龍 16 再びバリ島
 バリ島に戻った私達は、洒落たコテージに案内された。
 荷物はアルンが手配してくれていたので、前に居たホテルから運び込まれていた。
「素敵ね」それが私の第一声だった。エディはとても満足そうに頷いていた。
 そのコテージは海のすぐ側にあって、周りを木に囲まれていた。その上プライベートプールも付いている。
 建物は少し高床式になっていて、十段ほどの階段を上って入る。窓は海に向かって開かれている。
 同じようなコテージが遠くに幾つかあったが、プライバシーは完全に守られていた。

 扉を開けて中に入ると、飛行機の中で私の言った花がもうすでに届いていた。
「きれい!」私が感嘆の声を上げる。
 部屋の至る所に花が飾られ、甘い香りが漂っていた。
 私はコテージの中を探索する。
 ベッドルームは二階に二つ有った。一つは大きめのシングルベッドが二つ置いてあり、バティックのベッドカバーが掛けられていた。開け放たれた窓から風が入り、小花模様のカーテンが揺れていた。そしてもう一つは三人で寝てもまだ余裕のあるサイズのベッドが置かれ、そこにも沢山の花が飾られていた。各ベッドルームにあるバスルームもとても大きくて、最新式のシャワーが付いている。そして一階がリビングになっている。小さなキッチンも付いていた。
「エディ!私達、もうずっとここで暮らしましょうよ」
「構わないよ」
「とっても気に入ったわ。私こんなお家に住むのが夢だったの」
「ヨーコ。こんなに小さくていいの?」
「とんでもないわ。これだけあればちっとも小さくなんてない。これでも広過ぎるくらいよ」私は本当に気に入っていた。
 エディはラタンで出来たソファーに腰掛けて微笑んでいた。アルンも同じ様に腰掛け、私達の会話を聞いていた。
「アルン、あなた達はどうするの?ここで一緒に泊まればいいのに。ツインのベッドルームが一つ空いているわ」
 アルンが首を振って答える。「いや、初めから一つのベッドルームって言うのはちょっと・・・」
「なるほど、少し時間を掛けようって言うのね。エディ、この位慎み深いのが普通なのよ」
 エディが笑って答える。「僕だって初めはちゃんと君の為にベッドルームを用意したじゃないか?」
「そう言えば、そうだったわね。でも、すぐに一つのベッドルームしかいらなくなるのよね」
 アルンが真っ赤になってうつ向いていた。私はそれを見て、笑いをこらえるのに苦労した。アルンは早々に引き上げようとする。そんなアルンに向かって私が言う。
「アルン、ミツコの迎えはあなた一人で行ってね。私達は明日の朝にでも会いに行くわ。それで一緒に食事をしましょう」
 エディが言う。「そうだ、明日のディナーの手配を頼むよ」アルンが頷いた。
 私が言う。「ちゃんとおしゃれして迎えに行ってね」
「判ってるよ」アルンは後ろ向きのまま、片手を上げてみせ、そう言って出て行った。
「ねえ、エディ。私達はこれからどうしましょうか?」
「どこかへ出かけるかい?」
「そうね。でもアルンが忙しいわ」
「構わないよ。僕達だけでも出かけられる」
「でもきっとアルンが心配すると思うな」
「それはそうだけど、でも大丈夫だよ。僕一人じゃ心細いかい?」
「そうじゃないわ。あなたと二人っきりってと手も素敵よ。だからわざわざ出かけ無くっても構わないわ」
「だったらここでゆっくりしよう」

 私達は二人だけの午後をコテージのプールサイドで過ごした。
「ねぇエディ。私達を追って来た敵ってどうしたのかしら?」
「半分位は帰っちゃったよ。後の半分は付いて来てる」
「イワノフは?」
「こっちに来ているよ。後、CIAの二人も」
「そう。今度みんなで一緒にパーティーをしましょうよ」
「ヨーコ。君って奴は本当に・・・」
「馬鹿なのかしら?」
「そうじゃないけど」
「だって彼らってみんな善い人達よ」
 エディが黙って頷いた。
「そうそう。加藤さんはどうしたのかしら?」
「加藤はバリへ帰ったよ」
「そう、残念ね。彼もとても善い人だったわね」
「ヨーコにとって悪い人なんて居ないよ」
「極論で言えばでしょう?」
「もちろんそうだけど」
「だって今までの私って、人の好き嫌いがとっても多かったのよ。多分みんな善い人だったんだろうけど、私が嫌いな人って沢山居たわ。でも、こうしてあなたと知り合ってからは、嫌いな人に一人も出会ってないの。そんなに長い時間じゃないけど、でもそれまでの何年分もの人と出会ったのに。不思議ね。私思うんだけど、それはいつもあなたに充たされているからじゃないかしら。それに誰もが私のことを大事にしてくれる。ありがたいわね。あなたの魔法のせいかしら?」
「そうじゃないよ。君の優しさが誰にでも伝わるからだ。誰でも優しくされれば嬉しいだろう?それで君にも優しい気持ちで接してくれるんだ。まず最初に優しさ在りきだね。でも、それも普通の人だと、とても危険な事なんだよ」
「優しさが危険なの?」
「そうだよ。中途半端な優しさって言うのは両刃の剣なんだ。まず相手を傷つけ、返す刀で自分をも傷つける。だから人に優しくするって言う事はとても難しいんだ。でも君の優しさは中途半端じゃない。命を賭けた優しさだ。だから、みんながそれに優しさで返してくれるのさ。君の優しさは愛の領域まで及んでいるんだ」
「優しさと愛って同じものかしら?」
「そうだね。でも厳しい愛もある。優しいだけが愛じゃない。獅子の親が谷に我が子を突き落とす様なね。でも、そう言うのって特別な事だから」
「そうね。でも私、人に優しくしたつもりなんて全くないのよ。私はいつもあなたの優しさに包まれているだけ。だって優しくするのってとっても疲れるもの」
 彼が笑った。
「確かに。優しくするのって疲れるね」
「あなたも、随分お疲れでしょう?」
 彼が大きく伸びをして言う。「あーっ、疲れた」
 私も笑う。

 私達は木漏れ日を浴びながら話していた。南の島の楽園で、なんの心配事もなく、ただ太陽の優しさを体一杯で感じていた。プールの水面に木漏れ日が映る。風に揺れる水面で光が遊び、まるでダイヤモンドのように輝く。私は寝ころがった彼の側に行き、後ろから彼の肩に手を触れる。
「ねえエディ。聖龍の書はこの後どのくらい残っているの?」
 彼がまぶしそうに目を細く開けて言う。「知りたいのかい?」
「ええ。だってあなた一人がその重い荷物を持っているだわ」
 彼がフッと頬を弛めて言う。「そうだね。後、もう少しだけだよ。二人で死を迎える章だけだ。もう君を助ける方法も、二人で生きて行く方法も載っていない」
「そう。それであなたはどうしたいの?」
 彼はそれに答えずに首を振った。
「聖龍はどうしたいの?」私がもう一度尋ねる。
 彼が目を閉じたまま答えた。「このまま君と居たい」
「じゃあ、エディはどうしたいの?」私がもう一度訪ねた。
「僕は君と生きていたいよ」
 彼は目を開けて私の顔を見た。私は彼に微笑む。彼も私に微笑んで返した。そして緩やかな午後の一時が過ぎて行った。

 その後、私達はおしゃれして街へ出かけた。車を呼んで、二人だけの外出だ。多分アルンの部下の人達が守ってくれているだろう。しかし私には二人っきりに思えた。
「エディ。パリの時みたいね。これから加藤さんと食事してオペラを見に行くみたいよ」
 彼が私の肩を抱く。「でも、あの時はもっと寒かった」
「ホントね。あれから一月しか経ってないのに、随分いろんな事があったわ。私は再婚するなんて考えてもいなかった」
「僕だってそうだよ。多分みんな僕は一生独身で居るって思ってたみたいだし。こんなに簡単に妻を手に入れられるなんて思ってもいなかった。そして結婚がこんなに素晴らしいものだって思ってなかったよ。もっといろいろ大変な事が沢山有って、面倒なものだって思ってた」
「普通はそうなのよ。結納があったり、両家の顔合わせがあったり、結婚って家同志の事だから。でも私達って本当に何もしなかったわね。ただお爺様が認めて、それで終わりだった。結婚式すらしていないのよ」
「君は花嫁衣装が着たかったのかな?」
「いいえ。この年になって二度目の花嫁衣装なんて恥ずかしいわ」
「そんな事ないだろう?きっときれいな花嫁だったと思うな」
「あなたも綺麗に着飾って花婿になるのよ」
「僕は構わないよ。だって男はいつもの正装と変わらないからね。でも君にはちゃんと着せてあげれば良かったって思うよ」
「随分ドレスも買ってもらったわ。どれもとっても素敵で、花嫁衣装のようなものよ。でも私達っていったい何時結婚したのかだけは決めておきたいわね。私、香港からの船の上でアルンに尋ねられた時に困っちゃったわ」
「そうだね。君はあの時、何時だって思ったの?」
「ロアールからパリに戻ったあの日。チャイニーズレストランであなたがとてもおいしいお酒を注いでくれて『これが僕達の結婚式かも知れない』って言った時なのかなって思ったわ」
「あの時君はとても困った顔をしていたね」
「だって本当に困っていたんですもの」
「じゃあ、あの日にしよう。三十年物の老酒を飲んだあの日だ。十一月二十七日が僕達の結婚記念日。それでいいかな?」
「OKよ」そんな話をしている間に車は街のレストランに着いた。

