龍 10 比叡山 坂本U
 「ヨーコ、日が暮れるまでまだ時間があるし、琵琶湖をクルージングでもしないかい?」
 エディの提案に、私は湖面に思いを馳せながら答える。「それ、気持ち良さそうね」
 彼は指を鳴らして立ち上がると言う。「OK じゃあ行こう」
 私も彼に続いて立ち上がる。エディはアルンに電話をかけて、船の用意を頼む。そして振り返って言った。「さあ、行こう」

 私達は部屋を出て、ロビーに降りた。
 アルンがロビーで電話をしていた。その電話が終わると、微笑みながら私達に近付いて来て言う。「聖龍、用意はいいよ。ハーバー迄車で行こう」
 私達はアルンの運転する車でハーバーへ向かった。

 10分程で目的地に着いた。
 ナーガラージャのクルーザーは大き過ぎもせず、もちろん小さくもなかった。一連のホテルとどこか共通した雰囲気で、私に安心感を与えた。
 エディが先に乗り、手を取って私を乗せた。そしてアルンが乗り込むと、クルーザーはすぐに出発した。午後の日差しが湖面に反射してキラキラ輝いている。
 私達は船内でイギリス風のアフタヌーンティーを楽しむ。
 「エディ、あなた初めっからクルージングをするつもりだったのね」
 「そうだよ。でも、君が嫌だって言ったら止めるつもりだったよ」
 「そうしたらこのマフィンはどうなったのかしら?」
 「さあ?誰かが食べてくれたと思うけど」
 「でも良かったわ。私が食べられて。だってとっても美味しいんですもの」
 私はそう言ってマフィンにジャムを塗った。エディも大きく頷いてジャムのたっぷり付いたマフィンを頬張った。アルンはバターを付けて食べる。
 「アルン、このジャムとても美味しいのよ」
 アルンは首を横に振って言う。「甘い物は苦手なんだ」
 エディが言う。「虫歯に成るんだ」
 「エディ!」
 アルンが珍しくエディと呼んだ。エディは首をすくめて言う。「怖い、怖い」
 普通の従兄弟同志の会話だった。私が笑っているのに気付いてアルンはそれ以上エディに何も言わなかった。エディはいたずら坊主のように笑うとマフィンを頬張り、それをミルクティーで流し込んだ。
 「あなた達子供みたい」私が言うと、二人で首をすくめた。
 サラダやマフィンを食べ終わり最後のお茶を飲んでいる時、船が大きく揺れた。
 「地震か?」アルンはそう言って部屋を出て行った。
 エディが微笑んで言う。「ヨーコ。空海と最澄が動いたよ」
 私は目を閉じて心を澄ました。「そうみたいね。あの二人、とても嬉そうだわ」
 エディは私の手を取ってそっと握り締めると言った。「君は、あの二人にも幸せを与えたんだね」
 「私は何もしていないわ。ただ、あなたに付いて歩いているだけよ。もし、誰かのせいで彼らが喜んでいるとしたら、それはあなたのせいだわ」
 彼はとても素敵に笑うと首を横に振った。
 アルンが戻って来て言う。「やっぱり地震だ。震度4位だろう。たいしたことはない」
 私が言う。「被害が無ければいいけど」
 エディが言う。「新幹線が止まるぐらいだよ」
 私は席を立って、窓に向かって並べられたソファーに腰掛ける。
 エディとアルンは英語で話し始める。
 「ねえ、この船はどこへ向かっているの?」
 エディがアルンとの話を中断して答えた。
 「竹生島だよ。あそこにはずっと昔から龍神が棲んで居るんだ」
 私は地図を思い浮かべながら言う。「随分遠いんじゃないの?」
 「大丈夫。この船はとても速いんだ。日が暮れるまでには着いちゃうよ」
 「神戸へはいつ戻るの?」
 「明日の朝だよ」
 「じゃあ、熊野へは?」
 エディはアルンと相談して答える。「明後日の朝だって」
 「じゃあ、明日の夕方にミツコさんを誘いましょう」
