龍 15 ジョグジャカルタ
 アルンの操縦する飛行機はジョグジャカルタの空港に着いた。私達はアルンの手配してくれた車に乗り込む。

 いつものように運転はアルンがする。
 「アルン。疲れているんじゃないの?」私が尋ねた。
 「平気だよ。僕は何かを動かすのって基本的に大好きなんだ。運転したり、操縦したりって言うような操作がね」
 「きっと何かを思うように操るのが上手なのね」
 エディが言う。「だから隊長なんだよ。それも超一流のね」
 アルンが照れて笑っていた。そんなところを見てると、彼は本当に普通の人だった。案外プロフェッショナルと呼ばれる人はみんなそうなのかも知れない。
 「ねぇアルン。ミツコは何時こちらに着くの?」
 「明日バリの方に着くよ」
 「あらそうだったの、ごめんなさいね。でも明日までには帰れるわよね」
 エディが言う。「大丈夫だよ。アルンだけでも鳥のように飛んで帰ってしまうよ」
 アルンが前を向いたまま首をすくめた。
 私が尋ねる。「アルン、毎日電話してる?」
 「ああ」
 私は首をすくめてエディを見た。
 エディが言う。「ナーガラージャは神の言うとおりにするんだよ」
 私は頷いて言う。「じゃあアルン。ミツコを神より大切にしてあげてね」
 アルンがルームミラーの中で困った顔をしていた。
 エディが私の肩を抱いて言う。「ヨーコ、神は難しい注文をするんだね」
 「でもね、私思うの。もし、神と愛する人が同時に崖から落ちた時、迷わず愛する人の手を取る人であって欲しいって。それが人と言うものだわ。それが愛なんじゃないかしら?」
 アルンが首を振る。「僕にはどちらも選べない。きっと両方の手を掴んで僕も一緒に落ちて死ぬよ」
 エディが頷いて言う。「そしてもう一度生まれ変わればいい」
 「違うわ」私は強い言い方で言った。「違うのよ。絶対に愛する人を助けるべきなのよ。そして生きて愛を育むのが人なの。神なんて、愛する人の前では何でもないのよ。神の為には生きるべきなの。誰も神の為に死を選ぶべきじゃないわ」
 私は言っている間に段々怒りが増してきていた。それが何故なのかは判らないままに、大きな声で言う。「判った?アルン!」
 エディが驚いて私に言う。「どうしたの?何をそんなに怒っているの?」
 私は涙を浮かべて怒っていた。その自分の怒りに戸惑ってもいた。
 私は大きく首を振り「ごめんなさい」と小さく言った。エディがハンカチで涙を拭ってくれた。そして言う。
 「ヨーコは僕が助けるよ。だってヨーコは僕にとって最愛の人だからね」そしてアルンが続ける。「僕はミツコを助ける。それでいいかい?」
 私は何度も頷いた。

 車は街中を抜け農村地帯に入っていた。空は段々暗くなり、ポツポツと雨が落ち始めたかと思うと、すぐにバケツをひっくり返したような雨になった。アルンは速度を落としてゆっくりと車を走らせる。
 「スコールだよ。すぐに止むさ。ちょうどボロブドゥールに着く頃には雨も上がって涼しくなってるよ」アルンが言った。そして言ったとおりに雨はすぐに止み、車を降りる時にはもう傘はいらなかった。

 アルンはいつもの様にすぐに姿を隠し、私達二人だけでゲートを潜った。
 「ヨーコ。ここの一番下の段に何が描かれていたのか知っているかい?」
 「どう言う事?」
 エディは何も言わずに石段を上がる。
 今度は私が尋ねる。「ねぇ、エディ。どうしてこの石段はこんなに一段が高くって上がりにくいのかしら?」
 彼は振り向いて私に手を差し伸べる。そして最後の段を上がり終えたところで答えてくれた。
 「それはね。神、いやここは仏教だから仏だけど、その偉大なるものに近付く為には努力が必要だって言う事をあらわしているんだよ」
 私が言う。「こんなに少しの努力でいいの?」
 彼が微笑んで答える。「そうだよ。ほんの少し努力すればいいんだ。そしてこの回廊に辿り着いて仏の教えを学ぶんだ。ほら見てごらん。このレリーフは全部ブッダの一生を表現しているんだよ」そう言って私の手を引きながら回廊を歩く。
 先程の雨で洗われて、とても生き生きと、人や仏が壁の中で踊っていた。エディは要所要所でレリーフについて説明をしてくれる。
 「ほら、この女の人はとても嬉しそうな顔をしているだろう?これは釈迦のお母さんのマーヤ夫人だ。神々が夫人の望みを聞き入れてくれて、釈迦を身籠もった時の像だよ。とっても嬉しかったんだね」
