龍 14 バリ島
 空港に降りると、ムワッとする熱気と共に、甘い花の香りとスパイシーなクローブの入り交じった独特な南国の香りに包まれた。飛び立った時と降りた時では、全くの別世界だった。

 私達はアルンの手配した車でホテルへ向かう。
 「取敢えず近代的なホテルを取ったけれど、落ち着いたらコテージに移るのも悪くない」アルンが言った。
 エディが言う。「後二ヶ月はここに居る訳だからな」
 「あら?お正月までじゃなかったの?」
 「そうだよ。香港の正月は二月だからね」
 「旧暦なんだ」
 「退屈しそうかい?」
 「とんでもないわ。ここでだったらずっと住んでもいいぐらいよ。だって、南の島の楽園よ」私は、はしゃいでいた。

 車が着いた所は、相変らず超豪華なホテルで、相変らずゴージャスな部屋に通された。多分ここもナーガラージャのホテルだろう。
 「エディ。ここもそうなの?」
 「はい」彼が頷いた。
 私は思い付いて尋ねる。「ねえ、パリのホテルはどうだったの?」
 荷物を置いてソファーにゆったりと腰掛けた彼が答える。「あそこは違うよ。でも、ロアールのはそうだった」
 私も座って言う。「あなた、私をだましたでしょう?」
 彼が首を傾げる。
 私は溜息をついて言う。「ロアールのホテル、ちゃんとお部屋は空いてたんじゃない?」
 冷蔵庫を開け、ワインの栓を抜きかけた彼が、笑いながら答える。
 「はい。でも僕はあの時君と離れたくなかったんだもの」ふざけて甘えた口調で言った。
 私はもう一度大きく溜息をついて言った。「もしあなたが本当に悪い人だったら、私今頃どこかに売り飛ばされてたのよね。なんて無防備なことをしちゃったんでしょう。本当に私って馬鹿なのよね。嫌になっちゃう」そう言って私はソファーに足を投げ出した。
 彼は笑いながらワインを飲んで言う。「もしかしたらヨーロッパで売られていたより悪い状況かも知れないわね。まだ救いようがあるとしたら、私を抱くのがあなたに決まっているって言う事ぐらいよ。後はたいして変わらないわ。普通の牢屋とゴージャスな牢屋の違いぐらい。逃げ出せる可能性がない分だけこっちの方がひどいかも知れない」
 彼も笑いながらワインを一口飲んで言う。「鉄の鎖より愛の鎖の方が強くて重いからかな?」私は大きく頷く。
 それを見て彼が言う。「愛されているんだ」
 「そうみたいよ」
 「大変だね。かわいそうに」
 「あら、慰めてくれるの?」
 「もちろん」そう言って彼は私を抱き寄せる。そして言う。「良かったら僕の胸で泣いてもいいよ」
 「そうね。でも悲しくないもの、泣けないわ」
 「それは残念だ。じゃあ、さっきの約束を果たそうか」彼はそう言って私を抱いた。とても丁寧に、優しく、そしてとても情熱的だった。甘いバリの香りに包まれ登り詰めては降りる。思考力を失った私は全身全霊で彼を受け入れていた。



 次の朝レストランでアルンと一緒になった。
 「お早う。気分はどう?」アルンが言う。
 私がそれに答える。「最高よ。ここに居たらとても元気になれそうだわ」
 「もう一度チューブを付けてベッドに寝かせたいぐらい元気だ」エディが言う。
 私はエディの方を向いて言い返す。「チューブを付けて寝かせたいのはあなたの方よ」
 アルンが呆れて言う。「朝から夫婦喧嘩かい?」
 エディが答える。「とんでもない。お互いにちょっと愛し過ぎただけだよ」
 アルンが肩をすくめて言う。「ごちそうさま」
 私が言う。「あら、もう食べないの?」三人で笑った。
 私はエディでさえ呆れる程沢山のフルーツを食べる。アルンは途中で付き合いきれなくなったらしく「お先に」と言って席を立ってしまった。
 アルンの後ろ姿を目で追いながらエディが言う。「ヨーコ、そんなに沢山食べると、ちゃんと運動しないと肥っちゃうよ」
 私はそんな言葉は気にせずに食べ続ける。どれもとてもジューシーで、甘かったり酸っぱかったりして美味しかった。
 一通り食べ終えたところで私が言う。「エディ。運動した方が良かったのよね」
 彼はコーヒーを飲みながら頷いた。
 「泳ぎに行きましょうよ。私の水着も持ってきてくれた?」
 「はい。でも後で太陽の光に映える水着を買いに行こう」
 「そうね。でもまず泳いでからよ。だって私とっても元気なのよ」そう言って私は席を立つ。彼もそれに続いて席を立った。

 部屋に戻って私は水着に着替え、その上に空港で買ったコットンのワンピースを羽織った。そして部屋を出てガーデンプールへ行く。

 プールサイドでワンピースを脱ぎ、それをデッキチェアーに掛てプールに飛び込む。南国の太陽に暖められた水がキラキラと輝く水飛沫になった。プールの中からエディに手を振る。
 「エディ。最高の気分よ」
 彼も手を振って返すとプールに飛び込んだ。水の中で二人でじゃれ合う。とても優しく暖かい水に包まれて私は幸せを感じていた。
 ボードを借りて水の上にプカプカ浮かぶ。
 「ねえ。このままだと日焼けで大変なことになるんじゃないかしら?」
 「一度に焼くと大変だよ。木陰で慣らしながら焼いた方がいい」
 私達は水から出て、プールサイドのデッキチェアーをプルメリアの木陰に引っ張り込んだ。そして木漏れ日を浴びながらそれに横たわる。少し休んでまたプールに入って少し泳ぎ、また木陰で休んだ。それを三度ほど繰り返したところで私が言った。
 「ねえ、サングラスがあった方がいいと思わない?」
 「そうだね。それに君は帽子も被ったほうがいいよ。後でお化粧が出来ないぐらい日焼けが酷くなっちゃうかもしれない」
 「エディ。買い物に行きましょうよ」
 彼は微笑んで言う。「ヨーコ。初めてだね」
 私は片目をつぶって見せると言う。「そうよ。これから本性が出るのよ。私、あなたが呆れるぐらいの浪費家だったかも知れないわよ」
 彼は私の肩を抱いて言った。「構わないさ。君が好きなだけ買えばいい」

