龍 10 比叡山 T
 朝早い時間に目が覚めた。
 外はまだ夜が明け切っていなかった。自分の意志ではないような目覚め方だった。エディはもう起きて運動をしていた。
 私はベッドを抜け出してシャワーを浴びる。そして化粧をし、身支度を整えた。その間に彼も運動を終え、シャワーを浴びて身支度をした。
 二人でレストランに降りた時、やっと日が登ろうとしていた。アルンも心持ち緊張した面持ちで食事をしている。
 食事を終えて私達は、まだ朝霧の立ち込める中を出発した。

 いつものようにアルンが運転をする。エディはいつもと違って後ろの席の私の隣に乗り込んでいた。
 車は、とても急で曲がりくねった坂道を、事もなく登る。私の車ならもうとっくに音を上げているだろう。
 いくつものカーブを抜けた所で何気なく振り返ると、そこには登ったばかりの太陽に照らしだされた琵琶湖が、良く磨き込まれた銅鏡のように輝いていた。
 「エディ見て。とっても綺麗よ」
 「本当だ。とても良い所だね」
 「そうね。それに昨日はあんなに曇っていたのに、今日はとってもいい天気だわ」
 「誰かが君の来るのを待っているのさ」
 彼の言葉に私は頷いた。
 奇妙な事に、山を登って行くに従って私の中に変化が生じて来ていた。巧く説明出来ないのだが、自分の意識が何処かで眠り始め、誰かの意識が目覚め、私の体を操り始めているような、そんな感じだった。
 エディはずっと私の肩を抱いていた。そして時々私をのぞき込む。彼は私の変化を理解しているようだ。そして時々「心配しないで、大丈夫だから」と言ってくれる。その言葉は、私に安らぎを与えてくれた。しかし、山頂近くの駐車場にアルンが車を止めた時に私の体のほとんどは、誰かの、いや、空海の意識に支配されていた。

 ゲートを潜り、穏やかな坂道をエディに支えられながら登る。少し歩くと私の体は、空海の意識で動く事に慣れて来た。坂道を登り切った所に大講堂が有った。その前に透青年が穏やかな表情で立っていた。
 彼が私の方に向かっておじぎをすると、ゆっくりと近付いて来た。朝早い時間なので観光客は誰も居ない。座主との約束までにはまだ時間があった。
 透青年は私の前で穏やかに微笑むと「こちらへ」と言って歩き始めた。私は彼の少しだけ後を歩いた。エディは肩に回していた手を解くと私の右手を握り締めた。
 透はとても静かに、地面と足の間に少し空間があるような感じで階段を降り、坂道を下る。
 根本中堂だった。
 履物を脱ぎ、足の裏に磨き込まれた床板の冷たさを感じながら、回廊を歩く。
 本尊薬師如来の前で彼はゆっくり一礼すると、私の方に向き直って座った。私も同じように本尊に一礼をし、彼の前に座る。エディが私を支えるようにして座ると、私の龍を解き放った。

