龍 8 高野山 (U)
 部屋に戻るとアルンが居た。私は笑って見せ、そして言った。「食事は?」
 「済ませたよ」アルンが答える。そしてエディに尋ねた。
 「法印から何か聞けたか?」
 「はい、良い話を聞けたよ」
 「それは良かった」アルンはそう言って頷いた。
 エディが私に向かって言う。「ヨーコ、お風呂に入って来たら?」
 「湯冷めして風邪を引いちゃうかも知れないわ」
 「でも、とっても偉い人にあうんだから、心身ともに清めておいた方がいいんじゃないかな」
 「それもそうね。それにまだ時間もあるみたいだし。久しぶりに日本式のお風呂もいいかも知れないわね」私はそう言って、簡単に用意してからお風呂に向かった。

 木の湯船にゆっくり浸かる事で古い何かを流し、新しい力を授かる用意が出来たような気がした。

 部屋に戻るとエディとアルンは英語で話していた。私が戻った事で彼らはすぐに日本語に切り替えた。
 「と言うことで、僕達は空海の龍に出来なかった事をしなければならないんだ」
 アルンは不安そうに頷くと言った。「しかし空海ですら恐れた敵なんだろう?」
 エディが頷く。アルンが続ける。
 「ヨーコは空海のように修行を積んだわけでもないし、まして女だ。余りにも危険過ぎるんじゃないか?」
 「でも私には聖龍が居るわ。それにナーガラージャも付いている。アルン、あなたも居てくれる」私が横から口を出した。アルンが何を言うべきか迷っていた。私は続ける。
 「それに何時かはやらなくてはいけない事なんだわ。何もしないでこのまま死んでも、また生まれ変わってやらなくてはいけないの。そうなったら私はまたエディを探さなくてはいけないのよ。とっても大変なことなんだから。もし私達が何もしなかったらナーガラージャの人達はとってもがっかりしちゃうわよ」
 アルンが悲しそうに頷く。エディが隣で微笑んでいた。そして言う。
 「アルン、僕達に任せておいてくれ。出来るだけの事はやってみるから」
 私はエディに言う。「あなたもお風呂に入って来たら?」
 「そうするよ」彼はそう言って立ち上がった。
 「髪は濡らさない方がいいわ」私は彼の後ろに回って自分の髪止めで彼の髪をまとめ上げた。そしてそんな彼を前後から眺めて溜息交じりに言う。「綺麗」

