龍 12 熊野 (U)
 ブルーの光に包まれたエディの心が、暗いトンネルの中を飛ぶ。まるで季節はずれの蛍のように。しかしその光跡は蛍より力強く、目的に向かって飛び続ける。闇のトンネルの中に、エディのヨーコを求める思考が響いていた。

 フツシが言う。「ヨーコ。お前の夫はお前に何をしてくれた?」
 ヨーコが答える。「私を誰よりも愛してくれたわ」
 「愛?綺麗な布でお前を飾ってくれたか?」
 「ええ」
 「綺麗な玉をお前にくれたか?」
 「とっても沢山ね」
 「ならば、巧くお前を抱いたか?」
 私はうつ向いて小さく頷く。
 フツシが言う。「お前の夫がお前に与えたものを私もお前に与える事が出来たら、ずっと此処に居てくれるか?」
 私は首を振って言う。「フツシ、それは無理よ。あなたは夫と同じものを私にくれることなんて出来ないわ。彼は私を愛してくれたのよ。あなたには愛さえも理解できていないじゃないの」
 フツシが答える。「愛するなど簡単なことだ。私は何人もの妻を愛し、子を与えた。そうだヨーコ、お前は子供をもらったか?」
 私が答える。「いいえ、だって私達はまだ出逢ってから半月しかたっていないのよ」
 「そうか。だったら私がお前に子をやろう。そうすればお前は此処にいてくれる」そう言うと彼は私の体を抱き寄せた。
 彼の太くて力強い指が私の肩をがっちりと掴んでいた。
 かりそめの肉体が交わることなど出来るのだろうか。私には、フツシの人を求める気持ちが伝わってきていた。その強さに抗う事も出来なかった。そこは彼の世界だった。私に彼から逃れるどんな術があったと言うのだろう。
 フツシの手の感触が私を覆う。それまで一度も味わったことのないものだった。心の世界で、かりそめの肉体が交わる。どう考えても理解出来ない。しかしその交わりは例えようもない快感を伴っていた。私は思うことを止め、フツシの与えてくれる快感の淵に沈み込んで行った。
 遠くでエディの声が聞こえる。それは初めとても遠くて、気のせいかと思っていた。しかしそうではなく、彼は段々私達に近付いて来ていた。彼が私を求めている。最後の気力を振り絞って私は言った。
 「フツシ、夫が私を探しているわ」
 フツシが答える。「誰もここには来れない。お前はもう私のものだ」
 私の気力はそこで尽きた。そしてフツシの求めるままに与えていた。
 しばらくしてフツシの動きが止まった。私はフツシを見る。彼は何かを凝視していた。私はその目線の先を追う。エディが穏やかに微笑んで立っていた。その姿はいつも見せる彼と少し違っていた。しかし確かにエディその物の姿だった。
 「エディ」私がつぶやく。そしてフツシに言う。「彼がエディ。私の夫よ」
 エディが言う。「ヨーコ、迎えに来たんだ。一緒に帰ろうよ」
 フツシが私を抱く腕に力を込めてエディに向かって言う。「私のものだ。お前は帰れ」
 エディが言う。「ヨーコ。僕と一緒に戻ってくれないか?」
 私が言う。「エディ、遅すぎたわ。あなた其処で私達のことをみていたの?」
 「ああ見ていたよ。君はとても気持ち良さそうだった」
 「どうして?どうしてあなたはそんなに穏やかなの?私はあなたを裏切ったのよ」そう言いながら私は、段々泣き声になっていた。
 エディが言う。「ヨーコ、泣かないで。此処は心の世界なんだ。それにその男が作りだしたその男の為の特殊な世界だ。此処でその男の望むことを君が拒めるはずがないじゃないか。それにその男は君を傷つけたのでも、君に苦痛を与えたのでもない。君はその男に愛されたんだよ。でも僕も君を愛しているんだ。こんな特殊な世界じゃなくて、ほんの少しだけかもしれないけどまともな僕達の世界に戻ろう」
 私は泣いていた。フツシがその涙を指で拭う。
 「ヨーコは暖かい」
 エディが言う。「ヨーコはまだ生きて居るんだ」
 フツシが繰り返す。「生きている」そしてしばらくして言った。「私は死んだ。だから生きてはいない。もう生きることは出来ないのだろうか」
 そう言って私の体を放し、自分の頭を抱え込んだ。私は彼の腕から解放された。私は戸惑いながらもエディのそばに行く。エディは私を強く抱きしめてくれた。それはとても暖かく、そしてなつかし匂いがした。私はエディの胸に抱かれて泣きじゃくる。心が、そして身体全体が張り裂けそうに痛かった。エディはそんな私を何も言わずに抱きしめていた。