 私の体はそのままを力失いエディに寄り掛かる。龍は輝き始め、穏やかに舞う。透青年はそれを食い入るように見つめていた。そして初代の最澄の意識が彼を支配し始めた。龍は静かに彼の前に空海の変化した玉を置く。そしてその玉はまた空海の形を取ってそこに座った。
 「永い、永い時間でした」最澄が初めに言った。
 「お約束どおり、此処まで参りました」喜びに溢れた空海が言う。
 最澄の思念が微笑むと言う。「とうとう、この時が参りましたな」
 空海がそれに答える。「巧く輪廻が繋がったようです」
 最澄が言う。「あの時、貴方が私の為に修してくれた法のお陰です。私が死した時、貴方はとても重要な法術を修してくれましたな。そのお陰でなんの修行も成し遂げられなかった私も、こうして生まれ変わり続けることが出来たのです。本当に有難いことでした」  
 「いえいえ、最澄殿。私は何もしてはおりません。すべて貴方の御心の力です。私はただこの二人が生まれるのを、高野で待っただけなのです。穏やかな死に包まれて、私はずっと考えておりました。
 法力と言うものは誠に人の力なのですな。どのような修行を積もうとも、どのような術を学ぼうとも、何も成せないのです。大切なのは、貴方のように一心に思い、そしてその思いを持ち続けること。それが本当の意味の法力なのでしょう。
 私は術に頼り過ぎておりました。お恥ずかしいことです。それにしても貴方はよくあの穏やかな死の中にいて生まれ変わりを望まれました」
 最澄がそれに答える。「貴方が恥ずかしがるような事は何一つ有りません。恥ずかしく思っているのは私の方です。貴方が一つの生で成し遂げられた事に追い付く為には、私にはこれだけの生が必要だったのです。この透と言う青年は、受け継いだのは記憶だけで法力は受け継げなかったと思っていたようですが、元々法力と呼ばれるようなものは持っていなかったのです。
 私は空海殿のように現世の人々の役に立つ知識も知恵も持たなかった。私は人の力を越える事が出来なかった。
 ただ人々を救いたい、この苦に満ちた世の中に生きる力無い人達が悲しくて、その苦しみや悲しみを少しでも和らげたかった・・・」
 空海の念に感動が表れた。「おお。それだけの為に、その一念だけで、これ程の事を成し遂げられましたか。何と言う美しい心をお持ちなのでしょう。人の心の強さを教えていただきました。あの穏やかな死の中にいて、なおかつ、この苦しみの中に生まれ変わることを望み、そしてこれだけの事を・・・。それなのに私は穏やかな死の端で、ただ思っていただけでした」空海は本当に感動していた。
 最澄が言う。「ただ偏に私が愚鈍であったため、これ程の時を要してしまっただけなのです。私は貴方に教えられた龍の悲しみを救いたかった。そしてその龍の力で人々の苦しみをも救いたかったのです。そのために何度も何度も生まれ変わり、一つづつ封印をして回りました。生かす術を持たない私には、そうする事しか出来なかったからです。それでも貴方の成し遂げられた仕事に追い付くことは出来なかった。四国の龍は見事な仕掛けですな」
 「いえいえ、貴方も富士の力を水人の国へ引いたそうですな」
 「はい、あれは随分後の生に密教を学び、その教えに従いました。しかし、あの時も人々は苦しんでいました。その後も、ずっとずっと人々は苦しみの中で生き続けています。私には、結局何も出来なかったのです」
 「最澄殿、それならば私も同じことでしょう」
 「あの時に私達が一つに成れれば少しは違ったのでしょか?」
 空海がそれに答える。「いえ、同じことだったのでしょう。何故なら私達には愛と言うものが欠けていたのです。仏の愛ではなく人の愛です。愛によって受ける喜びや悲しみ、それらの事を私達は煩悩として排除してしまっていました。しかし、この聖龍達を見てそれが間違いであったことに気付きました。私達は女を愛することを知らなかった。そしてその自己中心的な愛と言うものを避けてきてしまった。本当はこの二人の様にこの上無く美しいもので在ったにも係わらず関わらず」
 最澄が同意する。「そのようですな。この二人は愛し合うためだけに、何度も何度も生まれ変わっています。私達があれほど忌み嫌った男女の愛が、これ程崇高で美しいものであったとは。あの時一つになれなかったのは、私達にそれが欠けていたからだったのですな。そのためにこの二人が生まれるのを待つ必要があったのです。しかしこれでもう一つに戻れます」
 空海が肯定の意を表した。「そうです。私達は元々が一つだったのです。そして足らなかったものとも出逢えました。龍の望んだものがこれで揃ったのではないでしょうか」
 最澄もそれに同意する。「そのようです。私達が法を学ぶために生きたのと同じようにこの二人は愛のために生きている。眠れる龍はどちらも必要としたのです。それ故私達だけでは龍を目覚めさせることが出来なかった」
 空海が問う。「最澄殿、これからどうなりましょうか?」
 最澄がそれに答える。「人は常に先へ進みます」
 「おお」空海が歓喜の念を発していた。

 私はこの様なやり取りを夢の中で感じていた。
 「ヨーコ!ヨーコ!」エディの呼ぶ声で、私は夢から覚める様に、自分の意識が戻るのを感じた。目を開けた時、私をのぞき込むエディの顔が目の前にあった。
 「ヨーコ。大丈夫?」エディが言った。
 「ええ。大丈夫みたいよ」私は答えた。そして体を起こしながら尋ねる。「透は?」
 彼の声がすぐ側でした。「ヨーコさん」
 私は声のする方を振り向く。そして言った。「透。あなた、最澄に生き写しよ。記憶だけじゃなく、姿形も受け継いでいるわ」
 彼が笑いかける。「そうですか。ヨーコさんには見えたのですね」
 「ええ、ちゃんと見えたわ。エディ、あなたも見えた?」
 「はい、ちゃんと見えたよ。透の中の最澄と、君の龍が連れてきた空海が話していた。透も覚えているよね」
 「はい。僕は生まれて初めて自分の存在理由を見つけたような気がしました。いつも僕の中で最澄の記憶と僕の意識が交差し続けていたのです。それが初めて二つに分かれ、別々のものとして受け入れられました。そしてずっと苦しんでいたことの意味も知る事が出来ました。僕はもう救われるのでしょうか?」
 エディが微笑んで頷くと言う。「そうだね。きっと君の最澄の記憶は知識に変わり、君を助けてくれるよ。此処で空海と最澄は一つになった。そして一つの意識として機能し始めるんだ。もう肉体は必要ないだろう。完全に近い精神に肉体は必要無いんだ。それに僕とヨーコはまだ肉体を持っているから、もし必要となったならば僕達を使うさ。だから君はもう川本透自身で生きていけばいい」
 透は満面に笑顔をほころばせ、エディの手を取った。エディが彼を引き寄せ胸に抱く。まるでアンディとエディのようだった。

 アルンが入口から声をかける。「聖龍、時間だ」
 私はエディに支えられて立ち上がり、透にベエゼした。「さようなら」
 彼がピョコンと頭を下げ、笑顔をくれた。チャーミングと私は思った。

