龍 8 高野山 (T)
 私達の乗った車は高速道路を走る。龍の存在など全く感じない穏やかな陽射しの中、快適なドライブだ。
 エディとアルンは、前の座席で宗教について話している。

 「聖龍、人にとって宗教とはいったい何なんだ?」
 「簡単に言えば、価値観じゃないかな?絶対善と、絶対悪を神が決めるんだ」
 「善悪の価値観?」
 「そうだ。人によって善悪の価値観が異なる。つまり、その人間が置かれた状況だとか時代的背景等によって善悪の価値観は著しく異なると言うことだ。それを一つの神、つまり教義だな、それによって統一を計るんだ。それで社会的秩序を保とうという行為だと言えるんじゃないだろうか?
 「それだけだろうか?」
 「いや、その他にも色々意味があるとは思うよ。心の支えだとか、恐怖心、不安感などに対する自衛的手段であったりもするだろう。しかし、それは人の側だけでのことだ。神に人を支えてやろうとか、助けてやろうとかという意思があるとは思えない」

 私はその声を聞きながら後ろのシートで居眠りをしていた。

 出発して小一時間も経った頃、私は香港で一度体験した危機感に揺り起こされた。眠気など微塵も無くなった。
 「エディ。怖い」私は言う。
 「大丈夫。心配しないで。奴に気付かれないようにするから振り向いちゃだめだよ」彼がそう言うと、アルンは少しだけスピードを上げた。
 二人は真剣な顔をしていた。
 私は取り敢えずシートベルトで体を固定した。

 車は高速道路を降りて一般道を抜け、自動車専用の山道に入った。アルンは中国語のような言葉で誰かと連絡を取りながら、くねくね曲がった坂道を滑るように登る。そして途中で有料道路に入った。
 「どうして有料道路なの?」
 私が尋ねるとエディが答えた。「なるべく、車の少ない所を選んだのさ」
 アルンが無言で頷いた。
 それが何を意味するのか、私には良く判らなかった。船でエディが言ったようにアルンの運転の腕は確かなようだ。追い掛けてきた車を少し引き離したようだった。
 いくつかのカーブを抜けた所でアルンは車を止めた。
 エディが窓を開け、身を乗り出すようにして銃を構える。私は驚いて何も言えない。
 少し間を置いて、私達を追って来た車がカーブを曲がって来た。
 エディが引き金を引く。バックフャイヤーの様な音と共にその車は谷底から引っ張られるように落ちて行った。私の危機感が去る。アルンはすぐに車を発進させた。
 「ねえ、今のロシアのイワノフじゃ無かった?」
 「そうだよ」
 「彼、死んだの?」
 エディが答える。「まさか。タイヤを撃っただけさ。それに奴はプロだよ。すぐに違う車で追い掛けて来るよ。僕達の行き先が判ればの話だけどね。ちょっと遅れてくれればいいだけさ。行き先を知られたく無いんだ」
 私は少し安心した。そして尋ねる。「ねえ、まだロシアとアメリカって仲が悪いの?」
 エディが答えた。「ありがたい事にね。おかげでイワノフ一人しか僕達を見つけられなかったみたいだ」
 私が言う。「ところでアルン、あなたF1のレーサーに成れそうね」
 エディが笑って答える。「F1には山道のコースが無いからね」
 私が尋ねる。「CIAの人達は?」
 アルンが答える。「多分まだ神戸だよ」
 「どうして?」
 エディとアルンが、顔を見合わせて笑う。そしてエディが言った。
 「ちょっとアルンが細工したんだよ」
 「どう言う事?」
 「今夜、オリエンタルホテルで李夫妻の披露パーティーがあるんだって」
 「李夫妻って、私達の事?」
 「はい。それでみんな今夜はオリエンタルホテルに集まるのさ」
 「ふーん」
 私は生返事にそう言うとシートベルトを外した。

 私達の車はまた何事も無かった様に走っていた。エディとアルンは二人で宗教についてとても難しい話の続きをしていた。

 「神が人に対して何もしないのなら、なぜ神は神であるんだ?」
 「人がそういうものを欲したからじゃないかな?」
 「知性を持たない動物にとって、神は存在しないのだろうか?」
 「多分。彼らにとって、生きることは自然の営みにしか過ぎない。自然の営みの中に居ると言うことは、神と共に居ると言う事だ。わざわざ神の概念を作り出し、それを崇拝する必要などない」
 「動物達はより良い明日を祈らないのだろうか?」
 「さぁ?」
 「でも、それを祈り続けたからキリンの首は伸び、猿は二本の足で歩いたんじゃないか?」
 「けれども、そこに特定の神を感じていただろうか?多分、より良い明日を祈ったことはあるだろうと思う。しかし、それはより良い明日を祈っただけであって、神にすがったのではないような気がするな」
 「神にすがる?」
 「そうさ。人は神にすがっているんだ。しかし動物達は神と共に居る」