「あら?チャイニーズレストランだったのね」私が驚く。
「そうだよ。僕達の結婚からちょうど一ヶ月だからね」
「すごいわ。どうして?」
「簡単な事さ。偶然なんだ」
 私は両手を上げて肩をすくめた。
「いいじゃないか。偶然にまで僕達の結婚が祝福されているんだ。さあ行こう」
 私達はボーイに案内されて個室の席に着く。そこはバリ島らしくなく、ちゃんとしたチャイナ風のとても高級なレストランだった。
 エディは挨拶にやって来た支配人と中国の言葉で話す。彼は私に向かって丁寧にお辞儀をし「おめでとうございます」と変な抑揚のある日本語で言った。
「ありがとう」と私は答えた。
 彼が立ち去ってからエディに尋ねる。「なんて言ったの?」
「結婚記念日だって言ったんだよ」
「一ヶ月でもそう言うのかしら?」
「構わないじゃないか。おめでたいことは沢山ある方がいい」そう言ってウインクしてみせた。
 さっきの支配人がとても古いビンに入ったお酒を持って来た。パリで飲んだとの良く似たビンだった。それを二人のグラスに注ぎ分けると、彼はそれをテーブルに置いた。エディが彼に何か言う。彼は微笑んで頷いた。エディが空いているグラスにそのお酒を注ぎ、彼に渡す。私達は三人で乾杯をした。「カンペイ」そう言って一気に飲み干した。そして支配人は何か言って出て行った。
 キョトンとしている私にエディが言う。「中国式の乾杯さ。せっかくだから彼にも祝ってもらったんだ」
「それは良かったわ。あなたって本当に何でも良く気が付くのね。とても偉い人には見えないわ」
「それって、誉めてもらったんだろうか?それとも・・・」
「もちろん誉めたのよ。だって私は聖龍様なんて呼ばれて皆にありがたがられているあなたより、誰にも好かれるエディの方が絶対素敵だと思うもの」
「それはどうもありがとう。確かに聖龍なんて呼ばれると肩がこっちゃうんだ」
「やっぱり!」私達は顔を見合わせて笑った。
 次々に運ばれてくる料理を二人で食べる。彼はどんどんお酒を飲む。私は途中で酔いが回ったので、少し軽いお酒に変えてもらった。桂花陳酒。キンモクセイの香りの甘いお酒だ。楊貴妃も飲んでいたと言う美容に良いお酒。
 食事が終わった時、私の足元は随分ふらふらしていた。エディに寄り掛かるように店を出て車に乗る。
「ヨーコ。君がそんに酔ったのって初めて見たよ」
「きっと、緊張が解けたせいよ」
「今までそんなに緊張していたの?」
「あら?気付かなかった?」
「ちっとも」そう言って彼は私の手をしっかりと握った。
「いつもこの位酔っ払っても大丈夫だからね。もう緊張も、心配もしなくていい」
 私は彼の声を聞きながら目を閉じた。確かに地球は回っている。とても深い空に向かって落ちて行くような感じがした。そんな私をエディの手がしっかりとつなぎ止めている。思考力が鈍った私の頭に、生まれる前にあの光の中でインプットした約束事の封印が蘇ろうとする。それは手で触れられそうな近さ迄やって来て、そこにある。今それに触れて封印を解けば、元の生活に戻れるのが理解できた。龍などとは無縁の生活。その中でまた恋を出来たかも知れない。もちろん龍使いなどではない男性とだ。私が一月前まで求めていた幸せに近づくための生活だ。しかしその時すでに龍とエディの愛を受け入れてしまっていた私は、それを目の前にして触れずにいた。ただ触れるべきではない、そう思っていた。私が触れるべきなのはエディの暖かさだけで良かった。もう戻る必要はなかった。



 次の朝とても気分良く目覚めた。
「エディ!おはよう!」私はそう叫びながらリビングに下りる。
 エディは運動を止めて、言う。「おはよう。今日はとても元気そうだね。二日酔いは?」
「平気よ。完璧。あなたと結婚してから、私ってとってもお酒が強くなったみたい」そう言いながら階段を半分下りそこに座る。
「僕が毎日のむからね」
「あなた一人がおいしい思いをするなんて悔しいもの」
 彼が声を立てて笑う。「ヨーコ。君って奴は本当に・・・」
 私も首を傾げて笑う。
 運動を続けようとするエディに向かって言う。「ミッチャンに会いに行かなっくちゃ」
 彼は大きく跳躍をし、音もなく着地をして言う。「早く着替えておいで」
「そうするわ」そう言って立ち上がり振り向いて階段を上がり、簡単にシャワーを浴びた。私がシャワーを終えた頃、エディも運動を終えてシャワーを浴びる。その間に私は簡単に化粧をした。
 私はバティックで出来たゆったりしたドレスを着た。鏡に写った自分の姿は、ほとんどバリ島の人と変わらなかった。白いTシャツにジーンズんのエディが日焼けした顔で笑う。
「きっと、誰も僕達だって気付かないよ」
「そうかしら?だったらとっても素敵ね」
「変身願望があったのかな?」
「判らないわ。でも、このまま日本に帰ったらかえって目立っちゃうかも知れないわね」
「構わないさ。さあ!行こう!」

 私達は森の中をアルンのコテージに向かって歩く。
「ねえ。彼女達もう起きてるかしら?」
「さあ?」
「電話してからの方が良くないかしら?」
「大丈夫さ。さっき向こうのコテージの方へ朝食を運ぶように言っておいたから、寝てたとしてもそれで起きてる」

 私達がアルンのコテージに着くと、二人は庭に置かれたテーブルについてコーヒーを飲んでいた。
 ミツコは白いコットンレースで出来たドレスを着ていた。そしてとても優雅に立ち上がって素敵な笑顔を見せて言う。
「ヨーコさん。とても元気そうだわ。それにエディも。二人ともまるでバリの人みたい。私だけ白くってみっともないわ」
 エディが言う。「本当に良く来てくれたね。ありがとう」
 彼女は首を振った。
 私が言う。「大丈夫よ。ミッチャンもすぐに真っ黒になっちゃうわ」
 アルンが言う。「ヨーコ。綺麗なお花をありがとう。さあ、食事の用意が出来ているよ。こっちに座って」
 そう言われて私達もテーブルに着く。
 エディがアルンに尋ねた。「朝食の用意は、早過ぎなかったかい?」
「少しだけな」アルンはそう答えて笑ってみせた。
 私達はゆったりと食事を楽しむ。
 ミツコが言う。「私、この島って初めてなの。でも思っていたより過ごしやすいのね。もっと暑いのかと思ってたわ」
「昼間はとっても暑いのよ。でも木陰に入っちゃうと平気。すぐに慣れちゃうわ。ところでミッチャンはいつまで居られるの?」
「一月四日、朝の飛行機で帰ります。それまでにヨーコさんくらい良い色に成れるかしら?」
「後一週間ね。大丈夫よ。でもあんまり急に焼かない方がいいわよ。ミッチャンの肌ってとても弱そうだもの。白くって透き通ってて。一日は木陰で慣らして、次の日から少しずつ様子を見ながら焼いた方がいいわね。」
 彼女が頷く。
「夕べはよく眠れた?」私が尋ねる。
「ええ。とっても」
「それは良かったわ」
 私はアルンに向かって尋ねる。「今日はどう言う予定になっているの?」
 アルンがコーヒーカップを置いて答える。「ミツコがこの島は初めてだって言うから、車で観光コースを回って見ようかと思ってる」
「それはいいわ。ミッチャンこの島ってとても素敵よ。神秘的で美しくって、人々がみんな穏やかに生きているの。日本では考えられないような楽園よ」
 ミツコが頷いてみせる。 
 エディがアルンに言う。「僕達の事なんか気にせずにゆっくりと休暇を楽しむといい。僕達だってたまには隊長から解放されたいからね」そう言ってウインクしてみせる。
 アルンも素直に頷いて言う。「そうさせてもらうよ。僕なんて居なくてもここなら大丈夫だ。運転手が要る時には代わりの者をやるから言ってくれ」
「私だってたまにはエディと二人でドライブしたいわ」
 私がそう言うとアルンが笑いながら言う。「ヨーコ、気を付けないとかわいい女の子の後ばかり走る事になるよ」
「あら。じゃあ私が車の前を歩いて行かなきゃいけないのかしら?」
 アルンは少し考えて言う。「ヨーコ、僕はかわいい女の子って言ったんだよ」
「ええ、とっても良く聞こえたわ。だから私が車の前を歩けばいいんでしょ?」
 アルンは両手を上げて首をすくめた。エディが笑いをこらえている。ミツコがクスッと笑ったのを合図にみんなで笑った。
 エディが言う。「取り敢えず今夜はみんなで食事をしよう。それまでに戻ってくれ」
 アルンが言う。「こっちへ移る前に居たホテルでガーデンパーティを用意してる。レゴンダンスを見ながら食事が出来る」
「まあ、素敵。そうだエディ、みんなも呼びましょうよ」私がそう言うとエディが笑って答える。
「大丈夫。アルン隊長がちゃんと手配してくれているよ」
 私はアルンに向かって言う。「ありがとう。とても楽しみだわ」
 アルンが首を横に振る。「ヨーコはいつも驚くような注文をするね。でもみんなももっと驚いていたよ。そして喜んでもいた。楽しみにしているって言ってた」
 私は頷いてエディに言う。「私何を着ようかしら?そうだミッチャンもアルンにドレスを買ってもらうといいわ。この島ってとっても素敵な素材が沢山あるのよ。デザイナーにとったら宝の山みたいなものかも知れないわ」
 ミツコが少しはにかんで言う。「夕べとても素敵なのをいただいたの」
 エディが口笛を吹く。
「アルンは本当に良く気がつくわね。なのにどうして今までもてなかったのかしら?」
 アルンが言う。「ヨーコ、さっきの仕返しかい?」
 私はさっきのアルンを真似て両手を上げ肩をすくめてみせた。
 エディが言う。「ミツコ、この二人はいつもこうなんだよ」
 ミツコが答える。「まるで兄弟みたいね」
 私がアルンに向かって言う。「兄さん!」
 アルンが答える。「違うよ。ヨーコが姉さんだ」
 ミツコが頷いた。
「ミッチャンひどいわ。私そんな年じゃないわよ!」
 ミツコとエディが顔を見合わせて笑う。
 バリの魔法のせいか二人の間のわだかまりが解けていくようだった。私はアルンの顔を見る。アルンもとてもリラックスした表情で二人を見ていた。私は勝浦の船の上で芽生えた二人の幼い愛が着実に育っているのを感じていた。

 食事を終えて二人が車で出かけるのを見送った。そして自分達のコテージまで戻る。林の中はとても良い香りがして、私は何度も深呼吸をした。
「土の香りと木の香り、それに花の香りが混ざってとてもいい香りだわ」
「本当だね。今まで忘れていた香りだ。ヨーコ、ここに来てよかったかい?」
「ええ、とってもよかったわ。連れてきてくれて本当にありがとう。やっぱり辛い事の後には楽しい事が待っているものね」
「もうこれで終わりだよ。ずっと楽しいままさ」
「あなたって本当に楽天家ね」
「はい。君みたいにいろんな事を心配したって仕方ないからね」
「それもそうね。でも私今夜どのドレスにしようかしら?悩んじゃうわ」
「全く君は、心配したり悩んだりするのが好きだね」
「だって久しぶりのパーティーよ。イワノフだって来るんでしょう?」
「判ったよ。君の悩みを解決してあげる。さあ、ドレスを買いに行こう!」