 私達は根本中堂を後にしてアルンの後を付いて歩いた。案内されたのは会館のような建物の応接室だった。エディと私はそこに通され、ソファーに座って待った。
 少し経って、随分高齢の僧侶が中年の僧侶に伴われて入ってきた。私達は立ち上がって頭を下げる。高齢の僧侶が天台宗最高位の座主だった。私達は座主と向かい合って座る。中年の僧は座主のとなりに立っていた。
 座主が言う。「龍の事でお見えとか?」
 エディが答える。「はい。このお山に伝わる龍の伝承をお聞きしたくてまいりました」
 座主は耳が遠いらしく中年の僧が耳元でそれを伝える。座主は頷いて言う。
 「何か、龍を祭られる宗派の御方とかお聞きしましたが、確かにこのお山には龍についての話が伝わっております。しかしどれも比喩的なもので在ったり、伝説のようなものであったりして取り立ててお話するようなものはありませんな。おとぎ話のようなものですよ。わざわざ起こしいただきましたが、お役に立てるようなお話は無いと思いますが」
 エディが尋ねる。「先代の座主から何か申し送られたようなことはありませんか?」
 座主は首を振る。「どのよなことでしょうか?」
 エディは戸惑いながら尋ねる。「聖龍の名の持つ意味とか、その妻についてです」
 座主は中年の僧が耳元で言うのを聞いて頷きながら答えた。「確かに伝えられてはおります。しかしそれは絵空事のようなものです。人に龍がついて生まれ、それを使うものの名が聖龍と言う。そのような話です。信じるに値するようなものではございません」
 私は高野山の法印のことを思っていた。彼は私の龍をすぐに見抜いたのにこの人には判らないのだろうか。しかし私はエディにすべてを任せて黙っていることにした。
 エディが言う。「では、最澄の生まれ変わりについてはどうですか」
 座主はそれを聞くと大きな声で笑い、そして言った。「あの川本とか言う青年にお会いになったのですな。彼の虚言癖には困ったものでして、此処の皆も手を焼いているのですよ。まさかそれを信じられたのでは無いでしょうな」
 この老僧は現実主義者のようだった。
 エディが言う。「話は変わりますが、座主はどのような修行をなされたのですか?随分大変な修行だったのでしょうね」
 座主が答える。「はい。もう80年も教典を学び続けております。学んでも学び尽くすということがありません」
 エディが言う。「千日回峰もなさったのですか?」
 座主が頷きながら答える。「はい。若い頃に一度。その後戦争に行きましてな。辛い時代でした。九死に一生を得て戻ってからは、ずっと教典を学び続けています」
 「そうですか。それは大変なご苦労だったでしょう」エディが言った。
 座主はそれに対して首を振ると言う。「いえいえ、御仏の御心で今日この年まで生かせていただき、随分沢山の経を学ぶことが出来ました。経と言うのは昔の科学書でもあり、哲学書でもあり、そして医学書でもあります。幾ら学んでも学び尽くせません。しかし御仏に長寿をいただけましたので人より多少は沢山学べました。ありがたいことです」彼はそう言って合掌した。
 中年の僧が横から言う。「もうこのぐらいで宜しいのではないですか?座主は高齢ですし、失礼な言い方かも知れませんが、あなたがたの様な新興宗教の方と座主がお会いになられることは、あまり好ましくはないのです。もしこうしてお会いしたことを公表されますと我が宗の信用にも関わりますので絶対に口外はなさらないでください」
 エディが答える。「判っております。どうぞご心配なく」
 中年の僧は安心したように大きく頷くと、座主に大きな声で「まいりましょう」と言って座主に肩を貸して立たせ、部屋を出て行った。その間私達は、立ち上がり、二人を見送った。
 しばらくして彼は肩をすくめてみせると、私を誘って部屋を出た。私は何も言わなかった。

 建物を出るとアルンが近寄ってきて言う。「どうだった?」
 エディは首を横に振って答える。「話しにならない」
 私が言う。「あのお爺さん、すっごい現実主義者よ」
 アルンが咎める様に言う。「ヨーコ。とっても偉い人なんだよ。お爺さんはないんじゃないか?」
 私は首をすくめた。
 エディが言う。「しかたないさ。変わったばかりで余裕もないのだろう」
 アルンが頷いた。 
 私達は無言で坂道を登る。そして登り切った所に透が立っていた。
 「どうでしたか?座主は何か話してくれましたか?」
 エディが首を振って答える。「だめだ。彼は学問だけで今の地位についたんじゃないかな」
 透が頷いていう。「そうです。でも本当はとてもいい人なんですよ。彼には今の地位が重すぎるんです」
 私達は頷いた。
 透が言う。「龍の峰の大阿闍梨に会われたらどうですか?彼ならきっと何でも答えてくれます」
 「君は知っているのか?」アルンが驚いたように言った。
 「はい、ご案内しましょうか?」
 エディが言う。「いや、君はもう山を降りなさい。場所を教えてくれれば僕達だけで行くよ」
 透は頷いて、指差しながら場所を教えてくれた。アルンが途中で何度か質問する。それに対して透は丁寧に答えてくれた。アルンが納得の表情で頷き、私達に言った。「OK 分かったよ」
 エディと私が頷き、透に「ありがとう」と言った。
 透は微笑みながら首を振って、「大阿闍梨よろしくお伝えください」と言った。そして、彼は山を降りるバスに乗り込んだ。私達は、彼の乗ったバスが見えなくなるまで手を振った。
 エディが言う。「彼のカルマは終わったんだ。きっと幸せになってくれるさ」
 私とアルンがそれに頷いた。