 「ほらここで釈迦の誕生だ」
 そんなふうに説明を聞きながら回廊を一周回り、また少し努力して階段を上がる。そしてまた釈迦の教えについて学んだ。それを幾度か繰り返して最後の円段に上がった時にはもうレリーフは無く、そこには石で作られた鳥篭のような物の中に、いくつもの仏が座っていた。
 そこは死の世界。孤であることを止めた、魂達の世界。もう肉体で他と触れ合うことはない。その為に篭の中で一体ずつ隔離されるように座っているのだ。そして精神は中央の大きなストゥーパの中に集合し、すべての魂が融合している。私は二度目にもかかわらずやはりそこで立ちすくんだ。
 「ヨーコ。どう?前に来た時と今とでは感じる事が違う?」
 私は雑念を追い払うように首を振ってそれに答えた。
 「同じだわ。ここは生と死を表すために作られているのよ。だから前に来た時にも私は、自分の命が取るに足らないものだって言う事に気付いたのよ。そして今は、もっとちゃんと判るわ。ここは死の世界。死がどれほど穏やかで、満ち足りているのかをあらわしているのよ。きっとここを作った人はちゃんと死について理解できていたのね」
 「きっとそうだね。人はもっと死について学ぶべきなんだ。そして生きることをもね」
 私は彼の言葉に頷いた。
 彼が私の手を引いて言う。「ヨーコ。こっちへ来てごらん」
 彼は端の方へ私を導き、言った。「ほら、とてもいい眺めだ」
 激しいスコールに洗われた、深い緑の森が拡がっていた。そしてその向こうには、いかにも神の住みそうな山々が見えている。
 「エディ。フツシの国みたいよ」
 それは原始の森のようだった。
 エディが頷いて言う。「ヨーコ。さっき上がる前に言った、ここの基壇に何が描かれているかの話をしよう」
 「基壇?」
 「そう。僕達が一番初めに見たのは、二段目からなんだ」
 「でも、お釈迦様が生まれる時からの話しがちゃんとあったわよ」
 「そう。でも釈迦がこの世に初めて現れた神じゃない。その前にいた神の物語が描かれているんだ」
 「それって変よ。だって自分達の前の神を描くなんて、自分達が侵略者だって言っているようなものでしょう。でも、その神がどれほど悪い神だったかを描いていれば、自分達の正当性を示すことにもなるのかしら?」
 彼は首を振った。
 「そう言うんじゃない。ここの基壇に描かれているのは、龍の物語なんだ。ここに初めからいた龍の物語。ずっとずっと昔、この森に龍が住んでいた。龍使いの夫婦と共にだ。そしてその龍使いは大地の龍、天の龍、海の龍、すべての龍と話すことが出来たんだ。そしてその龍使いは王と呼ばれた。元来王とは神に仕える者だったんだ」
 「フツシみたいに?」
 「はい。フツシの姿が本来の王の姿だ」
 「ねえ、もしかしてここの龍使いもフツシと同じ運命を辿ったのかしら?」
 エディは森を見ながら頷いた。
 「はい。人々の欲求に答えるために龍に血を与え続けたんだ。初めは龍の都合に合わせていた人々が、龍を自分の都合で動かそうとし始めた。その為に龍に生贄を捧げた。でも人々はその生贄を捧げることが嫌になったんだ。だってその生贄になる番が何時自分に廻ってくるか判らないからね。それでも人々は龍を思い通りに動かしたかった。そして王に詰めよったんだ。王は仕方なく妻の血を龍に与えた。それでも人々の欲求は留まることを知らなかった。王は妻の命を失い、自分の血も与え続けた。そして自分の命の最後の一滴を与え尽くした時、ここの龍は王と共に眠りについたんだ」
「なぜなの?どうして眠りについたの?だってそんな時、誰でも怒るものよ。だって龍と王は仲が良かったはずよ。フツシも龍を愛していたし、龍に愛されてもいたわ」
 「はい、そのとおりだ。だから龍は眠りについたんだ。何故ならそれを王が望んでいたからね。王とは人々を守る為にいるんだ。その思いの一番強い者、その力の一番優れた者が王になる。だからここの王も人々を救うために自分の血を与えた。そして最後の一滴を与えた時に龍に言った。どうかこのまま眠りについてくれと。人が龍を使うことはいけないことなんだと気付いていたんだろうな。龍を使うことによってこの国は栄えるかも知れない。人々は楽な暮らしができるかも知れない。しかしその先に何もないんだ。栄えたこの国の人々が、隣の国の人々を苦しめる。そこまで行かなくても、ここに富みがあれば、誰かがそれを狙って来る。富栄ると言うことは決して幸せなことではない。ましてそれが自分達の力ではなく、龍の力を使った結果ならね。最後の王はそれを一番良く知っていたんだろうね。だから最後の血の一滴に思いを込めた。互いにここで眠りにつこうと。そして龍もそれを受け入れた。だからここの龍は眠りについたんだ」
