龍 9 坂本
 「ねえ、アルン。ところでオリエンタルホテルの披露宴はどうなったの?」私が尋ねる。
 アルンは運転しながら答える。
 「ああ、あれね。大盛況だったらしいよ。君達の身代わりがとても巧くやってくれた上にマダムローザがとても素晴らしいスピーチをしてくれたらしい」
 「そう。マダムローザが・・・」
 「マダムローザは君と出逢ってから若やいで美しくなった。そしてとても元気にもなった」
 「そう。それは良かったわ。でも私が彼女のアドルフを取ってしまって、きっと寂しい思いをしているはずよ」
 エディが言う。「いや、彼女は本来の彼女に戻ったんだ。アドルフに出逢う前のね。きっとそれも必要な事だったのさ」
 私は後ろの座席で一人頷いた。「ねえ、アルン。私達の身代わりって、いったい誰が成ったの?」
 「もちろんナーガラージャだよ」
 「それってバレたりしないの?」
 エディとアルンが声を立てて笑う。そしてエディが言った。
 「みんな、知ってるよ。百人全員でお芝居をしたのさ。エキストラだ。映画だって撮れるさ」
 私は大きく溜息をつく。
 エディが続ける。「でも、みんな久しぶりのパーティを楽しんでたみたいだよ。別に僕達なんて居なくてもいいんだよ」
 私はそんなものなのかなと思った。
 「ねえ、これからどうするの?」
 エディがアルンの顔を見る。
 アルンが答えた。「今、比叡山へ向かっているんだ」
 そしてエディが続ける。「琵琶湖のほとり、比叡山の麓に、神戸に在ったナーガラージャのホテルと同じ物が在るんだ。しばらくはゆっくりできるよ」
 「比叡山には登らないの?」
 アルンが言う。「この分だと雪になるかも知れないからね。雪の状態を見てから登ればいいよ」
 エディが言う。「僕達にも、少し休養があってもいいじゃないか。ヨーコも疲れただろう。色んな事がめまぐるしく変わったからね」
 私はそう言われて、本当に疲れている事に気付いた。
 「ええ。何だか少し気持ちが疲れているみたいよ。でも体は元気だわ。毎朝起きる度に一歳づつ若返っているみたいなの」
 アルンが言う。「それは大変だ。後十日もしたら、ヨーコが赤ちゃんになってしまう」
 「まあ、私そんなに若くないわ。赤ちゃんに戻るには後三十日は必要よ」
 エディが声を立てて笑った。「アルンとヨーコの話しはいつも面白い」
 「僕だって君達レベルのジョークぐらいは言えるんだよ」
 私が言う。「私達レベルのね」
 エディが言う。「僕達レベルのだ」そしてみんなで笑った。
 私は何故か突然洗濯をしなければいけないと思った。思考が日常に戻りつつあるのだろうか。
 「ねえ。ホテルに着いたら洗濯出来るかしら?」
 エディはなかなか洗濯の意味を理解出来なかった。しばらく考えて言う。「ああ、洗濯ね。大丈夫だよ」
 彼の頭も日常から随分離れているようだった。
 「どれぐらいで着くかしら?」
 アルンが答える。「二時間か二時間半ぐらいかな」
 「だったらお昼前には着くわね」
 私はそう言って窓の外の景色を見た。なんの変わり映えもしない煤けたアスファルトの道だった。朝はあんなに良いお天気だったのに、アルンの言うように雲が広がって来始めていた。山には雪が降るのだろうか。遠くに昨日エディがイワノフを撃った信貴山が見えている。
 私は言う。「イワノフはどうしてちゃったのかしら?」
 アルンがミラーを確認してから答える。「僕達に付いて来ている。3台後ろの車だよ」
 私は振り返って見る。しかしどれがイワノフの車かは判らなかった。
 前を向き直るとアルンが言った。「イワノフが君を守りたいって言ってた」
 「イワノフと話したの?」
 「ああ。夕べ君達が大師に会っている間にね」
 「彼、なんて言ってた?」
 「お前達はいいなってさ。自分もヨーコを守る立場の方が良かったって言ってたよ」
 「それであなたはなんて言ったの?」
 「ついてくればいいじゃないかって言ってやった」
 「そう」私が言う。
 アルンが続ける。「ヨーコは人を引きつける。良い人間も悪い人間もだ。だから僕達が守らなければならない。でもその後の事は聖龍の仕事さ。そう言った」
 エディが頷く。
 「イワノフもそう思うって言ってた」
 私はつぶやいた。「わざわざ危険の中に入って来なくてもいいのに、可愛そうなイワノフ」
 エディが振り返って優しく笑うと言った。「ヨーコ。誰もがしたいように生きられたらとても幸せな事なんだよ。イワノフは君を守りたいって思った。君は彼に目的を与えたんだ。とても素晴らしい事じゃないか」
 「でもその為に命を危険に晒されるのよ」私が言う。
 エディがそれに答える。「命を捨ててまで守りたいものを見つけられたイワノフはとても幸せなんだ。僕達と同じだよ。みんな自分のしたいことが見付からなくて苦しんでいるんじゃないのかな。それを君がイワノフに与えたんだ」
 私は涙がこぼれそうになっていた。エディはハンカチを出してその涙を拭いて言った。
 「ほら、心が疲れてるんだ。少し眠りなさい。目が覚めたらホテルに着いているよ。そうしたら洗濯だって出来るさ」
 私は頷いた。そして窓にもたれて目を閉じる。窓から外の寒さが、私の頬に伝わって来た。暖房で火照った頬にそれがとても気持ち良く感じられた。

 目覚めた時、車はまだ高速道路を走っていた。左前方に小さく五重の塔が見える。京都だ。空はどんよりと曇り、今にも泣き出しそうだった。私はしばらくそのまま窓の外を見ていた。白い物が少しづつ空から降りてきた。
 「あら。雪」私が言う。
 エディが振り返って微笑むと言った。「目が覚めたんだね。気分はどう?」
 私は曖昧に頷く。彼が手を延ばして私の頬に触れる。それはひんやりと冷たくてとても気持ち良かった。
 アルンが言う。「少し降るかも知れないよ」
 私はまた窓の外を見る。京都の町は後ろに遠ざかっていた。車は山の間の道を走り、次のインターで降りた。そしてバイパスに入り幾つかのトンネルを抜ける。その間に雪は段々白さを増していた。

 車は坂本の町に着いた。細い道を走り幾つかの角を曲がった所に、神戸に有ったのと同じような洋館が有った。それは広い敷地を持ち、さっきまで見ていた坂本の古い日本の町並みと全く違って、床の間に飾られたフランス人形のような感じがした。
 「着いたよ」アルンが言う。
 私はエディの肩に触れ、恐る恐る尋ねる。「ここには龍の間は無いわよね」
 エディは私の手を押さえて言った。
 「大丈夫だよ」
 私はホッとして頷く。そしてホテルの玄関に車は停まりドアマンが車のドアを開けてくれた。私はそっと車を降りて外からホテルを眺める。確かにそれはナーガラージャのホテルだった。
 私達は神戸の時と同じように出迎えられた。玄関を潜ると、とても良く磨き込まれた大理石で出来たロビーだった。そしてやはりなんの手続きも無く、エディと私は部屋に案内される。

 私達の部屋には龍の絵こそ無いが、とても大きな窓が有り、琵琶湖が一望出来た。そしていつものように選び抜かれた調度品で飾られていた。
 「とても素敵ね」私が言う。
 エディが頷いて言う。「ベッドルームからも湖が見えるよ」
 私は大きなドアを開けてベッドルームに入る。エディの言ったようにとても美しい風景が見えた。そしてクロゼットには神戸に置いて来た荷物が届いていた。
 「まあ、荷物が届いているわ」
 「アルンが気を利かせてくれたのさ」
 「彼って見かけによらず、良く気がつくのね」
 「見かけによらずね」エディがそう言って笑った。
 「ねえ、これからどうするの?」
 「予定は無いよ。ゆっくりしよう」
 私は頷いて荷物を解く。そしてゆったりとした服に着替えて裸足になり、髪を下ろしてソファーに寝そべり、大きく伸びをした。
 エディがそんな私を見て言う。「まるで猫のようだ」
 「アルンには内緒よ。もっとエレガントにって叱られちゃうから」
 エディは笑いながら私の傍に座って髪に触れながら言う。「こんなにエレガントなのにね。奴は変なんだよ。思い込みが激しいんだ。奴の妻に成る女性はきっと苦労するよ」
 私は彼の膝の上でうつ伏せになって言った。「あなたの妻は苦労しない?」
 彼は私を抱き起こし、それには答えずにそっと口付けすると言った。「愛しているよ」
 私は彼の首に腕を回してもう一度口付けした。雪は窓の外で音もなく降り続いていた。