 私達は車に乗り込んで、透の教えてくれた龍の峰へ向かった。
 車の中でエディが言う。「先代の座主ならちゃんと話してくれたんだろうけど、今の座主は宗派の大きさに臆病になっているのだろうな。でも透の言うように悪い人ではないと思うよ」
 「私もそう思うわ。でも彼はとっても現実主義者ね」
 アルンとエディが笑った。そしてアルンが言う。「ヨーコ。その日本語は学校で習わなかったよ」
 エディが言う。「でも、とても気持ちがよく判った」
 私は尋ねる。「龍の峰の大阿闍梨ってどんな人なの?」
 アルンが答える。「エディの国の仙人みたいな人さ。透に聞くまでどこに居るかも判らなかったんだ」
 「どこにって、龍の峰じゃないの?」
 「そう。その龍の峰がどこにあるのかも判らないんだ。ただどこかに龍の峰と言う所があって、そこに大阿闍梨が住んでいるって言う事しかね」
 エディが驚いたように言う。「お前達でもか?」
 アルンが頷いた。

 私達は車で20分ほど走り、車を降りて半時間ほど山道を歩いた。
 エディが言う。「ヨーコ。足は痛くないかい?」
 私は答える。「ええ、平気よ。スニーカーを買っておいてよかったわ」
 彼は私の手を引いてくれる。
 途中で道とは思えないところも通り抜けた。私は本当に仙人に会いに行くような気がしていた。
 細い山道を抜けると少し開けた場所があった。そこにひっそりと小さなお堂が建ち、その少し前に人が立ってこちらを見ていた。私とエディは、彼の前に進む。アルンはすぐに見えなくなった。

 エディが問う。「龍の峰の大阿闍梨ですか?」
 その人が答える。「そう。此処が龍の峰です。そして私がそう呼ばれています」
 エディが言う。「川本透君に聞いてきました」
 大阿闍梨と呼ばれた男の人はフンフンと言う風に頷き、くるりと振り返ってお堂に入りながら言った。「判っております。どうぞ中へ。お茶でも差し上げましょう」
 そして入口で振り返ると言った。「李聖龍殿とその妻のお二人ですな」
 私達は頷いて彼について中に入った。