 私は泣きじゃくりながら言う。「エディ。私の指、六本もあるのよ」
 彼が私の手をのぞき込み、その後自分の手を見る。「本当だ。でも、僕のは四本しかない。二人でちょうど十本だよ。良かったじゃないか」そう言って笑った。そして私の肩を抱いてフツシの側に行くと、そこに腰掛けた。
 「フツシって言うのか。僕はエディだ。妻を連れて帰っていいかな?」
 フツシは答えない。
 私が言う。「彼がスサノオみたいよ」
 エディが言う。「ああそうだね。彼の父がフツ、彼がフツシ、そして息子がフルだ。大和の大神神社に祭られている蛇体の神が息子のフル、ニギハヤヒだ。そしてその三人は石上神宮に祭られている。でも誰もそれがスサノオ一族の事だって知らないんだ」
 私が言う。「ニギハヤヒって、私知らないわ」
 「ほら、先に大和を治めてた大王だよ」
 「ああ、ナガスネヒコの・・・」
 「そうだよ。でもニギハヤヒが死んだ後、彼の末娘と神武が結婚して政権を執った。昔は末子相続で、一番末の子供が男でも女でも跡継ぎだったんだ」
 「でも、どうして皆スサノオって呼ぶのかしら?」
 「そうやって封じ込めたんだよ。神を封じ込めるって言うのはそう言う事さ。名前を取り上げたり、すり替えたりする。ほら、竹生島の龍がそうだっただろう。でも、僕達はフツシという名前を知っている。つまり彼の封印が解けかけて居ると言う事だよ。期が熟して来て居るんだ。だから僕も君もここに来れた」
 私達の話を聞いていたフツシが問う。「フルは巧くやってくれたのか?」
 エディが答える。「とても巧くやったよ」
 「そうか。それなら良い。エディとやら、私はヨーコのように暖かい人の世界に戻れるのだろうか?」
 エディが答える。「判らない。しかしここに僕達を呼べたのだから、きっと君も蘇ることが出来るはずだ」
 フツシが首を振る。
 私が言う。「エディ。違うの。私を呼んでいたのはフツシじゃないわ。此処はフツシの世界じゃ無いのよ」
 「ヨーコは、だって君は誰かに呼ばれているって言ってたじゃないか」
 「そうよ。誰かに呼ばれていたの。でもそれはフツシじゃない」
 今度はエディが頭を抱えてしまった。
 私が言う。「でもフツシも龍使いだったのよ。でもフツシの生きた頃には龍と人は違ったんですって。私みたいに龍を背負った人がいたわけじゃないみたい。彼はお母さんとナダヒメを求めているの。でも求めても求めても出ては来ないんですって。彼の望むものは何でも現れるのに。食べ物も、それを持った人もね。でもその人には心が無いのよ。私もその人に話しかけてみたけれど何も聞こえないみたいだったわ。この世界でフツシは何でも求めるものを手に入れることが出来るけど、寂しさから逃げる事は出来無いのよ。彼はずっと一人でここに住んでいるの」
 エディが首を横に振る。
 私はフツシに尋ねる。「ねえフツシ。あなたは、私の夫は此処に来れ無いって言ったわよね。なのにどうしてエディは此処に居るのかしら?」
 フツシが答える。「判らない。私は求めてはいなかった。ヨーコを渡したくなかったからな。なのにお前の夫は此処に来た。私がこの世界に来て初めてのことなんだ。それにお前の夫は私がお前を抱いていたのに微笑んで見ていたんだ。私ならば妻もその相手も殺しただろう」
 エディが考え終わって顔を上げた。そして静かに話し始めた。
 「此処はネの国だ。そしてヨミの国とも言う。僕は長いトンネルを通って此処に来た。妻を連れ戻しに来たんだ」
 私が驚いて言う。「それってイザナギとイザナミの事なの?」
 エディが頷いて続ける。「多分ね。でも君の体は朽ちてもいなかったし雷が取り付いてもいなかった」
 「でもフツシが私を抱いていた・・・」
 「ヨーコは此処に来て何かを食べたかい?」
 「ええ、フツシにもらった桃を食べたわ。もしかして、あれがヨモツヘグイだったの?」
 エディが頷く。
 「私戻れるかしら?」
 「きっとね。だって、僕はこうして君と話している。イザナギとイザナミはどうだったっけ」
 「すっごく悲惨な夫婦げんかをしたのよ」
 「僕達も喧嘩になりそうかい?」
 「いいえ。あなたは怒らなかったし、私を恐れもしないもの」
 「じゃあ、君が戻ることを望みさえすれば戻れるよ」
 私が尋ねる。「じゃあ、此処は何処なの?誰の世界なの?」