 私達はゆったりとバスを使い、髪を洗った。昼食は部屋に運んでもらい、二人だけで食べた。食べ終わる頃雪は小降りになっていた。
 食器を片付けてもらい、私達はベッドの上でじゃれ合った。とてもゆったりとした時間の中でお互いを愛していた。私は疲れて彼の胸で眠った。
 彼の話し声を夢の中で聞いていた。そして段々夢から引き戻され、気付くと彼が扉の向こうで話していた。

 私は身繕いをして扉を開けてみる。
 彼は電話で話していた。ロワールの時と同じだった。しかし私は龍の夢を見ていなかった。私はもう龍の夢を見ない。何故なら龍は夢を利用しなくても外へ出られるようになったからだ。
 私が部屋に入ると彼は手を上げて笑いかけた。私はソファーに座り込み、あぐらをかいて煙草に火を付けた。彼が電話で話しながら私の頭を撫でる。そして髪に指を通す。言葉は広東語のようだ。きっとお爺様と話しているのだろう。煙草を一本吸い終わり消した所で彼の電話は終わった。
 「お爺様?」私が問う。
 「そうだよ」彼はそう答えて立ち上がり、冷蔵庫の中から冷たい飲物を出してグラスに注ぎ分けると私に差し出した。
 私は乾燥した部屋の中で眠ったせいか、とても咽が乾いていてそれを一気に飲み干した。
 彼が言う。「ヨーコによろしくって言ってたよ。体に気を付けなさいってね」
 私が言う。「お爺様も元気そうだった?」
 「とってもね。船の上で写した写真を見せてもらったって喜んでたよ。君のチャイナドレス姿をとても気に入っていた」
 「良かったわ」
 「そうだヨーコ、あっちのバスルームに行ってごらん」そう言って使っていない方のバスルームを指指した。
 私は立ち上がって行ってみる。そこには洗濯機と乾燥機が有った。
 「どうしたのこれ?」
 「洗濯するんだろう?」
 私は頷いた。「でも、あなた・・・」私は次の言葉が出なかった。
 エディが言う。「ついでに僕のも頼むよ」

 私は荷物を引っ張り出して洗濯物を選りだした。洗剤までちゃんとそろっていた。私は洗濯機を回し、その間に持っていた旅行用のロープでバスルームに乾かす場所を作った。ヒーターをつけておけばちゃんと乾くはずだ。そして洗濯の終わった物を、ロープに干す物と乾燥機にかける物をより分けた。

 洗濯が終わったのは、3時を過ぎた頃だった。
 エディはソファーに座って本を読んでいた。
 私は何気なく言う。「ねえエディ。雪も上がったみたいだし、散歩にでも行きましょうよ。ここに着く前に日吉大社って言うのがあったでしょう」
 彼は読んでいた本に栞を挟んで閉じると言った。「そうだね。歩くと少し有るから車で行って、向こうでゆっくりしよう」
 「あなた行った事有るの?」
 「ああ、とても素敵な所だよ」そう言うと彼は、電話を取ってアルンを呼んだ。そして言う。「アルン、日吉大社へ行きたいんだが動けるか?」
 私はそれを聞いて慌てた。
 「いいのよ。もう行きたくないわ。ここに居る」
 エディがアルンに「ちょっと待って」と言って私に言う。
 「ヨーコ。どうしたの?」
 私はうろたえて言う。「私がいけなかったのよ。私が動く時にはアルン達が守ってくれるんだって言うことを忘れてたから。彼達だって疲れてるのに。ごめんなさい。もういいの」
 エディは困ったような顔をして電話に向かって「車を回しておいて」と言って電話を切った。
 「もういいんだってば、アルンにそう言って」私はエディにそう言う。
 エディが私をソファーに座らせると、私の前にかがみ込んで言う。
 「ヨーコ。君は行きたい所へ行けばいいんだよ。何も気にする事は無い。行きたい時に行きたい所へ行き、欲しいものを欲しいだけ手に入れればいい。君は自由だ。いいかい、君は聖龍の妻なんだ」
 「それって私、判らない。私は誰にも迷惑をかけたく無いだけなの。私が洗濯をしたいなんて言っちゃったからあなたは洗濯機を用意してくれたわ。それに自分の立場を忘れて散歩がしたいなんて言って。私が軽率だったのよ」
 エディは寂しそうな顔をして言う。「ヨーコ。それは違う。君は僕と居る事でどんな制約も受けたりしてはいけないんだ。その為にアルンの部隊がある。彼らは君の自由を守るために存在して居るんだよ」
 私が言う。「それもお金の力なの?」
 彼が答える。「そうかも知れない。でもそれだけじゃ無い。それよりも彼らは聖龍とその妻を守る事を誇りに思っているんだ。何時かも言ったと思うけど、若いナーガラージャ達はみんなアルンの部隊に入る事を望んでいるんだ」
 「危険があるのに?」
 「そうさ、その為にみんな辛い訓練に耐えて、それを誇りにしている」
 私は首を横に振る。「判らないわ。私、お金持ちで居たこともなければ特別な人で居たこともないんですもの」
 彼が言う。「その普通の人でも持っている自由を、特別な君が持っていないなんておかしいじゃないか。君は今まで充分我慢してきたんだ。もう我慢なんてしなくていい。自由に気ままに振る舞ってくれ。
 もし君が龍の為に生きる事が嫌になったのなら止めてしまったって構わない。
 君は誰にも、龍にさえも縛られるべきじゃないんだ。それが聖龍の妻だ。
 君が百カラットのダイヤモンドをのぞむのなら、僕は必ず探し出して君にあげる。君がネッシーをペットに望むのならきっとその望みを叶えてあげる。僕が聖龍になって受け継いだ富と力は、すべて君の為にある物なんだ。そして君は僕の妻だ。僕は聖龍になってしまったけれど、僕である事には変わりはない。僕はヨーコを変えたく無いんだ。ロワールに行った時のままのヨーコで居て欲しい。判ってくれないか」
 彼はそう言うと立ち上がり私の後ろに回って抱きしめた。私は何を言って良いのか判らなかった。
 彼が耳元でささやくように言う。「ヨーコ。ゆっくり散歩しながら考えるって言うのはどうだい?うっすら雪化粧した日吉大社ってロマンティックだと思うな。早く暖かい洋服に着替えて。アルンが待っているよ」そう言って私を立たせると、ベッドルームに連れて行く。そしてトランクケースの中からカシミアのセーターとツイードのパンツを選び出して「これがいいかな?」と言って私に手渡した。私はそれに着替える。彼はパリで買った私のコートと自分のジャケットを持って待っていた。そして私の背中を押すようにしてロビーに向かった。

 ロビーに降りるとアルンが居た。私はアルンに言う。「ごめんなさい」
 アルンがキョトンとする。エディが後ろから言う。「ヨーコは君達の仕事を増やしてしまった事を謝って居るんだ」
 アルンは微笑んで言った。「ヨーコ。変な事を気にするものじゃない。僕達はその為に居るんだ。君がもしどこにも行かなかったら何も起こらないじゃないか。そうしたらきっと皆がっかりしてしまう。その為に訓練して居るんだし。それに僕達はずっとずっと君を待ち続けていたんだよ」
 エディが後ろから私を抱きしめて言った。「ほらね。だから、散歩に行こう」
 私は渋々頷いた。
 歩きながらアルンに尋ねる。「いつも何人ぐらいの人に守られているの?」
 アルンは笑って答えない。
 私達は車に乗り込む。アルンが車を発進させてから答えた。「今は10人だよ」
 私は驚いて言う。「そんなに居るの?」
 アルンが言う。「高野山の時は20人居た。そして必要ならば幾らでも増やす事が出来る」
 私はもう一度驚いた。
 「全然気付かなかったわ」
 エディが言う。「だから言っただろう。アルンはプロフェッショナルなんだ」
 私は言う。「でも信貴山の時はどうだったの?」
 エディが答える。「僕がイワノフを撃った時かい?」
 「ええそうよ」」
 「あの時誰かに見られたかい?」
 「いいえ、一台も車は来なかったわ。じゃあその人達が車を止めていたの?」
 「そう言う事さ」
 私はいつも彼がやるように両手を挙げて肩をすくめてみせた。そしてまたそれについて考える事を放棄した。

