの神様でも同じだって言うことかな?」
「そうなのよ。神様は、人とは違うの。もっともっと大きなものなのよ。でも、龍の力は人の力よ。人の力が最大限に発揮されたものが、龍の力と呼ばれるものでしかないの。それなら神って何?そんな風に思った時に、それは愛以外の何者でもないって判ったの」
「良く判らない」
「そうね。巧く説明出来ていないわね。つまり、私の思っていた神様が名前を持っていなかったために、神様の定義が人間的じゃなかったって言うことが言いたかったの。そう、私にとって神様は、信じる人にだけ恵みや加護を与えたりするような小さなものじゃなかったのよ。考え得るかぎり完全なもの。違う名前の神々で戦ったり、悪いことをしてしまった人間を裁いたり、許したりするような人間的な裁判官みたいなものじゃなかったの」
「じゃあヨーコの思っていた神は、善悪を越えていたって言うことなのかい?」
「そうね。そんなに明確に思っていたわけじゃ無いのよ。でも、善悪って、立場や状況によって随分違うじゃない?だって、戦争で沢山人を殺したら英雄だし、通り魔的に人を殺したら極悪人でしょう?沢山の人が信じている名前のある神に『あいつは悪魔だ』って言われた人を殺してもきっと犯罪にはならない。正当防衛だってそうだし、精神に障害がある人が起こした犯罪に対しても、罪に問われたりはしないわ。でも、残された家族にとってはどちらも同じだけの痛みを伴う。だったら神様は、その残された家族の痛みをどうしてくれるのだろうって思ったの。私の思っていた神様は、そんな不公平なことをしたりしないって思ってた。そんな不完全なものが神であったりするはずが無いって」
「ヨーコ、神は完全なんだ。でも人が不完全で弱いだけなんだよ」
「そんな不完全な人を作る様な意地悪なものが神であるはずが無いって思わない?だって神様は完全なんでしょう?」
「作ったときには完全だったんだ。でも、人が悪の誘惑に負けてしまったりしたから、こんなふうになっているだけで、神の言葉を信じて本来の姿に戻るために信仰が必要なんじゃないのかな?」
「神はすべてを御存じなのよ。時間にも縛られないし、もちろん肉体にも縛られない。そんな神に、人が間違った方向へ行くことが判らなかったとでも思う?そんな中途半端なことをするはずがないじゃない」
「ならば、ヨーコの神はなぜこんな苦しみに満ちた世界を作り出したって思ったの?」
「すべてのことが判っているからこそ、この世界が必要で作ったのだと思ったわ。この世界の中でなければ、決して手に入れられないものがあるからこそ、わざわざこの世界を作ったのよ。それが何かって考えたときそれは愛しかないと思ったのよ」
「ヨーコ、それは変だよ。神は愛以外の何者でもないのに、わざわざこの世界が必要だって言うのかい?」
「ほら、イワノフだって神は愛だって知っているんじゃないの。だから神は愛だって言ったでしょう?」
「ヨーコ。はぐらかしちゃ駄目だよ」
「そうじゃないわ。本当に神は愛でしかないのよ。純粋な愛。全知全能で、すべてのものの作り主。何も試したりはしないの。すべてを受け入れるだけ。そして、すべてを楽しんでいるのよ。全知全能で唯一の神に愛し合う必要があるって思う?」
「唯一か?」
「そうよ。だってすべてのものの作り主なのよ。つまり、神以外のものは神が作ったって言うことでしょう?」
「神は一つって言うことかな?」
「あなたはどう思う?」
「確かにそう教えている。しかし、神々が力を合わせて作ったとは考えられないかい?」
「だったら神々のための神も必要になるんじゃないかしら?」
「神々の作り主って言う意味で?」
「そうね。それに神は形を持っていたりしないと思うわ。自分に形がないからこそ、私達を作ったんだと思うの。神はとても大きな力を持っていて、いろんな働きをするけれど、個別に別れていたりしないのよ。すべてが自分で、対立したりしないの。つまり、それが愛の状態なのよ。その常に愛の状態の中にいて、我々を作った。神はどんな小さな間違いも起こさないわ。つまり、私達は完全に神の思うままに作られているって言うことよ。神を信じるなら、先ずそのことを信じなきゃ。すると、殺人だとかって言う現象がこの世界にあるって言うことは、神の意志で人も殺すし、人に殺されもするって言うことよね。だから、その現象にどんな意味があるのかが、神の本当の意志を知るって言うことに繋がるんじゃないかしら?」