 私達は部屋に戻ってシャワーを浴びた後、身支度を整えてからホテルの中のショッピングセンターへ行った。そこは今までのナーガラージャのホテルと違い、とても充実したショッピングセンターで、ほとんどの物が揃っていた。
 私は洋服と水着とサンダルとつばの広い帽子、それにサングラスを買った。彼も同じように紳士物で揃えた。その後バティックのお店で彼は、民族風の衣装を三着仕立てる。そして私にもバティックで出来た夜のドレスを同じ数だけ注文した。彼はさすがに豪快なお金の使い方をする。 
 その後私達はラウンジに行ってトロピカルジュースを飲んだ。
 「エディ。買い物って楽しいけど何だか後で疲れちゃうわね」
 「どうして?」
 「だって、ほんの何時間かで私の半年のお給料分位使っちゃったのよ。と言う事は、半年はただで働かなきゃいけないって言う事だわ。疲れちゃうわよ」
 「なるほど。そう考えればそうだね。でも楽しむために働くわけだから、いいんじゃないかな?それに僕達がお金を使うって言う事もまんざら悪い事じゃ無いんだよ」
 私は首を傾げて彼を見る。
 彼が続ける。「僕達がお金を使ったことで誰かが儲かったっわけだろう?」
 私は頷く。
 「儲かった人達が喜んだんだ。そしてその人達がまたその儲かったお金で何かが買えるだろう。そうしたらまた儲かる人が出る。そうやってお金がいろんな人の間をぐるぐる回るんだよ。だから僕達がお金を使うって言う事は悪い事じゃない。経済的にね」
 「そう言うものなんだ。お金持ちっていろんなことを考えるものね。私なんかはお金って使っちゃうと無くなる物だって言う認識しかないわ」
 「使わないと儲からないのもお金なんだよ。皆がお金を使えば景気が良くなって沢山使えるように成るんだ。そうするともっと景気が良くなる。でもどこかでお金を使うのを止めちゃうと景気が悪くなってお給料も上がらないし、ボーナスだって出なくなっちゃう。そうするともっと買えないからどんどん景気が悪くなっちゃうだよ。ヨーコはどっちがいいと思う?」
 「景気のいい方がいいわね」
 「そうだろう。だから僕達がお金を使ったって悪いことなんて無いんだよ」
 私は判ったような判らないような気がしたが取り敢えず頷いた。

 私達は日中の暑い時間をショッピングセンターとラウンジで過ごし、夕方涼しくなってからホテルのプライベートビーチを散歩した。
 「ねえ、アルンはどうしているのかしら?朝見かけたっきりね」
 「日本から連れてきた隊員とこっちの隊員で訓練でもして居るんじゃないかな」
 「彼はいつも忙しいのね」
 「でもあいつは本当に良くやってくれる」
 「でもあんまり忙しいとミッチャンとデートも出来ないわね」
 「心配しなくていい。今まで十人分ぐらい働いてきたんだ。恋人が出来たってたいして変わらないよ。十人分が十一人分に成る位だ。それにここに居る限りそんなに忙しくはならないからね」
 「じゃあ、少しは楽になるかしら?」
 「大丈夫だよ。それに、どんなに忙しくたって、恋をしている時はうきうきして疲れたりしないんだ」そんな話をしながら二人で散歩をした。
 二人はパリで出逢った頃に戻りつつあった。とても気楽で、まだ龍が目覚める前の二人の様だった。

 しばらくの間、私達は朝ゆっくりの時間に目覚め、遅い朝食を摂って木陰で寛いだりプールで泳いだりしてホテルの中だけで過ごしていた。一週間ほどで私達の心の疲れはほとんど癒えていた。しっかり日焼けしてバリの人達と見分けがつかないようにも成っていた。アルンもほとんど気を抜いているらしく、良く私達と一緒にプールサイドで昼寝を楽しんでいた。そうしているうちに私達はホテルの中に居る事に飽きてきていた。
 デッキチェアーに寝ころんで私が言う。「ねえ、何処かに行かない?」
 エディが答える。「そうだね。観光って言うのもいいかも知れないね」
 アルンが寝ぼけ眼で言う。「車を手配しようか?」
 エディが頷いて言う。「明日の朝から島内一週って言うのはどう?」
 「いいわね」私が同意する。
 「じゃあ、僕はもう一眠りするよ」アルンはそう言って目を閉じた。
 私とエディはプールに飛び込んで体の火照りを静める。
 プールの中に浮かびながら私が言う。「ねえ、日本は今一年で一番寒い頃なのよね。何だかすべての事が、遠い昔のことみたいに思えるわ」
 「ずっとこうしていようか?」
 「ふやけちゃうわよ」
 「構わないさ。心がとても静かで充たされている」
 「エディ。でもきっともうすぐ飽きちゃうわ」
 「そうだろうか?」
 「多分ね。こうして寛いでいることにも、それに私にも飽きてきちゃうわよ」
 「それでもいいさ。普通の夫婦ってそんなものなんだろう?」
 「かも知れないけど。アルン達ががっかりしちゃうんじゃないかしら?」
 「いいじゃないか。僕達にだって幸せになる権利があるんだ」
 私が問う。「聖龍としての義務はどうするの?」
 「もう、充分果たしたよ。僕の龍はとても働き者だったからね」
 私は水の中に潜る。そして息が続くかぎりプールの底を泳ぐ。そして息が苦しくなったところでまた水面に顔を出した。そしてエディに言う。「ガマンした後だから今とても空気がおいしいわ」
 彼は私の傍に泳いで来て言う。「どうして君はそんなに強くなろうとするんだい?」
 「あなたが居るからよ。あなたに愛される度に強く成れるの。でも本当は私とても恐ろしいわ。またあの心の世界で戦わなければいけないことが。だってあなたと離れ離れになって、呼んでも答えて貰えなくって。今でもあの指が六本有った時の夢を見るわ。とても心細くって恐ろしいの。でもあの中に住み続けていたフツシはもっと恐ろしかったんだろうなって思う。それも寂しさや恐ろしささえも忘れてしまう程の長い時間だったのよ」
 エディは水の中で私を抱きしめる。「ヨーコ。もう忘れようよ」
 私が問う。「あなたは忘れられるの?」
 彼は私を放すと水を蹴って空を向いて浮かぶ。私も彼と並んで浮かびながら言う。「自然に任せましょう。まだ休暇は始まったばかりだし、龍の時は急がないわ」
 エディが突然向きを変えて私に抱き付くと、私を水の中に引きずり込む。私は水面を通して太陽を見た。彼が手を放しても私はしばらくそのまま水を通して太陽を眺め続けた。それはいつも見ている太陽と違う表情を持っていて、穏やかに揺らめいていた。水の中で私は涙を流した。その水を通して見る太陽は、フツシの世界の色に似ていた。
 エディが私を引き上げる。「ヨーコ。どうしたの?」
 私は首を振って水を跳ねのけると微笑んで見せた。
 「このまま死ねるかと思ったのよ」
 彼が悲しそうな顔をした。
 私は慌てて言う。「冗談よ。水面を通して見える太陽があんまりにも綺麗だったから見とれちゃったのよ」
 彼は泣きそうな顔で笑った。まだ私達はお互いを必要としているようだ。
 アルンがプールサイドから叫ぶ。「食事にしないか?」
 エディが即座に答える。「すぐに上がるよ」そう言うと私の手を引きプールサイドに向かって泳いだ。