 車は10分ほどで日吉大社に着いた。
 私とエディは入場料を払って中に入る。いつの間にかアルンは居なくなっていた。
 私達は手をつないで坂道を上がる。彼の手はとても暖かかった。車の中で頬に触れたあのひんやりした手とは全く別のもののように感じた。彼の手は私の望む温度でいつもあるように思えた。
 長い坂道を登り切った所に大きな門がある。私達はそれを潜った。正面に立派な神殿があった。
 エディは私に「良く見ててね」と言って背筋を伸ばしてゆっくりと二度礼をし、そして二度手を打つ。そしてもう一度深く礼をしてから軽く頭を下げて私の方を向いた。
 「判ったかい?」
 「ええ。確か結婚式の時にそんな事をしたように思うわ。でもあの時は緊張していたし良く覚えてないの」
 彼が言う。「二礼、二拍手、一礼。それにご挨拶程度の礼だよ」
 私は頷いて言われたとおりにした。
 「それでいい」
 外国人のエディに神式の参拝の仕方を教わるなんて変な話だった。しかし私達今の日本人でちゃんとした参拝の仕方を知っている者がどの位居るだろうか。きっとほとんどの者達が何も知らずに拝んでいるだろう。エディが微笑んでいた。
 一つ目の神殿の参拝を終えてまた歩き始める。小さな社が幾つか並んでいた。私達は話しながらその前を通り過ぎる。
 エディが言う。「日本には本当に沢山の神様が居るね。それに沢山の仏様だって居るし、今はキリストやアッラーの神だって居る」
 「でもほとんどの日本人は、私みたいにちゃんとした参拝の仕方すら知らないわ。仏教はお葬式や法事の時だけだし、神道は結婚式や初詣だけよ。でもクリスマスも楽しむし、私みたいにサクレクールで祈ったりもする。日本人って変よね」
 「そんな物なのかも知れないよ。教えや形式を守ったりする事も悪い事じゃないけれど、本当は何も知らなくても神様に守られているべきなんじゃないかな。此処にこれだけの聖地があって、それを専門に守っている人達が居ればそれでいいんだよ。そうする事によってこの国が祝福を受けているんだ。誰もが神主である必要はない」
 「龍を守るナーガラージャのように?」
 「はい。誰も知らないけれど龍の力は確かにある。龍の力も此処の神の力もよく似たものだよ。名前が違うだけだ。地の力や水の力、風の力、そんなものが神であり、龍なんだ。神も龍も特別な物じゃない。ただ昔からその力がそこにあって、それを人が利用したんだ。誰かがそれを上手に使えば皆の為になる。でも使い方を間違うと大変な事になってしまう。地震が起きたり干魃になったり津波が来たりするんだ。だから専門の人が居た方がいい」
 私は自分自身について考えた。そして言う。「私に何が出来るのかしら。そして私が何を起こすのかしら?」
 「判らないよ。でも必要があって君は生まれてきた。そして僕もそうだ。そして出逢った。すべて必要だからだよ。もし仮にその為に世界が滅亡したとしてもそれは世界が滅亡を望んだからなんだ」
 私達は歩きながら話し続けていた。
 前から人が歩いて来た。とても美しい気に包まれた青年だ。エディは彼を気にも止めずに話し続ける。しかし私はとても彼が気になった。擦れ違う時に彼は軽く会釈をした。私も会釈を返す。そしてエディに尋ねる。
 「世界が自ら滅亡を望むことなんてあるのかしら?」
 「あるかも知れないよ。魂がずっと進化して、もう肉体が必要なくなれば、この肉体を守っている様々な物質がいらなくなってしまうからね」
 私は溜息をついた。私達はまたさっきとは違う門の前に着いていた。
 「何だか私、さっきの所より此処の方が好きだわ」
 「そうだね。僕もそう思うよ。きっと此処に祀られている神様の方が元から居た神様なんじゃないかな」
 「どうして?」
 「加藤が言っていたじゃないか。後から来た征服者が自分達を正当化する為にいろんな事をするって、前より立派な神殿を作ったり、元居た神の名前を変えたりするんだよ」
 私は頷いて、さっき習った方法で参拝した。そしてベンチを見つけて二人で座る。
 「あなた、こんな所を沢山知っているの?」
 「そうだね。前に来た時に随分いろんな所を回ったからね」
 「それで何が判った?」
 彼は少し考えて答えた。「そう、この国にはとても純粋な形で龍への信仰が残っている事が判ったよ。それで僕達はこの国に呼び寄せられたんだ」
 「ねえ、エディ。私何だかとても気持ちが軽くなったわ。さっきまでぐずぐず考えていたのが嘘みたいよ。この場所のせいかしら」
 「そうかも知れないよ。此処の気はとても良くコントロールされている。最澄の所縁の場所だし、琵琶湖にも面している。そしてすぐ後ろには比叡山もあって、風水的に見てもとても良い場所だ。それに大昔から龍の住んだ場所なんだ」
 私達は寒くなったので、また歩き始めた。歩きながら私は問う。
 「ねえ、さっきの続きだけど、どの位先にこの地球が必要なくなるのかしら?」
 エディが答える。「僕達の魂が孤である事を必要としなくなるまでだからね。後、何百回、何千、何万回と生まれ変わる必要があるだろう。どの位の年月になるかは、判らないね。純粋な意識体としてすべてのものが解脱を遂げるんだ」
 「その時が来るまで、生まれ変わる度にあなたは私を見つけてくれるのかしら?」
 「はい」
 「じゃあ、また何万回も会えるのね」
 「はい。その度に僕は君を愛することが出来る」そう言って立ち止まると私を抱き寄せ、口付けをした。
 「気が遠くなるほど沢山会えるのね」私は微笑んで言った。「そしてその度にこんなに充たされるのかしら」
 彼が言う。「肉体を失うまでに、充分楽しまなくっちゃね」
 私は彼の肩を軽くぶった。彼が弾かれたように笑った。

 出口にアルンが居た。私は彼に手を振る。彼は10人もの人が守っていると言ったが私には一人も判らなかった。

 車に乗って私は言う。「ねえ、アルン。私にはあなた達がどこで守ってくれていたのか全然判らなかったわ。気付いたのは途中で擦れ違った青年一人だけよ」
 エディが驚いて振り返る。「ヨーコ。誰とも擦れ違ったりしないよ」
 私が言う。「嘘。ほら、一つ目の社殿から二つ目の社殿へ行く間に、とても清々しい青年と擦れ違ったじゃない」
 「アルン。お前気がついたか?」
 「いや、誰もいなかった」
 私は頭を抱え込んでしまった。エディとアルンが二人で私をだます訳がない。そんな必要なんて何もないのだ。しかし私は確かに擦れ違った。
 「前から歩いてきて会釈してくれたのよ。だから私も会釈を返したわ」
 エディが少し考えて言う。「ホテルに戻ってゆっくり思い出してみて。それを僕が感じてみるから」
 私は頷いた。