 彼は私の頬に口付けすると部屋を出て行った。私とアルンは座敷机を挟んで二人だけになった。
 アルンが言う。「不思議だ」
 「何が?」
 「エディは小さな時から気ばっかりが強くて、やんちゃ坊主のくせに泣き虫だったんだ。子供の頃からあんな風だったから、女の子みたいだとか綺麗だとかって言われるとすごい剣幕でおこった。俺は男だ。馬鹿にするなってね。みんな悪気がある訳じゃなかったんだけどね。でも奴はそれがとても嫌だったみたいだ。それで相手が誰であっても飛び掛かって行って、大抵はやられて泣いてたんだ。それがヨーコにかかると全く気にもしない」
 私は笑う。
 アルンが続ける。「何故なんだろう?それに奴は君のする事をすべて肯定してしまう。僕には判らないよ」
 私が答える。「アルン。だって私達、夫婦なのよ。愛し合って結婚したんですもの」
 「でも、知り合ってまだ二週間も経っていないんだろう?」
 「ええ、そうよ。でも確かに愛し合っているわ」
 「僕には理解出来ない事なのか?それは僕が誰も愛していないからなのか?ヨーコ、教えてくれないか?」
 アルンは苛立ちと悲しみの混ざったような顔で私を見た。
 「ねぇアルン。あなたは自分をも愛して居ないんじゃないかしら」
 彼はますます混乱した。
 「愛って何なんだ?僕は母のことが好きだ。それも愛だろう。初めて抱いた女も確かに愛していた。そしてその後に付き合った恋人達も。あれは愛じゃなかったと言うのか?」
 「きっとそれも愛よ。でも私達の愛は少し違うみたいな気がするわ」
 「どう違うと言うのだ」
 私は首を横に振る。
 彼が続ける。「ヨーコ、君は何故イワノフとキスしたんだ?」
 「判らないわ」
 私は少し考え、とても正直に言った。「本当に良くは判らないのよ。ただ彼の、イワノフの心を見ていたら、彼の悲しみが見えてきて、それがとても辛かったの。彼の悲しみは彼のせいじゃなかったのよ。でもそれの為に彼はとても大きな傷を負っていたわ。自分で自分を責め続けて、そして自分でその傷を拡げていたの。私は彼の心を暖めてあげたかったの。私にはそれが出来ると思ったのよ。それで彼の傍に行ったの。あなたが悪いんじゃないって伝える為にね。
 彼、とても戸惑っていた。私は彼の戸惑いを取るために自分を曝け出す必要があったのよ。私は声を使って彼と会話したわ。彼はそんな私を受け入れてくれた。彼は私が彼に送った感情を愛のように感じたと言ってくれたの。心が通じ合えたのよ。
 彼は私を掛け替えの無いものとして認識し、そして彼は私を守りたいって言ったの。でもそれは男と女の愛じゃなかったわ。とても自然に理解し合えて、とても嬉しかった。とてもいとおしく思えたの。気が付いたら彼にキスしてた。私は心と体、私の内と外で新しく芽生えた愛を感じていたの」
 アルンは黙って聞いていた。そしてしばらく考えて言った。
 「その時ヨーコはエディの事を考えなかったのか?」
 私は驚いて答える。「エディの事なんて考える事じゃないわ。だって私達は繋がっているのよ。私の思うことは彼の思うことでその逆もそうだわ。彼と私は一つなのよ。もしエディが女であるか、イワノフが女であったらキスしたのは私じゃなくてエディの方かも知れない。さっきエディが右手と左手の話しをしていたでしょう。思う事や考える事も一つなのよ。右脳と左脳の様に役割は違うかも知れないけど、同じものだわ」
 「何故ヨーコはその話を知っているんだ。本当は英語が判るのか?それともエディが言ったのか?」
 「とんでもないわ。私にはあなたの言った事は判っていない。ただエディが考えて話したことだけは判ったわ。それにあの時私眠かったし、あなた達の会話に集中していたわけじゃないから。でもエディが何を考え、何を思ったかぐらいなら簡単に判るわ。だってそれは私の思考でもあるんですもの」
 アルンは首を振る。「君達の間には秘密はないのか?知られたくない事の一つや二つはあるだろう」
 私は笑う。「そんなものが持てるぐらい平和な生活に成れればいいわね。もしそうなったら私達はすぐに離婚しちゃうでしょうね。でもこんなふうに繋がっていると言う事は、きっとそれが必要だからだと思うの。繋がっていて不都合があるような平和な生活には戻れないのよ」
 アルンが力無く頷いた。
 私は続ける。「アルン。あなたが人に知られたくない事ってどんな種類の事?」
 彼は困ったような顔で考え、言った。「例えば、恥ずかしい事とか、過去において冒してしまった過ちとか、その類の事だと思うけど」
 私は頷く。「そうよね。私もそう。でもね、恥ずかしい事をしてしまったのも私なら、過ちを冒したのも私なのよ。そしてどれも事実だわ。エディに隠しておく必要なんてないのよ。恥ずかしい事なら笑っちゃえばいいし、過ちを冒したのなら償ったり忘れたりすればいいのよ。
 右手が痒ければ左手で掻くし、左手が痛ければ右手で押さえるわ。とても当たり前で自然な事じゃないかしら。私があなたにまだ会っていないって言ったのは、愛する女性だけじゃなくて、あなたはあなた自身にも会って居なかったからよ。
 私だってエディに会えなかったら何も判らないままだったわ。でも私達は出逢う為に生まれて来たの。何十回も何百回も。そしてやっと一つの魂に戻れたのよ。私達は自分自身を傷付け合ったりしないわ。だって生まれ変わった数だけ私達は傷付け合って来たんですもの。もう沢山よ。でも、それと同じ数だけ求め合っても来たわ。そして何度も死んだの。そして生まれた。
 後はこの生で出来るだけの事をしてしまうのよ。初めて一つに成れた魂で、戦って、死を迎えるの。ゆっくり休めるかも知れないわね。でもね、もしこの戦いに敗れても、もう一度生まれ変わるだけなのよ。だから何も心配いらないわ。出来ればこの生で終わりにしたいとは思うけれど」
 アルンはうつ向いて私の話を聞いていた。私は立ち上がり窓の側へ行った。そして真っ暗な外を見ながら続ける。
 「アルン。私このままここで死んでも幸せだと思えるの。エディに出逢って私、初めて充たされたわ。それだけで充分だと思えるの。誰かによって充たされるってとっても素晴らしい事」
 私が振り返ると、彼が言った。「充たされるってどんな感じなんだろう?」自分に問うて居る様だった。
 私はまた机の前に座り、彼に微笑んで見せると言った。
 「言葉で説明するのって、とっても難しいわ。でもね、香港からの船の上で、こんな事があったのよ」
 私は少し考えてからゆっくり話した。
 「私がいつものように居眠りをしていた時の事なんだけど」