 私達は昼食を摂りながら話す。「何処へ行けばいいのかしら?」
 それにエディが答える。「まずはバロンダンスを見に行くべきだね。それからキンタマーニへ言って美しい風景を楽しむ。そして後は幾つかの大きな寺院を巡るコースじゃないかな」
 「ずっと前に来た時にタナロットへ夕日を見に行ったんだけど、お天気が悪くって夕日が見れなかったの」
 「アルン、今日は夕日が見えそうか?」エディが尋ねる。
 アルンは窓の外を見ながら言う。「大丈夫だよ。この分だと申し分の無い夕日が見られる」
 エディが微笑んで言う。「OK 夕日は今日見に行こう。あそこの夕日はとてもロマンチックだからね」
 「エディ、あなたは結構ロマンチストなのね」
 「はい。男は皆ロマンチストなんだよ」
 私は両手を上げて肩をすくめて見せた。
 エディが思い付いたように言う。「そうだ、これから街に出ないか?」
 「外はとても暑くってよ」
 「大丈夫さ。博物館へ行こう。冷房も効いているし、それに買い物だって出来る」
 「危険じゃなくって?」私はアルンに向かって尋ねる。
 「大丈夫だよ」アルンがそう言って微笑んだ。私は頷いてエディを見る。エディはとても嬉しそうに笑っていた。

 私達は食事を終えて部屋に戻り、服を着替えた。いつもジーンズにTシャツ姿なのに、久しぶりにちゃんとした服を着たエディは、日焼けしていて、ちょっとした映画俳優の様に見えた。
 「エディ。ビューティフルよ」
 私が言うと彼は口の端を上げて笑うと言った。「ヨーコ。君はとてもチャーミングだ。とても日本人には見えない」
 「それって誉めていただいたのかしら?」
 「もちろんさ。基本的に中国人は歴史的な背景から日本人が好きじゃないんだ。僕とヨーコの間では全く関係の無い事だけどね。だから日本人に見えないって言うのは僕達中国人にとっては最上級の誉め言葉さ」
 「ねえ、エディ。私達今の日本人って戦後の教育を受けているんだけど、日本があなたの国の人達に何をしたかなんて何も習っていないのよ。とても申し訳無いことだと思うわ。多分教科書には書いてあったと思うんだけど、近代や現代迄進まないうちに終わっちゃうの。時間が少ないこともあるんだけど、もしかしたらあまり教えたくないのかも知れないわね。日本の歴史に対する教育ってとても片寄っているのよ。神話の時代のことなんて全く教えてくれないし、今回のことであなたの本を読んで初めて知ったことばかりだったのよ。戦前にはそれも歴史として習っていたのにね。イザナギとイザナミの名前も、戦争で日本人がアジアの人達に何をしたのかも習わないわ。だから私達は一番古い事と一番新しい事を知らないの。変な国よね。でもそれって私達にとっては幸せなことなのよ。知らないって言う事は無かった事と同じだし、知ったところで償う方法も無いんですもの」
 彼は微笑んで言う。「ヨーコが気にすることじゃない。差別や偏見って言うのはどこの国にでもあるものなんだ。中国人だって良い人も居れば悪い人も居る。日本人だって、アメリカ人だってそうさ。それに戦争を始めたのは一握の権力者達だ。それだって魂の進化に必要だったのかもしれないじゃないか」
 私は頷く。
 彼が私の肩をポンッと叩いて言う。「さあ、街へ行こう。アルンが待ってるよ」

 私達は部屋を出てロビーに降りた。
 アルンはソファーに座って煙草を吸いながら新聞を拡げていた。それを見つけて私が言う。「ねぇ。ちょっと怖いお兄さんじゃなくって?」
 エディが笑いながら答える。「確かに。もし知らない人だったら近寄りたくないタイプだ」
 アルンが私達に気付いて近寄って来た。
 私は小さな声で言う。「逃げましょうか」エディが声を立てて笑う。
 アルンは訳が判らずにキョトンとしながら言う。「車の用意が出来てるよ」
 「ありがとう」私はそう言ってアルンの腕に手を回して言う。
 「行きましょう」

 アルンの用意してくれた車は、すでにクーラーで心地好い温度に冷やされていた。
 「本当にアルンってよく気がつくのね」私はそう言いながら乗り込んだ。
 アルンの運転で博物館へ向かう。
 私がアルンに尋ねる。「あなた、良くこっちへ来ていたの?」
 「ああ。一年の内の六週間から七週間はこっちに居た」
 「こっちにも何か有るの?」
 エディが答える。「そうだよ。ここはナーガラージャの島って言ってもいいくらいだ。ヒンドゥー教にカムフラージュしては居るが、その根底には龍が居るんだ。明日ブサキ寺院へ行ってみれば判るよ。寺院の台座を龍と亀が守って居るんだ。この島の人々の三分の一は龍を見ることが出来るんじゃないかな」
 「どうして亀が一緒なの?」
 「亀はこの大地を表しているのさ」
 私は頷く。「だからここは安全なのね」
 アルンが言う。「そう。退屈で仕方ないけどね」
 エディが言う。「いいじゃないか。たまにはゆっくりすることも必要さ」
 アルンが小さく頷いた。エディと私は顔を見合わせて笑った。