 エディは片目をつぶってみせると言った。「OK 今夜電話しておくよ。多分明日は土曜日だから彼女も来てくれると思うよ」
 「そう、明日は土曜日なんだ」そうつぶやいて私は窓の方へ向き直る。彼らはまた英語で話し始めた。
 私は湖を見ながら思っていた。パリへ行く前に抱えていた私の仕事はどう成ったのだろう。今更考えても仕方の無い事だった。まるでこう成る事を予感していたように、何日も何日も遅く迄残業して片付けたのだ。きっと予定通りパリから帰国していたら、また新しい仕事に掛かっていただろう。そしてなんの変化もない毎日の中に戻っていたはずだ。小さなことに一喜一憂し、平凡な一生を送ったに違いない。
 パリでエディと出会う前の私は、土曜日が大好きだった。良く晴れた土曜日の朝、ベランダの手すりに布団を乾す。部屋中を片付けて掃除機を掛ける。そして近くの花屋さんへ行って、その季節の花を買う。それを持って帰り、花瓶に生ける。それだけで満ち足りた気分になったものだった。それから車でスーパーマーケットに行き、一週間分の食料を買い込み、それを持って帰り、一週間分の献立を考えて下ごしらえを済ます。それをきちんとラップに包んでフリージングした。
 結婚していた頃はその後二人分の夕食を作り、夫の帰りを待った。離婚してからはそれが一人分になり、テレビを相手にそれを食べた。
 日曜日には夫はいつも一人で出かけた。私は部屋で本を読んだり、一人でプールに行って泳いだりした。だから結婚していた頃も、離婚してからも、私の生活にはあまり変化はなかった。
 普通の日には夫はほとんど寝に帰るだけだった。私は仕事を終えて部屋に戻り、一番初めにテレビを付けた。そしてお風呂の用意をしながら、一人分の食事を作りそれを食べる。
 その後、食器を片付けてお風呂にはいる。その間に洗濯機を回しておくと、お風呂を上がった時には洗濯も終わっていた。それを雨のかからないベランダの奥に乾して、テレビの前で缶ビールを飲みながらアイロン掛けをする。アイロン掛けのない日には、簡単に掃除機を掛る。
 そして一人でベッドに入って眠る。そんな毎日だった。それでもシャツにアイロンが巧く掛かった時には、一人で満足し、反対にどうしても取れない皺があったりした時にはとても気分が落ち込んだ。そんな時にはもう一本ビールを飲んだりした。
 そんな他愛のない毎日だった。しかしパリでエディに出逢ってから、すべてが変わってしまった。
 今私はあんなに大好きだった土曜日すら忘れてしまっている。一人で眠ることもなければ、夫を持つこともない。布団も乾さなければ、料理もしない。私の部屋は今、どうなって居るんだろうか。エディは盗聴器が仕掛けられていると言う。きっとほこりが積もっているだろう。
 私はふと思い付いてエディに言う。「エディ。私お家賃を振り込んでいないわ」
 アルンがそれに答えた。「六ヶ月分まとめて振り込んでおいたよ」
 「良く振込先が判ったわね」
 「アルンが調べて判らないことは、ほとんど無いよ。龍の峰くらいのものだ」エディはそう言うとアルンとの話を止めて、私の傍に来た。そして私をのぞき込むようにして言う。「僕は君の幸せを奪ってしまったのだろうか?」
 私は小さく首を振った。
 「ねえ、もうあの部屋は処分しても構わないわ」
 「どうして?君のお城なんじゃないのかい?」
 「そうよ。でももう構わないの。部屋も、部屋の中の物も全部処分してしまって。私にはあなただけで充分よ。もう私にあの部屋は必要ないわ。脱いでしまった蝉の殻に戻れないのと一緒よ。あの生活にもう一度戻るには、一からやり直さなければいけないのよ。覚めてしまった夢には戻れないわ」
 彼は何も言わずに私の肩を後ろから掴んだ。その手に私の手を重ねて言う。