 中は小さな土間と板張りの小さな部屋があった。その部屋には子供ぐらいの大きさで、荒削りに仕上げられた不動尊像がまつられていた。
 私達は彼の勧めるままに、藁で編んだような座布団に座ってお茶をいただいた。それは何か薬草のお茶の様だが、口当たりも良く、それを飲むととても体が暖まった。
 湯飲みを置いて、エディが言う。「大阿闍梨は何故、私どもの名を御存じだったのですか?」
 大阿闍梨は「はっ、はっ、はっ」と声を挙げて笑うと言う。「私は此処で龍と一緒に暮らしております。龍の事は龍に教わるのですよ。それにしてもあなたの龍は素晴らしいですな」そう言って目を細めて私を見る。
 エディが言う。「有難うございます。しかし素晴らしいのは龍だけではありません。妻も素晴らしいのです」
 私は恥ずかしくてうつ向いた。
 大阿闍梨がまた声を挙げて笑った。「そうですな。確かに奥様もお美しい。連れておられる龍より美しいかも知れません。長く俗世間から離れて暮らしています故、失礼しました」エディがそれに対して微笑んだ。
 大阿闍梨が言う。「足を崩しなさい。此処は龍の住むところです。何も遠慮することはない。親戚の家に遊びに来たんだと思えばいいでしょう」
 私とエディは顔を見合わせて笑った。そして私は横座りに足を崩す。
 大阿闍梨は深く皺の刻まれた、とても人なつっこい顔で笑って言う。「今朝から私はずっとあなた方が来られるのを待っていたのです。出たり入ったりを繰り返しながら、今か今かと・・・。でも此処へ来られたと言う事は座主には相手にされなかったのですな」
 エディが頷いて言う。「はい。しかし何故私達が来るのを?」
 「もちろんそれも龍が教えてくれたのですよ」大阿闍は笑いながら答えた。そして続ける。「して、何をお話しすれば宜しいのですかな」
 エディが言う。「このお山の封印の場所を」
 大阿闍梨は即座に答える。「それなら、此処です。此処がこのお山の要です。私は四十年間この場所を守ってきました。街へは下りないので本当の千日回峰ではないのですが、四年を周期にもう十回の回峰をしました。それでもう四十年です」
 エディが驚いて声を上げた。「それはすごい!」私は何がすごいのか判らないので黙っていた。
 大阿闍梨は笑いながら言った。「龍が散歩を求めるのですよ」
 エディが首を傾げる。
 大阿闍梨が続ける。「龍は回ることを求めるのですよ」
 エディが頷いて言う。「そうですね。それで回峰行を」
 大阿闍梨が微笑んで頷き、語り始めた。「私の母は父の名を証さぬまま私を産んですぐに死にました。その後祖父母に育てられたのですが、それも相次いで亡くなりましてな。天涯孤独の身という奴ですか。それで十の時にこのお山に預けられました。それは厳しい修行の毎日でした。それが辛くて辛くて堪りませんでした。まだほんの子供でしたから。それで本山を逃げ出そうと思い、山に入ったのです。そのころには今のように自由な風潮があった訳では無く、何処にも行く所などありませんでした。それでも逃げ出したい一心で山の中をただ歩き回ったのです。そしてその夜疲れ切った私は、この近くの木に登って休んだのです。一度逃げた者がどのような仕置きを受けるかは知っていましたからね。どんなに疲れても戻ることはできませんでした。その時ですよ。そう、その時に私の夢に龍が現れましてな。その龍が私をこの場所に導いたのです」
 エディが尋ねる。「龍は何と?」
 大阿闍梨は悪戯っ子のようにニッと笑うと答える。「私をこの場所に案内して、私と遊ぼうと言ったのです」
 「遊ぼう?」エディが繰り返す。
 「そうです。きっと寂しかったのでしょう。それで目が覚めた後、龍に案内されたように歩くとこのお堂がありました。誰も守る者も無く、本山の者達も此処は知らないようでした。それで私はしばらく此処に隠れていようと思い、まず溜まったほこりを拭い、周りの草をむしったりして、自分の城のように思い、磨き上げました」
 「食べ物はどうしたのですか?」エディが尋ねた。
 「周りの木には食べられる実が沢山なっていました。山には食べられるものが幾らでもあります」
 エディが頷く。
 大阿闍梨は目を閉じて遠い記憶を引き出すように語り続ける。
 「確か、ここに来て三日目の日暮れでした。私が眠ろうとして床に横に成った時の事。目を閉じた瞬間に何かが音を立てて弾けたのです。そう、まるで卵が割れるように。しかし驚いて目を開けると何もありません。それでもう一度目を閉じると、私の目の中になんと龍が映るのです。そして初めの日の様に言いました。遊ぼう、と。
 私は何が何だか判らなかったのですが、まだ子供だったのですな、それを簡単に受け入れてしまったのですよ。それで龍に問いました。何して遊ぶの、と。すると龍が喜びましてな。私を背中に乗せて飛ぶのです。それは素晴らしい思いでした。真っ暗な夜なのに何もかもがはっきり見えるのです。琵琶湖の上も飛びました。そして京都の町の上も。鴨川が月の光に輝いてそれは美しかった。私はもう有頂天でした。今思うと子供の見る他愛のない夢だったのでしょうな。
 しかし、その夜から私は龍と友達になりました。そしていつの間にかその龍に導かれて回峰行を始めていたのです。夜になると龍は山を巡ることを望みます。不思議なことに龍といると真っ暗な中でも何でもはっきり見ることが出来るのです。恐ろしくもありませんでした。それに龍はいろんなことを教えてくれました。どの茸が食べられるとか、どの草が何の薬になるとか、何処を掘れば水が出るとかそんな事をです。そうそう、先ほど飲まれたあのお茶も龍に習ったのです」
 私達は頷いた。
 大阿闍梨が続ける。「私が十八歳に成る頃には、龍が何故私を必要としたのか自然に理解していました。龍は封じ込められていて動けなかったのです。それで私の体を必要としていました。私の肉体に乗り移り、山を巡った」
 エディが言う。「では、ここの龍も目覚めているのですね」
 大阿闍梨が頷く。「そうです。封印さえ解ければすぐにでも活動を始めるでしょう」
 エディが言う。「最澄も四国の龍と同じ方法を取ったのですね」
 「そうかも知れません。透君の前の最澄がこのお堂を建て、私がそれを引き継いだと言うことでしょう。宿命と言うものですな。私は偶然と思っていましたが、伝教大師の仕組んだ因縁だったのです。その為に私は生を受け、早くに身内と別れ、世間を離れる必要があったのです。私のこの生は、この堂を守り、龍を守りながらあなた達をまつことだった。その為の最良の人生を選び取ってきたように思えます。それが宿命です」
 私達は宿命という言葉にずっしりとした重みを感じ取っていた。暫くして大阿闍梨が思い出したように言った。
 「そうだ。李聖龍殿でしたな」
 エディが頷く。
 「あなたのお父様も此処へ来られましたよ。確か李黄龍と言われませんでしたか?」
 エディが答える。「はい。黄龍は僕の父です。父は此処へ何をしに来たのですか?」
 大阿闍梨が答える。「あなたと同じことを尋ねに来られました。あれは私が三十歳位の時のことでした。やはり美しいご婦人を連れてられました。しかし、今のあなた達と違って何処か寂しそうに思えました。封印はどこかと尋ねられたので、私はやはり此処だと答えました。ご婦人は日本の方ではなかったようで、私には判らない言葉であなたのお父さんが何か言うと寂しそうに涙を流しておられました」
 その時私は人なつっこそうに笑った彼と全く違った人をそこに見ていた。彼も、この大阿闍梨と呼ばれている人も、心に大きな傷を持っていた。
 エディが尋ねる。「それで、父はどうしたのですか?」
 大阿闍梨は目を閉じて答えた。「そのまま出ていかれました」
 私は彼が嘘をついている事を直感的に理解した。そしてその嘘が、彼の心の傷である事も。私は目を閉じて心を静めた。そうする事で20年前に此処で何が起こったのかを知る事が出来た。それをエディも悟った。そして悲しみをこらえた低い声で言う。
 「大阿闍梨、あなたが手伝ってくれたのですね」
 大阿闍梨は大きく目を見開いて私達を交互に見た。そして私とエディの沈欝な表情を読み取ると言った。「知っておられるのですか?」
 私達が頷く。
 彼が低く、搾り出すような声で言った。「私が穴を掘ったのです」
 エディがすべてを悟り、静かな口調で言う。「ありがとうございます。父は龍使いとしての使命を果たしたのです」
 私の中に悲しみが渦巻いていた。それはエディのお父さんの悲しみであり、この人の良さそうな大阿闍梨の悲しみだった。誰もが暫く押し黙り涙を流していた。そしてエディが顔を上げ、涙を拭って言う。
 「大阿闍梨。此処の封印を解いても宜しいでしょうか」
 大阿闍梨も涙を拭って答える。「はい。そのためにずっとお待ちして居たのです。あなたのお父様がそうしてくれるのかと思っていました。しかしそうではなかった」
 エディが言う。「父には此処の龍が使えなかったのです。まだ時が来ていなかったのでしょう。それで父は龍静めを行ったのです」
 大阿闍梨は静かに頷いて立ち上がり、床板を捲り上げた。エディと私がその中をのぞき込む。其処には漬物石ぐらいの大きさで、少し平べったい石があった。そして黒々とした墨で徐美玲と書かれてあった。エディのお父さんの使った龍の名前だった。いや、彼の愛した龍を背負った女性の名前だった。
 私はそっと床下に降りてその石に触れて見た。穏やかな幸福感が其処にあった。
 私は振り返ってエディに言う。「私もこんな幸せをあなたから貰えるのね」
 エディが静かに微笑み、そして頷いた。彼が私の後ろに回り、私を抱きかかえると指輪を回し、龍を解き放った。大阿闍梨は読経を始めていた。
 私はエディの暖かさを背中に感じつつ、彼の放つ青い光に包まれていた。エディが何か言っていた。それは愛の呪文だった。私には判らない言葉。しかし意味は理解出来た。
 『すべてのものを包み込み、受け入れる。そしてすべてのものが一つになり、繋がる』
 遠退く意識の中で私は、エディの唱える呪文の意味を心に刻み付けた。