 エディが答える。「龍の世界さ。だって僕も君も龍に選ばれた人間だ。そしてこのフツシは龍に愛された人間なんだ。此処にいる三人の共通項は、龍しかない。つまり龍がこの世界を作り、フツシを住まわせた。彼は龍に愛されたんだ」
 「此処を作った龍っていったい何?」私が尋ねた。
 エディが答える。「昨日君が言ったように人の心さ。人の心が集まって龍を形作った。そして龍の力も人の心の力だよ。だから此処は人の心が無意識に作り出した世界だ。そしてその人々がフツシを求めて居たのだろう」
 「それが神の正体なのね」
 フツシが言う。「神とは人のことだ。そして人以外の力を龍の力と言うんだ」
 私が言う。「あなたの龍のことを教えて」
 フツシが静かに語り始めた。
 「私がまだ生きていた頃、地の龍、川の龍、海の龍、天の龍、至る所に龍はいた。そしてそのすべての龍と私は語ることが出来た。私は龍達の言う事を人々に伝えて人々を災害から守った。海を渡る時には海の龍に平穏を頼むことも出来た。長く雨が降らないで沢山の人々が飢えた時には、天の龍に頼んで雨を呼ぶ事も。他の龍だってそうだ。しかし、それは特別な事だったんだ。その為には龍に血を与えなければならない。それが龍との約束だ。だから沢山の命が失われるかも知れない時に、誰か一人の犠牲で済ませたんだ。私達はほとんど龍の都合に会わせて生きていた。そうすれば誰も犠牲にならなくて済む。それが神の仕事だ」
 エディが言う。「ヒの神は?」
 フツシの顔が恐ろしく歪んだ。
 「あいつらは、あのヒを祭る奴等は、龍の力をただの道具だと考えた。龍がこちらの望みを受け入れない時には火で龍を脅かす。そしてどうしても使いきれない龍は封じ込めた。奴等は自分達だけの為にこの世界が在ると考えた。自分達だけの為にイネを育て、それを食みに来る小鳥でさえ許さずに、火で焼き殺した。大地の龍が衰えると奴等は大地に火を放った。私にはあっちこっちから龍の悲鳴が聞こえた。私には奴等が許せなかった。しかし人は楽を求める。龍の都合で生きるより、自分の都合に合わせて、龍の力さえ道具のように使いたがったんだ。私にはそれが幸せだとはどうしても思えなかった。それで奴等に戦いを仕掛けた。しかし私は強い剣を持たなかった。だからすぐに負けてしまった。息子のフルは強い剣を鍛えた。私はあのまま龍が死に絶えることを恐れて、息子に火をつかって鉄を鍛えることを許したのだ。フルは、私の父、私、そして自分の御霊を移して剣を鍛えた。そうすることによってそれがただの道具にならないようにした。魂のある道具は人を滅ぼさない。人は魂のないただの道具を使うと際限無く楽を求めるようになる。そうすると何時か人は滅びるだろう」
 フツシはとても大切なことを言っていた。私達が文明と呼ぶものの弱点を彼はちゃんと知っていたのだ。昔の人は未発達だったわけではなく、物質文明を否定して道具を発達させなかっただけなんだ。だから物質文明を選択した今の人類は、彼らのように長く静かな時代を作ることなど出来ないだろう。今の人類が作った文明が終わった後、この星は巨大なゴミ捨て場となっているかも知れない。その後の文明を作る者たちがそのゴミの処理をしてくれるのだろうか。
 エディが言う。「フツシ、君は龍を求めてはくれないか。そして龍と共に蘇るんだ」
 フツシが言う。「エディ、お前はさっき此処は龍の世界だと言ったな」
 エディが頷く。
 「そして私は龍に愛されたと」
 エディはもう一度頷いて言う。
 「そうだ、此処は龍が君の為に作った世界なんだ」
 フツシが大きく頷くと顔を上げた。彼の目に光が宿ったのを私は見た。
 「エディよ。ヨーコを連れて帰れば良い。ヨーコを横取りしようとして悪かった。許してくれ。そして戻って龍の夢を解いてくれ。龍が蘇る時、私も蘇るだろう」



 ミツコとアルンが船窓から夜の海を見ていた。
 「ミツコ、気持ちの整理は付いたかい?」
 「そうね。良く判らないわ。でも、私はヨーコさんにはかなわないもの」
 アルンがワインの入ったグラスを手渡す。
 「どうもありがとう」そう言ってミツコが受け取る。アルンは自分のグラスを口に運ぶ。
 「ミツコ、僕は今からとても正直に話そうと思うんだが、聞いてくれるかい?」
 ミツコはアルンの横顔を見つめる。アルンは真っ暗な海を見ていた。ミツコも海の方を向いて言う。「いいわよ。話して」
 「ミツコ、僕は君の事が気にかかって仕方ないんだ。君は何か、そう、僕にとって特別な感情を呼び起こす。懐かしい様な、切ない様な・・・良く判らない。今まで生きて来て、こんな事初めてだ」