 「私は必要な物だけ持っていればいいんだわ。あなたの元に戻って来たんですもの、戻る部屋なんて必要ないのよ。それにこの戦いから帰ったら、あなたに全部揃えてもらうわ。そしてあなたの街で暮らしましょう。私も広東語を覚えるわ。でもそれはきっと次に生まれた時になると思うけど。それで構わないのよ。それに贅沢にも慣れてきたし、もう本当に平気よ。だって帰る人の居ない部屋って、何だかとても可愛そう。砂に埋もれていく廃墟のようよ」
 「でも君の想い出の物が沢山有るんだろう?」
 「物を見て思い出すことなんて必要ないわ。だってもうすぐ総てが思い出になるのよ」私は何気なくそう言ってから何故そんな事を言ったのかと後悔した。エディがとても複雑な表情で私を見た。私は少しだけ微笑んでみせた。
 彼が言う。「ヨーコ。今度は一緒に行こうね」
 私は黙って頷いた。そしてそれがそんなに先で無い事も理解していた。
 彼に尋ねる。「花は、桜は見られるかしら?」
 彼は目で微笑んで頷くと言う。「もう何度かはね」
 私もその答えに頷いた。私は振り向いてアルンを見る。しかし彼はそこには居なかった。
 エディがそっと私を抱き寄せると口付けする。
 「ヨーコ。愛してるよ。君が言うように、きっと何時か僕の街で暮らそう」
 私達の乗った船は湖面を滑るように走っていた。二人で窓から外を見ていた。しばらくしてドアの閉まる音がしてアルンが入ってきた。
 「アルン。こっちに来て座らない?」私が言う。
 彼は頷いてエディと反対側の隣に腰を下ろした。
 私はエディに尋ねる。「熊野には何があるの?」
 エディが答える。「熊野は出雲のコントロールボックスの様な役割を果たして居る。何故かは判らないけれど、大昔からそうなんだ。だから先ず熊野から出雲の龍に語りかけてみようと思っている」
 アルンに尋ねる。「危険は無いのかしら?」
 アルンが答える。「出雲へ直接入るより随分ましだと思う。人的な危険には幾らでも備えられるし、何があっても守る自信はある。しかし人的でないものは僕達には守れない。先ず、出雲の龍が何を欲しているのかを知ればその部分での危険が随分回避されると思うんだ」
 私はエディに言う。「その方法をあなたは知っているの?」
 「ああ。大体ね。行ってみれば判ると思う。聖龍の書に書いてあるんだ。でもとても比喩的な表現なのではっきりは判らない」
 私はそれについて深く考えなかった。私はただ、太古、比類無き美しさを身に付けたスサノオが、同じように美しい龍を連れて野山を行く風景を思い浮かべていた。雄大な自然の中で愛し合ったスサノオと龍。緑の山々を巡り、この国を作り、人々に幸せを与えた。何十代何百代前の私達の姿だったのかも知れない。その時もアルンは傍に居てくれたのだろう。きっと加藤も居たはずだった。総ての魂が転生を繰り返している。
 「スサノオに会えるかしら?」
 「多分ね」エディがそう答えた。
 私はアルンの方を向いて彼に尋ねる。「ところでアルン。あなたは愛すべき女性に巡り逢えたかしら?」
 アルンは少しはにかんで答える。「まだだよ。だって船の上でヨーコに言われてから、そんなに経っていないじゃないか。でも僕は・・・」アルンが言葉を切った。
 エディが言う。「どうしたアルン。言っちゃえば?」
 アルンは二度程咳払いをして言う。「僕は、僕の守るべき龍がヨーコであった事をとても喜んで居る。もちろん聖龍がエディであった事もだけどね。僕達の龍がヨーコの様にチャーミングな女性で本当に良かった。許されることなら、僕がエディに代わって君にプロポーズしたいぐらいだ」
 「どうもありがとう。私はいつも傍にいてくれるあなたで良かったわ」
 エディが笑いながら言う。「アルンもやっとヨーコの素晴らしさに気付いたんだ」