 ホテルに着いて私とエディは部屋に戻った。
 二人っきりでソファーに座る。部屋の灯は付けず、小さいなスタンドライトを遠くに置いた。私は深呼吸をして心を静める。そして一つづつ丁寧に思い出す。
 一つ目の社殿でエディに習ったとおり参拝し、その後ろを回って小さな社の前を歩く。エディは隣で話している。
 「もし仮に世界が滅亡したとしても、それは世界が滅亡を望んだからなんだ」
 前から来た青年が軽く会釈する。私はそれに会釈を返す。
 「どう?エディ判った?」彼は首を振る。
 「だめだ。君が会釈するところしか判らない」
 「もう一度やってみるわよ」
 私はもう一度初めから思い出す。しかしエディにはどうしても見えない。何度も何度も繰り返す。そして何度目かにエディが声を上げた。「見えた!」
 私は再生を止めて尋ねる。「ねえ、何か意味がありそう?」
 「判らない。でも、確かに君の言うように清々しい青年だ。そして君だけにしか見えないと言う事はとても特殊な事だ。多分僕達にとって重要な人間なんだろうけど、よくは判らない」
 「敵の可能性は?」
 「多分大丈夫だ。彼が敵ならば僕にもアルンにも見えない時点で君に何かを仕掛けていたはずだから。それに彼を包んでいる気はとても清浄な感じがする」
 私は安心して頷いた。「良かったわ。あんなに清々しい青年が敵じゃなくって」
 エディも同じ思いだった。

 その夜、アルンも一緒に食事を取った。
 レストランで私達を待っていたアルンは、私達が席に付いたとたんに尋ねる。
 「どうだった?」
 私は何度も何度も同じビデオの再生のように思い出し、それをやっとエディがキャッチした事を告げた。
 彼は「フーッ」と溜息を付いて言う。「君達って本当に便利に出来て居るんだ。それでその青年について、聖龍はどう思うんだ?」
 「判らない。多分、実体の無い者だろう」
 「敵ではないのか?」
 「多分」
 「それは良かった。もし敵であったなら、見えないのだから守りようがない」
 エディは頷いて言う。「良く判らないが、問題はそれだ。僕にも見えないと言うのが考えられない事なんだ。僕とヨーコは元々一つなのに、同じものが見えないと言うのが良く判らない」
 アルンが尋ねる。「霊と呼ばれるものなのか?」
 エディが答える。「霊であれば尚更同じものが見える筈だ」
 私は霊という言葉で、空海の霊がしっかりとした形を持っていた事を思い出していた。
 「空海の霊は形を持っていたわ」
 「しかしそれは僕にも見えた」エディが言う。
 彼は少し考え込んだ。そして何かに思い当たったように言う。
 「そうか。最澄だ。空海の出迎えに現れたんだ」
 私が言う。「でもあの青年はちゃんと現代の服を着ていたわ。空海の様にお坊さんの格好じゃなかった。その辺りに居る普通の青年と同じだったのよ」
 エディは口の端を上げて笑った。
 アルンが言う。「最澄は空海の様に即身成仏の思想や、その行は修していなかったはずだが?空海のように霊としてそのまま生き続けることは無理だろう」
 エディは意地悪そうに笑って見せると言った。「すぐ判るさ」そして私に向かってとても優しく笑いかけた。
 私は彼の思考を読むことはしなかった。彼が見せてくれるまで待てば良い。危険が迫った時や、不思議な事が起こった時だけ龍の力を使おうと思った。ただの夫婦でいれば良いのだ。肉体を失えば完璧に繋がれる。今は普通の人と同じようにこの肉体を、五感を使って判り合ったり愛し合ったりすれば良いと思っていた。エディはそんな私を理解していた。そしていつものように覗き見をして言う。
 「ヨーコ、それはとてもいい事だよ」
 アルンが変な顔で私達を見ていた。
 「アルン。エディは覗き見が趣味なのよ」
 アルンが笑っていう。「それはいい。ピーピングエディだ」
 エディも笑った。
 私達はワインで乾杯をして食事を始めた。
 「ねえアルン。明日のお天気はどうかしら?」
 「午後からは雪になるかも知れない」
 私はエディに尋ねる。「明日はどうするの?」
 エディは少し考えて言う。「比叡山に登るのは明後日がいいんだ。明日ものんびりしよう」
 私は頷いて食事を続けた。しばらくしてエディがアルンに言う。
 「確かこの辺りにもう一つ良い場所があったな」
 アルンが食べながら答える。「ああ、三井寺だろう。あの龍の井戸の有る所」
 エディも食べながら言う。「そうそう。ヨーコ、明日の朝そこへ行ってみないか?とても広くて気持ちのいい所だよ」
 私が答える。「ええ、構わないわ。でも早起きはいやよ」
 エディは片目をつぶって見せた。そして思考を送ってよこした。私は顔が赤らむのを覚えたが、何も言わずにワインを飲んだ。アルンには気付かれずに済んだ。

 食事を終えて眺めの良いバーで少しお酒を飲んだ。彼らは胎蔵界がどうとか金剛界がどうとか、意見を交わしていた。私には何が何だか全く判らない。それでも聞いているとどうも空海があの場所で私達を待っていた事に関係する事のようだった。
 エディ「空海は高野山を母の胎内と同じように機能させて時の流れを渡ったんだ」
 アルン「しかし最澄はその方法を知らなかっただろう。彼は密教をそこまで深く学んでいなかった。最澄は大乗仏教を伝える為の教育にすべてをかけたんだ。だから彼は伝教大師と呼ばれたわけだ」
 「そのとおりだ。しかし彼が生きている間には彼の望みは叶えられなかった。つまり彼の望んだ大乗仏教は正式に認められはしなかったんだ。それが認められたのは彼の死後だ。さぞかし無念なことだっただろう」
 「何か方法があったのだろうか?」
 「多分な。人の精神の力を最大限に引き出せば何かが出来た筈だ」
 彼らはそんな話をしていた。私はそれを聞くとも無しに聞きながら、窓から見える夜の琵琶湖を見ていた。
 彼らは一時間程で話を切り上げた。「ヨーコ。部屋に戻ろうか」
 私は頷いて立ち上がる。そしてアルンに「おやすみなさい」と言う。
 「おやすみ、ヨーコ。良い夢を」アルンが返してくれた。
 私は手を振ってエディと部屋に戻った。

 部屋に入るとエディはいきなり私を抱き寄せて口付けする。それはとても情熱的で、官能的であった。
 とても長い口付けから解放されて私は言う。
 「あなた、あんな所であんな事を送ってくるから赤くなっちゃったわ」
 彼は私の髪を撫でながら耳元で言う。「いいじゃないか。僕の肉体が君の肉体を求めていたんだ」
 「じゃあ、今はおさまったのね」
 「とんでもない。楽しみはこれからだ」そう言うと彼は、私を抱き上げソファーに下ろし覆い被さるように体を重ねた。そしてもう一度激しく長い口付けをする。私はさっき飲んだお酒の酔いのせいか、彼の口付けのせいか、何も考えずに彼にすべてを任せる。彼はとても上手に私の着ていた物を脱がせると自分も脱いだ。そしてお互いに激しく求め合い、与え合う。いつ終わるとも判らない生の営みだった。彼はとても長く私を愛し続ける。そして私もそれに答えて与え続けた。確かに私は彼を愛し、彼は私を愛していた。彼が満足したところで私は尋ねる。
 「ねえ、中国人って、いつもこんなに激しく愛するの?」
 彼は私の目をのぞき込んで言う。「日本人は愛する時まで手を抜くのかい?その内にSEX用のロボットを発明するかも知れないね。大変なところはロボットにやらせて、いい所だけ自分でやるんだ。そうなったら日本人の女性は皆可愛そうだね」そう言って軽く口付けをする。
 「そうね。でも私は構わないわ」
 「どうして?ロボットでもいいの?」
 「いいえ、私にはあなたが居るもの」
 彼は私の頬を両手で挟むと言った。「僕はもう少しチャイナ風に愛したいんだけど、君はどう?」
 「もう少しって?」
 彼は起き上がると裸のまま私を抱き上げベッドルームへ運んでもう一度激しく口付けして言った。「こう言うことだよ」
 私は彼と体を入れ替えて彼の上に乗り、私から激しく口付けする。そして言う。
 「もちろん私もよ」
 「やっぱり僕達は気が合うんだ」
 「だって夫婦ですもの」
 そして今度は広いベッドで疲れて眠るまで愛し合った。