 「恋なのかしら?」
 アルンは驚いてミツコを見る。ミツコは遠い海を見ていた。血を抜いたせいなのか、元々そうなのか、ミツコの肌は抜けるように白く透明感を帯びていた。そしてその表情には仏像のように穏やかな光が射している。アルンは胸がときめくのを感じた。
 「恋なのか?」アルンが自分に問う様に言った。
 ミツコは笑顔を作ってアルンの方を見る。
 「アルン。実は私もそうなのよ。でも私もまだ良く判らないわ。エディの事があって、心が巧く働かないのかも知れない。でも、もしエディと会う前にあなたと会っていたら、きっと恋をしたと思うの」
 アルンが言う。「遅すぎたのか」
 ミツコが微笑む。「判らないわ。でも、エディとヨーコさんを見ていて思ったの。恋と愛って随分違うものなんだなって。あなたはヨーコさんを愛しているでしょう」
 アルンは戸惑う。
 ミツコはそんなアルンに微笑んで言った。「座りましょう」
 ミツコはとてもエレガントな身のこなしでソファーに座る。アルンもミツコに続いてソファーに深々と腰を下ろした。そして持っていたグラスを置いて言う。
 「ミツコ、ヨーコの愛は特別だ。彼女の愛を与えられた者は誰もが彼女を愛するだろう。しかしその気持ちと僕が今君に対して感じている気持ちは種類が違うように思えるんだ」
 ミツコが頷いて言う。「そうよ。多分、エディがヨーコさんに対して持っている気持ちは、今あなたが私に対して感じている気持ちの随分進化したものだと思うわ。つまり彼はヨーコさんを龍としてでは無く、前世の因縁の為でも無く、ただ彼女を守り愛し続けているのよ。でもあなたがヨーコさんに対して持っている愛は、それとは全然別のものだわ。あなたは彼女を、『龍を背負った女性』として愛しているのよ。だからあなたがヨーコさんを愛していたところで私にはジェラシーの対象にはならないの。だって彼女の愛は普遍的で、恋の進化した愛とは全く別のものよ。今の私にはそれが判るの。でもあなたはまだそれが理解できていないのじゃないかしら?」
 「多分、君の言うとおりだ。そう言う物に対して全く経験が足りないんだ。君にしてもヨーコにしてもどうしてそんなに良く判るんだろう。ヨーコと話していても僕には理解できない事が沢山ある」
 ミツコはフッと悲しそうに笑うと言った。「それはあなたが、いつも愛されてきたからよ。多分ヨーコさんも、私も、愛に飢えていたのね。求めても求めても充たされない気持ちをここに秘めていたの」そう言って白くて細い指を胸に当てた。
 アルンは首を振りながら言う。「君のように美しい人がなぜ愛されなかったんだ?」
 「アルン、私はエディだけを求めてきたの。そしてエディはヨーコさんだけを・・・。充たされる訳ないわよね」
 「ならばヨーコは?」
 「ヨーコさんは求めて求めてそしてやっと充たされたのよ。私には前世のことはよく判らないけど、でも彼らの話が本当なら、私なんかよりずっと強く、ずっと深く、そしてとても長く求め続けたのよ。そして充たされた。だから溢れるほどの愛を持って居るんだわ」そう言い終わってワインを飲み干す。深いボルドー色は彼女の白い肌に彩りを与えた。アルンはそのグラスにワインを注ぎ、自分のグラスもワインで充たした。
 「ミツコ、僕はこれからどうしたらいいんだろう?」
 「あなたの恋の事かしら?」
 アルンが頷く。
 「手に入れてみれば?」ミツコが言う。
 「どんなふうにして?」アルンは子供のように尋ねる。
 ミツコはフッと小さく笑う。そしてソファーにもたれ掛かり、目を閉じ、しばらくそうしていた。アルンはそんなミツコをじっと見つめる。ミツコはその視線を全身に感じながら目を閉じたまま言う。
 「傍に来て。そして抱きしめて」
 アルンは言われたように立ち上がり、彼女のとなりに座る。そして彼女の肩にそっと腕を回し、そしてその腕に力を入れた。
 その肩はまるで砂糖細工のお菓子のように繊細で、甘い香りがした。ミツコはアルンの胸にもたれ掛かる様にして、彼の胸に耳を付ける。暖かく、たくましい胸。そして彼の力強い鼓動が聞こえた。お互いの体が触れ合うことで、心が通った。
 ミツコが小さな声で言う。「私、上手に愛せるかしら?」
 アルンがそれに答える。「大丈夫さ。僕は初心者かも知れないけど、きっと巧く愛してみせるよ。それに、誰でも最初は初心者さ」