 私が言う。「でも私はアルンの望むようにエレガントには成れ無いわ。生まれつきがさつなのよね」
 エディが言う。「でも隊長はチャーミングだって言ってくれたよ」
 アルンはとても困ったような顔をしていた。
 私は彼に言う。「アルン、あなた心配しなくてもきっと出逢うわ。私なんかよりずっと素敵な女性とね。きっとあなたの理想通りの女性よ。でも辛い恋になるかも知れない。だって私とエディもそれを越えてここまで来たんですもの。だからこそ今此処にこうして居られるの。
 世の中の人がみんなあの辛さから逃げ出さないで思いを持ち続けてくれたら、きっと愛に満ちた世の中になると思うわ。そう、それが龍の世界かも知れない。
 愛は素晴らしいものよ。愛は自分一人のものでありながら、総ての人のものでもあるの。誰もが龍を背負っていて、そして他の龍を探しているの。そっと後ろを振り向けばそこに龍が居るのに、誰もそれに気付かないのよ。
 アルン、私にはあなたにも龍が見えるわ。そしてエディにも。その他の人にも、全部よ。
 皆が自分の龍に気付いてその龍を育てれば、きっと世界中に龍が溢れるわ。そうしたらもう私達が狙われることもない。だって犬や猫は動物園にいないもの。どこにでも犬や猫が居るように、龍も居たら素敵よね。それは愛の世界でもあり、龍の世界なのよ」
 アルンが判らないと言う風に大きく首を横に振る。
 エディが言う。「アルン、ヨーコの龍は青い鳥と同じなんだ。どこにでも居るのに、探すとどこにも居ない。ただ自分で気付くかどうかの問題なんだ。ヨーコは自分が特別じゃないって言いたかったのさ。ねえヨーコ」
 私は頷いた。
 エディが続ける「なあ、アルン。僕は龍を愛したわけじゃない。人間の女としてのヨーコを心から愛して居るんだ。ヨーコの魂を愛して居るんだ。だから龍が僕達の愛を利用したのさ。
 僕達は、愛し合う為だけに何度も何度も生まれ変わった。だからどんな障害も乗り越えられる。それで僕が聖龍に選ばれただけだ。本当は聖龍なんて誰でも良かったんだよ。ただ愛し合う魂でさえあればね。
 ヨーコの素晴らしさは魂の美しさなんだ。ヨーコは総てを受け入れ、総てを与えることが出来る。お前がヨーコに何かを望めば、必ずヨーコは与えてくれる」
 アルンが言う。「もし、僕がヨーコを妻に望んでもか?」
 エディが答える。「もちろんだ。必ずヨーコは与えてくれる」
 「そんな事が有り得る筈が無いじゃないか。そんな事をしたらヨーコはお前を傷つけることになる。ヨーコがそんな事を望むわけがない」
 エディが言う。「それはお前が本当にヨーコを妻に望まないからだ。お前が本当に誰かを望むことになればきっと判るさ。
 僕は一度もヨーコ以外を望んだことなど無い。何千年も何万年もヨーコだけを求めてきた。そしてヨーコはずっとそれに対して必要な苦しみを与え続けてくれた。それは僕の望んだものが苦しみだったからだ」
 「お前は何故そんなに苦しみを望んだんだ?」
 エディは穏やかに微笑んで答える。「アルン。それが愛の正体さ。それを知っていてヨーコは僕に苦しみを与え続けてくれたんだ。さっきお前が言ったようにヨーコが僕を傷つけることを望むはずがない。確かにそのとおりだ。ヨーコは何も望まない。ヨーコはただ与えるためだけに居るんだ。そんなヨーコが唯一望むものと言ったら・・・」
 エディが言い淀む。
 私が続けた。「私の望むものと言ったら、穏やかな死よ」
 アルンが目を閉じる。
 「エディに与えられる愛に満ちた、穏やかな死。なんて素敵なんでしょう」
 アルンが目を開けて言う。「僕はこんなに死にたがっている人間を守る役に生まれてしまったのか」
 エディが笑いながら言う。「苦労の多い人生だな」