 アルンは笑って言う。「いつもの様にね」私は頷いて先を続ける。
 「龍が私の中から抜け出したの。エディが呼び出したのかも知れないわ。とにかく私の中から完全に出てしまっていた。エディはソファーに座ってその龍と戦ったのよ。龍は聖龍であるエディを試しているようだったわ。何か見せていたの。初め私は夢の中の事の様に思っていたわ。エディの見ているものが何なのか私には判らなかったのよ。でも彼が戦っていると言う事に気付いた時、私はとても強く彼の見ているものを見たいと望んだの。私の望みは叶えられたわ。でも私の見たものって言ったらそれはおぞましい物だった」
 私は言葉を切る。アルンは次の言葉を待っていた。私は思いきって続ける。
 「それは、私が大龍に股がって胸を切り裂き、心臓をつかみ出してそれにむしゃぶりついている姿だったの。血だらけで横たわるお爺様と、悪魔の様な私の姿」
 アルンは何も言わず首を横に振った。私は続ける。
 「それを見た時私は大声で叫んだわ。そしてエディを見たの。アルン、あなたならどうする?」
 彼は何も言わなかった。
 「エディはね、穏やかに微笑んでいた」
 「信じられない」アルンは吐き捨てるように言った。
 「私もそうだったわ。それで彼に尋ねたの。何故、何故なのって。彼は言ったわ。それもヨーコなんだ。僕の愛するヨーコなんだってね」
 「それもヨーコだって言ったのか」
 私は頷く。「そう、彼の愛するヨーコだったのよ」
 「龍は何故そんな事をするんだ」アルンは少し怒ったように言った。
 「アルン、龍に意思はないわ。あれは私その物だったのよ。人間その物なの。ただ龍はそれを増幅させるだけよ。エディはちゃんとそれを知っていたの。私の心の奥そこに何があるのか、それをヴィジョン化するとどれ程おぞましい物に成るのか。そしてそれを自分が受け入れられるのかどうか。試したのは龍じゃなかった。聖龍が自分を試していたのよ。
 そして彼はすべてを受け入れた。私は受け入れられたのよ。もしかしたら彼自身があの時の私だったのかも知れないわ。多分、誰の心の奥底にもあるものとして彼はそれを受け入れた。おぞましく嫌な面と、素晴らしく崇高な面を持った、人と言うものを彼は受け入れたの。それがエディの、聖龍の愛だわ。生も死も、倖も不幸も、醜も美も、すべての両極端を一つのものとして受け入れる。それが彼の愛の本質だわ」
 アルンは言う。「ヨーコ。それは何もないのと同じ事なんじゃないのか?」
 「そう。その通りよ。無と有は同じ事なの。色即是空、空即是色よ。求める必要がないから充たされているのよ。充たされるってそう言うことなんじゃないかしら。目一杯与えられても、もっと欲しかったら充たされはしないわ。でも、何も与えられなくても、求める事や物が無ければ充たされているのよ。量の問題じゃないの。彼が私をすべて受け入れ事によって、私は求める必要が無くなったの。それが充たされたって言う事。もう、自分を表現する事も必要無ければ、彼に嫉妬する事もないわ。もしかしたらそれによって、私はそうする事で得られる楽しみすら失ってしまったのかも知れない。でも、楽しみには苦しみが付き物よ。だから苦しみからも解放されたの」
 アルンは良く判らないと言う風に首を振って言った。「それだったら生きて居る意味が無いんじゃないか?」
 私は頷いて答える。「精神レベルに於いてはね。でも、私達はまだ肉体を持っているわ。だから人として、動物としての喜びを持ったまま、充たされたのよ。空海の求めた即身成仏に限りなく近づいて居るのかも知れないわね」
 アルンは驚いたように私を見つめる。
 その時エディが戻って来た。エディは穏やかに笑っている。アルンがエディを見上げると言った。
 「ヨーコはすごい」
 エディは美しく微笑んで言った。「そうだろう」
 三人で笑った。
 私が立ち上がってエディの後ろに回って髪止めを取ると、彼の髪はストンと落ちた。相変わらず黒くてきれいな髪。私は彼の背中に額を付けて、アルンと話していた事を思う。エディが私の心を読む。そして座って言った。
 「そうだね。その通りだと思うよ」
 アルンに向かって言う。「案外即身成仏の考えってそんなものなのかも知れない。修行によって何もかもそぎ落としてしまう事と、何もかもを手に入れてしまう事は、結果的には同じ事なんだ。それに、死んでしまえば誰でも仏に成るって教えているじゃないか。つまり、肉体を離れることによって、誰でも完全な精神に戻れるんだ。
 肉体を持たない精神は、宇宙意識と繋がる。それが仏だ。つまり孤独から完全に解放され、充たされるんだ。
 肉体を持っていると言う事は、孤であると言う事だ。そして普通はその孤である肉体に邪魔されて精神まで孤に成ってしまう。だから精神は基本的に肉体からの離脱を求めているんだろう。つまり、生まれてきた限り必ず死ぬと言う事だ」
 アルンが言う。「肉体を持ったまま何故精神は繋がれないんだ?」
 「多分、肉体を維持する為には、とてつもないエネルギーが必要なんじゃないのかな。肉体と言うのは、とても精巧な機械なんだ。自分自身で成長し、メンテナンスもこなし、そして老いて自然に死ぬんだ。そんな機械を作ったらとてつもないエネルギーが必要になるだろう。そのエネルギーを精神が賄っているんだから、これ以上求める事は無理なんじゃないかな。修行してそれが出来る様に成る事を、解脱とか悟りを開くとか言うんじゃないだろうか」
 アルンが言う。「それをお前達は何の苦もなく成し遂げたと言うのか?」
 私とエディは顔を見合わせて同時に言った。
 「そのために、何度も生まれ変わったんだ」
 アルンはステレオでその言葉を聞いた。
 「きっと大変な苦労だったんだな」アルンがつぶやくように言った。
 私が答える。「判んないわ。いろいろ有ったと思うけど、もう終わってしまった事だから。それに、自分で決めた事をやって死んだんだもの」
 エディが言う。「僕は辛かったよ。だっていつもヨーコを追い掛けて、手に入れられないまま無念のうちに死んだんだ。それに最後に生まれた時の事なんて、思い出すだけで気が狂いそうに成ってしまう。実際狂気のうちに死んだんだけど。ヨーコはいつも逃げていた。僕はいつも追い掛けてきた。追い掛ける方はやっぱり辛いよ」
 私が笑って言う。「でも、とうとうつかまっちゃったわ。そう、あなたは前世を思い出してから長く生きたから辛かったわね。でも私は死ぬ少し前とか死の瞬間とかに思い出したから、たいした事は無かったのよ」