 ミツコは顔を上げて微笑んで見せる。アルンはそんな彼女にそっと口付けした。そしてそっと離れて言う。「君を愛したいんだ」
 ミツコはクスッと笑った。「普通こんな時男の人は、君を愛しているって言うものよ」
 「僕はとても正直なんだ。愛がよく判らない。だから今のこの気持ちを愛にしてみたい」そう言って彼女をそっとソファーに押しつけながら抱きしめた。
 ミツコはアルンの腕の中でつぶやく。「私も愛してみたい。そして愛されてもみたい」そう言うと、閉じたまぶたから涙が一筋こぼれた。アルンはいとおしさに胸が締め付けられた。
 「僕に任せて。きっと僕が愛してみせる」
 ミツコはアルンの胸で泣いた。そして二人きりの時が静かに流れた。



 エディとヨーコの心が戻ってきた。二人は空間に浮かんで自分達の体を俯瞰していた。自分達の体は沢山のチューブを付けられてベッドに横たわっていた。傍に穏やかな表情の沢村医師が付き添っている。部屋には朝の光が惜しみ無く降り注いでいた。

 エディが目を開ける。そして私の名を呼ぶ。「ヨーコ」
 私もそっと目を開けて彼の名を呼んでみた。「エディ」
 それはパリで出逢った時から私を幸せにしてくれる呪文に成っていた。そして確かにその呪文は今回も効力を発揮していた。
 私は自分の目で朝の光を見た。そして彼が私を呼んだ声を自分の耳で聞いた。
 「お帰りなさい」沢村医師がどちらへともなく言った。
 エディは体を起こして言う。「沢村さん。ご苦労様でした。おかげで助かりました。本当にありがとう」
 沢村医師が言う。「とても光栄な仕事をさせていただきました」
 私も起き上がろうとしたが巧く行かなかった。
 「エディ、私起きられないのかしら?」
 エディはベッドを降りて傍に来ると言った。「しばらくそうして寝ててもらえるとありがたいな」
 「意地悪ね。もしかして、あのことを怒っているのかしら?」
 「あのことってどのことだろう?随分怒らなきゃいけないことが有るような気がするな」そう言って彼は悪戯ぽっく笑った。
 私は首をすくめて言う。「もう少し寝てようかしら」
 彼が普通の笑顔で言う。「大丈夫だよ。チューブを取ってもらえば起きられるよ。沢村先生がちゃんと君の体を助けてくれたんだから」
 私は沢村医師の方に首を回して言う。「本当にどうもありがとう」
 沢村医師は微笑んで私の方へ来ると、私の体に刺さっている針を抜き、私を沢山のチューブから解放してくれた。私は恐る恐るもう一度起き上がろうとする。エディがそっと手を貸してくれた時、彼の触れた手がとても暖かく感じた。
 「何だか変な感じよ。どの位眠っていたのかしら?」
 「二日間だけですよ」沢村医師が答えてくれた。
 「ミツコも来てくれたんだよ。君の血が足らなくなって、僕とミツコの血でないと受付けなかったんだ」
 「龍が血を欲しがったのね」
 エディが頷いた。
 「ところで此処はどこなのかしら?」
 「船の上だよ。そして船は今勝浦に居るんだ。ちょうどこの沖を通りがかったから此処へ呼んだんだ」
 「大変だったのね。私が勝手な事しちゃったから。本当にご免なさい」
 私は素直に謝った。
 エディが優しく言う。「ヨーコ。僕は怒ってなんて居ないよ。ヨーコはちゃんと仕事をしたんだ。ただちょっと無茶だったけどね。でも沢村さんが僕達の命を繋ぎ止めてくれて本当に良かった」
 私はもう一度沢村医師に丁寧にお辞儀をした。
 「構わないんですよ。普通の医師に龍のことは判らないですから。それに奥様と聖龍様のお役に立ててとても光栄に思っています。でも奥様は少し休養を取られたほうが宜しいかと思います。精神と肉体のバランスが崩れかけているようです。このままでは奥様も、龍も、どちらも危険です」彼がそう言い終わるか終わらないうちに、アルンとミツコが部屋に入ってきた。
 「ヨーコ。戻って来たんだね。良かった」アルンが言った。そしてミツコがその後ろで微笑んでいた。
 「心配掛けてご免なさい。ミッチャンもたくさんの血をくれたんですってね。本当にありがとう」
 ミツコが首を振って言う。「ヨーコさん。本当に良かったわ。それに私ヨーコさんのお役に立てて嬉しかったんです」
 私は二人の間に幼い愛が芽生えているのを感じていた。そしてそれは私の疲れた心に優しく染み込んだ。
