龍 13 神戸 バリ島
 船は夜遅く神戸に着いた。

 「ヨーコ、ホテルに戻るかい?それともこの船の上に居る?」
 私は首を振って答える。「どっちでもいいわ。だってたいして変わらないもの」
 彼は頷く。「じゃあ、ホテルに戻ろう。この船の乗組員達も本当だったら二日前に神戸に着いて、皆休んでいるはずだったからね」
 「それがいいわ。私の為に皆に迷惑掛けちゃったのね」
 「気にすることないさ」そう言って、彼はアルンに電話をし、車の手配を頼んだ。

 ホテルに戻って私はすぐにベッドに潜り込む。
 エディとアルンは暫くリビングルームで話していた。アルンの出て行く音がしてエディがそっとベッドルームの扉を開ける。
 「ヨーコ。もう寝ちゃった?」
 「いいえ。まだ起きてるわ」
 「体の調子はどう?」
 「少しだるいだけよ。きっと明日の朝にはもう完璧よ」
 「明日の飛行機で飛ぶけど大丈夫かな?」
 「大丈夫よ。またファーストクラスのシートでしょう?それに七時間程でしょう?」
 「はい。でも君が望むんだったらエコノミーでも構わないんだよ」
 「あら、意地悪ね。こんな時に移動しなきゃ行けない時には、普通の人でもファーストクラスを使ったっていいのよ」
 彼は私の髪を撫でながら笑う。「でも僕達はどんな時だってファーストクラスだよ。僕の大切な人をあんな狭いシートに押し込むなんて嫌だからね」
 私はクスッと笑って目を閉じる。彼は額に口付けすると「おやすみ」と言って部屋を出て行った。私はそのまま引きずり込まれるように眠った。



 目覚めると私の体はほとんど回復していた。そっとベッドに起き上がる。少し頭の芯が痛んだが、シャワーを浴びるとそれも消えてしまった。
 シャワーを終えてリビングに出るとエディが小さな荷物を作り終えていた。
 「荷物、それだけ?」
 「そうだよ。だって冬物を持って行ったって仕方ないだろう?空港で少し洋服を買って飛行機に乗ろう。後は向こうで揃えればいいよ」
 私は頷く。
 「何時の飛行機に乗るの?」
 「十二時だよ」
 「今からだったら充分に間に合うわね」
 「大丈夫さ。もう少し君は寝てるかと思ってたのに、思ったより早く起きたね」
 「だって私って丸二日も寝てたんでしょう?もう寝るのは沢山よ」
 彼が声を立てて笑った。「いつものヨーコに戻ったね。やっぱりヨーコはそうじゃなきゃ。
 私も笑ってみせた。
 服を着替えて用意をする。
 「エディ。あなたおなかすいてるんじゃないの?」私はベッドルームから尋ねる。
 「はい。餓死寸前だよ」彼が答える。
 私は靴を履いてリビングに出て言う。「レストランへ行きましょう」

 今度は私もちゃんと食べられた。
 「沢村先生って若いのにいいお医者さんだったのね」私が言う。
 「そうだよ。すごい秀才でね。きっと何時かノーベル賞をもらうんじゃないかな。それにとっても貴重な薬を使ってくれたしね」
 私は溜息をつく。「お金があるって、何でも出来るって言う事なのね」
 「それは違うよ。どんなにお金があったって君が居なくなってしまったら仕方がない。あの時君が体を残して行ってくれたからお金が役に立っただけだよ」
 「でもお金がなければ私はまだずっとベッドの上だったんだ」
 「もう一度ベッドに戻るかい?」
 「エディ。あなたとても意地悪だわ」
 彼はお皿の上の物をたいらげながら言う。「気のせいだよ。僕が君に意地悪なんてするわけがない」そう言ってとても素敵に笑ってみせた。

 食事を終えて私達はアルンのメルセデスで空港に向かう。
 「車がいつものに戻ったわね」私がいうとアルンがミラーに向かって答える。
 「ヨーコがまるでオセロの様に敵を全部味方に変えちゃったからね」
 エディが私の肩に回した腕に力を入れた。
 道がとても空いていて、思ったより早く空港に着いた。アルンが出国の手続きをしている間、私達はウエィティングルームで寛いだ。手続きを済ませたアルンが戻ってきて、私達は一緒にチェックインをする。離陸までの間に二人の夏物の洋服を何点か買った。そして十分前に飛行機に乗り込み座席に着いた。

 アルンは私達の後ろの席に座った。
 私はシート越しに振り向いて、アルンに言う。「隣にミツコが居なくて寂しいんでしょう?」彼は赤くなる。
 怒るかなと思ったけれど、彼はとても素直に頷いて言った。
 「そうだね。彼女が居たらとても楽しいだろうな」
 エディが口笛を吹いて冷やかす。
 私はそんなエディを手で嗜めて言う。「彼女もすぐに来るわよ。それまで楽しいプランを沢山練っておくといいわ」
 彼は少年のように顔を赤らめて頷いた。
 私は前を向き直って小さな声でエディに言う。「恋って素晴らしいわ」
 エディはいつものアルンがするように両手を上げて肩をすくめてみせた。