 アルンが言う。「お前達の話を聞いていると、自分が今生きているのか死んでいるのか判らなくなるよ」
 エディが答える。「どっちでもいいんだよ。でもアルン、今辛い事があるか?」
 「ああ。お前達の事が良く理解出来ない事が辛い」
 エディは口の端で笑顔を作って言う。 「そうか。ならお前は生きて居る。死んでいる時には辛い事は何もないんだ。ただ穏やかに充たされているからな」
 「ならば、お前達はどうなんだ。生きて居るのか、死んで居るのか?」
 私が答える。「生きているわ。だって私達はお互いの肉体を求め合っているもの。そして抱きしめ合う事で愛を表現出来るもの。精神にそれはないわ。こうして目で見て、手で触れて、そして匂いをかいで、味わって、声を聞く事によっても愛を深め合えるのよ。それが生きて居るって言う事だわ」
 エディが続けて言う。「みんな間違っているんだ。精神的な物と肉体的な物を切り離して考えている。精神的な物が崇高で、肉体的な物が下劣であるなんて、おかしいじゃないか。僕達は肉体を持っているからこそ生きているんだ。そしてその肉体を失った時が死なんだ。
 しかし精神はずっとずっと続いている。死ぬと精神も無くなると考えるから、必要以上に精神を評価し過ぎる。生きて居ると言う事は、肉体を持った精神が何を成すかと言う事なんだ。反対に言えば、肉体に縛られた精神に何が出来るかだと思う。
 精神を肉体から切り離す事は簡単だ。死ねばいいんだからな。しかし肉体に縛られながら、いや肉体を大切にしながら、精神をも含めた自己を磨く事が本当の生きると言う事なんじゃないだろうか。だから肉体的な快楽をタブーにする事は無い。けれどそれだけに生きる事も無い。
 大切なのは愛なんだ。肉体によって愛を深める事も出来る。しかし最後に残るのは精神だ。お互いに補い合っているんだ。肉体を持つ事によって孤である精神だから、愛し合うことがとても難しいんだ。だからこそ、その難しい事を成し遂げる為に生まれ変わりを続ける。
 精神の世界、つまり死の世界には個の区別は無い。すべてが一つの宇宙意識として集合しているんだ。そしてそれが孤として愛し合う事を求めている。だから僕達は生まれたんだ。アルン、お前もだ。すべての者がその為に自ら望んで生まれて来ているんだ」
 アルンが不満そうに尋ねる。「誰もが、望んで生まれて来たと言うのか?」
 エディが頷く。アルンが続ける。
 「不自由な体で生まれて来た者もいれば、餓えて苦しんでいる者もいる。生まれてすぐに死んでしまう者もいれば、事故に遭って不慮の死を遂げる者も。その上誰かを殺してしまう者もいれば、その誰かに殺される者だっているんだぞ。その誰もが望んで生まれて来たと言うのか?」
 エディが答える。「もちろんだ。望まずに生まれて来る者など一人もいない。どんな不幸も必要だから生まれて来るんだ。死の中に苦しみは無い。苦しみは生の中にしか存在しないんだ。苦しみも、悲しみも、魂の進化に必要だから生まれて来るんだ。
 一生幸福であり続けた人など居ただろうか?どんな小さな苦しみも悲しみもなく生まれて、そして死んだ人がいただろうか?そんな人は絶対に居ない。もしそうなら生まれて来なくてもいいからだよ。それは死の中に居る事と同じだからね。
 誰もが何かを学び、精神、魂と呼んでもいい、その魂を進化させる為に生まれてきているんだ。誰かの魂を進化させる為に、悲しみを与えるためだけに生まれて来る事もある。それが生まれてすぐに死んだ子供だったりするんだ。その子は親である魂に、喜びと悲しみを与える為にわざわざ生まれて死んだのかも知れない。
 魂の時間は龍の時間を同じでとてもゆっくりと穏やかに流れているんだ。だから人の一生など一瞬の我慢にしか過ぎない。どんな辛い事でも一瞬の我慢なら出来るじゃないか。それと同じだよ。
 魂の進化に必要だから苦の中に生まれるんだ。そして喜びは、悲しみや苦しみを乗り越えるための糧でもある。死の中には苦しみのない分喜びも無い。それは必要がないからな。しかし穏やかに充たされた世界である事は間違いない。
 その穏やかさに充たされた世界に居て、僕達は生まれる事を選んだんだ。自分自身で輪廻や因縁を仕組み、その中に身を投じて、悩み、苦しみ、そして喜びを得る。自分で描いたシナリオを自分で演じるんだ。
 今回僕の描いたシナリオは、長く二つに分かれていた魂を一つにまとめて何かを成す事だったんだろう。その魂の片割れがヨーコだったんだ。だから僕は今とても充たされている。そしてその喜びを糧に何かを成すべきなんだろう。だから僕達がこうして繋がって居る事も、特殊な事では無いんだ。ただ、僕達は前世の記憶を持っている事が特殊であるだけだ。しかしそれも必要な事だったのだろう。それだけ大きな敵と戦うようになっているんだ。だから少しぐらい大きな幸せを手に入れてもいいじゃないか。アルン、判ってくれるか?」
 アルンは大きく頷くと言った。「ああ、もちろん判っているさ。僕は君達を守るためにいるんだ。それが僕の使命さ。そして君達の敵が巨大だと言う事もな。僕は戦士なんだ。ナーガラージャのために戦う。だから心配しないでいい。確かに今の僕には君達の事は理解出来ていないかも知れない。それは君達の魂が進み過ぎている為なのか、僕の魂が未熟過ぎるのかは判らないが、確かにレベルが違うようだ。しかし僕は戦う事に関してはプロなんだ。そしてそれは聖龍とその妻の為に身に付けたものだ。僕は僕の努めを果たす。それでいいんじゃないかな」アルンは自分に言い聞かせるように言い終えた。
 私達は笑顔を作ってアルンに向けると言う。「アルン、あなたは今日の事を次に生まれ変わった時に必ず思い出すわ。私の事もちゃんと思い出してね。その時、私は龍なんかじゃなくてただの女だったんだってね。お願いよ」
 アルンが頷く。「そうするよ。とても美しくて、キュートで、エレガントではないけれど、とても魅力的な女性だったって、きっと思い出すよ」
 「ありがとう」
 エディが私を抱き寄せた。彼には私の寂しさが伝わっていた。そしてエディの心が私に言った。
 「みんな死んで、そして生まれる。確かに別れは辛いが、また何時か会えるさ。それにまだしばらくはアルンと一緒に居られるよ」
 私は黙って頷いた。エディの腕の中で彼の匂いに包まれていた。私は生きて居る。匂いも、暖かさも、力強さも感じていた。アルンは立ち上がると窓辺へ行き外を眺めた。
 エディは私をそっと起こし口付けをした。時がほんの少しだけ止まった様な気がした。