 「そのことがここの基壇に描かれているのね?」
 「そうだよ。でもそれを今は誰も知らない。失われた基壇だ。でも、僕達ナーガラージャは知っているんだ」
 「なぜなの?」
 「発掘したんだよ。随分金がかかったらしいけどね。でも、戦時中にナーガラージャを軍に紛れ込ませてやったんだ」
 「お爺様ね」
 「そうだよ。祖父は頭がいい」
 「それにお金も、行動力もあるわ。でもなぜそれを発表しなかったのかしら?」
 「そんな事をしたら龍神族のことがバレてしまう。それに僕達はまだ君に出逢っていなかったんだ」
 「私の龍にでしょう?」
 「そう。龍を持たない龍神族に何が出来ると思う?」
 「ここを発掘したり、ヒットラーの龍を封じ込めたり出来たわ」
 「確かにそのとおりだ。ヒットラーの龍を使いこなせれば良かったのかも知れないが、君も知っているようにマダムローザは彼を殺した。もちろん好きで殺したわけじゃない。そうするしかなかったからだ。もしあのままヒットラーが生きていたら、ここの遺跡は大々的に全世界に発表されただろう。自分の正当性を全世界にアピールする為にね。その結果多分沢山の人達がそれを認めただろう。世界中の人々が、龍とヒに分かれて戦いを初めるところだったんだ。そしてその結果、ここに描かれたとおり人々は滅びたに違いない」
 「ちょっと待って。龍が眠りについてここは滅びたの?」
 「はい。だってあの山の龍が動いた時に、それを知らせるものが誰もいなかったからね。ある日、山が大きな噴火を始めた。大地は大きく揺れ動き、建物はすべて崩されさった。そして次に溶岩を吹き上げ、空を焦がしたんだ。その後その熱は森を焼いた。ここに居た殆どの者達は死に絶えたんだ」
 「何故?それも王が望んだことだったの?」
 「それは判らない。でもそれが自然の摂理なんだ。今でも火山が噴火すれば沢山の被害が出る。前もってそれを知り、逃げる事の方が自然に反するんだよ。今はそれを科学力でやってしまっているからいいのかも知れないけど。それでも随分被害が出る。だからと言ってそれを王のせいにする者がいるかい?」
 「判ったわ。王が望もうと、望むまいと、地震や噴火はやってくるって言う事なのね。そしてそれを生き延びる事も、そこで死ぬ事も、自然なことだって言う事なのね」
 「そう言うことだね」
 私が尋ねる。「じゃあ、誰がなんの目的でここを作ったの?」
 彼が答える。「それは僕には判らない。でも君ならきっと判るはずだよ。ここの龍に尋ねてみればね」
 私はそう言われて心を澄ました。そうする事でここの龍と話すことが出来そうに思えたのだ。確かにそこの龍は語ってくれた。私の頭の中で龍が語る。私はただそれを何も考えないようにして受け入れた。そして龍が語ったことをエディに伝える。
 「ここで殺戮があったのよ。噴火で焼けてから随分経ってからのことよ。初めは個人同士の小さなイザコザだったの。それが段々大きく拡がって行って、家同志の戦いになり、村同志の戦いになったの。沢山の人が殺されたわ。その殺された者達の血が龍を目覚めさせた。それを鎮める為にこれが建てられたんだわ。その時この国には、龍を感じる事の出来るお坊さんが居たの。ここの龍を鎮める必要があるって言う事も彼には判ったわ。多分龍使いの血が流れていたんでしょうね。だからここの龍を人に利用させてはいけないことも知っていた。随分修行を積んだ人だったみたい。でも、龍を使うだけの力は無かったの。それでその時に仕えていた王様にここの建立を進言したのよ。龍鎮めのために、ここに血を流すことがないようなものを作る必要があったから。それで王様に仏教の寺院をここに作るべきだって進言したの。そのお坊さんは王様に随分信頼されてたのね。王様は喜んで彼の望みを聞き入れ、莫大な私財を投じてここを作ったわ。そしてここを作った人達も随分喜んでこの仕事にはげんだの。でもあなたの言った基壇にレリーフを彫ったのはそのお坊さん一人でだった。誰にも気付かれ無いように夜、小さな灯りを頼りに一人で彫り付けたの。みんなは昼の間ここを仏教の寺院としてお釈迦様の物語を彫った。でもそのお坊さんはずっと囲いを張り巡らせて夜中中龍の物語を彫ったわ。そして出来上がった部分から土で埋めていったの。だから全部出来上がった時には、私達が見たようにお釈迦様の物語だけしかなかったのよ。それをお爺様が掘り出したって言うわけね。でも、どうして隠れてまでそんなことをしたのかしら?ただ、ここに聖地があれば良かっただけなのに」