 私達はホテルのショッピングセンターでドレスを選んだ。そしてとても綺麗なブルーの布で作られた民族衣装を買った。
「ヨーコ、またブルーにしたんだね。僕はまたそのドレスと腕比べをしなくちゃいけないのかな?」
「そうじゃないわ。このブルーはここの海の色よ。この魔法の島に敬意を表してブルーにしたの」
「僕はそのドレスに真っ赤な石を合わせたいな。燃える太陽のような深紅の石」
「あら、宝石屋さんのプロ意識が蘇って来たのかしら?」
「はい。僕の大好きだった仕事だからね。だって女性は宝石を選んでいる時、一番嬉しそうな顔をするんだよ。それを見ていると、僕がその女性を幸せにしているような気がした」
「あなたにピッタリの仕事だったのね」
「僕に仕事をさせてくれるかい?」
「そうね。大きなガーネットのブローチがあってもいいわね」
「ルビーじゃダメかい?」
「じゃあ、宝石屋さんへ行って合わせてみましょう。私は多分ガーネットの赤の方がいいと思うわよ」
「OK 行ってみよう」

 私達は買ったばかりのドレスを持って宝石店へ行った。
 彼はとても大きなルビーのブローチを幾つか選び出す。私はガーネットの物を選んだ。そして広げたドレスのそれを乗せる。エディがウーンと唸ってから私の顔を見て言う。
「ヨーコ、君の言ったとおりだ。確かにガーネットの方がいい」
「ネッ」私はそう言って笑った。
「高い物の方がいいとは限らないのよ。この島で、そしてここの布で作ったドレスには、このガーネットの輝きの方がよく似合うのよ。お互いが認め合って、助け合うの。それで一つのイメージが完成するのよ」
「素晴らしい!」
「少しは見直した?」
「もちろん。やっぱり僕のヨーコは素晴らしい。香港の店のコーディネートを任せられそうだ」
「それはどうもありがとう。ちゃんと仕事も出来そうでしょう?」
「きっと僕達のお店は流行るよ」
「お爺様も喜んでくれるかしら?」
「もちろんだよ。何時か二人で店をやろうね」
 エディは私の選んだブローチを包んでもらって、ドレスと一緒にコテージへ届けてもらうようにした。

 私達は車で山の方へ向かう。
「ヨーコ、君が前に来た時に行ってない所へ行こう」
「あまり遠いと大変よ」
「大丈夫さ。そんなに遠くない」彼はそう言って車を走らせる。
 パリからロアールへ向かった時のように二人だけのドライブだ。私は窓の外を流れる風景を見ていた。
 初めは田んぼの中の道を走っていたが、それはすぐに林道へと変わった。くねくねと曲がりくねった坂道をしばらく走ると、空気の色が変わり、窓を開ければクーラーを止めても暑さを感じないようになっていた。
 彼は洒落た建物の前で車を止める。車を降りて私の方へ回り、ドアを開けてくれた。
「着いたよ」そう言って私に手を差し伸べる。私はその手を取って車を降りた。
 ひんやりとした山の空気が私を包んだ。
「素敵!バリじゃないみたい。まるで軽井沢ね」
「そう。避暑の為の別荘だよ」
「ここもナーガラージャの?」
「はい。ここに移って来てもいいんだよ」
「でも、ミツコにはやっぱり今のコテージの方がいいわね。だって彼女ここは初めてだって言ってたでしょう。なるべくバリ島らしい方がいいわね」
「そうだね。じゃあ彼女が帰ってからこっちへ移ろう。彼女が帰ってからも一ヶ月はこっちに居るんだし」
「そうね。そうしましょう」

 白い制服に身を包んだベルボーイが、扉を開けとても素敵な笑顔で私達を迎えてくれた。
「スラマット シアン」エディが言う。私も微笑みかける。
 中に入ると屋根まで吹き抜けのロビーで、壁には博物館に有った様な、部屋の敷物ぐらい大きなバリ絵画が飾られて居た。やはりそこにも龍が描かれている。
 ラタンで出来たソファーに腰掛け、紅茶を頼む。窓は大きく開け放たれていて、絵に描いたような風景が拡がっていた。
「素敵なところね。何だかビックリ箱のみたいに素敵なことが一杯あるわ」
 彼は煙草に火を付けて言う。「だから言ったろう?このままずっと良いことが続くんだって」
 私はそれに頷いた。
 入口で迎えてくれたボーイと同じ制服の青年が、ポットに入れた紅茶を運んで来た。とても感じよく笑うと二つのカップに注ぎ分けてくれる。
「ティリマカシー」エディが言って彼に微笑みかける。制服の彼はとても嬉しそうに微笑んで離れて行った。
「何だか美青年ばかり集めたみたいね。みんな若くってとっても綺麗な顔をしているわ」
「僕の趣味なんだ」
「まさか?」
「大丈夫だよ。僕はノーマルだ。君が一番良く知っているじゃないか。この島で美しくない青年を探す方が大変なんだよ。みんなとてもいい顔をしている」
「そう言えばそうね。みんなとってもかわいい顔で笑うの」
「楽園だからね」
「楽園ね」
 私はそうつぶやいて紅茶を飲んだ。それは本当に楽園の味がした。私はそう思って一人でほくそえんだ。エディは首を傾げながら微笑んでいた。
 とても良質な時間が流れている。こんな時間もあるんだ。日本に居てはきっと一生味わえない楽園の味のする紅茶を飲みながら、そう思っていた。
 紅茶を一杯飲み終わる頃、空が真っ暗になり、突然大きな音を立てて大粒の雨が落ちてきた。
「スコールだね」彼が言った。
 私はソファーを立ち、窓辺へ歩く。
 雨は定規で計ったように本当に真っ直ぐに落ちてくる。そのせいで大きく開け放たれた窓に降り込んでは来なかった。ただひんやりとした空気が雨粒に押し出されるような感じで窓の中に入ってくる。
「エディ。このまま帰れなくなっちゃうじゃないかしら?」雨音に負けないように大きな声で言った。
 彼が振り向いて言う。「そうなればいいね」
「やだ。せっかくのドレスが役に立たなくなっちゃうわ」
 彼が笑いながら立ち上がり私の方に歩いて来る。「スコールはいつもすぐに上がっちゃうんだよ。心配しなくていい」
「でも道が川みたいに成ってるわよ」
「心配性だな。道が通れなくなったらヘリを呼べばいいじゃないか。ヨーコが行きたい所に行けない事なんて無いんだよ。どんな方法でも、僕が連れて行ってあげる」
「優しいのね」
「知らなかったの?」
「ええ。あなたが優しいんじゃなくてお金の力かと思っていたわ」
「ひどいね。僕にお金が無ければ君を背負ってでも君の行きたい所へ連れて行ってあげるよ。ただお金が使えるからヘリを呼べるだけさ。君が良ければ背負って帰ってあげようか?」
「遠慮しとくわ。余計に疲れそうですもの」私はそう言って、彼の腕に手を回した。そして彼の肩に頭を乗せる。
「幸せってこんな気持ちのことを言うのかしら?」
「多分ね」彼が答えた。
「お金持ちでも幸せに成れるものなのね」
 彼が私の肩に手を回して言う。「良かった。本当はとても心配だったんだよ」
「何が?」
「だって君はとても普通の幸せを求めていた。その普通の幸せを君にあげることが出来るかどうか、とても不安だったんだ。君はパリから香港へ向かった時にも、香港から日本へ向かう船の上でも、ずっと君の思う幸せについて僕やアルンに言っていただろう。君には君の幸せがあって、僕の思う幸せとは形が違うように思えたんだ。僕がお金持ちだった事に君が不安を覚えたように、僕もこんな事に君を巻き込んでしまって、君にもう普通の幸せをあげることが出来ないんじゃないかってね」
「そうね。でもあの時あなたが言ったように慣れちゃったわ。それにお金なんて無くっても幸せに成れるって言う事は、お金があっても幸せに成れるって言う事だったのよ。つまり幸せとお金は関係ないのね。私にとって幸せって、あなただったのよ。日本に向かう船の上であなたが愛とは私の事だって言った意味が今とても良く判るわ。あなたと出会って随分沢山の種類の幸せを貰った。そしてそのどれもが確かに幸せだったわ。だってそれにはいつもあなたの愛が裏付けとして有ったから。ありがたいことだわ。でもあなたは私と結婚して幸せに成れたのかしら?」
「ヨーコ。僕の幸せは君が幸せでいてくれることだけだよ。君が幸せでいてくれたら、そしてその幸せな顔で僕に微笑んでくれたら僕はなんだって出来るさ。スコールの中、君を背負って山道を歩くぐらい何でもない。君の望みを叶えることが僕の幸せだ。君の望みを叶えられない事が有ったりしたら、僕はとても落ち込んでしまうだろな。不幸のどん底かも知れない」
「まぁ、オーバーね。でもとっても残念な事に、あなたに叶えられない望みなんて考え付かないわ。でも・・そうね。ただ一つお願いがあるの」
「ヨーコ。それは言わないで良い。大丈夫だ。きっとその望みは僕が叶えてあげる。だから今は言わないで」
 私は彼の胸に顔を埋めた。彼がしっかりと抱きしめてくれた。スコールはいつの間にか小降りになり、空が明るくなっていた。

 私達はスコールに洗われた綺麗な森の中を少し散歩して、道が川から元の道に戻るのを待った。そしてちゃんと川でない道を、車でコテージまで戻った。

 私は届けられていたドレスに着替えて、ガーネットのブローチを肩口に止める。それは本当にバリに沈む夕日のように見えた。
「ヨーコ。とっても素敵だよ」そう言ってバリの民族衣装で正装したエディが微笑みかけた。私達は呼んであった車に乗ってホテルへ向かった。

 ホテルのロビーでアルンとミツコに会った。ミツコはとても鮮やかなローズピンクの絹で作られたドレスを纏っていた。上半身は小さく作られていてスカートの部分がとてもたっぷりとした分量のドレスが、彼女の若さと白い肌を引き立てていた。隣のアルンはインドの民族衣装だ。
「アルン、あなたってインド人だったのね。私すっかり忘れていたわ」
 アルンが照れ笑いを浮かべて言う。「この服を着るのはとても久しぶりなんだ。実を言うと僕もこれを着てやっと自分がインド人だったことに気付いたぐらいだよ」
「お母様が聞いたらがっかりするわよ」
 アルンは肩をすくめて唇の前に人差し指を立ててみせた。私は笑って頷く。
 エディが言う。「さあ、行こうか」