 春水さんが迎えに来たのは11時半を少し回ったところだった。
 エディと私は彼について部屋を出た。
 しんしんと寒さが染み渡った。しかし春水さんは本当に春のように穏やかだった。寒さもあまり感じていないように見えた。
 私達は外に出る。
 ジャリ道を踏む音がシャッシャッシャと辺りに響いた。それはとてもリズミカルで心地好い音だった。

 十分程歩くと遠くに灯りがゆらゆらとしているのが見えた。そしてしばらく歩くとそれは二十人程の僧が持つ提灯の様な物だと言う事が判った。十人づつぐらいの僧が両側に別れてお経を唱えながら道を照らしていた。私達はその手前まで春水さんに案内され、そこで春水さんは丁寧に頭を下げて退いた。
 私とエディは二人で読経の響く中を、砂利を踏みしめながら先に進んだ。その頃にはもうあまり寒さを感じていなかった。空気がピンと張り詰めているにもかかわらず、私にはとても穏やかに感じられた。ゆっくりと歩き、最後の僧の前を通り過ぎると、真白な装束に身を包んだ法印が私達を待っていた。彼は何も言わずに頭を下げると、くるりと後ろを向いて歩き始めた。私達はそれに続く。
 御廟の門は開いていた。灯を持った僧達の読経の声が付いてきた。門を入ると法印は履物を脱ぎ、建物の中に入った。私達もそれに続く。幾つかの部屋をぬけ、廊下を進む。そして小さな階段の前まで来た時、法印は立ち止まり、振り返った。そして手に持っていた灯の一つをエディに渡すと言った。
 「私はここまでです。後はお二人でお進みください。大師はこの階段を降りたところでお待ちです。私はここであなた方の戻られるのをお待ちいたします」そう言うと合掌し深く礼をした。エディも同じ様に合掌すると言う。
 「灯は必要ありません」エディは法印に灯を返すと、階段に向かって深く礼をし、息を整えた。大きく息を吸い、吐く。それを何度か繰り返すことによって、彼の精神は一点に集まる。そしてそれが弾け、彼の周りにいつものブルーの光が輝き始めた。そしてそれは彼の呼吸に乗って強さを増した。私は彼の光の中に入り、振り向いて法印に笑いかけた。法印は静かに頭を下げる。