 私はそう言い終わってまたしばらく心を澄まして、龍が語るのを聞いた。エディはそれをじっと待っていた。
 「判ったわ。そのお坊さんは、また何時かここが血で汚されることを知っていたのよ」
 エディが言う。「人は必ずしてはいけない事をしてしまうものだ」
 私は微笑んで彼を見る。そしてまた森に目をやって言う。
 「そうね。イザナギもそうだったわ。もしかして人類の歴史って、してはいけない事をどれだけやったかを綴ったものかも知れないわね」
 彼が静かに頷いた。
 私は続ける。「この円壇の上で沢山の血が流されたの。愚かなことだわ。神の違う者同志が戦ってここを血で汚した。その流された血は、この石の継ぎ目に長い時間を掛て染み込み、眠れる龍に届いたの。そして龍は目覚めた。でも動かなかったの。その為にあのお坊さんは龍の物語を刻んだのね。龍はここの基壇の物語を見て思い出したの。自分が目覚めれば、世界が破滅するって言う事を。あの最後の王がその為に自分に眠ることを望んだことをね。それで彼は目覚めたけど動かなかった。その時に龍使いの血を引くものが側に居たなら彼は告げたい事を持っていたわ。それはとても大切な事だった。でも龍使はいなかったの。だから彼はただ黙ってここにいただけよ」
 「何を告げたかったんだろう?今の僕では代われないだろうか?」エディが言った。
 私は首を振る。
 「だめよ。だって彼の教えたかったのは、あの山の噴火だったんですもの」そう言って私は目の前に見える山を指差した。そして続ける。
 「あの山の噴火が近づいていたのよ。山の龍が動こうとしていたのね。でもここの龍はそれを誰にもつげられなかった。そして噴火は始まり、沢山の命が失われた。ここも吹き上げられた灰に埋もれたのよ。その後長い時間を掛けてここはジャングルになり、そして人々に忘れ去られた」
 エディが澄んだ声で言う。「でもここの龍は目覚めたままだね」
 私は頷く。「そうよ。ずっと目覚めたままじっとしているの。とても辛いことだわ。でも彼はそれを運命として受け入れている。とても特殊化しているのよ。私の龍と同じかも知れない。良き龍使いを持った龍は何かの使命を持っているのね。そしてここの龍の使命は、人に生と死を告げることなのよ。人が生と死を理解すれば戦いは起こらない。それがここを守る理由だわ。自分を愛してくれた最後の王の為に、そしてここに龍の物語を彫って自分にその王の愛を思い出させてくれたお坊さんの為に、ここの龍はただじっと見ているの。この世の中がどう成って行くか、人々がどんな過ちを冒し、それを乗り越えて行くか。その人々に生と死を説き続けている」
 私は目を閉じて首を振った。辛かった。とても辛かった。私にはその龍の姿が見えていた。とぐろを巻いた体からぐっと首を延ばして、とても澄んだ目を見開いて、人々を見続ける龍。そこには愛情がある様に思えた。人に対する限りない愛。そしてその愛はどこにも片寄らず、すべてに注がれている。神の姿とはこう言うものなのかも知れない。何も与えず何も奪わない。そして何にも関わらず、ただ優しく見守っている。それは決して楽なことではない。私にはとても出来ないことだと思う。心を動かさず、ただ其処に在る。それが本当の神の在るべき姿のように思えた。

 「ヨーコ。そろそろ行こうか?」
 私は頷いて歩き始める。彼は私の手を取って握り締めた。私は首を上げて彼に尋ねる。
 「ねぇエディ。いろんな所にある聖地って呼ばれる所にも、ここみたいな秘密が隠されているのかしら?」
 「そうだね。僕が行った中にも、随分龍の物語を持つ場所があったよ」
 「みんな特殊化しているのかしら?」
 「何が?」
 「龍よ」
 「そうかも知れない。ただどう言うのが特殊なのか、そうでないのかは解らない。でも、僕の知っているも一人の龍を背負った人は、本当にただの人だったよ」
 「誰?」
 「ほら。何時か話しただろう。チベットのダライラマだよ」