 飛行機は順調に離陸しほとんど揺れもせずにバリに向かって飛んでいた。
 「ねえ。香港の上を飛ぶのかしら?」
 「海の上だと思うよ」エディが答える。
 「でも私、前にバリへ行った時香港で乗り変えたわ」
 「この飛行機は直行便だからね」
 「そう。でも私お爺様に会いたいな」
 「香港の上を飛んでも祖父は見えないと思うけど」
 「それはそうね。でも何だかとてもお爺様に会いたいの」
 「判った。今度電話で聞いてみるよ。もしかしたらバリへ来てくれるかも知れない」
 「あら。帰りに寄ればいいじゃないの」
 「それもそうだね。きっと祖父も喜ぶよ」
 私は頷いた。
 「ねえ。お爺様ってマダムローザのことが好きだったんじゃないかしら?」
 エディが頷く。「そうだね。でもずっと、ずっと昔のことさ」
 「そうね。ずっと昔にね。お爺様が今のあなたと同じ位の年の時の頃よ。すぐに忘れてしまうけど、誰にでも青春があっていろんな試練を乗り越えて来たのよね。恋をして涙を流したり、喜んだり、別れが有ったり、出逢いが有ったり。それに辛い戦争まで乗り越えてきているのよね。お爺様だってずっと今のようじゃ無かっただろうし、私達だってずっと今のままでは居られない。でも、青春のときめきや思い出は、まるで宝石のように胸で輝くのよ。素晴らしいと思わない?」
 「そのとおりだよ。誰の龍も皆宝石をくわえてこの中に居るんだ」そう言って胸に手を当てた。
 「私、あなたがお爺さんみたいになるのを見ていたいわ。私はマダムローザみたいに美しく年を取れるかしら?」
 エディが私の肩を抱き寄せる。そして耳元で言う。「ヨーコ。もうこんな事止めにしないか?このままでいいじゃないか。君は充分龍の為に働いたよ。後のことは次の龍に任せようよ。僕達はこのまま二人でお爺さんとお婆さんにに成るまで、喧嘩したり仲良くしたりして普通に暮らそう。きっとそうしてももう誰も文句を言ったりしないよ。君はきっとマダムローザより美しく老いるだろうし、僕だって祖父よりもっと肥るさ。老後にゆっくり今のことを思い出しながら暮らすって言うのも、素敵だと思わないかい?」
 私は頷いて言う。「エディ。あなたも疲れたのね。実を言うと私もそうよ。少しだけれどね。とにかくゆっくり休みましょう。そのことについては休んだ後で考えればいいじゃない。取り敢えず私達は今、常夏の楽園、神々の島に向かっているんでしょう?」
 「そうだね。急ぐことなんて無いんだ。ただ僕は君を愛すれば愛する程ただの男に戻ってしまう」
 「ジェントルマンである事も止めちゃったし、聖龍でいる事も止めたくなっちゃった。その内私の夫であることも止めたくなっちゃうかも知れないわね」
 「かも知れない」
 私は彼の腕をつねる。
 「冗談だってば」彼が言う。
 しかし私には判っていた。時の流れには逆らえない。このまま生き続けていればそんなことだってあるだろう。そんな事が在るのか無いのかなんて誰にも判りはしないんだ。私は彼に微笑んで見せると目を閉じて眠ることにした。彼が毛布を借りて掛けてくれた。
 私の心は芯の部分が疲れていた。夢の中でフツシに会った。彼がとても美しい龍を連れて野山を歩いている。
 フツシが私を見つけると近寄って来て言った。「ヨーコ 大丈夫かい?早く元気になるんだよ。エディは元気?」
 私が答える。「彼も少し疲れているわ」
 フツシが言う。「そうか、でも急ぐことはない。龍の時は永遠だ」そう言って微笑んで見せた。そしてクルリと振り向くと龍を連れて深緑の森に向かって歩いて行った。