 私達の車は博物館の駐車場に着く。
 私は帽子を被って外に出た。日差しはとても強くて、目線を上げると眩暈がする程だった。古いレンガで出来た独特の形の門を潜る。それは一つに作ったものを大きな鋸で真半分に切り開いたような形をしていた。
 中に入るとほとんど人影は無くシーンと音のするような冷えた空気が、いつもより重さを増してそこにあった。バティック、バリ絵画、そして彫刻。色んな物が展示してある。ガラスのショーケースの中に古い面があった。私はその面の中に日本の能面に良く似たものを見つけた。
 「ねぇ、これって能面と同じじゃない?」
 エディが頷く。「きっとこの辺りの人が海を渡って日本に辿り着いたんだ」
 「もしかしたら私のルーツもこの辺りかも知れないわね」
 「かも知れないよ。龍なら海を渡るぐらい何でもないからね。沖縄、台湾、香港、ルーツはきっと同じ民族だよ。なのに戦争なんて馬鹿げてるよね。皆本当は兄弟なんだ。さっきの続きみたいだけど、日本人も、中国人も、元々は同じなんだよ。南から海を渡って来た人達と、北の山を越えてきた人達の混血なんだ。今はたまたま日本人と中国人だけど、ずっと昔はモンゴロイドとポリネシアンの混血なんだ。僕達みたいにたまたま国籍が入れ替わって生まれてしまった者だって居る位だ。それに入れ替わったところでなんの問題もない」
 私が尋ねる。「アルンはどうなのかしら?」
 「モンゴロイドはどこから来たと思う?」
 「モンゴルでしょう?」
 「チベットの山を越えてモンゴルへ行ったんだ。チベットの南はアルンの国さ。そしてチベットには、完全なる白人コーケシアンも居るし、ドラヴィダ族や、アーリア系の民族も居る」
 「インドが一番初めなのかしら?」
 「判らないよ。でも多分、僕達が思っているより大昔の人達は、地球規模で移動していたんじゃないかな」
 「つまり人類は皆元を辿れば同じだって言う事?」
 「多分ね」
 私達は空調の効いた館内をゆっくりと見物した。博物館と言う所は、大体どこでも同じように静かで同じような臭いがする。昔パリの人類博物館に行った時もそうだった。規模的には全然違うが、やはり同じ空気に充たされていた。それは多分、死んだ者や、物達の寝息の臭いだ。美術館に飾られている物のほとんどは、生きていて何かを語りかけようとしているけど、博物館に飾られている物のほとんどは、大昔に生きてそのつとめを終え安らかな眠りについている物ばかりなのだ。だからそれを観る者もその眠りを妨げないように息を詰め、静かに過去を読み取ろうとする。それはとても良く整備された、公園墓地のようだ。人はいつも死者から何かを教わろうとしている。
 私達は一通り見終わって外に出、木陰に置かれたテーブルについてお茶を頼んだ。運ばれてきた紅茶はバリティーで、とても不思議な、そして懐かしいような香りがした。それは私の口に良くあった。
 「バリの紅茶を神戸のホテルでも出したらどう?ちゃんとバリティーって書いて注文を取るの」
 エディが答える。「そうだね。イギリスブレンドと違う味わいがあっていいかも知れないね」
 私は頷いて紅茶を口に運ぶ。「日差しの中は焼け付くように暑いのに、木陰に入っただけでこんなに心地好いなんて不思議ね」
 エディが答える。「都会の人工的な暑さと違うからね。本来の暑さってこう言う物だったんだよね」
 「そうね。子供の頃はそうだった様な気がするわ」
 アルンは黙って私達の話を聞いていた。私はそんなアルンに問う。
 「ねぇアルン。ミツコが来たら何をするの?」
 「何をするって?」
 「一緒にどこかへ遊びに行く?」
 「さあ?どうしよう。ホテルでゆっくり寛ぐのもいいかも知れないし、彼女はスポーツを楽しむかも知れない」
 「あなた、何も聞いていないの?ちゃんと毎日電話してる?」
 「いや。着いた日に電話しただけだ」
 私はあきれて言う。「アルン、ちゃんとこまめに電話するのよ。それでどんな所に行きたいだとか、何がしたいだとか聞かなくっちゃ。エディ、ちゃんとアルンに教えてあげなきゃ」私はエディに言う。
 アルンが慌てて言う。「ダメダメ、こいつは運が良かったから結婚出来たけど、あの方法だといつまでたっても結婚相手なんて見付からないよ。僕は真剣に彼女のことを考えて居るんだ」
 エディが苦笑して言う。「まいったな。僕はそんなにいいかげんな事をしていた訳じゃ無いよ。でもお前に言われると心に突き刺さるものがある」
 私はそんな二人のやり取りを見ながら言う。「ねぇアルン。私っていったい何なの?プレイボーイに引っ掛かった哀れな蝶?」
 二人で大きく頷く。そしてエディが言った。
 「でも、君は蝶じゃ無い。龍だ」私も思わず頷いた。そして我に返って言う。
 「もう。あきれた人達ね。でもアルン、本当にもう少しまめに電話しなさい。彼女、きっと待ってるわ」私はそう言い終わるとカップに残った紅茶を飲み干す。
 エディが言う。「買い物に行こうか?」
 私が答える。「そうね。宝石を沢山買いましょう」
 エディは口笛を吹いて立ち上がる。「OK それは楽しみだ。ヨーコにはどんな石が似合うだろうね」
 彼はとってもはしゃいでいる。アルンはあきれた風情で立ち上がる。私は冗談のつもりだったのにエディがあまり喜んだので戸惑ってしまった。

 とにかく私達はアルンの車で銀細工の店に行った。そこには何の飾り付けもなくただガランとした店だった。しかし大きなショーケースがあって、その中にとても沢山のアクセサリーが入っていた。
 エディはとても真剣な顔で品定めをする。私は彼が選び出すのを待った。アクセサリーは彼がプロフェッショナルだ。しばらくして彼がネックレスを一つ選びだした。それを店の人に渡すと、その人が柔らかそうな革で磨いてエディに返す。それを彼は私の後ろに回って首に付ける。そして鏡に映す。
 それはとても細かく細工されていて、柔らかな輝きを持っていた。そして日焼けした私の肌にしっくりと馴染んだ。細やかな輝きが私の心の端の方を揺さぶる。
 何だろう、この感覚は。懐かしいような、悲しいような、それは良い音楽を聞いた時の感覚に似ていた。
 私は振り向いて言う。「エディ、私これ欲しいわ」
 彼は微笑んで頷いた。そして次の物を選び始める。
 私は彼に言う。「エディ。それだけで十分よ」
 彼が怪訝そうな顔をして言う。「どうして?沢山買うんじゃなかったの?」
 「いいの。これがとても気に入ったから、この気持ちのまま帰りたいわ。だって一度に沢山買うと、何だか嬉しさが薄まっちゃいそうな気がするんですもの」
 彼は頷いて言う。「判った」
 そしてネックレスの代金を支払う。私はそのネックレスを付けたまま店を出る。
 出口の所でアルンに言う。「どうこれ?」
 「良く似合うよ」アルンが誉めてくれた。
 支払いを済ませたエディがアルンに言う。「アルン、妻にするならヨーコの様に物を欲しがらない人にするといい」
 「あら。でもこれってあの中で一番いい物だったんじゃなくって?」
 「ヨーコは見る目がある。確かにそうだ。他の物が十個ほど買える値段だった」
 「まぁ、じゃあ十個も買ってもらったのと一緒なのね。どうもありがとう?」
 「どういたしまして」エディとアルンが笑っていた。