 「そういえば聞いたような気がするわね。あなたは会った事があるの?私も大分前にテレビで見たことがあるけど、とっても元気な普通のおじさんだったわ。彼が龍を背負っているなんて信じられないくらいいよ。その上彼の龍は目覚めているんでしょう?」
 「ああそうだよ。完璧に目覚めている。そしてそれを目覚めさせたのは彼自身なんだ。素晴らしいことだ。周りの人はみんな彼を神として崇めているんだ。なのに彼は普通の人で居続けている。僕が会った時も、とても大きな声で笑うんだ。そしてとても張りのある声で話す。そして判らないことはちゃんと判らないと言い、僕の話だってとても興味深く聞いてくれた。きっと彼の教育係だった人がとても偉かったんだろうね。彼を神として育てず、最高の人として神に近付けたんだ」彼はそう言って私の肩を抱いた。
 私は彼に触れられることでいつもとても心が落ち着く。それは私に普通の女であることを思い出させてくれた。それは彼がいつも私を普通の女として愛していてくれるからだ。彼がいつもそのままでいるように言ってくれる事の意味が少し判ったような気がした。それが私を普通の人として存在させてくれていた。
 「普通でいることが一番難しいのね」私がそう言うと彼は微笑んで肩を抱く腕に力を込めた。

 私達はアルンの車に乗り込む。
 「ねぇ、これからどうするの?」私が尋ねる。
 アルンが答えた。「このままホテルに向かうつもりだけど、他に何処か行きたい所があるかい?」
 「いいえ。今からあなたの操縦する飛行機に乗らなきゃいけないのかと思って心配だったのよ」
 「大丈夫。今夜はこっちに泊まるつもりだよ。残念なことに、ここにもナーガラージャのホテルがあるんだ」エディが横から言った。
 「まあ、それは残念だわ」私が大袈裟に言う。
 アルンがミラーの中で言う。「ヨーコ、でももっと残念なことに君は明日僕の操縦する飛行機でバリに戻るんだ」
 「本当?それは本当に残念だわ」そう言ってみんなで笑った。

 車はホテルに着いた。
 いつもの豪華なナーガラージャのホテルだ。もう驚くこともなくなった。
 「慣れるものね」私がロビーでつぶやいたのを聞いてエディが笑う。
 「ヨーコ、ちゃんと全部言わなきゃ判らないよ」
 「本当?」
 彼が笑って言う。「ナーガラージャのホテルに着いても驚かなくなったって言うんだろう?」
 「はい。でも驚かなくはなかったけど、まだ気に入っているわけではないんだよね」
 「そう言うんじゃないけど。でもやっぱりそうかも知れないわね。良く判らないわ」
 「構わないんだよ。僕は君が慣れてくれただけでも嬉しいよ。何時か君の気に入るところで一緒に暮らそうね」
 「それは無理じゃないかしら?だってあなたの趣味って、豪華すぎるもの」
 「そんなの簡単だよ。豪華で、かつシンプルな物を集めればいいんだ」
 「なるほど。でもそれって今以上にお金がかかりそうね」
 「はい。そうすれば少し景気が良く成るんじゃないかな?」
 私は何も言わずに肩をすくめてみせる。彼は笑いながら私の腰に腕を回して部屋に向かって歩いた。

 私達は部屋で少し寛ぐ。食事の用意が出来たとう言うアルンの電話を受け、バリで仕立てたバティックの洋服を着て、プールサイドのレストランへ行った。
 アルンもお洒落をして、先に席に付いていた。
 沢山の人が私達を迎えて拍手をしてくれた。エディは簡単に挨拶をして席に付く。私は訳が判らずに周りを見回しながら彼に続いた。
 エディが言う。「みんなナーガラージャだよ。君を一目見ようと集まって来たんだ」
 私は頷いて微笑んでみせた。そして小さく言う。
 「みんな私を神様だって思ってるのかしら?」
 「そうだよ。でも君は普通にしていればいい。誰も突然ひざまずいて君を拝んだりしないから」
 「そう願いたいわね」そう言って私は微笑んでみせた。
 沢山の料理が運ばれて来た。エディはとても美味しそうにそれを食べる。きっと彼の食べっぷりを見れば、シェフも満足してくれるだろう。私もワインを飲みながら少しづつ食べた。彼が一通り食べ終えたところで言う。
 「今夜は夜通しワヤンクリットがあるんだ。影絵芝居って言うのかな?」
 私は頷く。「そうそう、何かの皮で作ったお人形を動かすんでしょう?テレビのクイズ番組で見たことがあるわ」