 私は意識が戻った時に彼の記憶から何が起こったのかを知る事が出来た。
 私は彼に抱きかかえられたまま、宙に浮かんでいた。そして徐美玲と書かれた石もふわふわと浮いていた。大阿闍梨は一心に経を唱え、何度も何度も数珠を擦り合わせながら目を大きく見開いていた。それは何一つ見逃さないという決心を物語っているようだった。
 石の浮き上がった地面から、一筋の光が屋根を突き抜け天へ向かって延びていた。その一筋の光は良く見ると龍の形をしていた。しかしそれはいつも見るゆらゆらと泳ぐ龍ではなく、一直線に延びた龍の姿だった。解き放たれたことを喜ぶ龍の姿。
 比叡山に棲む龍は解き放たれた。ふわふわ浮いた石が元に戻ると、龍の形をした光がその石に宿った。
 エディは気を失った私を横たえると、大阿闍梨に向かって言った。「終わりました」そして私の髪を撫でながら私の意識が戻るのを待った。
 大阿闍梨は床板を元に戻すと、お茶を入れて私達の前に置いた。意識の戻った私は何があったのかを悟ると、居住まいを正して取敢えずそのお茶をいただいた。
 私はエディに言う。「ねえ、龍が何かする時に気を失うのって、なんとか成らないかしら?」
 エディが言う。「どうして?僕が居るから大丈夫だよ」
 「だって、みっともなくってよ」
 大阿闍梨が声を立てて笑って言った。「気のお強い奥様だ」
 エディも笑う。
 大阿闍梨は、初めに会った時の人なつっこさを取り戻していた。私達はしばらく休んで外へ出た。
 そこは来た時と何一つ変わっていないように見えたが、確かにこの山の封印は解けていた。
 私達は大阿闍梨と握手を交わす。
 エディが言う。「父の事も含めて、本当にありがとうございました。妻が望めば此処の龍は動きます。どうかお気を付けて」
 大阿闍梨が答える。「判っております。その時の事は龍に何度も何度も聞かされておりますから。私もそれを心から望んでいたのです。それと、お父様の事では私の方が礼を言わなくてはなりません。ずっと罪の意識を持ち続けていました。それを今日取り去っていただきました。本当にありがとうございました」
 エディは首を横に振った。そして私に行こうかと言う風に目で合図した。
 私は大阿闍梨に言う。「おいしいお茶をありがとう。またいつか会えますよね」
 大阿闍梨は大きく頷いた。それに私は微笑み返した。
 彼はまた新しい彼の道を歩くのだろう。幸多かれと祈った。彼にとっての幸がどんなものかは判らなかったが、私はそう祈らずにいられなかった。

 私達は彼に見送られ、来た道を戻った。
 途中でアルンが戻ってきた。
 私は言う。「アルンって本当に、忍者みたいね」アルンが笑う。
 エディが言う。「ハリウッドで大儲けできる」
 アルンが答える。「金なら売る程持っているよ」
 私が言う。「アルンもお金持ちなのね」
 二人とも黙っていた。
 私は思う。貧乏って結構良いものなのかも知れない。働いて、食べる事だけ考えて暮らせば良いのだから。もしかしたら私は、エディと出会ってその類の幸せを失ってしまったのかも知れない。それにしても人はどんな事にでも幸せを感じられるものだ。そしてどんな事にでも不幸を感じる事だって出来る。大金持ちであることも、貧乏であることも、幸せだったり、不幸だったりする。死ぬことだってそうだ。だからきっと生まれることもそうに違いない。私は一つ先に進んだような気がした。
 行きはとても長く思えた道のりが、帰りはとても短かった。車を止めたところまで歩いて戻り、車でホテルまで帰った。帰りの車の中で、エディは無口だった。彼が漠然とした不安を感じているのが、私には理解出来た。