 私達は広いロビーを横切ってプールサイドに出る。幾つかのテーブルがセットされていて、いろんな料理が用意されていた。CIAの二人とイワノフが、ちゃんと正装して仲良く食事をしていた。私は彼らに向かって手を振り合図をした。そして後ろにいたアルン達に笑いかけてエディと二人だけで彼のそばへ行った。
「良く来てくれましたね」エディがそう言って手を差し伸べると、彼らも立ち上がってその手を取って言う。
「お招きいただいて、有り難うございます」
 私はボーイの引いてくれた椅子に腰掛けて言う。「みんな食事を続けて」
 彼らも席に着く。
「僕はちょっと用があるからヨーコはここにいてくれるかな?」エディが言う。
「ええ、構わないわ。でも彼らに連れ去られても知らないわよ」
 私がそう言うと、CIAの男が言った。「本当です。こんな素晴らしい女性を置き去りにするなんて危ない危ない」そして笑ってみせた。
「イワノフさん、ヨーコのこと頼みます」エディはそう言って、笑いながらテーブルを離れた。

 私が言う。「ねぇイワノフ、あなたが一番信頼されてるみたいよ」
「彼はロシア人の情熱の強さを知らないんだ。僕が一番君を連れ去りたいんだって言う事をね」そう言って笑った。
 エディは皿に幾つかの料理を取り、シャンパンの入ったグラスと一緒にそれを持って来て私の前に置くと、微笑んで行ってしまった。

 私はイワノフ達と一緒に食べながら話す。「ねぇ、この島はどう?」
 CIAの一人が答える。「とっても素敵だ。君を連れ去る仕事もしなくていいし、ただバカンスを楽しんでいるだけだ。最高の気分だね。ガールフレンドも連れて来れば良かった」
 私は頷いて言う。「本当ね。ところであなたのお名前を教えて貰えるかしら?」
 三井寺でアルンに殴られた方の男が答える。「失礼しました。私はスミス、ジョージ・スミスです。そして彼がカズミ・モーリス」
「ジョージとカズミね。どちらも日本人の名前みたいだわ」
 ジョージが答える。「そう。カズミはお母さんが日本人だ。でも、私は全くのアメリカン」
 私はカズミに尋ねる。「あなたはアメリカで生まれたの?」
 カズミは少し照れ屋のようだ。私から目を少しだけ外して答える。
「ハワイで生まれたんです。その後ハイスクールからカリフォルニアへ渡って今の仕事に就きました。母はまだハワイに居ます」
 彼は父親のことは語らなかった。しかしほとんど父親ににたのだろう。髪も目も黒と言うよりブラウンと言った方がいいぐらいの色だった。それに体付きもガッシリしていて、とても日本人の血を引いている感じがしない。しかし話しているととてもシャイな所があって、何となく日本人らしい感じがした。
 私は言う。「ロシアとアメリカの諜報員がこんなに仲良く食事をしている風景なんて、滅多に見られるものじゃないでしょうね」
 イワノフがそれに答える。「その上狙っている者もここに居る。大体狙われている者が狙っている者を食事に招くなんて聞いたこともない。その上君の夫は君一人を置いて行ってしまった。敵である僕に君のことを頼んでね」そう言って笑顔で肩をすくめてみせた。
 私は言う。「深く考えない方がいいわよ。きっと頭が痛くなっちゃうから」
 ジョージが言う。「ヨーコの言うとおりだ。考えたって仕方ないさ。ここには戦争なんて無いからね。だってここは神々の島だ。それに僕達の獲物は神。人は神にはかなわないものだ。神の思うままに生きるのが幸せなんだ」とてもアメリカンな考え方だった。
 私はカズミの目をのぞき込んで尋ねる。「あなたはブッディストじゃないの?」
 彼は頷いて答える。「そうだ。でも僕は神も仏も信じない。だから君が神であるなんて信じていないさ。ただジョージが言ったようにここには戦争なんてない。だからここにこうしているんだ。それに君は神なんかじゃないけど、確かに僕達に安らぎを与えてくれる。とても不思議な人だ」そう言って首を振った。
 イワノフがカズミに言う。「神とか仏とかに対するイメージがカズミは強過ぎるんじゃないかな?例えば人の為に何かをしてくれるのが神だとか、悪いことをした者を裁くのが神だとか、魂の救済者だとか、そう言う類の諸々のイメージ」
 カズミが答える。「そうかも知れない。神は人を作り、仏は人を救う。そんなふうに思っているよ。だから神も仏も信じない。人の作り主である神が僕に何をしてくれたって言うんだ。母はいつも仏を拝んでいるけれど、仏は彼女を救いはしなかった」
 とても辛い人生を生きてきているようだ。私はイワノフを見ていた。彼の心の傷を思い出したからだ。誰もが苦しみながら生きている。
 私は手を延ばしカズミの手を取って言う。「神も仏もいなくったって構わないのよ。あなたがしっかり生きてさえいればね。仏があなたのお母様を救わなかった分、あなたがお母様に優しくしてあげて。神があなたに何もしなかった分、あなたがあなたを誉めてあげて。それでいいのよ。神も仏も本当はあなた自身の事なんだから。だからジョージやイワノフが私のことを神だって言ったって私は否定しないわ。でもそれは、あなたの思っている人に都合のいい神じゃないと思う。人は神や仏に自分の出来ない事をさせようとしているのよ。とっても都合のいいスーパーマンを求めているの。でも本当は誰もがスーパーマンなのよ。私の持っている力は全て人の力でしかない。そう、ジョージ。神は自分に似せて人を作ったんだったわよね」
 ジョージが頷く。
 私が続ける。「だから神が人であり、人が神なの。そして誰もが神であるのよ。巧く説明できないけど、そう言うものなの。だからこの神々の島に戦争が無いって言う事は、人々の間でも、本当は戦いなんて必要ないものなのよ。でもこの世の中に戦いは尽きない。もしかしたらそれって神である人が戦いの中に何かを見つけようと努力しているのかも知れないわね。神が何かを学ぼうとしているのかも知れない。でも、もう戦いなんてまっぴら。こうしてロシアとアメリカが仲良くして、アルンの国インドも、エディの国中国も、この島インドネシアも、私とカズミのお母さんの国日本も、みんな仲良くしていればいいと思うわ。だってカズミみたいに髪や目の色はアメリカ人でも、心には日本って言う国が根付いているもの。でもカズミはれっきとしたアメリカ人だわ。さっきアルン隊長が言ってたけど、久しぶりにインドの衣装を纏ってやっと自分がインド人だったって言う事に気付いたんだって。そんなものなのよ。国も神もすべて人なの。人の中に神が居て、その人が集まって国がある。基本は人なの。今カズミに私の特殊な力を見せてあげることは簡単なことだわ。そうすればきっとあなたは神を信じるようになる。でも今私はそうしない方がいいと思うの。私の力は本来誰もが持っている力なんだもの。けれども私の特殊化してしまった力を今見たら、きっとカズミはそれを特別なものなんだって思ってしまうわ。とっても危険なことよ。ねぇイワノフ、そう思わない?」
 イワノフがゆっくりと頷く。そして言った。「ヨーコ、君の言う事は正しいよ。カズミだって、あの紀州へ向かう車の中で君のエネルギーに触れたんだ。そして戦いが嫌になった。アメリカのCIAの中でも超エリートだったカズミがだ。それこそヨーコの起こした奇跡だよ。そして私もこうして寒い本国に戻らないで君についてこの島に居る。どんな力でねじ伏せようとしたって出来ないことでも、自分が望めば簡単に出来てしまう。自分の力が一番強い。そう思わないか?カズミ」
 カズミが頷いた。「確かに僕は自分で望んでここに居る。今ここでヨーコを拉致して国に引き渡すことも出来るのに、そうする気にもなれないんだ。僕が血のにじむような努力をして手に入れたこの地位が、今の僕にとって全く価値を持っていない。誰が悲しもうとどんなことが起ころうと、僕は国の命令を守るべきなのに。神も仏も信じない僕にヨーコは何を示そうとしているんだい?それにはいったいどんな意味があるんだい?」
 私は首を振る。「解らないのよ。本当に解らないの。ただ私にはとても特殊化した龍が居て、その龍に導かれてここにいるの。その龍の力と言うのは、人の持っている力を最大限に増幅し、思いのままに操れる力のこと。そして夫は龍使いで、私を愛している。そんな特殊な状況に突然入った時、あなたは何を考えられるかしら?」
 カズミが首を振る。「そうだね。そんなこと考えてみたこともないよ。それって朝起きたら、自分が大統領になっていて、その上マリリンモンローが妻で、ジョギングをしようと思ったらジェット機よりも早く走れてしまったようなものかも知れないね」
 ジョージが口笛を吹いて手を叩いた。「素晴らしい、その例えはとってもいい」
 私も手を叩いて笑った。「本当よね。私ってそんなすごい目にあっちゃったんだ」
 とてもシャイなカズミも段々打ち解けてきていた。そして私達は他愛のない話をして楽しい時を過ごしていた。
 小一時間程たった時、イワノフが私に言う。「ヨーコ君の愛する人が戻ってきたよ」
 私はイワノフの目線を追う。そこには植木の影になって見えない誰かと話しているエディが居た。誰と話しているのだろう。そう思ってエディの心に意識を向けた。その途端私は驚いて席を立つ。そしてイワノフ達に、「ゆっくりしていってね」と言い置いてエディの元に走った。
 
 途中でアルン達のテーブルのそばを通った時にアルンが言う。「ヨーコ、こんなところで走っちゃ危ないよ」
 私は叫ぶように言う。「お爺様よ!」
 アルンが頷いていた。私はそのままエディの元へ走った。