 私は向き直って階段を降りる。エディが私の背中を守る様に付いて来ていた。階段を降り切った所で私は目を閉じた。指輪を回して龍を解き放つ。そしてそっと目を開ける。
 そこは金色に輝いていた。そして小さな部屋の奥に穏やかな表情の僧が座っているのが判った。
 彼の思考が直接頭の中に伝わった。
 「良く来てくれました。随分待った様な、一瞬であった様な」
 エディが問う。「空海ですね」
 肯定の思考が返ってくる。
 「貴方が聖龍ですな。素晴らしい龍をお連れなさった」
 エディが言う。「貴方の教えを乞いに来ました」
 「まあ座りなさい」空海の魂が言う。私達は言われたように並んで座る。
 私達に見えている空海の姿は、魂その物の姿だった。実体の無いのを感じた。しかしそこには確かに空海その人が座っていた。私の龍が輝き、部屋中を金色に照らしていた。
 小さな部屋だった。私の龍はその中を縦横無尽に飛び回った。
 空海は嬉しそうに目を細めてしばらくそれを見ていた。そして言った。
 「元気の良い龍だ。しかし少し心を静めなさい。ゆっくり話ができない」
 優しさに満ち溢れた思考だった。私は静かに深呼吸して意識を下ろした。龍は飛ぶのを止め、空海の元にうずくまる。それはまるで母猫の元で眠る子猫のように見えた。私はとても安心し、そして嬉しく思った。空海の魂は私の龍をいとおしそうに撫でていた。エディもそれをとても心地好く感じていた。
 私達は目を使って見ていなかった。そして耳を使わずに聞き、声を使わずに話した。しかし、それらを使うよりずっとピュアーにそれは伝わった。
 エディの輝きが増す。私の思考はエディのそれと重なる。龍の抜け出した私の肉体は、ただの物体としてそこにあった。龍は空海の元でまどろんでいる。私はただ思うだけの存在として聖龍と共にあった。
 聖龍が問う。「空海よ。私達に何を告げるために待ち続けていたのですか?」
 空海が答える。「私達にできなかった事を託すために」
 聖龍が言う。「私達?」
 「そう。私と最澄です。私と最澄が一つに成れなかった為に出来なかった事を貴方達にして貰いたい」
 「それは何ですか?」
 「出雲の龍を助けて欲しい。封じ込められた悲しい龍を」
 「私達に出来るのでしょうか?」聖龍が問う。
 空海が答える。「判りません。私にも最澄にも判らなかった。あの龍がどれだけの力を持ち、どれだけの力で封じ込められているのか。そしてそれを解き放つ事で何が起こるのかも判らない。しかしあの龍は待っている。その事だけは私にはよく判った」
 聖龍が問う。「何故貴方達は一つに成れなかったのでしょうか?」
 「まだ早過ぎたのでしょう。そしてその仕事は聖龍によって成されるべきものだったのではないでしょうか?私達の仕事はただ準備するだけの事だったのです。そして貴方達を待つことでした」
 「その準備と言うのは?」
 「間違った力によってあの龍が目覚めない様に鎮めることです。私と最澄はそれぞれの方法でそれをしています。まずこの山の封印は私が目覚めたことでもう解けました。この山を押さえる事によって、伊勢と熊野を牽制していたのです。最澄は叡山で富士から出雲へ向かう力を断ちました。そして近江の龍も叡山によって押さえられています。叡山の封印を解く事によって近江の龍が眠りから覚めるでしょう。しかしそれによって富士の力が出雲へ向かってしまうかも知れない」
 聖龍が言う。「今はもう、富士に力はありません。人は富士の力を忘れてしまっています。何故なら水人の国、江戸に幕府が移った時に、天海僧正が富士の力を江戸に向けて引いてしまったからです。それで江戸は長い期間栄えたのです。江戸に曼陀羅を描き、そして富士の力を導き寄せました。その為に富士の力は西へ向かわなくなったのです」
 「そうですか。それは多分最澄の仕事でしょう」
 「いえ、随分後の時代の事です」
 「それならば叡山の封印を解いても危険はないでしょう。後は四国です。四国の龍は回る事によってまだ生き続けているでしょう?」
 聖龍が答える。「はい。素晴らしい仕掛けです。千二百年近く経った今でもまだ回りつづけています」
 空海が穏やかに微笑んだ。「そうですか。それは良かった。あそこにも少し細工をしています。多分必要な時には出雲に力を与えられるでしょう」
 聖龍が問う。「どのような細工をなされたのですか?」
 空海が笑う。「それは内緒です」まるで悪戯っ子のように笑った。そしてヒントをくれた。「吉備の力を借りられるのですよ」
 聖龍は頷くとそれ以上尋ねなかった。
 空海が言う。「日向の神は最澄が国東で押さえてあるでしょう」
 聖龍が答える。「そのようです」
 「まず、叡山の封印を解く事です。私を最澄の元へ連れて行って下さい。この山と叡山が目覚めれば後は必然的に活動を始めるでしょう。そして私と最澄が一つに成れる。その為にこれまで待ち続けたのですから」
 そう言い終わると空海は、真言を唱え、手に印を結びそれを何度も変えた。
 すると見えていた像が揺らぎ始めた。それはゆらゆらと揺らぎ、少しづつ形を変える。そしていつの間にか龍の形となって空間を泳ぎ始めた。それは水を得た魚のように緩やかに泳ぎ始め、そして段々力強くなった。そしてぐるぐる回る。我が尾を求めるようにぐるぐる回る。それは段々速度を増し、輪に成り、ついには発光する球体と化して、私の龍の前にふわりと降りた。
 南無大師遍照金剛。それは遍く照らす金剛の玉と成ってそこにあった。私の龍はまるで毛糸玉でじゃれる猫のようにそれに飛び付き、口にくわえた。