 ホテルの部屋で私達は寛いだ。
 彼はソファーに体を預けて煙草に火を付ける。
 私は彼に言う。「エディ、私達の決めたようにやってしまいましょう。誰もが望んで生まれて来たんですもの。あの大阿闍梨もその為に天涯孤独の身になったって言っていたでしょう。とても不幸に思える身の上でも、彼にとっては最良の道だったのよ。そして、最良以外の道を歩くことなんて誰にも出来はしないわ。つまり悩むだけ無駄だって言うことじゃないかしら?」
 彼は頷いて言う。「ヨーコ。判っているんだ」
 私は頷いてみせる。
 彼が続ける。「ただ、初めての事ばかりだから」
 私は微笑む。そして彼の後ろに回り、彼の肩に頭を乗せて言う。「愛してるわ。私は聖龍なんかじゃなくて、こんな弱虫なエディを愛しているのよ」
 彼が笑う。「そうか。僕は弱虫か。それでもヨーコは愛してくれるんだ」そう言って私の髪に触れる。私はそっと彼の首筋に口付けした。彼は煙草を消して私を引き寄せ口付けする。彼の吸っていた煙草の匂いがした。確かに私は生きている。私は生まれて来た事を喜んでいた。
 私はふざけて大袈裟に言う。「さあ、聖龍よ。次は何をするべきか?」
 彼も同じ調子で言う。「我妻よ。熊野の龍に会いに行こう」
 私はいつもの調子に戻って言う。「何時行くの?」
 「後でアルンと相談しよう。それで巧く時間が取れるようだったら、ミツコに連絡しようね」
 私は頷いて言う。「それがいいわ。早くミツコさんに会いたいな。私ミツコさんの事、大好きよ」
 彼が答える。「僕だってそうさ」
 二人で顔を見合わせて笑った。





 その頃、肉体を持たない二人が虚空で語り合っていた。
 二人は宇宙意識の中に入らずに、孤として存在していた。宇宙意識と集合すれば、語り合う必要などない。しかし特殊なことに、彼らは肉体を持たない精神の孤として存在を続けていた。