 走って来る私に気付いたエディが笑っていた。そして私を受け止めると大龍の方へ押し出す。大龍も大きく手を広げて私を受け止めてくれた。私は大龍に抱きしめられ、子供のように泣いていた。
「お爺様。会いたかった」エディが訳してくれる。 
 大龍も、「元気そうで良かった」と言ってくれた。
 それまでの緊張の糸が切れたように私は大龍の腕の中で泣いていた。そして言葉が解らないのも忘れて、比叡山でお父様の龍の石を見つけて悲しかったことや、熊野でとっても怖かったこと、この島に来てとても楽しかったことなどを一気にしゃべる。大龍はそんな私の頭を撫でながら頷いていた。ひとしきり泣いてからエディが私の言ったことを訳してくれた。大龍はそれを聞いてもう一度抱きしめてくれた。そして涙に濡れた私の頬をそっと撫でて言う。私はエディの方を向いて訳してくれるのを待った。
 エディが笑って言う。「本当だ。ヨーコ、涙でお化粧が崩れてすごい顔になってるよ」
 私は手で顔を覆う。
「お化粧直しくるわ」エディが頷く。
「僕達はアルンのテーブルに居るよ」
 私は頷いて化粧室へ向かった。

 化粧を直しプールサイドに戻ると、アルン達のテーブルとは少し離れた所にエディと大龍が居て、何か険しい表情で大龍が言っていた。
 私はアルンに尋ねる。「どうしたの?お爺様、怒ってるみたいだけど、なんて言ってるの?」
「上海語なんだ。僕には解らない。でも大龍がエディを叱ってるみたいだ」
 私は心配になってエディの心を覗いた。なぜ大龍が怒っているのかはすぐに解った。私は心を静めて大龍の元へ行く。
 エディに言う。「ここじゃまずいわ。人に聞かれない所へ行きましょう」
 エディがそれを大龍に告げて、三人で歩き始めた。

 私達は人気のないロビーに腰を下ろして話し始める。
「お爺様。ごめんなさい。私がミツコを招待したの。解っているわ。彼女がどんな役割を持っているのかって言う事は。でも、それも必要なことなんです。私達はもう子供を育てることが出来ないでしょう。でも、次の龍を育てることは出来る。そしてそれは私達にしか出来ないことなんです。親は子を育てるのに、どんな苦労も犠牲も厭わないじゃないですか。幼い龍を育てるために私達が犠牲になったって何を悲しむことがあるでしょう?」 
 エディは私の一言一言を訳していく。私は大龍の目をじっと見つめながら話す。
「龍は私の龍で最後じゃないんです。雄大な龍の時間の中の一瞬でしかない私の龍が、次の龍に何かを残すのです。エディが前世で私を殺すことを学んだように、彼女の龍も学ぶべきことがあるのです。私達だって、ずっと昔の龍を踏み台にしてここまで来たのです。今度は私達が踏み台になる。ただそれだけのこと。だから怒らないで、そして悲しまないで。すべて私の龍が決めたことなのですから」
 大龍は最後まで聞いて力無く頷いた。そして何か言った。
 エディが訳してくれる。「解っているのならいいんだ。もう私には何も言う事はない。ヨーコは本当に立派に龍を育てた。喜びも悲しみも龍の時の中ではほんの一瞬でしかないのか」
 私は頷いて大龍の手を握りしめる。そして彼の目の前で微笑んでみせる。大龍の顔に笑顔が戻るまで私は微笑み続けた。そして大龍も微笑んだ。大切な孫を失う悲しみを受け入れたのだ。
 私は立ち上がって大龍の手を引く。
「ほら、お爺様。美味しいものを沢山食べましょうよ」
 エディももう片方の手を引いて大龍を起こす。私達は何事もなかったように三人並んでプールサイドに戻った。

 エディと大龍はお皿一杯の料理を取る。私はあっさりしていそうな物を選ってお皿に取る。そして私が先にアルン達のテーブルに付いた。
「何だか良く解らないけど、親子喧嘩みたいなものだったみたい。でももう仲直りしたみたいよ」心配そうな顔をしていたアルンにそう説明した。
「それは良かった」アルンがなんの疑いもなくそう言った。
 私はミツコの方を向いて言う。「ミッチャン、ここのお料理は口に合って?」
「ええ、大丈夫です。もう随分いただきました」
「良かったわ。結構独特の臭いがあるものね。一つダメだとみんなたべられなくなっちゃうのよ」私はそう言って取って来た料理に手を付ける。
 エディと大龍が、お皿一杯の料理を持ってやってきた。ミツコがそれを見てあきれている。
 私が言う。「お爺様なの。エディの五十年後よ。昔のことを知っている人に聞いたんだけど、お爺様も若いころはエディにそっくりだったんですって」
 エディと大龍は広東語でしきりにしゃべりながら大量の食物を口の中へ運ぶ。
 途中でアルンに尋ねる。「二人は何を話しているの?」
「主に食べ物のことだね。今食べている物の事とか、日本で何を食べたのか、そんなことだよ」
「そう。中国の人って食べ物にうるさいのね」
「そうみたいだね」
 私は納得してミツコに尋ねる。「ミッチャン、今日はどこへ行ったの?」
 彼女が答える。「朝あれからバロンダンスを見て、彫刻家の沢山いる村へ行ったの。その後バティックのお店に行って素敵なのを幾つか買ったの。ヨーコさんが言ったように、本当にどれもが素晴らしくって、みんな欲しくなっちゃったわ。今度の夏がとても楽しみになっちゃった」
「自分で縫うの」
「ええ、簡単なものくらいはね」
「偉い!」ミツコがはにかみながら笑った。」
「アルン、明日はどうするの?」
 アルンがミツコに向かって尋ねる。「明日もまたショッピングかい?」
 ミツコが笑って答える。「ええそうよ。今日買った生地に合わせてアクセサリーを買うの」
 私が言う。「アルン隊長頑張って!」
 アルンはうんざりしたような顔をしてみせはしたが、私にはまんざらでもないように見えた。

 日もすっかり落ちて辺りは暗くなった頃、プールサイドにはライトがともり、ステージではレゴンダンスが始まった。
 私は飲物のグラスを持ってイワノフ達のテーブルへ行き、さっきまで居た席に腰を下ろす。
「エディのお爺様よ。とっても優しくって私のことを可愛がってっくれるの」
「李 大龍」
「知ってるの?」
「もちろんだよ。大富豪だからね」ジョージが言った。
「そう。そんなに有名な人だったんだ」
「ヨーコは知らなかったの?」カズミが尋ねる。
「そうなのよ。実を言うと私、エディのことも何も知らないままパリから香港まで付いて行って、そのまま結婚しちゃったから、彼や彼の一族のことも全然知らなかったの。それに大富豪なんて日本にいたら全く縁の無いものだわ」
 カズミが言う。「本当にさっき僕が言ったみたいに、目覚めたらいきなり大富豪の一員って言う感じだったんだ」
「全くそのとおりよ」
「本当にそんなラッキーってあるんだね。まるでシンデレラみたいだ」
 イワノフが少し悲しそうな顔で言う。「ヨーコはラッキーなんかじゃない。私がヨーコの兄だったら、聖龍の顔を殴り付けてやったぐらいだ」
 カズミが言う。「何故だ。あんな大富豪の一員に迎えられて、神として崇められて何が不満なんだ?」
「そのためにヨーコは穏やかな幸せを失ってしまった。愛する男と二人で静かに暮らすことすら出来ないんだ。なのにヨーコは自分の命を賭て私達に愛を教えてくれる。悲しいじゃないか。あれだけの力と金を持つファミリーが、ヨーコと言うたった一人の、小さな女の幸せすら守れないんだ」
 私がそれに答える。「あら。私はとっても幸せよ。だから心配しないで。それよりせっかくのレゴンダンスだからもっと前の方で見れば?」
 イワノフが言う。「そうだな。そうさせてもらうよ」そう言って三人は立ち上がって、ステージの前に設えられた席に向かう。
 私も立ち上がってイワノフに言う。「兄さん!本当に私世界一幸せなの。エディにもお爺様にも限りない愛情で包んでもらって、その上あなたにもこんなに愛して貰えて。ありがとう。本当にありがとう」
 イワノフが何も言わずにそっと抱き寄せて額に口付けしてくれた。

 アルン達の席に戻ると、エディと大龍の大量の食べ物はほとんど無くなっていた。
 私はエディに尋ねる。「他のお客さんってみんなナーガラージャなんでしょう?ご挨拶しなくちゃいけないんじゃないの?」
「そうだね。おなかも一杯になったことだし。ちょっと挨拶してこようか」そう言って立ち上がる。そして大龍にも声を掛けて三人で幾つかのテーブルを回った。誰もが私達を立ち上がって迎えてくれ、握手を交わした。カズミが言ったように、彼らは本当にここでも有名人だったようだ。

 大龍はその夜だけ私達のいるコテージに泊まり、次の日には店が心配だと言って、自家用機に乗って帰って行った。
 大龍のジェット機を見送りながらエディに言う。「お爺様に無理をお願いしちゃったのね。でも私とっても嬉しかったわ」
「ああ。祖父もとっても喜んでいたよ。こんなに素晴らしい孫が出来たってね。それに、祖父はいつもこんな感じであっちこっちを飛び回っているんだ。慣れてるさ。それより、イワノフ達は楽しんでいたかい?」
「ええ。私も楽しかったわ。そう言えば、イワノフがあきれてたわよ」
「何を?」
「だってあなたが敵である自分に私を頼んで行ったって。ロシア人の情熱を知らないんだとも言ってたわ」
「そうか。危なかったんだ。イワノフに君を取られてしまうところだった」そう言って私の肩に腕を回した。
 私が言う。「イワノフがね、もし自分が私の兄だったら、あなたの顔を殴り付けたいって言ってたわ」
 エディは肩に回した手に力を込めて言う。「しばらくイワノフには、近寄らないでおこう」
「それがいいわよ。今はアルンもあてにならないし、イワノフって強そうよ」
「そうだね。僕に適う相手じゃなさそうだ。それにしても本当に君は誰にでも愛される」
「もちろんよ。こんな素敵な女性を愛さない男なんて、よっぽど見る目がないか、ホモかのどちらかぐらいよ」私は彼の腕から抜け出しておどけてみせた。
「すごい自信だね」
「マグニチュード8ぐらいのね」
 彼が首を傾げる。
 私は笑って言う。「地震よ」
 彼が頷いて笑う。

 私達は先のことなど何も考えていなかった。しかし大龍に話したように先の事を理解してはいた。ただそれについて語りはしなかった。二人は繋がっていたのだ。そしてお互いを理解してもいた。改めて語り合うことは、楽しいことや嬉しいことだけで良かった。少なくとも、この神々の島にいる限りは。