 沢村医師は医療機材を手際良く片付け、アルンが電話でそれを運び出す手配をした。一段落したところでエディが言う。
 「アルン。今先生がヨーコには休養が必要だって言ったんだがどうすればいいと思う?」
 「休養か?転地療養なんてどうだ?」
 「ヨーコ どこか行きたい所はないかい?」エディが私に尋ねる。
 私は少し考えて言う。「暖かい所がいいわね。そうだ!お爺様に相談してみれば?」
 エディはパチッと指を鳴らして立ち上がると電話を取る。そして広東語で五分ほど話して電話を切った。
 「南の方向へ年が変わるまで行っていなさいってさ」私は南について考える。
 エディが言う。「バリ島なんてどうだい?確か南の方向になると思うけど。とても綺麗だし、暖かい」
 「素敵ね」私が答えた。
 「アルン、どう思う?」エディが言う。
 「あそこなら安全だ。きっとゆっくり出来るさ」
 「じゃあ決まりだね。手配を頼むよ」
 「この船でいくか?」
 「いや。なるべく早く動けとのことだ。飛行機にしよう」
 「ヨーコの体は大丈夫なのか?」アルンが尋ねる。
 それに沢村医師が答えた。「龍の力を使ったり、心と体を離したりしなければ大丈夫でしょう。体力的には点滴で維持出来ていると思いますので」
 アルンが頷いて言った。「では明日の便を取るよ」
 エディが頷く。
 私が思い付いて言う。「ミッチャンもお正月の休みにバリ島へ来ない?」ミツコは戸惑っていた。
 「エディ、いいわよね。私お礼がしたいの。アルンも構わないわよね」
 アルンが頷いて言う。「ああ、ミツコ来てくれないか?」
 ミツコは小さく頷いて言う。「構わないのかしら?」
 エディが言う。「構わないさ。あそこなら安心だし、きっと楽しい休暇になるよ」
 私が言う。「じゃあ、決まりね。アルン、ミッチャンのお休みに合わせて全部手配してね」
 アルンが私にウインクしてみせた。私はそれに微笑んで返した。
 「良かったわ。楽しい休暇になりそうね」
 「ヨーコはそれまでに元気にならないとね」エディが言った。
 「大丈夫よ。まだ二十日もあるじゃない。じゃあ、バリ島でお正月ね」
 私はとてもウキウキしていた。

 沢村医師とミツコはアルンの手配したヘリコプターで帰って行った。
 私達は船で神戸へ向かう。船長が私達のために部屋を一杯の花で飾ってくれた。その花一杯の船室に二人で向かい合って座る。
 「エディ。私あなたになんて言って謝ればいいのかしら?」
 「何を謝るつもりだい?」
 「だって、勝手な事をしてあなた達に迷惑を掛けたし、その上フツシとあんなことになってしまって。なのにあなたは私を連れて帰ってくれたわ。本当にご免なさい」
 「ヨーコ。君が居なくなる事に比べたらあんな事ぐらい何でもないさ。僕は君の心が行ってしまった時、自分の生きている意味を見失ってしまった。でも君が体を残して行ってくれたから、僕は君を迎えに行く事が出来たんだ。本当に頭の中が真白になって何も判らなかった。でも君の体を抱いていることで僕は聖龍の書に書いてあった事を思いだしたんだ。それは神話に学べと言う事だった。すべての事が初めてではなかったんだ。そして僕はイザナギとイザナミのことを思い出した。それで君を連れ戻すことが出来たんだ。それも君が体を残して行ってくれたお陰さ。僕は君と出逢ってからあんなに辛くて寂しかったことはなかった」彼はそう言って本当に辛そうな顔をした。
 私も頷きながら言う。「私もそうよ。あんたが居ないことがあんなに辛いなんて思いもしなかった。寂しくて、怖くて、不安で自分がバラバラになって無くなってしまいそうだったわ」
 エディは立ち上がり、私の隣に来て私の髪に触れながら腰を下ろした。そして優しい声で言う。「もういいじゃないか。またこうして二人で居られる」
 私は彼の肩に持たれかかって言う。「暖かい。あなたはとても暖かい」
 彼の頬が頭に触れるのを感じた。私は涙が溢れそうになるのをこらえて言う。
 「あなたはまた私を抱けるのかしら?」
 彼は私の頭の上で小さく言った。「判らない」
 私は小さく頷く。それは仕方のないことだった。
 私は一人で立ち上がり窓の側へ行く。窓の外の真っ暗な海を見つめながら彼の心の揺れを感じていた。
 私は窓に自分の顔を写しながら笑顔を作る練習をする。そして一番巧く出来た時に振り返って彼に言った。
 「エディ。愛してるわ」