 目覚めた時、外はうっすらと雪化粧をしていた。夜のうちにまた降ったようだ。
 さすがのエディもまだ眠っていた。私は彼のもつれた髪を指でとく。寝顔さえも美しい男だ。
 彼が目を覚まし微笑んで言う。「おはよう。気分はどう?」
 「まずまずよ」私は彼の髪をとかしながら言った。
 「良かった」
 私は尋ねる。「今朝は運動しなくてもいいの?」
 「夕べ随分運動したからね」
 私はクスッと笑って言う。「さすがのエディも疲れちゃったんだ」
 「さすがの僕も少し疲れた。でも、もう平気さ」そう言うと私を抱き寄せる。
 私は彼の腕を振り解いて言う。「私はまだくたくたよ」
 「冗談だろう?」彼が言った。
 「もちろんよ」
 彼は笑って私を捕まえようとする。私ははしゃいで彼から逃げ、ベッドを降りた。そして彼の着ていた毛布のシーツをはぎ取って体に巻き付けバスルームへ行く。振り返ると彼はベッドの上でうつ伏せになって伸びをしていた。美しい体が朝日を浴びて輝いていた。

 バスルームに入りバスタブにお湯を張る。その間に歯を磨いて顔を洗った。お湯が一杯になった時、彼がバスルームに入って来た。私達は大きなバスタブに並んで入った。彼はいつものオイルでマッサージしてくれた。私もお返しに真似てやってみる。彼はくすぐったがったので、途中で止めにした。
 彼が言う。「結構技術がいるんだ」
 「なるほど。私の前に随分練習したのね」
 「そうだよ。それで君はとてもいい順番にあたったんだ」
 「良かったわ」
 彼は笑って頷いた。私達は交替で髪を洗いシャワーを浴びた。彼が言う。
 「君の洗濯物は乾いたのかな?」
 私は濡れた髪をタオルで包み、バスローブを羽織って隣の寝室へ行った。
 バスルームの扉を開けると私の洗濯物は完璧に乾いていた。
 「エディ」私は彼を呼ぶ。彼もバスローブをはおってやってきた。
 「完璧だね!」彼が言う。私は微笑んで返した。
 「ほら、先に髪を乾かしてから片付けよう」彼がそう言った。
 私は元のバスルームに行ってドライヤーを使う。そして簡単に化粧をした。その後彼が髪を乾かす。私は服を着替えて洗濯物を片付けた。彼は髪を一つにまとめ白いシャツにグレーのフラノのパンツで出てきた。そして洗濯物を片付けるのを手伝ってくれる。
 「ねえ、あなた今まで洗濯物ってどうしていたの?」私が尋ねる。
 「香港ではメイドが居たからね。でも留学してた時は下着ぐらい自分で洗ったよ」
 「ちゃんと出来るんだ。お料理とかお掃除は?」
 「一通り出来る。だってメイド付きの学生ってみっともないだろう?」
 「確かに」私はそう言って笑った。「でも何もしないのかと思ってたわ」
 「もちろん今はね。ホテルに居るかぎりほとんど何もしなくていいし、洗濯の好きな立派な妻だって居る」
 「それって私の事?」
 「はい」そう言って笑った。
 洗濯物を片付け終えて私達は食事に行くことにした。
 「エディ、セーターを着た方がいいわよ。雪が残っているから」
 彼は窓の外を見て言う。「本当だ。でももう止んでて良かった。散歩日よりだ」そう言って寝室に入り、セーターを肩に掛け、自分のジャケットと私のコートを持って来た。
 「そのまま三井寺に行っちゃおうよ」
 私はコートを受け取って靴を履きバッグを持って部屋を出た。

 レストランで彼はいつものように大量の料理を取る。私はフルーツを少しと紅茶をもらう。
 彼は不思議そうに言う。「そんな物で足りるの?」
 「ええ、あなたの食べるのを見てると、おなか一杯になっちゃうのよ」
 彼は首を横に振ると、大量の食べ物をおなかのなかに片付け始めた。
 アルンが途中で私達のテーブルに来た。彼もサラダを少しとコーヒーを持っていた。そしてエディのお皿を見て言う。
 「お前、今に大龍みたいになっちまうぞ」
 エディが食べながら言う。「中国人は食べることが好きなんだよ。それに彼のように成るにはまだ若すぎるさ。ちゃんと運動だってしているしね」そう言って私の顔を見る。
 私は知らん顔を決め込んで、窓の外を見る。うっすらと積もった雪に朝の光が反射してキラキラと輝いていた。エディはその後ケーキとコーヒーをおなかに収め、何事もなかったように言う。「三井寺に行こう」
 私は残っていた紅茶を飲み干して席を立った。

 アルンは車を玄関に付ける。私は後ろの座席に乗り込みエディとアルンが前に座った。そして運転はいつものようにアルンがする。彼のメルセデスは音も無く走り、少しの衝撃も無く静かに止る。とてもエレガントだ。
 私が言う。「ねえ、アルン。あなたメルセデスって名前の女性と結婚するといいわ」
 彼は前を見たまま言う。「どうして?」
 「だって、とってもエレガントよ」
 「じゃあ、ドイツ語を復習しておかないといけないな」
 「そうするといいわ」
 エディが声を立てて笑った。それに釣られて私も笑う。アルンは相変わらず丁寧に車を走らせた。

 三井寺に着いて車を降りる。木造の立派な門を潜り、拝観料を払って中に入る。
 手を繋いで坂道を歩く。
 「エディ。どこにアルン達が居るかあなた判る?」
 彼は即座に答えた。「もちろん。どうして?」
 私は一人で首を振って言う。「私には全く判らないのよ。守られていることすら感じないわ。どこかから見られてるわけでしょう?なのにそれも判らないの」
 エディは私の肩を抱き寄せて言う。「アルンが聞いたら喜ぶよ。彼の訓練の成果だからね。ヨーコは何も知らないでいいんだ。それにアルン達が居なくたって僕が守ってあげるから。心配しないで」私は彼の肩に頭を付け、頷いた。