 私達はアルンの車に乗り込んだ。
 私は思う。沢山の物を持っていても仕方が無いんだと。私が居なくなればそれはエジプトのピラミットの様に、だんだんと風化し砂に帰ってしまう。それはきっと物にとって辛いことに違いない。使う人の居なくなってしまった物。道端に打ち捨てられてしまった物。博物館のように墓に葬られる物より、そうして朽ちて行く物の方が、絶対的に多いのだ。私の持った物にそんな思いはさせたくなかった。私を飾り、喜ばせてくれた物を、後で誰かが使ってくれるのだろうか?私は何も持つべきではないのかも知れない。
 「エディ。私が死んだらあなたに貰った沢山の物はどうなるのかしら?」小さな声で尋ねてみた。彼は驚いたように私を見ると、少し考えて言った。
 「ナーガラージャの誰かが使ってくれるよ。アンディの子供達かも知れないし、奥さんかも知れない。それに僕の物はきっとアンディが使ってくれるさ」
 私は小さく頷いた。
 彼は何も言わずに私の肩を抱き寄せる。
 私は少し元気を出して言う。「そうだ。食べちゃえばいいんだわ。食べちゃえば何も残らない。おいしかったって言う記憶だけだわ」
 エディが笑う。「ヨーコ。おなかすいたの?」
 「ええ。少しだけね」
 「どの位少しなの?」
 「この位よ」私は両手を大きく拡げてみせた。彼が笑う。
 「それは少しだ。アルン、どこかのレストランへ着けてくれ。ヨーコが来れ位おなかがすいたんだって」そう言って両手を大きく拡げた。
 私は片方の手を少し戻して言う。「この位よ」
 アルンがあきれたような口調で言う。「もう少しだけエレガントだと申し分ないんだけど」
 私は両手を目一杯拡げて言う。「この位少しでいいのかしら?」
 アルンが笑いながら頷いた。隣でエディが笑い転げていた。

 私達はレストランでインドネシア料理を、本当に少しだけ食べた。それはとてもスパイシーでなおかつ甘い。そして漢方薬のような香りがした。
 食後にエディがガラムの煙草をくれる。私はそれに火を付け、普通の煙草のように吸い込んで、むせかえった。
 「大丈夫かい?」
 「ええ、大丈夫」私はそう答えてもう一度そっと吸い込む。煙草の先でパチパチと何かが弾けた。そして何となく甘い味がして、バリの香りがした。
 「クローブが弾けるんだ。それにお砂糖が入っているから甘いだろう?」
 私は頷いて言う。「とってもインドネシアだわ」
 「面白い言い方だ。確かにインドネシアだ」
 アルンもガラムの煙草を吸いながら言った。

 その後私達は、ゴアガジャ象の洞窟に向かった。
 車の中で言う。「ねえ、エディ。本当にずっとここに居られたらいいわね。こんなに簡単に外出できるって素敵よ」彼も嬉しそうに頷いた。私はそんな彼を見てとても満足していた。
 車窓から見える風景は、農村その物でとても落ち着けた。緑の田んぼが拡がっているかと思えば黄金色の田もあり、そして、もうすっかり刈り入れの終わったものもあった。日本のようにすべてが同じと言う訳ではないようだ。
 エディが言う。「いつでも同じ気候だからね。早く撒けば早く取れる。そしてまた次に撒けるんだ」
 「大地の龍に祝福されているのね」
 「そうだね。この島の人々はすべての龍に祝福されているんだ。だから僕達も穏やかな気持ちで居られる。ナーガラージャの楽園さ」
 「ねえ、私達ここでアダムとイブになりましょうよ」
 エディが微笑んで私を抱き寄せ、言う。「アダムとイブをそそのかしたのも蛇、つまり龍なんだよ」私は頷いた。
 「そうね。楽園に居る事が幸せだとは限らないよ。だって楽園にいたら魂は進化しないわ。そして悲しみも苦しみもないから喜びもないのよ。龍がそのことを教えてあげたんじゃないかしら?」
 「君はそんなふうに思うんだ。僕は火の神が龍を貶める為に作った神話だと思ってたよ」
 「私は違うと思うわ。龍は人に知恵を与えたのよ。苦と楽を自分で選べる様にね。そしてどちらもが人にとって、大切なものだって言う事も教えたの」
 エディは黙って肩を抱く腕に力を込めた。

 車は目的地の駐車場で止まった。観光客目当てのお店が沢山並んでいて、私達はそれを冷やかしながら歩く。香港の時のようにエディはお店の人と楽しそうにやり取りをする。途中で変わった果物を一袋買ってくれた。それをベンチに座って三人で食べる。手で皮を剥いて口に含むと、ちょっと弾力のある白い実が弾けて甘い果汁が口一杯に拡がる。そしてとてもいい香りがした。エディとアルンはつぎつぎに皮を剥いで食べる。地面には沢山の皮と種が散らばった。それを片付けようとする私にエディが言う。「自然の物は土に帰るからそのままでいいんだよ」
 私は片付けるのを止めて頷いた。「そうね。ここにはまだ土があるものね。でも、コンクリートの時はちゃんと片付けてね」
 エディとアルンが「判ったよ」と言って頷いた。
 一袋全部食べ終えて坂道を下る。そしてゴアガジャの洞窟に行った。

 ヒュンドゥーの神様ガネーシャ。人間の体に象の頭が付いている。とても乱暴だけれど、学問の神様だとエディが教えてくれた。
 私は熊野の洞窟を思い出して入るのをためらった。
 エディが笑って言う。「ほら、手をつないで行けば大丈夫だろう?」私は彼の手をしっかり握る。
 中に入るとその洞窟はそんなに深くなく、そしてそんなに暗くもなかった。突き当たったところに石でできた三体の像が祭られている。それはまるでお地蔵様のように見えた。
 私が言う。「この端のがエディで次がアルン、そしてもう一つが私よ」
 アルンが言う。「罰が当たるよ。とっても大切な神様なんだから」
 「あら。私達だって神様なのよ。あなたも、ミツコも、さっきのお店の人だって、ほら其処に居る人だってそう。みんな神様の化身なの。忘れないで。神は人の中にあるの。そして龍は自然の中に在るのよ」
 エディが言う。「アルン、本当だよ。ヨーコは今とても大切なことを言った。神は人の中にあり、人が自然の中にある時、龍もまた人と共に存在するんだ」
 私達は洞窟を出て、車に戻った。アルンは神と龍について考えているようだった。そして運転席に座り、首を振って言った。
 「わからないよ。難しすぎる。でも、何となく判りそうな気がしてるんだけど」
 エディが言う。「焦らなくてもいいさ。時が教えてくれる。神が人の中にあり、人が自然の中にある時、龍もまた人と共に在る。聖龍の書の最初に書いてあるのさ。何時かお前があの書を見る時にはきっと理解できているさ」
 「僕は本当に聖龍に成るのか?」
 私が言う。「あら。そうよアルン。あなたは何時か必ず聖龍になってミツコの龍を使うのよ」
 エディが続ける。「後何度生まれ変わってからかは判らないけれどな」
 アルンはもう一度首を振ってから車を発進させて言った。「夕日を見に行こう」
 私とエディは顔を見合わせて笑った。