 三人で笑った。
 そしてアルンが言う。「僕はやっぱりヨーコを妻に望めないな。実を言うと僕は、妻より先に死にたいんだ。ちゃんと最愛の妻に看取られてね」
 私が言う。「アルンって強そうに見えるくせに、甘えん坊なんだ」
 エディが大きく頷いて言う。「僕も今度生まれ変わった時に、ヨーコに頼んでみるよ。僕だって本当は甘えん坊なんだ」
 私が言う。「早いもの勝ちね」
 三人でまた笑った。
 笑いが収まってエディが言う。
 「アルン、お前はヨーコの命を守る為に居るんじゃないんだ。お前はヨーコの龍の穏やかな死を守る為に居る。だから敵の手にヨーコを渡さないでくれ。僕達に出来る事はヨーコに穏やかな死を与えることだけなのだから」
 アルンが頷いた。
 私が言う。「アルン、私は別に死にたがっているわけじゃないのよ。自殺願望なんて全く無いの。ただ、生まれて来た限りどうせ死ぬんだもの、だったら穏やかに愛に充たされて死にたいだけなの。誰だってそうだと思うわ。ただ死について考えることを後回しにしているだけでしょう。私は前に死んだ時の事を覚えているから、エディに与えられた穏やかな死の快楽を覚えているから、それを求めてしまうのよ」
 アルンが驚いて言う。「聖龍がヨーコを殺したのか?」
 私が答える。「事故だったのよ。でもそれはとても穏やかで満ち足りたものだったわ。胸からあふれ出る暖かい血が、私に愛を教えてくれた。
 そうアルン、龍は血を求めるの。血は命であり、命が愛だから。だからマダムローザの龍も、あんなに血にこだわり、血を求めたの」
 アルンが言う。「ヒットラーのことか?」
 私は頷いて続けた。「そうよ。だから龍には龍使いが必要なの。愛に充たされない龍は血だけを求めてしまう。とても危険よね。でも愛に充たされた龍は大丈夫よ。血よりも愛の方が濃いのよ。そして愛に充たされた龍は穏やかな死を求めるの」
 アルンが私の目を見て言う。「ヨーコ、龍とはいったい何なんだ?」
 私はエディを振り返って見る。エディは穏やかに微笑んでいた。
 私はアルンに答えた。「龍の力は魂の力よ。それだけのものだわ。それ以上でもそれ以下でもないの。ただそれだけのもの」
 アルンが目を臥せる。
 私は続ける。「そして龍の力は誰にでもあるの。さっきも言ったように私だけのものじゃない。神は私であり、あなただわ。すべての魂が神であって、魂の意志が龍の力なの。巧く説明できているかしら?」
 「僕には良く判らないよ」アルンが首を振って言った。
 その時エンジンの音が変わる。振り返って反対側の窓を見ると船は港に入ろうとしていた。
 エディが言う。「着いたみたいだ。その話はまた後にしよう」
 
 私達は立ち上がってデッキに出た。船はゆっくりと桟橋に近付いていた。
 エディは私の肩に手を回して言う。「ヨーコ。親戚のおじさんにご挨拶しよう」
 「私の龍の親戚なの?」
 エディが大きく頷く。
 私は目前に迫る山を見ながら思った。本当に龍って何なのだろう。私の理解している龍が本当の龍の姿なのだろうか。何となく気持ちが弱っていた。エディも私も、テンションが落ちて居るのだ。
 私が言う。「少し気持ちが疲れているみたい」
 彼は優しく微笑むと言った。「熊野を終えたら、少し休もうね」
 私は頷いた。

 私達は上陸すると、坂道を歩き、階段を上がった。
 私は龍の存在を感じていた。歳老いた龍が確かにそこにいた。
 私は、心を解放する。歳老いた龍は、私の心に触れた。そして心の色んな部分に丹念に触れながら、私に力を与えてくれた。私はこの龍にも愛されていた。
 私は訳も判らず泣き始めていた。涙がどんどんあふれ出てきて、そして最後には泣きじゃくった。
 エディが心配して私の体を揺さぶる。