 「そう。ワヤンクリットって言うのは大体ヒンドゥー教の話を演じるんだけど、今日のは特別に龍の物語だ。それを見る為にみんなこうして集まって来たんだよ」
 「私を見るためじゃなかったのね」
 「いや、この物語は龍と聖龍の為だけに演じられるものだから、正しくは僕達と物語を見に集まったんだ」
 「奉納芸能みたいなものかしら?」
 「そうだね。でも前にこの物語が演じられたのは、もう誰も覚えていないぐらい昔のことらしい」
 「なのにちゃんと出来るの?」
 「そうだよ。一子相伝で伝えられているんだ」
 「と言う事は一人で一晩中やるって言う事?」
 「その通り。でも僕達は疲れたら寝ちゃっても構わないよ。神が現れたって言う事が大切なんだ。それを祝って演じられるだけだから。僕達がここにいなくても演じられる筈だったんだよ。でもちょうど僕達がここに居たから、君を見る為にこれだけの人が集まったんだ。それにそんなに長く観ていても言葉も判らないし、飽きちゃうだろう?」
 私は笑って頷いた。

 食事を終えた人達が少しずつ移動を始めた。私達も一番前の席に案内される。民族楽器が演奏され、灯りが消される。白いスクリーンに、ゆらゆらと揺れる炎に照らしだされて人の形をした影が浮かび上がる。
 どんどんみんなの意識がそこに引きつけられていくのが判った。しわがれた声で物語が語り始められ、影が命を得たように舞い始める。その物語は高く低く、時には怒鳴るように、時にはささやくようでもあった。音楽のようでもあり、お経のようでもあった。訳も判らないまま私はその影絵芝居に引きずり込まれていた。
 横向きに作られた影絵人形は、とても美しいアクセサリーで身を飾った男の人と女の人だった。男の人は細かく細工された冠のようなものを被り、胸には幾筋ものネックレスが掛けられているのが判った。女の人は長い髪に花を飾り、やはり沢山のネックレスとブレスレットを身に付けていた。その二人が花に囲まれた場所で幸せに暮らしていた。その女の人が沢山の荒々しい男達に連れ去られ、それを取り戻そうと男が冒険を重ねるというストーリーらしい。裸の男達が沢山繋がった影が女の人を担ぎ上げてスクリーンから消えた。女の人は連れ去られる時に掌に乗るほどの珠を残して行った。男はその珠に導かれて冒険を続ける。そして事ある毎にその珠の中に龍の姿が浮かび上がる。この地上でも龍は龍とすぐ判る形を持っていた。どこへ行っても龍は龍の形を持っているのだろうか。
 私はエディに尋ねてみた。「龍ってどこでもこの形なの?」
 「いや、ヨーロッパで言われるドラゴンはちょっと違うよ。羽根が生えているんだ。ドラゴンって言うのが龍と同じものかどうかはよく判らないけど。もしかしたら僕の国で言う麒麟と混ざっちゃったのかも知れないし。でも今は龍のことをドラゴンって訳しちゃうから。想像上の動物で、空を飛んだりするのをみんな同じものだって思ったのかも知れないね。それに元々龍自体が形を持っていた訳じゃなっくって、それを望んだ人間が形を作ったんだ。それに時代によって形も変わってきている。けれども今は、中国、ベトナム、インドその辺り迄ならデテールが多少違ってもほとんどこの形で、誰もがそれを見たときに龍だと認識できるよ」
 「みんなが同じ形を求めたのね」
 「そうかも知れないし、ある程度形になった龍を連れて移動したのかも知れない。絵だとか像だとかを見ることで、どんなものを求めればよいのかが分かりやすいだろう?人が移動する時には必ず神も連れていくからね。でも、その形がたとえ今思う龍の形をしていなくても、人が龍の力を求めて作り出した形には、龍の力が宿る。高野山にあった曼陀羅に描かれていたすべての仏が龍の化身であったようにね。それにあの緻密に描き込まれた沢山の仏が、龍の在り方の形を表していたんだ。穏やかで艶やかに着飾った如来も居れば餓鬼、亡者の類まで居ただろう?そして、そのすべての形は人の心をも表していた。龍と人。スケールが違うだけで結局同じものなのだろうね。だから、羽根が生えたドラゴンも蜥蜴や恐竜のようなドラゴンも、やっぱり龍の力を持って居るんだ」
 私は頷いてみせた。そしてまた尋ねる。
 「これ、最後はどうなるのかしら?」
 彼が微笑んで答える。「疲れて来たんだろう。この先は僕が君を探し出して、珠の中から龍が解き放たれる。そしてすべての者達が喜び、歓喜の舞を舞う。舞えない者は歌い、舞も出来ず歌いも出来ない草や木は、精一杯花を咲かせて喜びを表現するんだよ」