「ヨーコの理論で行くとそう言うことだね」
「神は愛の世界そのものである。しかし、愛し合うことは必要のない世界でもある。だからこそ私達は個別の体を与えられ、愛し合うことを望む様に作られているのよ。愛し合うということは、憎しみ合うということにも繋がるわ。苦しみのないところに喜びが存在しない様にね。憎しみ合えるということは、愛し合えるって言うことでもあるんじゃないかしら?多分、神は私達の理解を超えているのよ。何かに例えることなんて不可能なのよ。でも、何かを愛するときに少しだけ神を理解出来るんじゃないかしら」
「ヨーコは神ではないんだね」
「もちろんよ。神が形を持ったらそれはもう純粋な神ではなくなるもの」
「でも君は神として崇められているようだ」
「そうみたいね。でもね、誰もが神でもあるのよ。神が必要として作った者達なんですもの。神の意志をすべての人が宿しているって言うことでしょう?だから、私を神だって思う人達がいてもいいかなって思うようにしているの。だって、それだって神の意志なんですもの。ただ、何でも出来る、人に都合の良い神には成れないと思うけど・・・」
「愛である神が、私達にこんな辛さを与えているのかい」
「ねぇイワノフ、アルンも聞いて。今私達が考え付く辛さって、どんなものかしら?」
「愛する者を失う辛さ?」イワノフが言った。
「したいことが残っているのに死ななければならない辛さ?」アルンが言った。
「それ以外には?」私が尋ねた。
 アルンが言う。「ヨーコ、沢山あり過ぎるよ。生きていることそのものが辛いんだから」
 イワノフが暫く黙り込んで考えていた。私もアルンも彼の中から言葉が出てくるのを待った。イワノフが顔を上げて言った。
「ヨーコ、判ったよ。つまり、人が不幸を感じるって言うのは、生命の維持を危ぶまれた時だ。それは物理的な存在の危機であったり、精神的な存在感であったりはするが、とにかくすべての不安や辛さは自分の存在の危機に係わっているようだ」
「例えば?」私がそう尋ねる。アルンも身を乗り出すようにして聞き入る。
 イワノフが続ける。
「自分の命が危ぶまれる時の不幸って言うのは大体判るだろう?例えば、自分が病気ではないかというような不安感だとか、罹ってしまった病気が治らないのではないかというような不安感。もちろんそれには殺されることや、ケガなども含まれる」
 アルンがそれに対して頷いた。イワノフが続ける。
「その他には愛されないことに対する不安感だ」
「それは生命に係わる不安ではない様に思うんだが・・・」アルンが言った。
「いや、やはりそれも生きるということに対する不安だと思う。なぜ愛されたいかと言うことを良く考えてみてくれ」イワノフがアルンに言った。
 アルンがそれに対して答える。
「自分が相手を愛しているから・・・」
 私が言う。
「アルン、それは愛の根本ではないわ。多分イワノフの言っているのは、子供が親に求めているような初期的な愛の事よ。なぜ子供が親の愛を求めるかって言ったら、自分を庇護してもらうためじゃないかしら?生命の形としてもっとも弱い立場の子供って言うのは、誰か強い者にいつも庇護されていなければ生きられないのよ。それが愛を求める一番初めの形よ。そして、自分で生きることが出来るようになったときに初めて恋愛感情というものが芽生えるの。自分の生命が維持出来るようになったら、次はその命を次の世代につなぐ必要が出来るのよ。それが恋愛の一番動物的な意味。でも、そこまで動物的に割り切らなくっても、要するに失恋の時の感情を思い出してみるといいわ。あなた失恋の経験ってある?」
「もちろん。自分がどうしようもない男に思えて、生きて行く自身をなくしたよ。でも、時間がそれを癒してくれたけどね」アルンがそう言って片目をつぶってみせた。
「そう言うことよ。つまり、自分の生きている価値を相手に求めているということなの。だからそれが相手に受け入れられなかった時に、自分の存在価値を見失ってしまうって言うことよね。つまりイワノフが言った精神的な存在価値って言うことよ」
 私の言葉を受けてイワノフが続ける。
「そうなんだ。人とは肉体的な生命だけでなく、精神的な生命も持っているんだと思う。より良く生きるために様々な欲求を持っていて、それを充たされない時に不幸を感じるんだ。限りない富を求める事もそうだし、不老長寿を求める事もそうだ。要するに、命、生命に対する欲なんだ」
 私が続ける。