 「ヨーコ ヨーコ 大丈夫?」
 私は泣きながら頷く。そしてその時、何故こんなに悲しいのかを理解した。
 「エディ 名前が違うのよ。ここの龍の名前が。宇賀御霊でもなければ弁財天でもない。私の龍と一緒で、ただの名もない龍だわ。
 ずっとずっと昔からここで自由に泳いでいた。ここの龍はとても人なつっこくて、とても優しいわ。神様になんてなりたくなかったのよ。仲間達とこの湖で楽しく暮らせればそれで良かったんだわ。なのに誰かがここに名前を変えて祀ることで封じ込めちゃったの。彼、私の龍を見てとても喜んでいるわ。寂しかったのよ。かわいそうに」
 エディが私を抱き寄せる。
 「ねえ、エディ。ここの龍を解き放して。こんなに優しい龍をこんなに悲しませてるなんて、絶対良くない事よ」
 エディが優しく言う。「大丈夫さ。もうここの封印は解けているよ。もうすぐ仲間が迎えに来るさ。その為に僕達がここまで来たんだよ」
 私はその言葉を龍に伝えた。龍は喜んで高く飛び上がった。
 私とエディは湖を見る。遠くに二頭の龍が泳いで来るのが見えた。三井寺の龍と比叡の龍だ。それを見つけた竹生島の龍は、一度振り返って私達に笑いかけると、空中高く飛び上がり、湖に飛び込み、仲間達の方へ泳いで行った。そして三頭の龍は、子猫がじゃれ合うようにもつれ合いながら、再会を喜んでいた。不思議なことに、湖面には波飛沫一つ立っていない。私達は夕日の中でその光景にしばらく見とれていた。

 私達は夕暮れ時をクルーザーで走った。すべてが朱赤に染まり、船の周りには三頭の龍がまとわり付くように泳いでいた。それを見ながら私はアルンに言う。
 「私達は今、三頭もの龍に守られているわ。あなたにも見える?」
 彼は首を横に振って言う。「龍は魂の力じゃなかったの?どうして君達には見えるんだい?」
 「たくさんの魂が、龍に形を求めたのよ。その思いが長い年月を掛けて形を作ったの。人が望んだのよ。龍に形をね。沢山の人達が、風を見たいと望んだら、そしてその思いを持ち続けたら、風も何時か形を持つかも知れないわね。人の力ってすごいわ」
 エディが言う。「そしてここにももう一頭の形を持った龍が居る。このヨーコの龍は僕が望んだから形をもったんだ。何万年も昔から、ずっと望み続けたから」
 アルンがやっと納得したように頷いた。「そう言うことなのか。僕に龍が居ても、望み続けるものが居なければ形を持たない。しかしそれは形が無いだけで、確かに龍は存在して居る。もし僕の龍を見ることを何万年も望み続けた人が居たら、僕の龍も形を持ったかも知れないんだ」
 「そうよ。龍は誰にでも居るの。ただ、聖龍を持った龍が少ないだけなのよ。そして、龍と聖龍が同じ時期に生まれるとも限らないわ。わざと時代をずらせて生まれたり、同じ時期に生まれても巡り合えないように仕組んだりして生まれるのよ。
 そうしてお互いを求める気持ちをどんどん強め合って行くの。そうすることによって魂の力も強くなるのね。
 そうすれば龍の形もはっきりするし、その力も強くなるわ。だから今の私達は魂の力が最大に近い形で引き出された生なんだと思う。ずっと求めることを止めなかったエディの勝利だわ」
 エディはすました顔で言う。「僕は賭けに負けたことがない」
 私が言う。「私はいつも負けてばかりだわ」
 エディが言う。「それはよく知ってる。だって君はその為に僕に付いて来ちゃったんだろう?」
 アルンは良く判らない顔で私達を見る。私達は二人で顔を見合わせて笑った。そして窓の外の龍達に向かって手を振った。

 ホテルに戻ったのは夜の8時を少し回った頃だった。とても長い一日。色んな事があった。エディと私は、食事をルームサービスにしてゆったりとした夜を過ごしていた。