 坂の終わりに階段が有り、それを登るととても立派な本堂があった。しかしそれは正面ではなく横を向いている。
 「私達変なところから入って来ちゃったのね」
 彼は笑いながら私の手を引いて本堂に向かう。靴を脱いで階段を登り建物の中に入る。そして仏像の前にちゃんと正座した。
 私も彼に続いて座り、尋ねる。「ちゃんとした作法があるのかしら?」
 彼は首を横に振って言う。「静かに手を合わせて祈ればいいのさ」
 彼はとても長い時間祈っていた。私はじっと仏像を見る。それは何も語りかけてはくれなかった。
 途中で後ろに誰かの気配を感じて振り返る。ダウンジャケットを着た若い男の人が入って来た。その彼が敷居をまたぐ時に顔を上げる。私はとっても驚いてエディの袖を引っ張った。
 エディは合掌を解いて振り返る。「どうしたの?」
 私は何も答えずに入って来たばかりの青年を見ていた。
 エディが言う。「彼が昨日の青年だね」
 私はエディの方を見て頷く。「今日は見えるの?」
 「ああ。彼は生きているよ」
 青年は少し離れて座り、静かに合掌した。エディは彼の合掌が解かれるのを待って彼に話しかけた。
 「こんにちは」
 青年は驚いて私達を見る。
 エディが言った。「どこかでお会いしませんでしたか?」
 彼はしばらく考えてから答えた。「いいえ。覚えていません。でもあなたはどこかで見たような気がします」そう言って私を見た。
 私は尋ねる。「昨日の夕方日吉大社に行かなかったかしら?」
 彼は即座に答えた。「いいえ。僕は今日ここに来たばかりですから。でもどこかで会った様な・・・夢だったのかな」彼は自分に向かって言う様に言った。
 エディは立ち上がり、「邪魔して悪かったね」と言って、本堂を出た。
 「人違いかしら?」私が言う。
 「そうじゃないよ。すぐに判るさ。それよりもこっちへおいで」そう言って私の手を引いて本堂の横に連れて行く。
 そこには小さな建物があって、前面には格子がはめ込んであった。
 彼は私をのぞき込ませると後ろから言う。「これが龍の井戸だよ」
 そして後ろから私を完璧に抱えるように覆い被さると、指輪を回して龍を解き放った。解き放たれた龍は、ゴボゴボと音を立てながら沸き出ている水に向かって飛び込んだ。音も無く、水飛沫も上がらない。そして深く深く潜る。私は龍が喜んでいるのを感じていた。
 エディが言う。「龍だって散歩がしたかったんだよ」私は彼の腕の中で頷いた。
 しばらくそうして龍の飛び込んだ井戸を見ていた。時間を見計らってエディが指輪を回す。龍はとても元気に戻ってきた。そして私の中に収まった。私は振り返ってエディを見る。彼もとても嬉しそうだった。その時目の端にさっきの青年が見えた。私は身体を反らして彼を見る。彼はじっと私達を見ていた。エディも振り返って彼を見る。そして私を押すようにして彼の前へ出した。
 「川本透と言います」青年が軽く頭を下げて、名乗った。
 「僕はエディリー。そして妻のヨーコ」エディが続ける。「何か思いだした?」
 透と名乗った青年が微笑んで言う。「ええ。とても懐かしい気持ちです。ずっと待って待って待ち続けて、やっと会えました」
 彼の微笑みが段々崩れ、そして泣き笑いの様な顔に成り、ついには涙を流した。
 エディは私を後ろから支えていた。私は彼の涙に何かが弾けるのを感じた。彼に触れようと手を延ばす。その手を取って透青年は声を上げて泣き始めた。それは段々激しさを増し、最後には崩れるように座り込んだ。手を引かれて私も座り込む。私の中から空海の声がした。その声が私の口を通して語る。
 「お会いしとうございました」
 空海はその後言葉にならない感情を私に伝えた。
 私は泣いていた。いや私の中で空海が泣いていた。エディが抱き起こし、涙を拭いてくれた。私は空海の感情に押し流されて、自分を失っていた。
 「ヨーコ!ヨーコ!しっかりして」エディが私を呼び戻す。
 私が自分を取り戻したのと、透が立ち上がったのがほぼ同時だった。彼も涙を拭い、照れ笑いを浮かべた。
 私が言う。「あなたも生まれ変わったのね」
 青年が頷く。
 「明日、僕達はお山に登るつもりだ。君も来てくれるかい?」エディがそう言うと、透が頷いた。
 エディが続ける。「その時にお返ししよう」
 透がもう一度大きく頷いて言った。「叡山の封印を解くのですね」
 エディが頷く。
 透が言う。「わざわざお連れくださって、ありがとうございました」
 「全部思い出したの?」私が尋ねた。
 透は微笑んで答える。「私は生まれた時から最澄の記憶を持っています。そんなふうに生まれついてしまったのです。でも受け継いだのは記憶だけでした。最澄の法力は受け継がなかったのです。だから何度高野山に登っても空海殿には会えませんでした。そしてあなたが連れて来て下さった事も、さっきまで気付かなかたのです。でも、あなた達が光を発しながら井戸を覗き込んで居るのを見てやっと理解できました。私が待ち続けた人にやっと会えると言う事をです。なぜあなた達が彼を連れて此処に来られたかと言う事も理解しています。龍を解き放つのですね。此処の、そして出雲の」
 エディが言う。「生まれた時から記憶があったのですか。辛い思いをされましたね」
 透は頷いた。そして清々しい顔を上げて言う。「もう、慣れました。それに、あなた達に出逢えて救われました」歳相応の青年の顔で彼が笑っていた。
 私はそれを見てとてもホッとした。そして彼の頬にベエゼをして言った。「明日また会いましょう」
 エディと透は握手して別れた。まるでアンディとエディの兄弟の様だった。

 私とエディはベンチに腰掛けて休んだ。暖かな日差しが心の中迄差し込んできた。
 私が言う。「エディ。あんな弟が居ると良かったのにね」
 「そうだね。アンディが僕を可愛がってくれた気持ちが、少しだけ判ったような気がするよ」
 「それは良かったわ」

 私達は来た道を戻って車のところへ行った。アルンが車の横に立っていた。
 エディが言う。「ちょっとお茶でも飲もうか」
 アルンは車に鍵を掛けて私達の方へ歩いて来る。そして一緒に土産物屋の奥にある喫茶店に入った。
 彼らはコーヒーを頼み、私は紅茶を頼んだ。
 「ちょっとトイレ」私はそう言って席を立つ。店の人に場所を聞き、歩いて行った。その時目の前に白人の男の人を捕らえたが、私は気にも留めずにトイレに入った。
 用を済ませて個室を出ると、そこに金髪で青い目の大きな男が立っていた。私が手を洗いトイレを出ようとすると彼が言った。
 「タナカヨーコさんですね」
 私は驚いて立ちすくむ。
 「一緒に来てください」彼が言った。
 私は彼の顔を見た。その男はなんの表情もなく、私の前に立ちはだかっていた。
 何時かアルンの見せてくれた写真にあった顔だった。CIA。私は恐ろしかった。私は急いでバッグの中のピストルを探る。
 「動かないで」彼が言った。
 私は諦めてバッグから手を出す。その手を男がつかんだ。その時男の後ろのドアが音もなく開いた。アルンが立っていた。そしていつもと同じ声で言う。「ヨーコ。大丈夫?」私は無理して笑ってみせた。
 CIAの男は私の手を放した。アルンは後ろ手にドアを閉めると男に向かって銃を構え、言った。「フリーズ」
 そして私に問う。「用は済んだかい?」
 「ええ」
 「こっちへおいで」
 私は男の横を擦り抜けてアルンの後ろへ回る。アルンが英語で男を威嚇する。そして後ろ手にドアを開けて私を外に出してくれた。
 エディが微笑んで立っていた。私はエディの胸に飛び込む。エディは私を抱きしめて言った。「もう大丈夫だよ」
 彼は私を支えるようにして席に連れて行った。
 頼んだ紅茶が運ばれてきて、私はそれを飲む。しばらくするとアルンも戻ってきて、何事もなかった様に席に着いた。
 エディが言う。「怖かったね」
 私は頷く。しかし少し落ち着いてきていた私は、強がりを言った。「でも、ちょっといい男だったわ」
 アルンが笑いながら言う。「なかなかヨーコは落ち着いている。でも次に見た時もハンサムかどうかは判らないよ」
 私が首を傾げる。エディが窓の外を指差しながら言う。「アルン。ストレスは解消したか?」
 「まぁな。少し撫でてやっただけだ。もう少しトイレットが広ければ良かったんだが」
 窓の外のハンカチで顔を押さえながら歩いていくCIAの男が見えた。
 「お前の愛情表現は、激しいからな。メルセデスは大変だ」
 私達は笑った。
 笑いが収まるのを待ってアルンが言う。「ところであの青年は、やっぱり最澄だったのか?」
 エディが頷いて答える。「そうだ。最澄は記憶を残しながら、何度も生まれ変わりを続けていたんだ」
 「と言う事は、彼も最澄の記憶を持っているのか?」
 「はい。生まれた時から記憶を持っていたそうだ」
 アルンが考え込み、そしてつぶやくように言った。「生まれた時からか」
 エディが頷いて言う。「随分辛い思いをしただろう。僕がそう言うと彼はもう慣れてしまったと、そして僕達に出逢えた事で救われたとも言った。辛い人生だ」
 アルンが顔を上げて言う。「で、彼も明日比叡山に登るのだろうか?」
 「そう言っていた」
 私が尋ねる。「ねえ、どうして明日なの?」
 エディが答える。「タイミングの様なものさ」
 私は首を傾げる。
 「ほら、星回りが悪いとか、日和がいいとかって言うだろう」
 私は頷いて言う。「ああ、お爺様の」
 エディが頷く。そして耳元に口を近付けて言う。
 「それに僕はもう一晩君を愛したい」私はあきれて肩をすくめる。
 アルンが不思議そうにそれを見る。
 「夫婦の会話さ」
 アルンもあきれて肩をすくめてみせた。そして言う。「なぜ最澄は自分で空海を起こさなかったんだろう?」
 エディが答える。「彼、透って言うんだが、彼が言うには受け継いだのは記憶だけで、法力は受け継がなかったらしい。だから何度高野山へ行っても空海には会えなかったと言っていた」
 「そうか、確かに辛かっただろう。しかし記憶だけでも残して転生を繰り返した最澄という人物も相当なものだな」
 エディは頷いて言う。「空海とは全く違う方法だが、人として出来る最大限の事を成し遂げたんだ。そして記憶を持ったまま再生を繰り返し、時の流れを渡った。多分その度に僧に成り、今の大乗仏教を作り上げたのだろう。ここの封印も初代の最澄だけでなく、何代もかかって作り上げたに違いない。もしかしたら空海が言ったように、天海が江戸に富士の力を導いたのも最澄の魂の仕事だったのかも知れない」
 「空海がそう言ったのか?」
 「はい。富士の力が出雲に流れるのを恐れていたから江戸の事を話した。するとそれも最澄の仕事だろうと言ったんだ。僕はその時何も知らなかったから、時代が違い過ぎると言ったんだ。でも空海は知っていたのだろうな。最澄の時の渡り方を」
 アルンが頷いた。
 私はそんな話を聞きながら、まだ見ぬ最澄の面影を追っていた。透青年は最澄の面影を残しているのだろうか。きっと強さの上に成り立つ優しさを持った人だったのだろう。そしてきっと清々しく笑ったに違いない。