「随分前に私、命に対する欲がなければどんな欲も存在しないんだなって思ったの。生きて行く必要がなければ、お金も名誉も知識も何の役にも立たないのよ。でも、愛はどうなのかしらって思った時に、もしかしたら愛は魂と係わりがあるのかも知れないって思ったの。エディにその時『命に対する欲を捨てた時、人は何を希望とするのかしら?』ってたずねたら、彼は『魂の存続だろうか?』って答えたわ。本当に純粋な愛はこの肉体と魂のどちらもにまたがっているのよ。肉体を維持するために必要な愛と、魂を維持するために必要な愛。でも、きっと同じ愛って言う名前で呼んではいけないぐらい形の違うものなんだと思う。そして何も維持する必要のない神の愛。まだこの肉体に縛られたままの私達の魂にはきっと理解できないのよ。でも、神は誰にも等しく死を与えている。神が唯一肉体を持ったものすべてに平等に与えたもうたものは死だけなのよ。つまり、無限の存在である神が有限を作り出すために肉体を作ったって言うことじゃないかしら?」
 私はそう言い終えた途端に、言いようのない不快感に襲われていた。そしてアルンに向かって言う。「アルン!エディは?!」
 アルンが答える。「君の後ろだよ」
 そう言った途端に彼は素早く席を立って私の後ろに向かった。私はその瞬間に右手の親指の付け根当たりに鋭い痛みを感じ、体を丸める。イワノフが驚いて私を抱き留める。
「ヨーコ!どうしたんだ!」
「痛いの。エディが・・・」
 その時私の後ろの方で騒ぎが起こった。私はエディの元へ行かなければならないと強く思った。それで痛みをこらえながら立ち上がり、振り返った。その時私はエディが手から吹き出す血を白い布押さえて悠然と立っているのをみた。アルンが若いボーイを取り押さえていた。そのボーイの手には銀色に光るナイフが握られていた。
 私はエディの元へ駆け寄る。イワノフがすぐに私を追ってきた。
「エディ!大丈夫?」私がそう言うとエディはいつもの微笑みを浮かべて頷いた。
「はい。もちろん大丈夫だよ」私にそう言ってからアルンに言う。
「アルン、ちょっと外へ出よう。その人も一緒に連れてきてくれないか?」
 アルンは黙って頷き、ボーイのナイフを取り上げ、それを部下の人に渡すと、会場の外へ向かって歩き始めた。
 私はエディの痛みのすべてを引受ようとしていた。イワノフが痛みの為によろけそうになる私を支えてくれていた。エディが周りの人達に微笑みながら言う。
「心配いりません。たいしたことないですから。皆さんはこのままごゆっくりお楽しみください」
 私はイワノフに支えられながらアルンの後を追った。エディもすぐに私に追い付いて来て言った。
「ヨーコ!痛みを返しなさい。それは僕のものなんだから」
「大丈夫よ。その傷を癒すのには痛みが無い方がいいのよ。だから暫く私が預かってあげるから。それよりも早く座りたい。あなたもその方がいい。それ以上血を流さない方がいいわ」
 私達はホテルの人に案内されてすぐそばの部屋に入る。そこにはアルンの部下のような人が何人かと、エディを刺した青年とアルンがいた。
 私は取敢ず自分の手を押さえながらソファーに倒れ込むように座った。イワノフが私を守るように後ろに立つ。エディも静かに腰掛けた。彼の手に巻き付いた布はほとんど血に染まって真っ赤になっていた。
「すぐに医者が来る」アルンがそう言った。
「大丈夫だ。医者は必要ない」エディがアルンにそう言ってから、私を見た。
「ヨーコ、ごめん。もう少し助けていてね」
 私は黙って頷いた。痛みは最高潮に達していて、声を出す力もなかった。
 エディは、じっと目を閉じて精神を集中させるといつもの青い光に包まれる。そして、傷を押さえていた布を外した。血はすでに止っていた。私には彼の傷ついた細胞が物凄い速度で再生しているのが感じられた。時が加速していた。そして、その再生が進むに連れて私の手の痛みもおさまって行った。強い痛みが去って、私の意識も彼の傷ついた細胞に向かう。そこには宇宙が存在していた。大きく拡がるエネルギーの波を感じた。意志を持ったエネルギーの波。それが生命の初めの形だと思った。
 アルンと彼の部下達、そしてイワノフとエディを傷つけた張本人の青年は、エディが精神を集中している間、一言も口をきかなかった。
 エディが集中を解いた時、時計で計る時間は、三十分程経っていた。彼は少し目を閉じて、次の瞬間にはいつもの彼に戻っていた。
「ヨーコ、ありがとう。思ったより巧く行ったみたいだ」