 ミツコの休暇はとても楽しいもののようだった。彼女も段々日焼けして、帰国する日にはもう私とほとんど変わらないぐらいの肌の色になっていた。アルンもとてもリラックスしていて、彼にとっても良い休暇になったようだ。
 私達はいつも朝食を一緒にとって、各々の予定にしたがって行動した。大体私達はプールで一日を過ごし、彼らはいろんな所へ出かけて行った。そして次の朝そのことについてとても楽しそうに語ってくれた。ミツコはとても沢山の買い物をし、沢山の思い出を作った。そしてそれらをスーツケースに詰め込んで新年四日の飛行機に乗り込んだ。
 アルンが少し寂しそうな顔で見送る。
 そんな彼の背中に私は尋ねてみた。「あなたの愛はみつかった?」
 アルンが驚いて振り向いた。そしてしばらく私の顔を見つめて答えた。「ヨーコ、君の言ったことが少しづつ判りかけているよ。今まで君がしてくれた沢山の話が、今やっと理解出来かけている。確かに神より愛するものの方が大切だ。そしてそれを守るためには物凄く大きな勇気がいる。それを君は僕に示したかったんだね」
 私は隣にいたエディに寄り掛かって微笑む。そして首を振った。
「判んないわ。でもあなたが愛するものに巡り会えて良かった。だけどそのために今離れてしまう辛さを味わっているのよ。愛するものがいなかった時には味わうことのなかった辛さよ。すぐに会えることが判っていても、辛いものよね」私はそう言ってエディの顔を見る。彼はとても穏やかに微笑んでいた。
 それを見て私も微笑んで言う。「さあ、帰りましょう?」
 アルンも頷いて歩き始めた。

 私達はエディの提案どうり、山のコテージに移った。とても涼しくてクーラー無しで毎日が過ごせる。
 毎朝日課のように辺りを散歩して、木や花の香りを胸一杯に吸い込んだ。私も少しづつエディの朝の運動に付き合えるようになっていた。彼が言ったように体の中の古いものをすべて吐き出し、新しく良質なものを体の中に取り込むことでとてもリラックスすることが出来た。彼のように高く飛ぶことは出来なかったが、自分の体を意識しながら動かすことが出来るようになっていた。アルンもまた隊員達を集めて訓練を始めたりしていた。とても穏やかな毎日だった。しかしそんな穏やかな日々も長くは続かなかった。

 二週間程たったある日、エディが電話で何かを話していた。いつもと少し感じが違うようだったが、言葉が英語なので理解できなかった。しかし彼の言葉の端々に「アースクイック」と言う言葉を聞き取ることが出来た。地震だ。どこかで地震があったのだ。龍が動いたのだろうか?私は空海と最澄が動いた時に琵琶湖の湖底で震度4の地震があったことを思い出していた。そっとエディの心に目を向けた。そこにはとても大きな危機感があった。私は彼の電話の終わるのを待ってすぐに尋ねる。
「何処で、どれだけの大きさ地震があったの?」
 彼が答える。「ちょっと待って。すぐにアルンが正確な情報を持ってくるから」
 私は頷いた。
 彼が私を抱き寄せて言う。「大丈夫だよ。きっとそんなにたいした地震じゃないよ」
 しかしその後すぐにアルンの持ってきた情報には、想像を絶する程の被害が含まれていた。
 震度7、倒壊家屋無数、地震による断水のため消化活動の出来ないままに燃え尽きようとする町。それは余りにも無惨な町の姿だった。そしてその町は私達が拠点としていた神戸だった。
 私は叫ぶように言う。「ミツコは?ミツコは大丈夫なの?」
 アルンが首を振る。「判らないんだ。連絡が取れない。自宅にも、会社にも電話は通じない」
「あのホテルは?」
「あそこは大丈夫だ。しかし、あそこへ行くための道が寸断されている。そして電気、ガス、水道が止まっている。電気は自家発電でなんとかなっているようだ。水に関してはプールに蓄えられていた。浄水装置が自家発電の電気で使えるので、飲み水には困らない」
「そう、それは良かった。宿泊客はいたの?」
「ああ、でも今は君達のために開店休業状態にしていたから三組だけだった。その人達もヘリで運んだようだ。だから今は従業員だけだ」
「安全は?」
「大丈夫だ。自宅に戻るよりあそこに居る方が電気も水もあるから安心なんだ」
 そこまで聞いて、やっと少し安心できた。そして私が言う。
「アルン、心配しなくてもミツコは大丈夫よ。ミツコはまだ死んだりなんてしないわ。きっと連絡が取れないだけよ。そう、彼女ってご両親と一緒に暮らしていたの?」
「いや一人住まいだ。両親は島根県の方に居るらしい」
「そう。じゃあそちらに連絡してみましょう。連絡先を調べてちょうだい」
 アルンがすぐに電話で指示を出した。そして連絡を待つ。その間にアルンが言う。
「ヨーコは何故ミツコが大丈夫だって思うんだい?」
 私はエディの顔を見る。彼は何も語ろうとはしていなかった。私は頭の中で答える言葉をまとめる。そして言った。
「ミツコにはまだしなければいけない事があるのよ。それは私達にとってとっても大切なことよ。だから彼女は生きているの。それを済ませないかぎり彼女は死んだりしないわ」
「彼女が何をするんだ?」
「それは聞かない方がいいと思う」エディが横からきっぱりとした口調で言い切った。
 アルンの表情に複雑な影がよぎった。
 エディが言う。「被災者に何か出来ることはないのか?救援の為の物資を届けたり、何か手伝えることはないのか?」
「有るさ。出来るかぎりのことは手配してある。決して表立ったりしないように活動している」
「そうか。それならいい。まだ余震も続いているだろう。みんなに気を付けるように言ってくれ。そうだ、高野山に連絡を付けてくれないか?」
 アルンが頷いてもう一度電話を掛ける。そして用件を言った後に、判ったばかりのミツコの連絡先の報告を受けた。
「ヨーコ、ミツコの実家の電話番号がわかった」
「電話を繋いでちょうだい」
 アルンがメモを見ながらダイヤルする。そして私は受話器を受け取った。五回位の呼び出し音で相手が出た。
「伊達でござます」
「私、大阪の田中ヨーコと申しますが、ミツコさんとご連絡は付いておられますか?」
「はい、私はミツコの母ですが、先程ミツコから無事だと言う電話が入りました」
「そうですか。それは良かった。こちらからでは全く電話が通じないものでとても心配していたのです」
「それはありがとうございます。会社の方も崩壊しているらしく、まだ余震があって怖いのでこれからこちらに戻ると申しておりました。戻りましたらご連絡するように伝えましょうか?」
「そうですか。そちらに戻られるのですね。今この電話はインドネシアからかけていますので、また後程こちらからお電話を差し上げるようにいたします。どうぞミツコさんに宜しくお伝えください」
「そうですか。そんなに遠方から。ご心配いただき、本当にありがとうございます」
「とんでもございません。お忙しいところを失礼しました」
「わざわざありがとうございました」
「失礼します」そう言って私は電話を切った。
 アルンがホッとした顔をしていた。私はそんな彼に微笑みかける。
「ネッ、言ったでしょう。たまには神も役に立つのよ」
 アルンが頷いた。そしてすぐに電話が鳴った。エディがそれを受けて高野山の電話番号をメモし、すぐにそん番号をダイヤルした。
 とても長く待ってやっと電話が繋がった。彼は春水さんを呼ぶ。またしばらく待って春水さんが出たようだ。エディは簡単に先日の礼を言って、すぐに本題に入る。
「そちらのお山の名前で救援活動に、私達の組織を使ってくださるように法印にお伝えいただけませんか?今インドネシアに居るもので、すぐには伺えませんが、先日一緒にお邪魔したアルンと言う者を明日の朝そちらにやりますので、何卒よろしくお願いします」そう言って電話を切った。そしてアルンに言う。
「僕達はもう少しの間ここを動けない。今夜の飛行機でお前だけ戻って高野山へ行ってくれ。そして僕達が戻るまでに体制をちゃんと整えておいてくれ」
「警護はどうすればいい?」
「構わない。さっきヨーコが言ったように、まだするべきことが残っている間は死んだりしないものだ。ここでもし死ぬって言う事になれば、ここまでが僕達の仕事だったって事さ。先が残っているのなら、まだ死んだりしない。それより、今は助けを必要としている人達に手を差し伸べてくれ」
 アルンが頷いた。そして素早い身のこなしで部屋を出て行った。

「ヨーコ、とうとう始まってしまった」エディが言う。
「あなたはもう逃げるのを止めたのね」
「ゴメン。とうとう君を戦いに引き込んでしまう」
「構わないわ。これが私達の仕事なんですもの。終わらせてしまいましょう。私はもう十分幸せを楽しんだわ。これからが本当の戦いよ。イワノフ達にもう帰るように言いましょう」
「そうだね。僕も一緒にいくよ」
「あなた、殴られるわよ」
「構わないさ。それで死ねたら僕は君を引きずり込まないですむ」そう言って彼は私を抱き寄せた。
 私は彼の胸の中で彼の暖かさを十分に感じていた。