 私達は喫茶店を出て、アルンの車に乗り込んだ。私は車に乗った途端気が抜けてしまったのかグッタリしてしまった。エディは私のとなりに乗り込み私の体を抱き寄せる。
 「ホテルへ戻ってくれ」エディがそう言うと、アルンが車を発進させた。
 エディは私の髪に触れながら囁くように言う。「ごめんよ。また怖い思いをさせちゃったね。もう何度目になるんだろう」
 私は首を振って言う。「大丈夫よ。私はまだ生きているわ。それにきっとこれからもあるんでしょう?きっとすぐに慣れる。豪華な暮らしにだって慣れて来たんですもの、きっと怖いのにもね」
 彼は何も言わずに肩を抱く腕に力を込めた。私はホテルに着くまで彼の肩に頭を乗せて目を閉じていた。

 部屋に戻って私は窓際のソファーに座り、窓の外を眺めた。エディは後ろで運動を始める。
 彼によると、古くなった気をすべて吐き出し、新しい気を体の中に取り入れるのだそうだ。私も見様見真似でやってみる。しかし穏やかに動く事が思ったより難しく、すぐに諦めてしまった。
 彼は言う。「とても簡単な事なんだよ。自分の体をいとおしんでやればいいだけなんだから。どこの筋肉を使っているのか、どこの関節を曲げているのかとか、そう言う事が意識できればいいんだ」
 私は首を振るとまたソファーに身を沈めて窓の外に目をやった。湖にヨットが浮かんでいるのが見えた。私の龍はきっとあの井戸から湖まで泳いで行ったのだろう。私にはそんなふうに思えた。私の脳裏には美しい龍が湖を泳ぐ姿が移っていた。その姿が穏やかに舞うエディに重なる。それを私はこの上無く美しいものとして感じていた。
 運動を終えたエディが言う。「ヨーコ。うたた寝なんかすると、風邪を引いちゃうよ」
 私は目を開けて言う。「眠ってなんていないわ」
 「たいくつかい?」
 私は首を振って言う。「いいえ。あなたが龍になって湖を泳ぐところを見ていたのよ。とっても綺麗だったわ」
 彼は私をのぞき込んで言う。「僕が龍になったの?」
 私は頷く。「ええ、そうよ」
 彼は微笑んで言った。「それはすごい」
 私も微笑んで繰り返す。「すごい」
 「ヨーコはどうして僕をこんなに引きつけるのだろう?時々胸が痛くなるほどいとおしくなる」
 私は笑って言う。「実は、私もなのよ」
 彼の美しい瞳が私を捕らえていた。私はその瞳を逃れてつぶやく。「不思議な事ばかり」

 私達はルームサービスでゆったりとした昼食をとった。朝、あんなに晴れていた空に段々雲が広がり、今にも雪が降りそうになっている。
 「エディ。アルンって天気予報も出来るのね」
 彼は読んでいた本から目を上げると言う。「本当だね。あいつは何をやっても一流なんだ」そう言ってまた本に目を落とした。
 私はベッドルームに行って荷物の整理をした。パリへ行く時に用意したままの荷物なので、足りなくなった化粧品が何点か有った。それに着る物もいつも同じ物ばかりなので一度家に帰って入れ替える必要も感じた。
 私は一通り荷物を片付けてエディに言う。「エディ、私一度家に帰りたいわ」
 彼は読んでいた本から目を上げて言う。「どうして?」
 私は足りなくなった化粧品の事や、洋服の事を言った。
 彼は本をテーブルの上に置くと、言った。「そうだね。今から行くかい?」
 「今からじゃなくてもいいけど。だってこれから大阪まで行くと大変でしょう?」
 彼が言う。「OK じゃあこれから買い物へ行こうよ。大津までならすぐだ。化粧品や洋服を買おう。街はクリスマスの飾り付けで華やいでいるよ」
 私は溜息を付いて言う。「危険じゃないの?それに家に帰ればあるんだし、もったいないわ」
 彼が笑って言う。「ヨーコ。また始まったの?気にしないでっていったじゃないか。僕は女性に物を買ってあげるのが大好きなんだ。それにただの女性じゃない。妻が欲しいものを買うんだからもったいない事なんてないんだよ。たまには僕にも楽しませてくれないか?それに今日は休日じゃないから人も少ないし、アルン達も楽だと思うな。危険なら君の家に戻る方がずっと危険だ」
 「どうして私の家が危険なの?」
 彼は言い辛そうに言う。「いつも何人かの敵が見張っている。それに部屋には盗聴器だって仕掛けられているよ。敵の罠の中に入って行くようなものだ」
 「嫌だ。私の部屋に誰かが入ったんだ」
 彼は気の毒そうに頷く。
 私は溜息をついて言う。「もう戻れないのね」
 「ヨーコ どこに戻るつもりだったの?」
 「そうね。忘れてたわ。私はあなたの元に戻って来たんだったわね」
 「そうだよ。どこも行かないでずっと僕の傍に居てね」
 私は頷く。
 「だから僕が君の必要な物を揃えたって何も悪いことは無いんだ」
 私は仕方なく頷いた。
 彼は喜んでアルンに電話を入れて言う。「これから買い物に行く」
 アルンが何か言ったのに対して「それでいい」と言って電話を切った。
 私は何を買ってもらおうか考えていた。靴とセーターとスカート、それにピストルが取り出しやすいバッグも必要かも知れない。それと化粧品だ。
 エディがそんな私をのぞき込んで言う。「アルンにトラックを頼めばよかったかな?」
 「あなた、また覗き見をしたわね」
 「わざわざ覗かなくても妻が何を欲しがっているかぐらいわかるよ」
 「じゃあ当ててみて」
 彼は笑いながら言う。「靴とバッグとセーターかな」
 「どうしてわかったの?やっぱりのぞいたんでしょう」
 「違うよ。靴は山道を歩くのに向かないし、バッグはピストルのせいで形が崩れちゃっただろう。それに朝いつもどのセーターにしようかって迷っているじゃないか」
 私は頷く。「そうよ。それと後スカートが欲しいの。だってパリは寒いからパンツばかり持って行ったんですもの」
 彼は微笑んで頷く。「判ったよ。好きなだけ買いなさい。ここのクローゼットはまだ沢山入るし、移動の時はまたアルンがちゃんと手配してくれるから心配しなくていい。どれだけ物を増やしても構わない。旅行中だなんて考えなくていいからね。僕の居る所が君の家で、君の居る所が僕の家さ。そこが帰る所なんだ」
 私は頷いて言う。「判ったわ。あなたがそう望むのならそうしましょう」
 彼が言う。「妻に着飾ってもらって喜ばない夫なんて居ないんじゃ無いの?」
 私は首を振って言う。「それは判らないわ」
 彼が微笑みながら言う。「少なくとも、僕は喜ぶ。僕は、裸の君も着飾った君も大好きだからね」
 「あなたは欲張りなのよ」
 「もちろんだ。欲張らなければ、僕は君を手に入れることすら出来なかったかも知れない。僕は欲張りで良かったと思うな」
 私は大きく頷いた。
 彼が立ち上がって言う。「さあ、買い物に行こう」
 私も立ち上がって彼に従った。
 私は思っていた。欲しいものを手に入れる時、罪悪感が有るのはなぜなのだろうか。幸せと言うものに慣れていないせいなのか、もちろんそれは金銭的な幸せなのだが。貧乏が身に付いてしまっているのだ。香港で一度越えたはずのハードルの前で、私はまた戸惑っていた。パリでエディに出逢ってから、私の価値観が根底から揺らいでいた。慣れよう。慣れるしかない。もう私はエディ無しでは生きられないのだ。ならば彼の価値感で生きても悪い事はない。そう思うことにした。