 彼が顔を上げて私を見る。私は笑顔を崩さない。彼は立ち上がってゆっくりと私の方へ歩いて来る。そして笑顔を作ったままの私の前に立ち、私を力強く抱きしめ、そのまま抱き上げた。そして大きな声で言った。
 「愛しているよ。食べてしまいたいぐらいだ」そう言って私を抱え上げたまま、部屋を走る。そしてソファーに私を放り投げると乱暴に服を脱がせ、自分ももどかしそうに服を脱ぎ捨てて私に重なった。私はなんの抵抗もしなかった。そして彼は私の中からフツシを追い出すかのように激しく抱いた。私は全身に彼の痛みを感じていた。このまま死を与えられたら救われるだろうか。そんなことを思っていた。
 彼が激しい息遣いで言う。「ヨーコ。それは無理だ。フツシの抱いたのは君の体じゃない。フツシは君の心を抱いたんだ」
 私は閉じた目から涙が零れるのを押さえられなかった。私は抱かれながら泣いていた。声を出さずにただ涙を流すことで泣いていた。そして全身で彼を感じていた。
 「生まれ変わっても心は変わらないのね」
 「そう。だから僕はこうして君を愛し続けるしか仕方が無いんだ」
 そう言って彼は終わる。
 私は彼を胸に抱き、彼の肩越しに自分の手を見た。
 「エディ。私の指、ちゃんと五本に戻ってるわ」
 エディは顔を上げて言う。「ヨーコ。君は本当に・・・」
 私は彼の目をのぞき込んで尋ねる。「本当に何なの?」
 エディは体を起こして身繕いをした。そして振り向いて言う。
 「本当に、愛するに値する女性だよ」
 「どう言う意味かしら?」
 エディは口の端を上げて笑うと言った。「次々と僕に試練をくれる。そしてそれをクリアーする度にいとおしさが増すんだ」そしてとても優しく笑って続けた。
 「愛してるよ。ヨーコ。今度はもっと優しく抱けそうだ」
 私も身繕いをして言う。「ご免なさい。本当に嬉しいわ。私達にはきっと苦しみが必要だったのね。だって私、あなたと出逢ってから余りにも幸せ過ぎたもの。それでいい気になって、あなたを傷つけてしまったのね。そして私は罪を冒してしまった」
 彼が私のの目の前に手を広げて言った。
 「ほら、見てごらん。僕の指もちゃんと五本になっているだろう。あれは夢の中の出来事だったんだよ。現実じゃない。君はなんの罪も冒してはいないんだ。罪どころか君はあのフツシの魂を救った。君はすべての悲しい魂に愛されるように生まれついてしまったんだ。仕方のないことだ。人の悲しみはとても根深いものさ。そしてそれを癒すためには誰もが貪欲だ。誰もが君を求めるだろう。そして君はそれを与えるだろう。彼らにとって君はガンを治す特効薬のようなものなんだ。でも僕は違う。君が薬なんかじゃなく、たとえ毒であっても僕は君を愛するだろう。信じてくれ。たとえ僕が君に何をしようとも、何も出来なくとも、それでも僕は君を愛しているんだ。そしてそれは、僕の悲しみを癒すためなんかじゃない。君には君だけの為の幸せが必要なんだ。それを判るのは僕しか居ない。誰もが君の力を求めるけれど、僕は君だけが幸せで居てくれればいいんだ。とてもエゴイスティックな考え方かも知れないけど、世界中のすべての人が悲しんでいたとしても、僕は君一人が幸せで居てくれることを望んでいる。僕の望みはそれだけなんだ。良く覚えておいてくれ。僕が君を幸せにするんだ」
 「エディ。ありがとう。でもあなたは聖龍よ」
 彼は私を抱きしめる。息が出来ない程強い力で。
 「聖龍になんて成るべきじゃなかったんだ。僕が聖龍なんかに成ってしまった為に君を傷つけてしまった。君の龍を目覚めさせるべきじゃなかったのだろうか。でも僕は君を愛していたかった。そして愛することが君の龍を目覚めさせることだったんだ。僕はどうすれば良かったんだろう。何も判らないんだ」
 私は彼の髪に触れながら言う。「ただ混乱しているだけよ。あなたは聖龍だわ。そして私の夫でもある。私は聖龍の妻でもあり、エディの妻でもあるんだわ。私は聖龍にもエディにも愛された世界一幸せな女よ。こんなに幸せな女が他にいるかしら。私は愛されているわ。そして私もあなたを、聖龍も、エディも愛しているわ。私、さっき思ってたのよ。たとえあなたがもう私を抱けなくっても、あなたの妻で居続けたいって。でもあなたは私を抱けた。とても強いのね。私はあなたがもっと脆いんじゃないかって思っていたわ。フォンの夫はただ龍山の事を聞いただけで、もうフォンを抱けなかったのよ。でも彼は彼なりにフォンのことを愛していた。でもあなたは違った。深く傷ついた心ででも私を愛してくれる。私はあなたに何をしてあげられるのかしら?私の愛をどう表現すればいいのかしら?もう一度あの世界に行ってあなたを愛してみたい。あそこには嘘も飾りもなかった。あそこであなたと愛し合えたら、私達本当の幸せを見つけられたかも知れないわね」