 食事が運ばれて来て、私は目覚めた。
 「エディ。フツシが急ぐ事はないって言いに来たわ。龍の時は永遠だって」
 エディが微笑んで頷く。「そうさ、生き急ぐ事も、死に急ぐ事もない」
 私はワインを注いでもらいながら言う。「ねえ。私思うんだけど、何十代前か何百代前かは判らないけど、フツシの魂があなたに受け継がれているんじゃないかしら?彼はきっと名前を捨てて生まれ変わっていたのよ。だって彼は名前を取り上げられて封じられていたんでしょう?でも魂に名前はないわ。フツシはあの場所に捕らえられているけれど、魂は時の旅をしているかも知れないじゃないの」
 「どうしてそんな風に思うの?」
 「そうね。良く判らないけど何処か、何か、そして決定的な部分が似ていたのよ。魂の奥の方にある何かが。あなたとフツシの根本に係わる部分よ」
 エディが言う。「と言う事は、あそこで君を抱いていたのは、僕自身だって言う事なのかな」
 私は首を振って言う。「判らない。でも、とても良く似ていたのよ」
 エディが私を抱き寄せる。
 「エディ。食べましょう」私が言った。
 「もちろん食べるよ。でも僕は今君の方が食べたいな」
 私は彼の耳に口を寄せて言う。「バリ島に着いてからね」
 彼は笑った。
 「さあ食べよう」そう言うといつものように旺盛な食欲を見せる。そして食べ終わって言った。
 「ねえ、ヨーコ。昔のエマニエル夫人の映画みたいに飛行機の中でSEXするって言うのはどう?」
 私は飲みかけていたワインを吹き出しそうになった。それを無理して飲み込んで言う。
 「エディ。あなた変よ。そんなに欲求不満なの?」
 彼が笑って答える。「フツシに嫉妬して居るんだ。嫉妬って言う感覚はとってもいい。まるで媚薬のような作用がある。僕は今嫉妬心をとても気に入って居るんだ」
 私は食べ終えて言った。「エディ。あなた高野山でアルンに右手は左手に嫉妬したりしないって言ってなかった?忘れちゃったの?」
 「覚えているよ。でもフツシを望んだのは君じゃない。君は望みもしなかったのにフツシは君に快楽を与えたんだ。悔しいじゃないか。男としてその部分はとても悔しいよ。僕が誰よりも君を気持ち良くさせるべきなんだ」
 「あなたって負けず嫌いなのね」
 「男としてのプライドだよ」
 「私があなたのプライドを傷つけちゃったのね」
 「違う。傷つけたのは君じゃない、フツシだ」
 私が言う。「あなたは自分の魂に焼き餅を妬いているのよ。救われないわね〜」
 彼は頷いて言う。「かも知れない。だからもう一度試してみたいんだよ。フツシに出来て僕に出来ない筈がない」
 私は溜息をついて言う。「中国人って変なところでファイトを燃やすのね」
 彼が笑って言う。「そうだよ。僕の国では愛し合うことはとっても大切なことなんだ。もちろん肉体的な意味でね。でもアルンの国の方がそれに対してはもっと進んでいるかも知れない」
 私が言う。「日本では考えられないわ。皆結婚したらSEXしなくなるものなのよ。SEXって子供を作る為の行為で、男の人は妻が母になったらもう女としての興味が無くなったりしちゃうの。それで外で愛人を作ったり、最近ではSEX自体に興味がなくなったりしちゃう人もいるみたいよ」
 エディが驚いて言う。「じゃあ妻はどうするの?」
 「子供のことで手一杯だし、月に一、二回義務として夫に抱かれるだけよ。抱く方も、抱かれる方も義務感からなの」
 エディが呆れたような声で言う。「だったら一緒にいる価値なんてないじゃないか」
 「夫婦ってそんなものなのよ。夫婦って男と女じゃないの。父と母なのよ。もちろん子供がいれば文字通り父と母だし、子供が居なくても夫は妻に母を求め、そしてたまに妻は夫に父を求めるの。親子の仲って安定しているでしょう?だから日本人には離婚が少ないのよ。でも最近は私みたいに相手に夫も父も求められないで離婚するカップルも増えてはいるけれどね」
 彼は本当に驚いていた。そして呆れてもいた。
 「僕は中国人で本当に良かった。もし、日本人みたいな夫婦生活を強いられたら気が狂ってしまうよ。僕のエネルギーの入口も出口もなくなってしまうって言う事だからね。妻との愛がすべてのエネルギー元なんだ。後でアルンにインドのことも聞いてみるといい。SEXという行為をとても大切にする民族だ。僕達中国人も、アルンのようなインド人も、母をとても大切にするが、母を愛することと妻を愛することを混同したりはしない。妻に母を求めるなんてとんでもない話だ」
 私はそれに対して何とも言えなかった。確かに彼の言う事は正論だった。日本人はいつから変わってしまったのだろう。確かにフツシはハハとナダヒメを同じ強さで求めていた。私には判らなかった。

 食べ終わった食器を片付けもらうと、彼は私を抱き寄せる。
 「僕は日本人じゃない。だから僕の国のやり方で君を愛したいんだが、構わないだろうか?」彼が耳元でささやくようにそう言った。
 私は小さく頷いて答える。「バリ島に着いたらね」
 彼は声を立てて笑うと言った。「GOOD!ヨーコも前世は中国人だ」

 私は、彼の肩にもたれて眠った。そして飛行機の中でもう一度食事をし、バリ島に着いた。