 「あの男の人があなたで、さらわれちゃった女の人が私だったの?」
 「はい。ずっと僕が君を探し続けてやっと見つけたのと同じさ」
 「ハッピーエンドなのね」
 「はい」
 「良かった」私がつぶやいた。
 彼は何も言わずに私の額に口付けした。

 私達は夜更けまで影絵芝居を見て部屋に引き上げた。影絵芝居はその段階でもまだ男の人は女の人を取り戻すことが出来てはいなかった。
 エディが言う。「ハッピーエンドは日の出の時間に合わせて演じられるんだよ。喜びを演出するにはそうするのが一番だからね」
 「きっと盛り上がるんでしょうね」
 「もちろんさ。誰もが龍の解き放たれるのを待ち望んで居たんだからね。でも僕の個人的な意見を言わせてもらえれば、あの主人公の男は龍なんて望んでは居ないね。彼が望んでいるのは妻を取り戻すことだけさ。だってツフシから君を取り戻そうと思った時、僕の心の中には龍なんて一かけらも無かった。愛する君を連れ戻りたい、そしてもっと愛し続けたいって思っていただけさ」そう言って片目をつぶってみせた。
 「ねぇエディ。私達のハッピーエンドってどんな形なんでしょうね。誰かが喜んでくれるかしら?」
 彼はしばらく考えた。
 彼の答えを待つ間私の耳にはワヤンクリットのうねるような語りが鳴り続けていた。
 「僕達の魂が喜ぶしかないかな?」彼がやっと答えた。
 「魂?」
 「そうだよ。こんな風に生きようって決めて生まれた僕達の魂が喜ぶんだ」
 彼は私に答えをくれた。誰かを喜ばす必要なんてなかったんだ。私は頷いて彼の胸に顔を埋めた。頭の中のワヤンクリットを彼の声が消してくれた。彼の鼓動が聞こえた。それが魂の声のように思えた。トクットクットクッ・・・逢えて良かった。生きていて良かった。パリに行って良かった。彼に着いて来て良かった。愛する心が残っていて良かった。何もかもが本当に偶然だったんだ。自分で決めたのでもない。彼が決めたのでもない、ただ私はラッキーだったんだと、心から思えた。こんな時普通の人は、神に感謝するんだろう。でも私には感謝する神がいない。生きていなかったら逢えなかった。辛い離婚を経験しなければ、一人でパリへも行かなかっただろう。そして彼を信じられなければ彼についても来なかったに違いない。何よりもあんなに疲れた心で彼を愛することが出来たことが奇跡のように思える。そして、その偶然のどれもが私に幸せをもたらせてくれた。誰からも、何からも、すべてのものに祝福され、ついには私は幸せになった。
 彼の胸に耳を付け、鼓動を聞きながら言う。
 「私達ってすべてのものに愛されたのね」
 彼の声を彼の胸から聞いた。
 「愛しているよ。僕はもう君を失うことはない。ずっとこのまま居られるんだ」
 私は彼の言葉を思い出していた。『真実であるとかそうでないとか、本当だとか嘘だとか、そんなことにどんな意味があるんだろう。本当に大切なのは二人が同じものを見ているかどうかなんだ』その通りだ。彼の言葉を否定してしまうことは簡単だった。何故なら私達は皆、死に向かって歩いているからだ。ずっとこのまま居られたりはしない。でも今私は確かに彼の言葉を信じている。ずっとこのまま居られると彼は言った。それでいいと思った。確かに二人は、肉体を持ったまま愛し合う幸せと言う同じものを見ていたのだから。
 「エディ」私は彼の名を呼んだ。
 彼が両手で私の頭を持ち上げて言う。
 「ヨーコ。どうして君はこんなに僕を引きつけるんだい?」
 私は彼に口付けした。そしてそれに答える。「きっと偶然よ」
 彼が笑った。「偶然だったのか。知らなかったよ」
 「そうなの。私もさっき知ったところよ。みんな偶然なの。いろんなラッキーが重なって今の私達があるのよ。だから神様に感謝したほうかいいわよ」
 「神様に?」
 「そう、神様に感謝するの」
 「ヨーコの神様って、なんて言う名前なの?」
 「知らないのよ。私もさっき考えてみたど、感謝したいのに、感謝するべき神様の名前も知らないの。どうすればいいと思う?」
 「それは困ったね。そう言う問題ってとても個人的なものだから僕には答えられないよ」
 「そう。困ったわね。じゃあ、あなたの神様の名前は?」
 「僕の神様の名前?」
 「そうよ」
 「ヨーコって言うんだけど信じられる?」
 「信じられない」