 タナロットの夕日は私達に感動を与えた。それはとても荘厳で、美しく、心の奥底を揺さぶった。私達は三人並んで言葉もなく眺めた。朱色に燃える太陽が、海に同じ色の道を作りながら音も無く沈んで行く。しかし私達の耳には音楽が聞こえていた。そしてその音が心の奥の何かを揺さぶっていた。さっきネックレスを見たときに感じた心の揺れももっと大きなものだ。そしてその太陽の前に、美しい寺院のシルエットが浮かび上がる。薄く拡がった雲にも太陽は色を与える。そこにも不思議なリズムがあった。私の心の奥で何かが動く。大昔に失った何か。しかしその夕日を見ているうちに、それは失ってしまった物ではなく、封じ込められていただけだと言う事に気付いた。その封印をタナロットの夕日が揺さぶったのだ。私達は夕日が沈み切った後もしばらく暗い海を見ていた。
 誰からともなく其処を離れ、坂道を登って車に戻った。私とエディはしっかりと手を握りしめていた。タナロットの夕日は私達に新しい力を与えてくれた。

 「エディ。もう少しよ。最後までやってしまいましょう」彼は静かに頷いた。
 アルンは何も言わずに前を見つめて車を走らせた。
 エディが思い付いたように言う。「アルン。どこかでケチャは見られないか?」
 アルンが少し考えて言う。「多分、今日は無い。しかし明日の夜なら有る筈だ」
 「OK じゃあ、明日にしよう」
 「まあ。良かったわ。私ケチャも見逃してたのよ。楽しみだわ」
 エディが言う。「後は何を見逃したの?」
 「まだ有るってよく判ったわね」私が言う。
 彼が笑いながらそれに答える。「ヨーコは一度に沢山のものを欲しがらないからね。多分、見たいものを幾つか決めて、それだけ見て帰ったんだろう?」
 「そうかも知れないわね。でも観光がセットになっていたツアーだったから、お決まりのコースを回って後はプールで泳いでたのよ」
 「お決まりのコースって何処へ行ったの?」
 「今朝あなたが言ったみたいにバロンダンスを見て、キンタマーニへ行って、幾つかの寺院へ行ったわ。ベサキ寺院とか、タンパクシリンとか、それにお猿さんも見たわ。頭の上がとんがっていてとってもかわいいの」
 「それでタナロットの夕日を見損なった」彼の言葉に私が頷く。
 「後はジョグジャカルタに飛んで、ボロブドゥールを見たわ」
 「ボロブドゥールはどうだった?」
 「とっても素敵だった。何日も居たかったぐらい。あの静けさ、静寂って言うのかしら?仏様達が無言で語り合っていたの。そして上段に在ったストゥーパは、宇宙からのエネルギーを集めていた。あの時私は自分の人生が取るに足らないものだって言う事に、初めて気付いたのよ。そして失うものなんて何も持っていないことも知った。命一つだけで生まれてきて、それを返すことが死ぬことだって思ったの。そうね、だからパリからあなたに付いてきたのかも知れないわ。だって私ずっと思っていたのよ。もしだまされていたところで失うものはこの命一つだけだって。だから私はあなたにすべてを任せられたのよ。もしあのボロブドゥールでの体験がなかったら、あそこまで何も考えないではいられなかったかも知れないわね」
 「もう一度行ってみないか?」
 私はしばらく考えた。そして少しだけ思い切って言った。
 「エディ、私前の夫とのハニムーンでこちらに来たのよ」
 彼が微笑んで言う。「そうだと思ってたよ。少し辛いかい?」
 私は首を振って言う。「違うの。今まで何とも無かったのよ。ただボロブドゥールのことを思い出したら、何故か少し寂しくなってしまったの」
 「何が君を寂しくさせたんだろう?」
 「だって私、新婚旅行で一番楽しいはずの時に、一人で生まれて一人で死ぬって言う事を悟ったのよ。私の人生ってとっても寂しいって思わない?」
 彼はそっと抱き寄せて小さな声で言った。「夢の中での事さ」
 私は彼の方を向いて笑ってみせた。それに対して彼はとても素直に微笑み返した。
 彼はいつもいろんな笑顔を見せてくれる。そしてどの笑顔も私を安心させてくれるのだった。

 ホテルのロビーで私はアルンに手を振りながら言う。「また明日ね。ちゃんとミツコに電話するのよ」
 アルンはそれに後ろ向きのまま手を振って答えた。

 部屋に戻ってエディが言う。「ねえ、ヨーコ。ボロブドゥールに行こうよ。僕と一緒じゃ嫌かい?」
 私は首を振って言う。「ええい。行きたいわ。あなたと一緒に」
 彼は私を抱き寄せると口付けする。「僕は失いたくないものを見つけてしまった」
 「それって私のことかしら?」
 彼が笑う。「良く判ったね」
 私も笑う。「もちろん。だって夫婦ですもの。でも愛を失うことはとても難しいわよ」
 彼が首を傾げる。私が続けた。
 「だって命を捨てても魂はずっと続くんでしょう?それに愛は魂の存在と深く関係しているみたいよ」
 彼はソファーに座らせると後ろに回って言った。「そのとおりだ。僕は君を愛する地獄から抜け出せ無いんだ」
 「あなたは地獄なの?私には天国だって思える時があるわ」
 「それってこう言う時にかい?」そう言って彼は私を抱いた。しかし私にはそれが天国なのか地獄なのか判らなかった。何故なら私はまだ生きていたからだ。

 彼の腕の中でまどろみながら言う。「夕食はどうするの?さっきのインドネシア料理で終わり?」
 彼が答える。「まさか。あれはおやつだよ。ちゃんとしたのを食べよう」
 「でも私もうレストランへ行くのめんどうだわ」
 「判った。ルームサービスにしよう」私は頷いて起き上がる。
 「じゃあシャワーを浴びるわ」そう言ってバスルームへ行く。彼ももう一つのバスルームでシャワーを浴びた。そしてバスローブのままで夕食の用意の出来たテーブルを挟んで座った。