 エディは立ち上がると私を抱き起こし、龍を収めて言う。
 「ヨーコ、しっかりして」
 冷たくなった私の体に彼の暖かさが伝わる。徐々に私の体は温まり、意識が体に戻る。私はその時悟った。肉体とはただの入れ物に過ぎないのだ。意識、魂と呼んでも良い、肉体とはそれを宿す事によって初めて機能するのだ。そしてその時私の意識は聖龍を離れ、自分の肉体に戻りつつあった。しかしまだ肉体が触れ合っている事で寂しさはなかった。いつでも一つに成れる。それが私には判っていた。
 エディが優しく言う。「ヨーコ、終わったよ」
 私は彼の胸に耳を付けてその言葉を聞いていた。そして彼に支えられて立ち上がり、また細い階段を上がった。

 下りた時と同じように僧達の読経の声が続いていた。
 オンアボギャ ベイロシャノウ マカボダラ マニハンドマジンバラハラバリタヤ ウン オンアボギャ ベイロシャ・・
 法印は私達に合掌をし、言う。「大師は何と言われましたか?」
 エディが答える。「この山の封印は解かれたと」
 僧達からどよめきが起こった。
 エディが続ける。「大師をお連れして叡山にまいります」
 老法印の顔が一瞬喜びに充たされた。そして次の瞬間彼の目から涙がこぼれた。彼は本当に喜んでいた。私にはそれがとても良く判った。私はその喜びの感情を増幅させて解き放った。
 空海の変化した玉をくわえた龍が踊り上がり、そこにいた僧すべてに加持を与えた。老法印は食い入るようにその様を見ていた。
 彼の心に覚悟が決まるのを、私は感じていた。