 私達は簡単に荷物をまとめて一番初めにいたホテルへ移った。そこが一番動きやすいところだったからだ。アルンはすぐに日本へ向けて飛ぶ。私は次の朝ミツコに電話をした。
「大変だったわね。怖かったでしょう?」
「ええ、とっても。地面がひっくり返るかと思ったわ。大好きだった神戸の町が、一瞬にしてガレキの山よ。それにその後火災が起きて、まるで映画で見た空襲の後のようになってしまったの。私のマンションも大きな柱に亀裂が入って、もう住めなくなってしまったわ」
「そう、大変だったのね。怪我は?」
「ええ、箪笥が倒れて来たんだけど、ちょうどベッドのヘッドボードに当たって止まったから下敷きにはならないで済んだの。とってもラッキーだったわ。でも会社はグシャグシャだし、神戸にいても何も出来ないからこっちに戻って来ちゃった。こちらに居ても何もすることなんてないんだけど、少なくともこっちには余震がないから」
「そう。本当に怖かったね。暫くはそちらに居るつもりなの?」
「ええ、そうしようかと思ってます。一応会社にはこっちに居ることを伝えてあるし、でももうあそこでは働けないと思うわ」
「そんなにひどく壊れてたの?」
「ええ。中も外も全壊。十階建の五階部分がなくなっちゃってるし、それにそこが企画室だったから何も残っていないの。もし、仕事をしている時間だったら、私は完璧に死んでたと思うわ」
「そんなにひどかったの」
「ええ。きっとそれでエディのお爺様が年が変わるまでそっちへ行ってなさいって言ったんじゃないかしら?」
「良く判らないわ。そんなふうに考えてもみなかったから。ただ私の体と心が弱っていたからそんなふうに言ったんだって思ってた。お陰でここに来てとても元気に成れたし。でもたぶんだけど予定より早く日本に戻ることになると思うわ」
「じゃあ、戻ったらまた電話を下さる?」
「ええ、もちろんよ。ところでアルンから連絡は入った?」
「いいえ」
「そう、彼は夕べの飛行機で日本へ戻ったの。とても急いでいたからきっと電話出来なかったのよ。高野山と一緒に救援活動に当たることになっているから、しばらくは連絡が取れないかも知れないけど、心配しないでいいわ」
「彼って私のこと心配じゃなかったのかしら?」
「あら、ミッチャン。彼、とっても心配して青い顔をしていたのよ。でも自宅に突然男の人から電話が有ったりしたらご両親が心配するだろうって思って私が電話したの。あなたが居たらすぐ変わろうって思っていたのに、まだ戻っていなかったから。でもお母様にあなたの無事を聞いてアルンもホッとしていたのよ」
「そうだったんですか。じゃあ、きっとその内電話をくれるわね」
「ご両親は心配しない?」
「ええ、大丈夫です。ちゃんと話しておきますから」
「判ったわ。連絡が取れたら必ず電話するように伝えるわ」
「お願いします」
「じゃあ、また日本で会いましょう」そう言って電話を切った。
 私はエディに笑って言う。「ミツコったらアルンが心配してくれてないのかって怒ってたわ」
「アルンだって飛んで行きたいのを我慢しているのにね」
 私達は顔を見合わせて笑った。そして届いたばかりの日本の新聞を見る。その紙面の写真はミツコが言ったように、空襲の後のようだった。何もかもが崩れ、そして燃え尽きていた。私は途中でおそろしくなってエディの手を握る。彼はその手を引き寄せて私を抱きしめた。
「ヨーコ、しっかりして。まだ始まったばかりなんだ。これは神々の戦いだ。多分この地震は僕達のあのホテルを狙っていた。でも、あのホテルに僕達は居なかった。そして壊れてもいない。何かに守られているんだ。まだ僕達はやらなくてはいけないって言う事だろう」
 私は彼の腕の中で頷く。「何に守られているのかしら?」
「良くは判らない。あの場所は風水では特別の場所なんだ。何時かも言ったように、真上に向かうパワーに守られた場所だ。龍穴と言って特別なポイントなんだ。僕達のホテルはすべてそうだけど、あそこは特に強い場所だ。しかし大地の龍が切断されて、もう使えないかもしれない」
「どうしてそう思うの?」
「見てごらん」彼はそう言って新聞の被害状況を地図上に示した図を指差した。
「確かに震源は淡路島の北端だが、被害の多いのは神戸の方だ。人工密度のせいもあるんだが、それだけじゃない。これはここに横たわる龍に何らかの衝撃を与えてそれを動かしたんだ。活断層と書いてあるが、それも広い意味において昔の人は龍と呼んだ。淡路島の北端が龍の尾だ。そしてこの西宮辺りが龍の頭の先になる。そして僕達のいたホテルがちょうどくわえた玉の位置なんだ。戻ってみなければはっきりとは言えないが、多分この龍は痛さで玉を放しているだろう。これだけ大きな身もだえをする程だからな」
「玉の位置が龍穴なの?」
「でもそれだけじゃない。力の強い龍で且つ風水に守られた龍でなければならない。風水に守られると言うことはとても沢山の条件を充たすことなんだ。その条件のどれ一つも欠けてはいけない。例えば、大切なところにトンネルを掘って欠いてしまったり、本来有るべきところの湖を埋めてしまったりすると龍は病んでしまう」
 私は彼の腕の中でその話を聞きながら新聞を見ていた。そしてそこに小さな文字を見つけた。明石海峡大橋。
「エディ、これじゃない?この橋の橋脚が龍の体を傷つけたんじゃないかしら?」
 彼もそれをのぞき込む。そして言った。「多分。いや、きっとそうだろう」
「きっと、とても痛かったのね。なぜ人は自分達のために龍を傷つけるのかしら?そのせいでこんなに沢山の人達が亡くなって、その上すべての財産を失ってしまったのよ。動いた龍が悪いのかしら?それとも龍に楔を打ち込んだ人が悪いのかしら?」
「どちらでもない。人が龍の存在を知らないからいけないんだ。無知であることがこんな災害をもたらせた。でも本当はこの龍は一頭じゃない。一頭目の龍は須磨の辺りに頭がある。そして重なるようにして西宮に頭のある龍がいた。楔を打たれた龍がもう一頭の龍の尾を踏んだんだ。この地図で行くともっと上の方へ延びる龍も、そして左の方へ延びる龍もあそこで重なっている。しかし敵は僕達のホテルの龍を狙い撃ちにしている。決して偶然なんかじゃない。思い出してごらん。この震源地の位置にどう言う意味があるのか」
 そう言って、彼が地図を指し示す。
 私はその位置をじっと見つめながら考えた。そして少ない記憶の引き出しを開ける。
 有った。「オノコロ島ね」
「そうだよ。神々が一番初めに降りた島だ。それだけ重要な場所なんだ。日の神が龍を押さえる為にあの場所に降り立った。悪い意味で龍を使える場所なんだ。しかし随分昔に、龍を押さえきれずに海に沈んだ。そしてあの場所の特殊性が忘れられてしまったんだ。とても古い事だから空海達も知らなかっただろう。もし知っていたならば彼らが生きている間に、あの場所に何か処置を施したはずだ。しかし彼らはそれをしていなかった。つまりもうその記憶は失われていたんだ。海の中に沈んでいたんだから仕方ない事だ。しかし最近になってオノコロ島の復活が行われようとしていた。みんなが村興しだとか言って淡路島にオノコロ島を復活させようとしたんだ。みんながフツシの名を知ってフツシが蘇りかけていたように、オノコロ島の名を使うことであの場所の力も復活しかけていたんだ。そしてそれと一緒に日の神の記憶も蘇ろうとしている。戦いが始まったって言ったのはそう言う事なんだ」
「とても難しいわね。名前を思い出すと、その力まで蘇るの?」
「そうだよ。だってそうじゃないか。人の魂はずっと生まれ変わりながら続いているんだよ。そしてその魂は記憶をも伝えているんだ。ただそれは潜在意識と呼ばれるものの中に蓄積されているから忘れている状態になっているけれど、なくなっている訳じゃない。名前と言うのはキーワードなんだ。その名前で潜在意識の中のものを呼び出すことが出来るようになる。ただ誰でもって言う訳じゃないとは思うけど、その名前を言ったり聞いたりすることで潜在意識の上の方まで上ってきている人間が増えていることは確かだと思う。そして火の神の意識も蘇りかけている。龍を叩け。出雲の龍を蘇らせるなと火の神の意思が働いている。後に天照と呼ばれたりヒミコと呼ばれたりしているあの火の神の巫女が蘇ろうとしているんだ。」
 私は黙って頷いた。
「そして彼女はもう私達の前に姿を現しているのね」
 エディが黙って頷いた。
 私は拡げていた新聞をたたんで言う。「あなた、イワノフに殴られに行くんじゃなかったっけ?」
「そうだ。忘れていたよ」
「ずっと忘れたままだったら痛くなくって良かったのにね」
「ヨーコが思い出させたんだ。もしかして君は僕が殴られるのを楽しみにしているんじゃないのかな?」
「ばれちゃった!」
 二人は笑いながら新聞を片付けて立ち上がった。エディはイワノフに電話し、ティールームで会う約束をした。