 彼がワインを注いでくれる。そして二人だけのカンパイ。
 「タナロットの夕日にカンパイ」そう言ってグラスを合わせた。
 私は料理を食べながら言う。「ねぇ。私の龍はまだ元気にしてる?」
 彼が目を上げて答える。「ああ。とても元気だ。君は本当に立派に龍を育てたね」
 「ありがとう。でも私今とても迷っているのよ」
 「何を?」
 「それも判らないのよ」
 彼が私の空になったグラスにワインを注いでくれる。私はそれを飲んで言う。「あなたによって充たされて、そして愛され、目的を与えられたの。とても幸せで、余りにも幸せ過ぎて、その上死に対する恐怖からさえも解放されてしまった。こんな事って本当にあっていいのかしら?」
 彼はそれに対しては答えなかった。私は焼いた海老を口に運んだ。それをとてもおいしく感じた。「ねぇ、このお料理を食べて美味しいって思える事も幸せで、あなたに与えられるすべての物も幸せだわ。こうして生きていることも幸せなら、あなたに殺して貰えることも幸せよ。私には不幸せを選ぶ余地が無いのかしら?」
 彼はフォークを置いて答えた。「ヨーコ、それは君次第だよ。今君が言った幸せなことをすべて不幸せだと思えば、君は幸せを選ぶ余地も無いことになってしまう。君は人の心の奥を深く覗き過ぎたんだ。人の悲しみの部分をね。人の心の奥底には、必ず悲しみがある。でもその悲しみの最後には、必ず希望もあるんだ。でも君の中には希望が無い。その事が君を不安にさせて居るんだ」
 私は食べるのを止めて考える。そして尋ねた。「希望ってなんなの?」
 彼はそれに事もなく答えた。「それは欲のことだよ。希望は欲がなければ生じない」
 それはとても哲学的な答えだった。
 私は欲について考える。人の欲とは突き詰めるとどう言う事になるのだろう。お金が欲しい。権力が欲しい。人に認められたい。愛されたい。後は食べることと寝ること。それだけの欲しか思い付かなかった。ならばなぜお金が欲しいのだろう。お金があればどんな良い事あるのだろう。それは多分生活が楽になると言う事だ。反対に言えば生きる為に働かなくても良いと言う事だろう。ならば生きることを望まなければお金は必要ないと言うことだ。権力はどうだろう。それもお金と同じで生きることを望まなければどな権力も振るえない。では愛は?愛は死を望んだ時に希望と成り得るのだろうか?良く判らなかった。
 「ねぇエディ。死を受け入れた時、人は何を希望とするのかしら?」
 彼は静かに答えた。そしてそっと目を上げて答える。「魂の存続だろうか?」
 私はその事について考える。他の欲はすべて肉体を持って初めて成立する。しかし愛は魂と肉体の両方に股がっているようだ。龍の正体が少し理解出来そうな気がした。
 「ねぇ、龍って愛その物のことじゃないかしら?」
 エディは判らないと言う風に首を振ると言った。「ヨーコ、君は龍について何の知識も偏見もなく龍と付き合い始めたから、僕達ナーガラージャ達とは全く違う発想が出来るんだね。そしてそれは限りなく真実に近いような気がする。僕達ナーガラージャは、龍を神と崇め、龍が貶められ封じ込められた神だと思い続けてきた。龍が神であった時、人々は幸せであり、龍の代わりにヒの神が現れた事によって人々が不幸になったと思ってきたんだ。だからそれをバネにして、今まで龍神族としての誇りを失わずに、隠れて生きてきた。しかしヨーコの示す龍は少し違うような気がする。僕は君の龍が目覚めてからの事をずっと思い出し、考えてみたんだ。すると僕達の求めていた龍の姿と違うものが見えてきた」
 「私はあなた達を失望させてしまったのかしら?」私は少し不安だった。
 彼はまたしばらく考えると言った。「多分、僕達の望んでいた龍の姿が間違っていたんだ。きっとヨーコの示す龍の姿が正しいんだ。僕達は本当の意味でもっと大きく成長する必要があったんだろう。君は火の神の出現でさえ、龍の望んだことだと言ったね。それに君は、敵にも愛を与えることが出来る。たとえ間違いであっても、それをそのまま君は受け入れることが出来るのだろう。僕達が憎しみ続けてきたものにも龍は等しく愛を与える。僕達は龍が蘇り、火の神を討ち滅ぼしてくれると思っていたんだ。でもそれは間違いだった。龍は人その物で、人が龍その物だったんだ。人の望むものは龍の望むもので、龍の求めるものを人は求めるんだ。人に出来ないものを龍の復活に懸けていた僕達が間違っていた。僕は君にその事を教えられたよ。龍の力はすべて人の力だ。本来人の持っている力をフルに発揮した状態が、君の龍の力なんだ。僕はずっと昔に、なぜ龍使いの名前が聖龍なのかと不思議に思った事があるんだ。龍使いは人であって龍じゃない。聖なる龍を使う人なんじゃないのかってね。でも今の僕にはなぜ聖龍なのか判るよ。龍を知り、そしてそれを使う事によって、自分の中の龍を目覚めさせた者と言う意味だったんだ。僕達は永く虐げられていた為に、卑屈になっていたのかも知れない。火の神を討ち滅ぼして龍を祀るなんて、まるで火の神の考えそうな事じゃないか」
 そう言い終わると彼は椅子の背に体を預けた。私には良く判らなかった。今まで自分がしてきた事や、言った事の意味も。エディが思った事を自分が示したかったのかどうかも判らない。
 「エディ。私何も判らないのよ。ただ行き当たりばったりでやってきただけで、あなたが思った事が正しいのか、ただの思い過ごしでしかないのかも判らない。だって私はただあなたについてきただけだし、何もしたいわけじゃ無かったんですもの。私の言ったことだって何の根拠も無くただ思ったことを言っただけだわ。理由や理屈は後からこじつけただけかも知れない。私の龍は何を欲しているのかしら?私はあなたの愛に答えられているのかしら?私はあなたと会ってから、ずっと考えることを後回しにしてきたような気がするの。本当に馬鹿みたいに何も考えなかったのよ」
 「でもヨーコ。君は随分いろんなことを考えていたような気がするよ」
 「違うわ。考えてたんじゃないの。ただ思っていただけ」
 「思うことと、考えることはそんなに違うことだろうか?」
 彼は自分の顔の前で指を組み、その向こうから優しい笑顔を投げ掛けてきた。
 「判んないわ」私は子供のように言い放って席を立った。
 私はベランダに出て、夜空を見上げた。彼が後を追ってきた。そして隣に立って言う。
 「ヨーコ、君は本当に僕にいろんなことを教えてくれた。僕は本当の意味での聖龍にしてもらったよ」そう言って夜空を見上げた。そして続ける。
 「本当の事や真実に何の価値があるんだろう。偽物であっても嘘であっても構わないじゃないか。君が何時か言ったように、魂だけの世界ではすべてを理解することが出来る。今僕が望むのは、嘘でも本当でも構わないから、二人で同じものを見ながら生きていたいって言う事だけだ。君の見ているものが僕にも見えていればいいって思うよ」
 「私今、星を見てるわ」
 「ああ。僕もだ」
 「幸せかしら?」
 「もちろん」
 私は彼を見る。そしてまた空を見上げながら言った。「ねぇ、また私を上手にだましてくれない?」
 彼が驚いたように私の方を向いて言った。「どう言う意味だろう?」
 私は空を見上げたままで答える。「かわいそうな出雲の龍を助けてあげなきゃいけないの。そして、私達はそこで命を終えるのよ」
 「ヨーコ、君はいったい何を言いたいんだい?」
 「愛しているのよ。あなたを。そして悲しい人々を。龍は多分何もしないわ。私達が出雲へ行って、封じ込められた龍を解き放ったとしても、かわいそうなフツシが蘇ったとしても、何も変わりはしない。だって龍なんて特別なものじゃ無いんですもの。なのに私の龍は特殊化し過ぎているわ。沢山の人達が龍を見ることを望んだのよ。そしてその望んだすべての人に見えるようになってしまったの。そんな特別なことが許されるはずないわよね。それに気付くまで私、何か出来そうな気がしていたのよ。でもそれは違うわ。愛と龍が同じものなんだって気付いた時、自分には何の力も無いんだって言う事が判ったの。そしてこのまま生き続けることが不可能だって言う事もね。だって今の私の魂って奇形なのよ。人が求めても求めても手に入れられないものを事もなく与えられちゃった。あなたの言った希望って言うものの入っていないパンドラの箱を与えられ、そして私はそれを何も考えずに開けてしまったのね。でも、それには悪いものや、嫌なものも入っていなかったわ。愛と幸福で充たされた箱だった。そしてそれはもう箱から出て行ってしまった。そして最後には何も残らなかった。だからあなたに希望と書いて入れて欲しいの。『ヨーコには出雲の龍を助けることが出来る』って書いて、そっと箱の底に入れてちょうだい。私をだまして。とても上手にね。私、きっと上手にだまされてあげるから」
 私は言葉を切って彼の横顔を見た。そしてその横顔に向かって言う。
 「巧く説明出来てたかしら?」
 彼が穏やかに微笑んで私を見た。
 「ああ。とても良く判ったよ。君の言っていることも君の思っていることもね。だから心配しないで。僕に任せて。僕が龍使いだ。そして君は龍。でももう少し、そう年が変わるまでは、僕が夫で君は妻だ。夫は妻をだましたり、裏切ったりはしないさ」そう言って片目をつぶってみせた。
 「OK 信じてるわ」私はいつもの彼を真似て言った。
 私は聖龍も、夫も、疑ったりはしない。私のすべては彼の手の中だ。私は彼の思うままに動けば良い。幸も不幸も生も死も、すべて彼の手の中だった。それが私に出来る唯一の愛の表現だった。