 私達は真っ暗な道を小さな灯一つで宿坊に向かう。
 右の後ろにアルンの、左の後ろにイワノフの気配を感じていた。彼らに守られて私達は宿坊に辿り着いたのは、午前3時を少し回った頃だった。

 私はとても疲れていた。部屋に入り、すぐに浴衣に着替えて布団に潜り込む。
 私はあまりに疲れ過ぎていて、なかなか寝付けなかった。何度も寝返りを打つ。
 隣の布団からエディが言った。「ヨーコ、眠れないのかい?」
 「ええ」私が答える。
 「こっちにおいで」彼が言った。
 私はふとんからはい出すと、浴衣の前を合わせ直して彼のとなりに滑り込む。
 彼が私の髪を撫でながら言う。「何も心配いらないよ。僕がついているからね」
 私は小さく頷くと彼の腕を枕に目を閉じた。彼の暖かさに包まれると眠りはすぐにやってきた。



 私が目覚めた時、エディはもういなかった。私は二人分の布団を畳み、押入に片付けた。そして顔を洗う為に部屋を出た。

 長い廊下を歩いて行くと、何人かの人達が座って瞑想をしていた。その中にエディも居た。私はそっと前を通り過ぎ洗面所で顔を洗う。水はとても冷たくて眠気などいっぺんに飛んで行った。そしてまたそっと部屋に戻り化粧をする。
 窓の外を見ると、朝の光の中でアルンが拳法の練習をしていた。エディのとは全く違って、ひとつひとつがしっかりと決まり、静と動の違いがはっきりしていた。私も何となく体を動かしたくなって畳の上でストレッチを始めた。長く運動などしなかった割に体は結構思うように動いた。心も体もどんどん軽くなっている。とても気持ちが良かった。

 瞑想を終えたエディが戻ってきた。
 「おはよう」彼が言う。
 「おはよう。あなたって本当に早起きね。いったいどの位の睡眠時間で足りるの?」
 彼が目を上に向けて考えると、言った。「4時間も寝たら充分かな」
 私はあきれて言う。「私はその倍は眠りたいわ。出来ればもっとだけど」
 彼は笑いながら言う。「僕はその分を食べ物で補うんだ」私は妙に納得した。
 彼が言う。「食事に行こう」
 私は頷き、立ち上がって、窓の外のアルンに向かって叫ぶ。
 「アルン。御飯にしましょう!」
 エディが私の後ろで見ていた。「強そうだ」
 私が尋ねる。「あなたとどっちが強いのかしら?」
 「もちろんアルンの方さ。奴のは実戦向きだからね」
 私はもう一度振り返って窓の外を見た。しかしもうアルンは居なかった。
 私の後ろでエディが言う。「でも一番強いのはヨーコだ」
 私は驚いて言う。「まさか。私はあんなに筋肉質じゃないわ」
 エディが楽しそうに笑った。

 私達は食事を終えて山を下りる事にした。
 私は春水さんにお礼を言う。「本当にいろいろありがとう。これからも今のままのあなたを大切にして、修行に励んで下さいね」
 彼はとても清々しく笑って頷いた。そして私達に向かって合掌し頭を垂れた。
 法印も、昨夜の僧達も見送りに来てくれた。
 法印が言う。「くれぐれもお気を付けて」
 エディが言った。「お山の封印が解けています。これから何が起こるか判りません。きっと妻の龍と共鳴することでしょう。穏やかな日々を私達が奪ってしまったのかも知れません。本当に申し訳有りません」そう言って深々と頭を下げた。
 法印は首を横に振って答えた。「いや、その為にこのお山は有ったのです。貴方が謝ることではありません。すべて大師の御心です。ところで、このまま叡山へ参られますかな?」
 エディが答える。「はい。弘法大師を伝教大師の元へお連れします」
 法印とその他の僧達が一斉に合掌した。そして僧達は口々に言う。
 「大師がお山を下りられる。南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛 南無・・・」
 私達はアルンの車に乗り込んだ。見送りの僧達は口々に真言を唱えていた。
 アルンが車を発進させる。カーブを曲がり、すぐに見送りの人達は見えなくなった。

 山道を下ったところでエディが振り返って私に言う。
 「ヨーコ。またしばらくテレパシーは使わないでね」
 私は指輪の位置を確認して頷いた。