 私達が着いたのは、大津に在るホテルの中のショッピングセンターだった。私はパリでコートを買った時の事を思い出していた。
 「ねえ。あの時は楽しかったわね」
 エディが答える。「パリの百貨店でのことだろう?君はとても楽しそうにコートやアクセサリーを選んでいた」
 「ええそうよ。とても楽しかったわ。自分の持っているお金でどれだけ気に入ったものを買うかって言う事がね。ゲームのような感覚なのよ」
 エディが頷く。
 「でも今日はもっと楽しいかも知れないわ」
 彼が首を傾げる。
 「だって欲しい物が欲しいだけ買えるんでしょう?それって、まるで夢みたいな話よ」
 彼は笑って言った。「でも、今日はアルンの車に乗るだけにしてね」
 「判ったわ。大きな物はまずトラックを買ってもらってからにする」
 「それがいい」そう言って二人で笑った。
 まず最初にブティックに入ってセーターを選んだ。最高級のカシミアで編んだ何でもない形のセーターで、白と黒の色違いで二着を決めた。その後、暖かそうなコージュロイの黒のパンツと、グレーのウールのフレアースカートをセーターに合わせる。エディは黙って頷いた。彼が店員にそれを包ませた。
 私は次に靴を選んだ。とても上質な柔らかい革で出来た黒のスニーカーと、くるぶしまでの長さのブーツを選び出した。彼はそれも満足そうに頷き、包んでもらった。
 荷物はかなり大きくなっていた。
 私達は一度車に戻り、荷物をトランクに入れた。
 「ヨーコ。君は本当にセンスがいい。それに良いものをちゃんと知っている」
 「だって私、プロだったのよ。良い物を知っていても買えなかっただけよ。でも、さっき言ったようにそれなりの楽しみ方もあったけどね」
 彼が笑って頷いた。そしてもう一度ショッピングフロアーに戻り、バッグを選ぶ。
 バッグは思ったより難しかった。それでも私は根気強く探した。最後に選び出したそれは、とてもしっかりした肩紐がついていて、大きすぎもせず小さすぎもしない。とてもしっかり縫製された、質の良いものだった。
 「どう?これ」私がエディに見せる。
 「完璧だね」彼が笑ってみせた。
 私はそれに決める。彼がそれを包んでもらっている間に、私はとなりの化粧品売場で足りなくなった化粧品を揃えた。
 「ねえ、私買い過ぎてないかしら?」
 「大丈夫だってば」
 私がその先を言う。「このホテル、全部買っても大丈夫なのよね」
 彼は笑って頷いた。「そうだよ。良く判ってるじゃないか。それよりお茶でも飲んで一休みしないかい?」
 私はそれに賛成した。

 私達はフロアーを一つ上がって広いキャフェテリアに入った。広いお店にはほとんど人がいなかった。
 「あなたの言ったように人が少なくてよかったわね」
 「平日だからね」
 店の外には綺麗に飾り付けられたクリスマスツリーがあった。私達はそれがよく見える席に座った。ボーイが注文を取りに来る。私達はケーキと紅茶を頼む。ボーイは丁寧におじぎをして立ち去った。
 「エディ。クリスマスね」
 「クリスマスにはナーガラージャのパーティーが有るよ」
 「ナーガラージャもキリストの生誕を祝うの?」
 「違う違う。ただのパーティーさ。本当はいろんな意味があるんだ」
 「どんな?」
 「クリスマスって言うのは本当はキリストの生まれた日なんかじゃないんだよ。もっと昔から重要な日だったんだ。
 冬が終わって春が来るその狭間の大切な日なんだ。それをキリスト教が取り入れてクリスマスにしちゃったの。だから元々は宗教と言うより、人々の為のお祭りなんだよ。
 でもパーティーはそんなのとも関係ない。みんな集まって騒ぐのが大好きなだけさ」
 私が言う。「私もそのパーティーに出た方がいいのかしら?」
 「そうだね。一昨日のパーティーは代役を立てちゃったからね」
 「でも疲れちゃうのよね」
 「その内に慣れるさ」
 私は頷いた。
 私達の頼んだケーキと紅茶が運ばれてくる。私達はそれを食べながら話す。
 「ねえ、今買ったこのバッグだったらピストルを入れても大丈夫よね」
 彼は頷く。
 「今朝、CIAの人に捕まりかけた時、急いでバッグを探ったけど間に合わなかったの」
 「大丈夫だよ。あれは最悪の時に使えばいいんだ。僕やアルンが居る時には任せておけばいい。それに奴等は君を殺さない。ただ捕まえるだけだから、君はもし捕まっても僕が行くのを待っていればいいんだ」
 「そうすればあなたが殺しに来てくれるのね」
 彼は少し笑った。そして真顔に戻って言う。「ヨーコ。僕はまだ君を殺さない。もっともっと楽しみたいからね。また何十年も君を探すのは辛いよ。もっとずっと君を愛し続けていたいんだ。それに僕は心に決めたことがある」
 「何?」
 「今度君を殺す時には僕も一緒に死のうと思うんだ。そうすれば苦しみが短くて済むだろう?」
 「それはいい考えだわ。そうしたら次に会えるのも早くなるかも知れないわね」
 私達は凡そ午後のティールームには似つかわしくない話をしていた。それでもほとんど客が居なかったので会話を聞かれる恐れはなかった。アルンはどこから私達を見ているのだろう。私にはどうしても判らなかった。
 「ねえ、今朝のCIAはどうしたのかしら?」
 「さっきアルンがイワノフと話してたって言ってたよ」
 「まあ、イワノフと?」
 「そう、あのCIAは僕達の事を知らな過ぎた。イワノフがナーガラージャについて話してくれただろうから迂闊には手出ししなくなるさ。奴等はみんなとても簡単に考えて居るんだ」
 「でもそれって、敵がもっと増えちゃうって言う事なんじゃないの?」
 「そうだよ。でもそうすれば味方の数も増える」
 私は首を振った。彼が露悪的に言っていることは良く判っていた。彼が続ける。
 「プロはプロのやり方があるんだ。任せておこう。アルンはジェームスボンドより間違いなく優秀だ。ただボンドみたいにもてないだけさ」
 私は微笑んで頷いた。
 綺麗に飾り付けられたクリスマスツリーを見ているかぎりでは、今までのクリスマスと何一つ変わらないように思えた。しかし現況は刻々と変化している。私は守られている。とても不思議なことだった。
 私が言う。「ねえ、近いうちにミツコさんに連絡を取ってちょうだい」
 彼は苦笑いしながら言う。「どうして?」
 私は笑いながら言う。「大丈夫よ。私達友達になったの。それにちゃんとアルンに紹介しなくちゃ」
 彼が頷く。「そうだったね。アルンの龍なんだ。ミツコは」
 「そうよ。でも辛い恋になるかも知れないわね」
 「でも僕達だって乗り越えてきたじゃないか」
 「でも、もう終わった事だわ」
 彼が静かに頷いた。
 私達は残っていた紅茶を飲み干して席を立った。そして車を止めたところまでエレベーターで降りる。アルンは車の横に立って待っていた。本当に不思議な男だ。

 ホテルに戻って私は本を読んだ。エディはアルンとの打ち合わせの為に部屋を出る。
 私は彼を見送り、そのまま窓の外に目をやった。どんよりと曇った空の下に、琵琶湖が広がっている。その湖を見ながら私はしばらく、空海と最澄の事を思った。すべては明日の事だ。そしてまたソファーに座って神話の本を読んだ。

 夕食前にエディが戻って来て、ルームサービスにした食事をゆっくりと楽しんだ。そして少しのお酒を飲み、お互いを求め合い、与え合って眠った。