 「ねえ、エディ。あなた、お父様の事どう思う?」
 「素晴らしい父だった。そして今は父も母もかわいそうな人達だったと思うよ」
 私はワインを口に運び、グラスの向こうに彼を見ながら言う。
 「あなたを生んでくれた人達。きっととても深く愛し合っていたのよ。でなければ、あなたもアンディも生まれなかったわ」
 彼が少し間を置いて答える。「そうだね。龍に出逢うまでは、愛し合っていたんだ」
 彼の表情に少し寂しそうな影がよぎった。私はそんな彼に言う。
 「ねえエディ。お父様のお母様に対する愛がとても深かったから、お父様が居なくなった後もお母様はあなた達の元に居続けてくれたんじゃないかしら?そしてあなたやアンディがお父様の分までお母様を愛したでしょう。それにお爺様もそうだったわ。きっとお母様は愛された記憶だけで、充分に幸せだったのよ。私が今あなたを失っても、あなたの愛が私の中に残るように、きっとお母様もお父様の愛に充たされていたのよ。
 きっとお父様はあなたのように、人を愛することがとても上手だったんだわ。だって私、あの龍の峰にあった徐美玲と書かれた石に触れた時、本当にこの人は幸せだったって思えたもの。
 あなたのお父様は、あなたより素晴らしかったのかも知れないわよ。だってお父様は、二人の女性を幸せにしたのよ」
 彼は微笑んで言う。「僕は君一人で四苦八苦している」
 私は笑う。「あら、私はとっても幸せよ。何百人分もの幸せを、独り占めしたぐらいにね」
 「そんなに幸せなのかい?」
 「ええ、そうよ」
 「君は欲張り過ぎだよ」
 「あら欲張りなのはあなたでしょう?」
 「きっと僕達はとても良く似て居るんだ」
 「だって、夫婦ですもの」
 二人で大きく頷いた。
 「ねえ、エディ。私達これからどう成るのかしら?」
 彼が首を傾げる。
 「次に生まれて来る時のことよ。私はまた龍を背負って生まれて来るのかしら?」
 彼は頷いて言う。「そうだね。今の生ですべてが巧く行ったら、もう生まれなくていいかも知れないよ。でも、何かやり残したら、もう一度やり直しかも知れない。すべてこれからにかかって居るんじゃないかな」
 私は頷いて言う。「私は、ここまで巧くやれてるのかしら?」
 「完璧だ。誰が思っていたよりずっと君は巧くやっているよ」
 私はうつ向いて首を振った。そして尋ねる。「ねえ、あなたもう生まれかわりたくない?」
 彼が首を振って答える。「よく判らない。生きているって結構辛いからね。でも、もう一度生まれ変わって君を抱きしめられる肉体を持つって言うのもいいかも知れない」
 私も頷く。「そうね。私もそう思うわ。死は穏やかで充たされているけど、私は生きていることが楽しいの。それに今度あなたに出逢う時には元気な心で出逢いたいわ。
 私、あなたに抱きしめられた時にドキドキする感覚って、大好きよ。あなたの声を聞くことも好きだし、あなたの肌の感触も大好き。それに今度は、一目会った時から心臓が裏っかえるぐらいときめいてみたいの。そしてあなたの子供を生んでみたいわ。あなたに良く似た男の子よ。そしてその子供が大人になってまた運命的に恋をするの。素敵だと思わない?私はきっとどんな恋でも応援してあげるわ」
 「僕は君に良く似た女の子が欲しいよ。そうしたら誰にもやらずにずっと僕の手元に置くんだ」
 「本当に欲張りね」
 彼が笑う。
 「じゃあ、男の子と女の子を生みましょう。でも男の子が私で女の子があなたに似ても知らないわよ」
 「構わないさ。どっちにしてもチャーミングな子供には違いない」
 私は首をすくめてみせる。「あなたって欲張りの上に、楽天家だわ」
 「どうして?君は何度生まれ変わっても、いつもとってもチャーミングなんだよ」