 私は何を気負うこともなくバリ島の休日を楽しんでいた。

 ある朝レストランで食事をしながらエディが言った。「ヨーコ。とってもキュートだ。随分感じが変わったね。そう思わないか?アルン」
 アルンが答える。「確かに。今までのヨーコとどことなく違う。とてもリラックスしていてとても素敵だ」
 「まあ。今までが随分ひどかったみたいな言い方ね」
 エディが言う。「いや。そうじゃない。今までのヨーコの美しさは何か人を越えたものがあったんだ。でも今は違う。ヨーコはただのヨーコとして充分に美しい。何か幼い子供の持つ輝きのような気がする」
 アルンも頷く。
 「きっとこの島のせいよ。何だか私とっても気が楽なの。龍のいないただの自分に戻れたような気がするわ。こっちに来てから一度も龍の力を使っていないし、その必要も無いんですもの」私はそう言って微笑んだ。そして続ける。「でもこのままだと、アルンの出番がなくなっちゃうわね。それに何も変わらないわ」
 アルンがうつ向いて首を横に振る。
 横からエディが言う。「僕が聖龍として言おう。君は君の龍を使いこなせるだけの力を身に付けたんだよ。それまで重荷だった龍を自然に受け入れられるようになったんだ。君が自分自身を取り戻したって言う事さ。それはとても素晴らしい事だ。聖龍としても君の夫としても僕にはとても喜ばしいことさ。でもヨーコ程どんどん美しくなる女性もそうざらには居ないだろう。本当に今のヨーコは人として最高に美しくなった」
 「どうもありがとう。何か出来るかしら?この私に?」
 「はい。何でも出来るさ。なぁアルン?」
 アルンは力強く頷いて言う。「ヨーコ、僕達ナーガラージャは君がこうして存在しているだけで満足しているよ。そして君の美しさは僕達に充分神を感じさせてくれる。何もしなくていいんだよ。神とは元々何もしないものなんだ。ただ崇められる為にだけ居る。だから僕達の為に何かしなくてはいけないなんて思わないでくれ。君がこのままで居たいのならこのままで居ればいい。そして君が動きたい時には自由に動き回ればいいんだ。神とはそう言うものなんだ。僕達ナーガラージャはそんな神に仕え守る為に居るんだから。そして僕達は何千年も待って神を迎えることが出来た」
 エディが言う。「そう、龍の時間のほんの一瞬に巡り逢えたんだ。それだけで充分さ」
 私は笑って言う。「じゃあ、私の言う事は何でも聞いて貰えるのね」
 「はい」エディが答えた。
 「私はボロブドゥールへ行きたいわ」
 アルンは頷いて立ち上がる。そしてそのままレストランを出て行った。私はアルンの後ろ姿を目で追う。そして彼が見えなくなってエディを見た。
 「飛行機の手配をしに行ったんだよ」
 私は溜息をついた。「本当に私の望みはすぐに叶えられるのね」
 エディが笑いながら言う。「神の言葉は絶対だからね」そして片目をつぶって見せた。
 私も立ち上がって言う。「私達も用意しなくちゃ」
 部屋に戻って荷物をまとめた。すぐにアルンから電話が入る。それを受けてエディが言った。「用意が出来たって。いつでもOKだ」
 私達は荷物を持って部屋を出る。荷物と言っても小さなバッグ一つだけだ。
 ホテルの玄関にアルンが車を付けて待っていた。私達はその車で空港に向かった。
 私達を待っていたのは自家用の飛行機だった。乗ってきた飛行機ほど大きくはないが、一応ジェット機だった。私はいつもの様にあきれながらそれに乗り込んだ。

 中はリビングルームの様になっていた。私はソファーに腰掛け離陸を待つ。そして機はすぐに離陸をし、ジョグジャカルタに向かっ飛んだ。

 私は言う。「エディ。この飛行機にはプールはないの?」
 エディが笑って言う。「今度考えてみるよ。でも、離陸と着陸の時に水が漏れないといいけど」
 「それもそうね。やっぱりプールは船の方がいいわね」
 私は窓に顔を付けて外を見る。目のすぐ下に、アグン山が大きな火口をぽっかりと開けていた。
 「ところでアルンは?」
 「操縦室だよ」
 「アルンが操縦してるの?」エディが頷く。
 私は本当に驚いていた。そしてあきれてもいた。
 エディが言う。「奴ならジェット戦闘機だって操縦するよ。もしかしたら宇宙までだって行けるかも知れない」
 「それだけの才能を、私達だけの為に使ってくれるのね」
 エディが頷いて言う。「神の為になら何でも出来るんだ」
 「私何だか調子に乗っちゃいそうよ」エディがとても素敵に笑ってみせた。

 窓の下にはもう山は無く、小さな島を浮かべた母なる海が拡がっていた。