 「だって君が龍なんだもの仕方がないよ。そして僕の神は龍なんだ。先祖代々ね」
 「それもそうね。家の宗旨って何だったのかしら?良く知らないわ。そうだわ、エディって名前にしましょう。それがいいわ。エディ様ありがとうございました」そう言って私は彼に手を合わせて拝んだ。
 「ヨーコ ふざけてるね」彼が笑いながら言う。
 「まさか。本気よ。それにあなたは聖龍でしょう。何だかとても偉そうな名前じゃない」そう言って私は彼の手から擦り抜け、バスルームへ向かった。
 「ヨーコ!」彼は怒ったふりをして私を追い掛ける。私は子供の様に部屋の中を逃げ回った。彼が笑いながら追いかける。
 「オニサンこちら、手の鳴る方へ」私が囃し立てる。彼は広東語で何か叫びながら追い掛けてきた。
 私はわざと捕まって彼に尋ねる。「なんて言ったの?」
 「内緒だよ」そう言って悪戯っ子のように笑った。私は彼の心を久しぶりに覗く。そこにはテレビでは言えない言葉があった。
 「エディ!ひどいわ!」今度は彼が逃げる番だった。
 ワヤンクリットの興奮で、私達は明け方まではしゃいでいた。そしてやっと眠りに付いた頃、ワヤンクリットはクライマックスを迎えていた。しかしその時、私とエディはとても安らかな眠りの中にいた。

 私は夢の中で、物語の中の男と女が再会し、誰もが喜んでいるところを観ていた。そして私も同じように歌ったり踊ったりして喜んでいた。しかしその物語の男も女も、エディでも無く私でも無かった。



 随分日が高く登ったころアルンの電話で起こされた。いつものようにエディはもうベッドに居なかった。私が電話を取る。
 「おはよう」
 「ヨーコかい?」
 「ええ」
 「飛行機の用意が出来たよ」
 「ありがとう。後三十分で用意するわ」
 「聖龍は?」
 「判らないわ。ちょっと待って。リビングで運動してるかも知れないから」私はそう言って電話を持って、リビングに出て見る。
 思ったように彼はそこで舞っていた。
 「エディ!アルンから電話よ」
 彼は舞うのを止めて私の方へ近寄って来ると、額におはようののキスをして、電話を取った。
 私はそのままバスルームでシャワーを浴び、急いで用意した。ちょうど三十分で用意を終えてロビーに降りる。アルンは何かいつもよりウキウキした様子で待っていた。私とエディは顔を見合わせて笑う。アルンはそんな私達を見て照れ笑いを浮かべ、わざと突っけんどうに言った。「車の用意、出来てるよ」
 私達は笑いながら車に乗り込む。アルンが鼻歌を歌いながら車を発進させたところでエディが言った。
 「飛行機の操縦は落ち着いてやってくれよ」
 アルンがミラーの中で言う。「心配しなくても大丈夫さ。今の飛行機はほとんど機械が操縦してくれるからね。僕はただ計器を見てるだけさ」そう言い終わるとまた鼻歌を続けた。
 「ねぇ、おなかすかない?」私が言うとエディが頷く。
 「飛行機の中に用意したから、もう少し我慢してくれないかな」アルンが言う。
 浮かれていてもやっぱり良く気の付く男だ。そう思ったところでエディが笑った。
 「そうだね。でもこれからが大変だ。ミツコが来る前からこの調子じゃ、先が思いやられる」
 「いいじゃない。そんなに危険も無いみたいだし、機嫌のいい人を見てるのって素敵よ」
 「それはそうだ」そう言って彼は煙草に火を付けた。

 車はそのまま飛行場に入り、飛行機のすぐ側に着いた。
 私は一応あきれてみせたが、タラップを登って飛行機に乗り込む。アルンの言っていたようにテーブルには朝食の用意が整っていた。
 私とエディは離陸を待って、水平飛行になったところで食事を始める。
 「ねぇ、ミツコが来たら何をしようかしら?」
 「アルンに任せておけば?」
 「それはそうだけど。それよりアルンがミツコと一緒だと、私達だって新婚を楽しめるんじゃなくって?」
 「本当だ。ずっと隊長が一緒だったからね。夫婦水入らずって言うのかな?」
 「そうよ。それもまだ新婚なんですもの」そう言って笑った。
 彼が思いだしたように言う。「そうだヨーコ、アルンが今度コテージを用意したって言ってたよ」
 「素敵。じゃぁお部屋をお花で飾りましょう。アルンとミツコのお部屋もね」
 「判った。後でアルンに頼んでおくよ」
 「ダメよ。内緒で飾ってあげて」
 「OK そうしよう」

 私達は食後の紅茶を楽しみながらバリ島に向かって飛んでいた。