 エディがゆっくりとした口調で言う。「ヨーコ。しばらくは行けないよ。沢村先生に止められただろう?今度行ったらもう返って来れないんだよ。だからこの世界で、この指が五本の世界で幸せになろうよ。僕は君といればどんな苦痛にも耐えられる。君の為なら強くも成れるさ。それに今度君を抱く時にはきっとフツシが君に与えた快楽よりもっと素晴らしいものを君に上げるよ」彼はそう言い終わると悪戯っ子の様に笑った。
 「期待しているわ。でも私そんなに気持ち良さそうだったかしら?」
 彼は頷いて答える。「悔しいぐらいにね。あれほどの快楽を君に与えているのが僕じゃなかったって言う事にとっても腹がたったんだ。でも君が幸せそうなところを見るのも悪くない」
 「あの世界はとても特殊だったわ。あの世界であなたと抱き合えたら、どれほどの快感があるのかしら。だって私はあの時フツシを求めてはいなかったわ。そしてフツシが求めたのも私じゃなかった。ただ生きている、暖かい人を求めていただけなのに。それでさえもあれ程の快楽を得られるって言う事は、お互いに求め合う心達だったらきっと信じられない程の快楽の世界なんでしょうね」
 「そうかも知れない。もしかしたら人が求める快楽って言うのは、肉体が求めているより心が求めて居る方が強いのかも知れないね。単純に肉体的欲求なんて言うけど、それはきっと心が他と触れ合うことを求めているんだよ」
 私は頷く。彼が続ける。
 「心も体も一つの物だからね。どっちも大切にするべきだ。体が喜べば心も喜ぶし、心を喜ばせれば体も喜ぶんだ。そして君はどっちも喜ぶべきだ」
 私は微笑んで言う。「もう少し元気になったらね。あなた、私の為に随分血をくれたんでしょう。少し顔色が悪いわ。美味しいものを沢山食べてゆっくり休みましょう。そしてバリ島で羽根を伸ばすといいわ。たまには私のことなんて忘れて羽目を外すのもいいかも知れないわね」
 彼は驚いたような顔で言う。「日本人って変な考え方をするんだね。僕には判らない。僕はヨーコの事を忘れることなんて出来ないし、ヨーコが居なくって楽しめる筈がないじゃないか。だからヨーコも早く元気になって一緒に楽しもう。それに君は一人で置いておくと何をしでかすか判らない。それに悪い虫に狙われるかも知れない。やっぱり僕は不安で君無しで寛ぐことなんて出来ないよ」
 「ねえ、エディ。あなたいつからそんな焼きもち妬きになっちゃったの?」
 彼は真面目な顔でそれに答えた。「初めっからだよ。ただジェントルマンで居ることを止めただけさ」そう言って片目をつぶってみせた。

 私達は部屋に食事を運んでもらった。彼は私が行ってから何も口にしていなかったにもかかわらずいつもと同じペースで食べる。
 「あなたの胃袋ってまるでブラックホールみたいね」
 「きっとどこかで新しい星が生まれてるんだよ」
 「それがあなたのエネルギーなのね」
 彼は頷いてお肉を口に運んだ。さすがに私はお肉を食べる気にはならなかったが、船長があっさりしたお粥を付けてくれたので、それをゆっくりと胃の中に流し込んだ。食べながら私はフツシのくれた桃の実の事を思い出していた。
 「ねえ、どうして桃の実だったのかしら?」
 彼は食べながら答える。「桃には呪力とか魔力とか言われるものがあるんだ。だから昔からとても神聖な食べ物なんだよ。神話ではイザナミに追い掛けられたイザナギが桃の実を投げて追っ手から逃げたことになっている。それに僕の国にも西王母の桃の話もある。食べると不老不死に成れるんだ。だから国を手中に収めた王様はみんなそれを欲しがったんだ」
 「ねぇ、不老不死ってそんなに幸せなことかしら」
 「まさか。僕ならそんなのはご免だね。ずっと苦しみの中にいるなんて耐えられないよ。死んで穏やかな中にいて、そしてまた生まれて君を愛したり、苦しんだりしてまた穏やかな死の中に戻るんだ。僕は欲張りだからどっちも欲しいな」
 私は笑いながらそんな彼を見ていた。
 「たまたま今は生きているだけさ」彼はそう言うと大きなステーキを食べ終えた。