 そう言って三十分前まで血を流していた手を振ってみせた。
 私も微笑んで言う。「良かった。手を洗って良く見せてよ」
 エディは頷いて立ち上がり、洗面所へ向かった。
 イワノフが私に尋ねる。
「ヨーコ、何が起こったんだ?君はいったい何をしたんだ?」
 その言葉にそこに居たすべての人が私に注目した。私はそれに答える。
「バリ島でね、私がころんじゃって小さなケガをしたことがあるのよ。その時にこの方法を見つけたの。要するに人を癒すのは、その本人の力以外では有り得ないって言う事よ。どんなに善く効く薬だって、どんな名医だって、本人の治る力を助けるだけだわ。私達は特殊に繋がっているから、痛みを相手に預けて集中すれば癒す力が加速されるって言うだけなのよ。誰でも同じ事よ。普通一週間掛けて傷ついた細胞が再生するか、その細胞に意識を集めて早く再生させるかの違いだけ。痛みって言うものは、ここが傷ついていますよって教えてくれるためにあるの。ただの目印。だから、今の傷みたいに、すぐにどうなっているのかが判る状態の場合は、誰かに預けちゃっても問題ないって言うことね。でも、外から見えないような傷の場合は、ちゃんと痛みを感じて治すべき場所をしっかり認識する必要があるの。だから別にこれは龍の力って言うわけじゃ無いのよ。エディが上手に瞑想状態に入れるのと、繋がっているために痛みを預けることによってそれに集中を乱されないから割と巧く行くだけなのよ。私が傷ついたのなら、もう少し時間が掛かったかも知れないわ。だって私には彼みたいに上手に意識の集中が出来ないから」
 エディが洗面所から戻ってきた。
「ほら、ヨーコ。完璧だよ」そう言って私のとなりに座り、手を広げてみせた。私をイワノフがそれをのぞき込む。
「本当ね。ちょっと傷が残っちゃったけど、このぐらいなら平気ね」
「信じられない」イワノフが後ろでつぶやいた。
 エディが振り向いて言う。「イワノフ、ヨーコを支えてくれてありがとう。君の大切なヨーコに痛い思いをさせてしまってすまなかった。以後気をつけますので、どうぞお許しを」そうふざけて言うと、傷の治った手で敬礼をしてみせた。そして前に向き直ると彼を傷つけた青年に向かって尋ねた。
「君、名前は?」
 青年は呆然とした表情で慌てて答えた。
「はい、私は西野順一です」
 エディが続ける。「その西野順一君が、何故こんなことをしたのかな?」
 私がその問を遮って言う。「エディ、あなたはその汚れちゃった服を着替えた方がいいわよ。西野君には後で話を聞けばいいじゃない。取敢ず着替えて、みんなの前に姿を見せた方がいいわ」
 エディが頷いて言った。「確かにそうだね。じゃあすぐに着替えて来るよ」そしてすぐにアルンの部下と一緒に部屋を出て行った。

 私は彼を待つ間に西野と名乗った青年を観察した。彼が殺意を持ってエディを刺したのでないことは初めから判っていた。あの騒ぎの時、誰の殺意も感じなかったからだ。
「ねぇ、西野君」私がそう言うと彼は驚いたように顔を上げた。
 私が続ける。「あなた歳は幾つなの?」
「十九です」
「あなたもナーガラージャなの?」
「父がそうです。でも、僕は信じていません」
「そう。じゃあ、普通の就職と同じ気持ちでこのホテルで働いていたのね」
「はい」
 彼は震え気味の声で、割と正直に答える。自分のしてしまった事に驚いているのか、目の前で起こった不思議な事に驚いているのかは判らないが、動揺しているのは確かだ。
「あなた、エディを殺そうって思ってたわけじゃないわよね」私がそう言うと彼は複雑な表情で頷いた。
「でも、何故ナイフを持っていたのかしら?」
 彼は泣きそうな声でそれに答える。
「良く判らないんです。聖龍様がトリックを使って龍を見せたりするから・・・。僕は、僕はこんなインチキ・・・こんなインチキはいけないことだと思って・・・。良く判りません」
「あなたには龍が見えたのね」
 彼は頷く。
「それがインチキなトリックだと思ったんだ」
 彼が頷いて強い調子で言う。「当たり前でしょう!あんなもの立体映像の装置を使えば簡単なことですよ」
 イワノフが静かな声で言う。「そうか、君にも見えるんだ。このパーティーに集まった人の中で、ヨーコの龍が見えないのは私だけなのか」
 西野青年がイワノフに向かって言う。
「嘘です。あれが見えないはずがない。あんなにはっきりしていたのに。どこかに映写装置が隠してあるんだ」