 イワノフが先にテーブルについて待っていた。
 エディが言う。「急に呼び出してすまなかった」
 イワノフが黙って首を振る。そして低い声で言った。「日本が大変な事になっているようだな」
 エディが頷いてイワノフの前の席に座る。私も隣に腰を下ろした。
 エディが言う。「その事で話があるんだ」
 イワノフが頷く。
「実はあの地震は僕達を狙ったものだ。君達の安全が保証できなくなった。だから出来れば国に帰ってもらいたい。それが無理ならなるべく僕達から離れていて欲しい」
 イワノフが尋ねる。「地震が君達を狙ったというのか?そんな事が出来るのか?」
 エディが頷く。
 私が言う。「高野山であなたに言った、神々の戦いが始まってしまったの」
 イワノフが判らないと言う風に首を振る。
 エディが言う。「あの地震ぐらいなら今のヨーコには簡単に起こせるだろう。ヨーコが本当に望めば日本列島ぐらい簡単に廃墟にしてしまう。だから君達はヨーコを連れ去るように命令を受けたんだ。もちろんヨーコはそんな事は望まない。しかしヨーコに敵対する力はヨーコを狙って仕掛けてくるだろう。それだけでもあれ程の被害が出るんだ。僕がそんなところにヨーコを引きずり込んでしまったんだ。ヨーコを愛してくれる君達に本当に申し訳なく思っている。すまない」そう言ってエディは頭を下げた。
 イワノフは呆然として空を見ていた。私は初めそこに何かあるのかと思って彼の視線を追った。しかし彼の視線の先には何もない。
 私は視線をイワノフに戻して言う。「国に戻ってくれるかしら?今アルンの部隊は被災者の救援活動に当たっているわ。だから私達は丸裸よ。もし良かったら私の死体を国に連れて帰ってくれても構わないわ。右と左に分けてあなたとカズミ達で分ければいい。そうすればあなた達の仕事を終えられるでしょう。だから手ぶらで帰れないのならそうして。とにかく私はあなた達を危険に巻き込みたくないの。幾らあなた達がプルフェッショナルでも、大地の力には太刀打ち出来ないわ。それに、今回は地震だったけど、次の攻撃は判らない。津波かも知れないし、竜巻かも知れない。もしかしたらずっと活動を止めていた火山の噴火かも知れないわ。そしてもっと恐ろしいのは人の心よ。人の心が自然に対する恐怖感で満ちてしまった時、どんな事が起こるかなんて予想も出来ないわ」
 私はエディの方を向き直って続ける。
「いいわよね。ここで死ねば私のせいで人々が災害に巻き込まれずに済むんですもの。イワノフに撃たれて、あなたの胸で死ぬって言うのも幸せのような気がするの」
 エディがほんの微かだけ微笑んだ。
「ヨーコ、心配しなくてもいいさ。僕もすぐに行くよ」
 私は頷いてイワノフを見る。イワノフがテーブルの下でピストルを構えているのが判った。
「遠慮しないで。あなたが今しようとしている事は、沢山の人々を救う事なのよ。このまま私が生きているって言う事は、何千、何万、もしかしたらそれ以上の人の命に関わることに成るかも知れないの。今あなたがしようとしている事は、何も知らずに生きている人々を助けることなのよ。現にこの地震だけで随分沢山の善良な人々が亡くなってしまったのよ。私は本当にここで死ぬことを望んでいるの。だから、私を助けて。何千、何万の人々を助けて。イワノフ、お願い」
 イワノフが振るえる声で言った。「この引き金を引くことで君が助かるのか?」
 私が頷いて答える。「そうよ。私のせいで死ぬ人が出ないわ。そんな素晴らしい事ってないじゃない」
 イワノフが尋ねる。「ならば、なぜ君はもっと早く死を選ばなかったんだ?」
 私が答える。「余りにも幸せすぎたのよ。彼と居ることがね。それに私の龍が私を導いてきたの。私は龍の望むように生きてきたのよ。少なくとも彼と出逢ってからはね」そう言ってエディを見る。
 エディが続ける。「ヨーコは何も知らなかったんだ。僕が龍使いだ。責任はすべて僕にある。ヨーコの龍を見つけたのも、目覚めさせたのも、僕なんだ」
 イワノフが言う。「しかし、聖龍がいなければヨーコの龍は本当に兵器になっていた。何も知らない私達が国に連れ帰って、国の科学者達がヨーコを利用しただろう。なぜヨーコは龍を背負って生まれてしまったんだ。龍なんて生まれなければよかったのに」
 エディが言う。「イワノフ、それは仕方のないことなんだ。何故なら、すべての人の中に龍が居るからだ。人の心そのものが龍なんだ。ここでヨーコが死んでも、また次の龍を背負った人が生まれる。そしてヨーコの成し遂げられなかった事をするんだ。しかし少なくともそれは今のヨーコじゃない。魂はきっと同じものだろうが、肉体は違う。きっと名前も違うだろう。それだけでも今のヨーコは救われる」
 イワノフが言う。「それは避けられないことなのか?」
 エディが答える。「そのとおりだ。人が変わらない限り龍は生まれ続ける。そして龍が人を変えて行くんだ。それを求めているのは人その物だからな」
 イワノフが言う。「まるで禅問答のようだ。イエスを信じる私には理解できない。しかし私はヨーコを殺したくない。幾らヨーコがそれを望んでもだ。ヨーコの為に世界中の人が死に絶えたとしても、私の知った事じゃない。私は救世主じゃないからな。私はただの人であり続けたいよ。特別な人になるのは君達に任せるさ。これから先の事は少し考えてみる。だからもう私達のことは心配しないでくれ。CIAの奴等とも話し合ってみる」
 そう言って彼は席を立った。
 私には彼がいつピストルをしまったのか判らなかった。

 彼が立ち去りかけて立ち止まり、振り向いて言う。「私はヨーコにも普通の人で居て欲しかった。少なくとも私ならヨーコを普通の女として幸せに出来たのに」そう言い残してゆっくりとした足取りで歩いて行った。
 私はエディの顔を見て言う。「また、死にそびれちゃったわね」
 彼が頷いて答える。「君の龍はどうしてもやってしまいたいみたいだ」
「きっと使命感が強いのよ」
 彼は首を傾げて肩をすくめてみせた。
「さあ、行きましょう!」私が言った。
「イワノフは救世主になりそびれたのか」エディはそう独り言の様に言って立ち上がる。
 私は彼の隣に並んで言う。「私達って神なのかしら?それとも悪魔?」
 彼が肩を抱いて言う。「ただの人だよ」
 私は彼の肩に頭を乗せてそれに答える。「良かった」
 彼は肩を抱く手に力を込めた。

 それから数日はアルンからの連絡を待ってホテルの部屋で過ごした。彼は一日に二回ずつ連絡をくれた。その度に被災者の数が増えていた。最終的には五千人を超える死者の数になっていた。そして毎日届くすべての新聞に目を通す。それにはとても沢山の人達の体験談や、政府に対する不満の声などが載っていた。想像を絶するような被害だった。龍の力の恐ろしさに私は段々気分が落ち込むのを感じていた。エディは一日に何度も電話でいろんな所に指示を出していた。その度に言葉が違うのでいろんな所に出しているのが良く判った。電話に向かうエディの顔は私の知らない顔だった。しかし電話を切って振り向いた時にはいつもの彼に戻っている。そしていつもと同じように私に接してくれた。
「ヨーコ、退屈じゃないかい?プールで泳いできたっていいんだよ」
「いいえ、そんな気分になれないの」
「ヨーコ、君のせいじゃない。君が何をしたって言うんだい?」
 私は首を振る。
「そうだろう。君は何もしちゃいないんだ。だからそんなに落ち込まなくってもいいんだよ」
「エディ。でも確かに私達のせいでこんな事になったのよ。何をしたとか、何もしないとかって言う問題じゃないわ。私達が生存していることが問題なのよ」
 彼は私の前に座り込み顔をのぞき込むようにして言った。
「龍が動いたんだ。被害が出るのは仕方のない事だよ。たとえ僕があそこにいて龍のサインをキャッチしたとしても、誰がそれを信じてくれると思う?多分ナーガラージャの人達だけだ。それに家を持って逃げる訳には行かなかっただろう。ただヒの神は龍の動く方向をコントロールして僕達のホテルを狙っただけなんだ。ヒの神に龍を動かすことの出来る者は今はいないよ。今のヒの神なら龍を使うより、原子爆弾や、水素爆弾を使うさ。龍が動いて被害にあってもそれは王の責任じゃない。君だって判っているじゃないか」
「ええ、判っているわ。でも見て。こんなに沢山のひとが愛する人を亡くし、愛した物を失ったのよ。辛くて、悲しくて、やり切れないのよ」
「ヨーコ。それでいいんだよ。辛くて、悲しくて、やり切れない時には、泣いたり、叫んだり、怒ったりすればいい。でも、純粋にそうするべきだ。それを何かに転化したり、誰かの責任にしたり、もちろん自分の責任にしたりする事はいけない事なんだ。君がこのニュースを見て悲しく思う事は自然なことだ。それが人の心だからだ。でもそれを自分の責任にしてしまう事は間違っている。そしてヒの神を憎むこともだ。今必要なのは悲しみを悲しみとして受け入れ、辛さを辛さとして認識することなんだ。例えば一番いけない事は生きているだけで幸せなんだって思ってしまうことだとか、壊れてしまったけれど燃えてしまった家よりラッキーだったとかって言って自分をごまかしてしまったりすること。確かにそんなふうに思えば気が楽かも知れない。そんなふうに言って慰めてあげれば相手は少しの間幸せに浸っていれるかもしれない。でもそれは所詮幻想に過ぎないんだ。そんな事で幸せを感じたら、自分が優位にたつことでしか幸福を見つけられなくなる。それが差別って言う事だよ。自分より貧しい人、自分より能力の劣った人、そんなものを蔑むことで心の平穏を計るようなことになってしまうんだ。そして自分よりもっと幸福そうな人を羨み、ついには憎悪したりすることにもなりかねない。幸せだとかラッキーとかって言うものは、何かと比べて感じるべきじゃない。人は幻想の中では生きてはいけないんだ。君は今まで僕と居て何かと比べなければ判らない幸福を感じたことがあるかい?」
 私は黙って首を振る。
「僕だってそうさ。君が居ない事に比べればこんな事平気だって言ったけれど、それは本当に比べたから平気だった訳じゃない。僕が君を愛していたから平気だったんだ。まして自分より不幸な人を探して比べるようなことは絶対にしてはいけないんだ。悲しみを乗り越える必要なんてないんだよ。苦しみだってそうさ。ただそれを受け入れてしまえばいいんだ。その為に僕達は肉体を持って生まれてきたんだから。確かに苦しみや悲しみを乗り越えた人達は立派かも知れない。でも乗り越えられなかった人達だって、ちゃんと悲しかったり苦しかったりしてるんだ。そんな人達はダメな人達なのかい?違うだろう。ただ生きていればいいんだよ。死んでしまった人は楽になれたんだ。肉親や知人を亡くした者たちは、ただ純粋に悲しむしかないと思うよ。死んだ人が悪い訳でもないし、生き残った者が悪い訳でもないんだ。それでも悲しみは残る。時間を掛けてそれを癒せばいいんじゃないかな。出来なかった事を悔やむべきじゃない。もう時間は戻せないんだから。もし仮にそんな事が出来たとしても、これから生きていくためにしなければいけない事が沢山あるんだからそんな事をしている暇なんてないんだ。生きるって言う事はそう言う事なんじゃないかな」
 彼はとても辛抱強く私に語ってくれた。そしてそれは多分自分自身に向かっても語られていたように思う。
 彼はそう言い終わって穏やかに微笑んで見せた。私は静かに頷いた。
「エディ、みんながそれぞれ違う目的で生まれてきているのね」
「そうだよ。強く生きようと思って生まれてきた人達ばかりじゃない。誰もが一緒である必要なんてないんだ。みんなが一緒なんだったら生まれてくるのは一人で良かったんだからね」
 私は頷いて言う。「それもそうね。ずっと部屋の中で新聞ばかり見てたから、気分がめいちゃったのよ。私に何か出来ることってないかしら?」
「心配しないで。すぐに君も忙しくなるよ。もうすぐ僕達の最後の仕事が始まる。それまでにもう少し楽しんでおきたいな。君が落ち込んでいたら、抱く気にもなれないよ」
「あなたって言う人は本当に・・・」
 彼は茶目っ気たっぷりに笑ってみせた。それにつられて私も微笑む。
「ほら、やっぱりヨーコは笑っている方が素敵だ」そう言って私に口付けした。そして私達はバリ島での残り少ない日々を心置きなく楽しんだ。

 私がミツコに言ったように、春節祭より三日程早く日本に戻ることになった。
 デンパサールの空港から飛行機に乗る。私達の休日は終わったのだ。そしてエディがこよなく愛したこの体でいることも後少しだけになっていた。