 空海 「最澄殿。私達は何故この様な形で、生き続けているのでしょう?」
 最澄 「私達もあの二人、聖龍とその妻のように、アラヤシキで居た時にそう定めてあったのでしょう」
 空海 「すべてが、仏の御心ですな」
 最澄 「そうかも知れません。しかし、人が新しく成って行く事に関係しているのでは無いでしょうか?」
 空海 「人が新しく成ると?」
 最澄 「はい。人は常に新しく成ろうとしております。その為に皆、苦しむのです」
 空海 「産みの苦しみですな。して、どう新しくなるのでしょうか?」
 最澄 「それをあの二人が示してくれるでしょう。何時か愛に満ちた世に成るかもしれませんな」
 空海 「それが即身成仏です」
 最澄 「おお、そうですか。しかしその時に生身の身体が必要かどうかは判りませんぞ」
 空海 「弥勒菩薩の世です。すべてが無であり、そのすべてが有であるかも知れません」
 最澄 「新しい生命の形であるかも知れませんな。しかし私は今のこの形をした生命が好きです」
 空海 「弥勒の世界より、この救いを求める者ばかりの世がですか?」
 最澄 「はい、空海殿。私は弱い者が大好きなのです。醜く食らい合い傷つけ合う。そしてその傍らで、生命を育み育てる。そして何よりも愛し合うことが出来るではありませんか」
 空海 「最澄殿は弥勒の世界に愛は無いとお考えですか?」
 最澄 「いいえ。弥勒の世界は愛の世界です。どの仏の世界も、愛の世界で無い筈がない。しかしそれは愛の世界であって、愛し合う世界ではない。私は思うのです。愛し合う事と憎しみ合う事、そして育む事と殺し合う事。両極はやはり一つであって、その両方が必要なのが人なのです。仏にはその両極がありません。必要無いのでしょう。しかし何故か私は、この正と負の力に翻弄されながら生きる人と言う生き物がやはり今もって大好きなのです」
 空海 「最澄殿。私は身体を持っていた頃、いつも生と言うものを憎んでいたように思います。衆生を救いたいと思えば思う程、生に対して憎しみが沸いてくるのです。私はその憎しみの心が許せなくて、随分修行に没頭しました。しかし今こうしていじめ抜いた身体を離れ、貴方と話が出来るようになって初めて、貴方の考えていた事が理解できるように思えます。
 あの頃も貴方は今と同じようにお考えでした。しかし私にはその負の部分を持つ人と言うものがもどかしく、少しでも正の部分を増やそうと考えて居ったのです。あの頃貴方は負の部分も認めるべきだとお考えでした。それで道が分かれてしまったのでしたな。しかし今になってやっと私にも貴方の思いこそが愛であると理解出来ました」
 最澄 「空海殿。それは違います。ただ私はずるかったのです。貴方は本当に沢山の人々から、苦を取り除いたではありませんか。あれだけ自分の身体をいじめ抜いて得た力を人々に惜しげも無く分け与えた。あれが愛でなくて何であったでしょう。私にはそれをする意気地が無かったのです。何をしてもすべての人々を救うことなど出来ないと諦めてしまった為に、一人の人を救うこともしなかったのかも知れません。
 私はただ生きている事が喜びであれば良いと思っていたのです。苦しみや、悲しみや、寂しさも、そう言う負の感情こそ喜べば良いと思っておりました。しかしそれは人々には伝わりませんでした。
 最澄であった時、初めて死を得て、私は仏の元で安らぎを得ました。しかし安らぎの中で苛立ちを覚えたのです。その苛立ちについて私は随分長く考えました。なぜこんなに安らいだ中で苛立つのか、その苛立ちの本質が知りたかったのです。そして私なりに解った事は、先程申したように、人が、この悩みの中で生きる人と言うものが好きだと言う事でした。
 私は好きなものと常に共に在りたいと願ったのです。そして輪廻の輪の中にこの身を投じました。空海殿の修してくれた法のお陰で、それが可能だったのです。そして何度も生まれ変わりを繰り返しました」
 空海 「最澄殿。あの法はそう言う種類のものでは無かったのです。私はただ貴方が安らかに休まれれば良いと、そう貴方の死を一番望んでいたのではないでしょうか。貴方は貴方の心の力でこれだけの事を成し遂げられたのです。私はあの法を修しながら、御仏に抱かれた貴方を思い浮かべていたように思います」
 最澄 「そうでしたか。有難いことです。貴方のお陰で私は御仏の元に行けたのですね。しかし私は貴方の御心を裏切って転生を繰り返してしまった。申し訳の無い事でした」
 空海 「とんでもございません。私がいけなかったのです。貴方の生を願わずに、死を望んだとは。恥ずかしく思います。それなのに貴方はこうして生まれ変わりながら私を待ち続けて下さいました。有難うございます。さぞかし辛い旅であったでしょう」
 最澄 「いえいえその様な事はありません。今思えば結構楽しい生の旅であったように思います。それに、こうして貴方と覲える事も出来ました。そしてとうとう聖龍達とも出逢えました。しかし死とは不思議なものですな。あれ程誰にも忌み嫌われ恐れられながら、死してみるとあの様な至福感に充たされるとは」
 空海 「誠にそのようです。私もそれを悟った時にはすべての生きとし生けるものの死を望んだこともありました。しかし、今の貴方のお話を聞いて、生きると言う事も満更捨てたものでは無いように思えます」
 最澄 「そうかも知れません。生と死は一つの対になったものなのでしょう。吸った息を吐くように自然で、御仏の御心にかなっているのです」
 空海 「私はまた生まれる事が出来るのでしょうか?この様な、特殊な生を選んでしまいました」
 最澄 「それも御仏の御心でしょう。人は変わります。魂がそれを望むかぎりそう成るのです。少なくとも私達は人の幸福を望んでいます。その為に必要なことならば、何であっても喜びではありませんか」
 空海 「そうですな。やはり私には貴方の御心が必要であったのでしょう。高野で長く思い続けていた疑問に対して、貴方は事もなく答えてしまわれた。そして私は今とても満ち足りた気持ちです。人によって足らない部分を埋められ、充たされるとは、何と素晴らしいことなのでしょう」
 最澄 「私も同じ思いです。今まで待った甲斐がありました」

 しばらくの間二人の魂は喜びを感じ続けていた。そしてまた語り始める。

 最澄 「空海殿。出雲の龍をどう致しましょう?」
 空海 「あの龍は悲しいですな。あの悲しみの前では、私など何の力も持たなかった。ただあの悲しみに力を与えることだけは避けたかった。そうすることしか出来なかったのです。私は四国の龍に出雲の龍のことを教えられ、何とかしたいと思いました。しかし私一人の力ではどうすることも出来なかったのです。私はあの悲しみを救いたかった。私に出来たのは、ただあの悲しみが怒りに変わらないよう、すべての力を断って眠り続けてもらうことだけだった。四国の龍は、私の思いを受け入れて、出雲へ向かう道を閉ざしてくれています。最澄殿、貴方の押さえた国東の龍はどうですか?」
 最澄 「国東もまだ生きているようです。あそこでは龍の名を鬼と変えておいたのです。その為に巧く封じる事が出来ました。そして貴方がなさったように、六郷満山として人と共に回り続けております」
 空海 「高野も比叡もすでに目覚めております。やはり後は聖龍達が出雲へ入るしかないのでしょうか?」
 最澄 「熊野はどうでしょう?」
 空海 「おお、そうでした。熊野を忘れていました。その為に高野を押さえてあったのでした。高野の目覚めた今なら、熊野から出雲に語りかけることが出来るやもしれません。それなら危険は少ないでしょう」
 最澄 「それは良い。あの二人には長く人としての喜びを味わってもらいたいものです」
 空海 「私もそう思います。私達が出雲の龍と話し合えば良いのですが」
 最澄 「それは無理でしょう。仕方が無かったとは言え、出雲を孤立させてしまった私達を出雲の龍は、怨んでいるでしょう。余計な戦いは避けなければなりません。あの聖龍の愛で目覚めた龍に任せるしかないでしょう」
 空海 「おっしゃるとおりです。しかし、もしも戦いと成った時の為に、私達も四国と国東へ行ってみましょう」



 二つの魂が空間を移動した。そしてそれを見送るかのように地面が揺れる。
 震度4。震源地は琵琶湖の湖底だった。