 「エディ。それってあばたもエクボって言うのよ」
 彼が首を傾げる。
 「好きになったら、何でもよく見えるって言う事よ」
 「そうかも知れない。だっていつも僕は君に恋をしているからね」
 「今度生まれてきたら、他の人も良く見えるかもね」
 「そうかも知れない。だって今までの僕は、いつも君に恋をしていたからね」
 「他の人も良く見た方がいいわよ。私なんかよりずっと魅力的な人が沢山居る事に気付くから。でも今度生まれて来た時にね。今はだめよ」
 「君ってもしかして、焼きもち妬きだったの?」
 「昔はね。でも今は違うわ。今はあなたが何をしようと平気よ。でもあなたが居なくなると困っちゃうじゃない。だから他の人を見ちゃだめなの。焼きもち妬きじゃないけど、寂しがりなのかも知れないわ」
 「大丈夫さ。心配しないで。僕は君を一人にしたりしないよ」
 「だからきっと、あなたのお父様はお母様にあなたやアンディをあげたのよ」
 彼は微笑んで頷いた。
 「そして母は、今君が言ったように、僕達のことをいつも応援してくれたんだ。君は母に似ているのかも知れないね」
 「とんでもないわ。私お母様みたいに美人じゃないもの」
 「何度言ったら判るんだい?君はとっても美しい。だから誰もが君に恋をしてしまうんだ。あのアルンでさえ君に恋をしたって言うのに」
 私は驚いて言う。「嘘でしょう。何時そんな事言ってたの?」
 エディはあきれたように言う。「今日、クルーザーの上で告白していたじゃないか」
 「やっぱり嘘だ。彼は、彼の守る龍が私で良かったって言っただけじゃない」
 エディが溜息を付く。「かわいそうなアルン隊長。あんなに思い切って告白したのに通じなかったなんて」
 私はそれについて考えたが、やっぱり良く判らなかった。エディはそんな私を笑いながら見ていた。
 私達は食事を終えて、片付けてもらった。私はベッドルームで荷物をまとめる。明日はまた神戸だ。彼はリビングでミツコに電話をし、明日の約束を取った。そしてソファーに寝そべってテレビを見る。
 「ヨーコ。やっり新幹線が止まったみたいだよ」
 私もテレビの前に行ってそのニュースを見る。
 「でも、たいした被害がなくて良かったわ」
 彼も頷いて言う。「これからだってあるかも知れないよ。でも、それは君のせいじゃないからね」
 私は頷いて言う。「そうね。今日の竹生島の龍は、とても嬉しそうだったわ。それって、それまでがとっても辛かったって言う事でしょう?少しぐらいは人間も我慢しなくっちゃね」
 彼が頷いて言った。「そうだよ。良かった。僕は君がもっと気にするかと思って心配だったんだ」
 私は笑って言う。「慣れてきたのよ。贅沢にも、龍にもね」
 彼も笑って私の体を抱き寄せて口付けした。
 「でも君はちっとも変わらない。それはとっても素晴らしい事だ」
 私には判らなかった。
 「心配しないで。君は君のままが一番素敵なんだ」
 私は彼の肩にそっと頭を乗せてつぶやくように言う。
 「あなたはもっと変わらないわ。いつもとても優しくて、ありのままの私を受け入れてくれる。でも何時か、『オイお茶』なんて言ったりするように成るのかしら?」
 彼が笑って言う。「オイ お茶!」
 私は立ち上がって冷蔵庫の前に行き扉を開けてのぞき込む。「緑茶とウーロン茶しかないけど、どっちがいい?」
 彼が笑って言う。「ヨーコがいいよ」
 「あら、私ってお茶だったの?」
 彼が声を上げて笑う。
 私は取り敢えずウーロン茶を持って彼の元に戻り、ひざまずいて言う。「ご主人様!ヨーコでもウーロン茶でもお好きな方をどうぞ」
 彼は私を抱き起こしてとても優しく口付ける。その口付けには彼のいとおしさが満ち溢れていた。そして私達は幸せな夜に抱かれて眠りについた。