「それで、何故それとエディを傷つけることが繋がっちゃったのかしら?」私がそう彼に言う。
「それは・・・。それは、神の名を語って人を騙そうとするからです。そう言う奴には罰を与える必要があるんだ」
「あなたはその罰を与える権利を誰に貰ったの?」
「そ、それは・・・。とにかく僕は神を冒涜するものを許せない!!」彼は神経質そうな声でそう叫んだ。
 イワノフが静かな声で問う。「君の神って、いったい誰なんだ?」
 西野青年が答える。「神は神でしかないんです。名前なんて必要無いんだ」
 イワノフが私に向かって言う。「ここにも名前のない神が居るんだね」
 私は頷く。「そうね。でも、この西野君の言っている神は、彼にとって都合の良い神みたいよ。だってそうじゃない。その為に人を傷つけようとしたんですもの」
「罰を与えただけだ」西野青年がそう言った。
 私が言う。「私は、よしんば私の龍がトリックであったとしても、西野君にそれを裁く権利など無いと思うの。彼の言っている神がそれを裁けばいいんだわ。神のために西野君が犯罪を冒すなんて馬鹿げてる」
「僕は、神のために死ぬことを覚悟しています。それを喜びだと思っています。神が望むように生き、神の望むように死にたいのです」
 私は首を振って言う。「アルン、あなたの部隊に入れてあげるといいわよ」
 アルンが答える。「我々の神を傷つけるような奴をか?ヨーコ、僕達は、神を守るために居るんだよ。そして聖龍もヨーコも僕達の神なんだ」彼の部下がそろって頷いた。
 私はアルンに尋ねる。「あなたは本当に私が神だって思う?エディは元々龍使いの家に生まれ育ったから、きっと聖龍として簡単に受け入れられたでしょう?でも、私を龍として受け入れるまでには、とても時間がかかったじゃない。どこの馬の骨とも判らない女で、もしかしたら李家の財産目当てにエディに近づいたんじゃないのかって、ずっと疑ってたわ。それなのに何時私を龍だって認めたの?」
「それは、ナーガラージャの船の上で君の龍を初めて見たときにだ」
「だったら、もしそのあなたの見たものが立体映像のトリックだったらどうなの?あなたは私に騙されたって言うことになるのよ。そうすると、私はあなた達ナーガラージャすべての敵。つまり、西野君がエディを傷つけたように、あなた達は私に罰を与える立場に立つのよね。多分、あなた達だったら傷つけるぐらいで赦しはしないわね。私はこの世の中から完全に抹殺され、あなた達の良心になんの呵責も残さない。神って恐ろしいわね」
 アルンが自信たっぷりに言った。
「ヨーコ、しかし君も聖龍もトリックなど使っていない。そんな簡単なことが判らないでこの仕事は勤まらないさ」
「そうね。あなた達の組織で調べて判らないことなんて何もなかったのよね」
 アルンがおだやかに微笑んで頷いた。
 私が続ける。「でも、この西野君には、トリックだとしか思えないのよ。今ここで西野君に見せてあげたとしても、きっと彼は信じないわ。それよりも、私はそんなに短絡的に神を利用したくないの。エディが言ったように、神はすべての人の中にいるのよ。人は神の意志で生きているの。だから人は何も間違えないのよ。西野君は神のためにエディを傷つけた。でも、エディも神なの。神の意志で生きているの。自らの神を目覚めさせるって言うことは、他の人の中の神をも感じるって言うことなの。すべてが神の意志がもたらせた結果なのよ。結果を考えてみて。取敢ず今の段階では、エディは傷ついていない。つまり彼は罰を受ける必要がなかったって言うことじゃないかしら。そして、西野君がこんなことをしなければ、西野君と私がこうして話すこともなかったと思わない?神は、それを望んでいたのかもしれないわよ。イワノフも、アルンもきっとこの話を聞くことで何か得るものがあったと思うの」
 私がそう言い終わったところでエディが着替えて戻ってきた。
「ヨーコ、これでいい?」
「エディ、完璧よ!さっきの洋服より素敵だわ。きっと神様がそれに着替えた方がハンサムに見えるって教えてくれたのよ」
「ヨーコ、僕は何を着てもハンサムだよ」
「おみそれしました。とにかくみんなの前に行かなくっちゃ。きっとみんな心配しているわ」
 アルンが言う。「ヨーコ、西野君はどうしようか?」
「後でもう少し話したいから、待っててもらって。ホテルの人にはエディから巧く言ってもらうから」
「判ってる。だから心配しないで良い」エディがそう言って笑った。