 私はそれらを聞くとも無しに聞きながらまた居眠りをした。

 車は高速道路に戻り、快適なドライブを続けた。
 高速道路を降り、一般道を抜け、高野山の麓に着いた時、何故かとてもなつかしい様な切ない様な感じがしたが、その感覚はすぐに去った。
 アルンはさっきと違って、とても丁寧に山道を登る。ゆっくりと、まるで船が海を走るように、エレガントに車を操った。きっと彼は女性を抱く時もこんな風にエレガントに抱くのだろう。

 長く急な山道を登り切るとそこは門前町で、土産物やレストランが並んでいる。
 冬の平日のせいか、観光客は殆ど居ない。店も三分の二位は閉まっていた。車を降りるとさすがに寒い。足の下からしんしんと寒さが伝わって来る。

 私達は開いているレストランを見つけ、軽く食事をした。アルンは食べ終わると、私達にそこで待つように言い残して出て行った。
 アルンが出て行くのを見送って、私はエディに尋ねた。
 「あなた、ミツコさんと寝たの?」
 エディは笑って答える。「はい」
 私は頭を抱える。
 彼が続ける。「ヨーコ。だってミツコは美人だし、それに僕を愛していたんだよ」
 「でも、あなたは愛していなかった」
 「君を探していたからね」
 私は溜息をつく。
 彼が言う。「それがどうかしたの?」
 「だってあなた、アルンがかわいそうじゃない」
 彼はしばらく考えて言った。「ねえヨーコ。もし僕と出逢う前に君がアルンに抱かれた事が有ったとしても、僕が君を愛するのになんの妨げにもならなかったと思うよ。現に君は他の人の妻であったけど僕は何とも思わなかった。君を傷つけた男の事は確かに許せないが、その為に君は一人でパリに居た訳だし、それで僕は君と会えたんだから、むしろ感謝したい気持ちさ」
 私は首を振りながら言う。「でも、あなたとアルンの関係は特別だわ」
 彼は頷く。「確かに。でも、僕達だって沢山の試練を乗り越えたからこそ、今こうして愛し合って居るんだ。ミツコだってアルンだって自分で決めて生まれ変わって来たんだから、僕達が心配する事なんて何も無いと思うよ」
 私はもう一度溜息をつく。
 「あなたって人は・・・。あなたが彼女を傷つけたのよ。そして彼女とアルンが愛し合うことによってアルンをも傷つけると言うのに」
 彼はとても素敵に笑ってみせた。私は思う。この笑顔にみんなだまされるんだ。何人の女性がこの男に傷つけられたのだろう。エディはテレパシーでは無く、私の心を読んでいる。私は知らん顔を決め込んだ。
 彼が言う。「そんなに悪い事をしてきたのかな。僕はフェミニストだったつもりなんだけど。女性はなによりも大切にするべきだって、祖父に言われてたんだ」
 私はあきれて言った。「あなたが美しすぎたのよ」
 彼はまた考え込んだ。私はそんな彼を見て思う。少しぐらい落ち込めばいいんだわ。

 アルンが戻って来て言った。「聖龍、法印に会える」
 私達は席を立って、アルンに付いて行く。
 外に出て少し歩いた所に小じんまりとしたお寺が在った。アルンは中には入らない。私達は二人だけでそこに入った。
 屋根のついた門を潜り、丁寧に作られた庭を観ながら建物に入る。玄関で彼が名乗ると小さな茶室に案内された。

 しばらく待つと、若い僧に伴われて、老僧が入って来た。私にはとても優しそうなお爺さんに見えた。
 「李聖龍と妻のヨーコです」エディが言った。私は頭を下げる。そして顔を上げた時、老僧と目が合った。その目は恐ろしい程澄んでいて、とても深い光を宿していた。
 老僧は徐々に口を開き「とうとう聖龍が生まれましたか。するとこの女性がそうですな」そう言うと目を半分閉じて押し黙った。暫くして「おおっ」と声を上げた。
 「確かに龍ですな。それもとても美しく清らかな」そこで一度言葉を切り、暫く目を閉じていた。そして目を開けて言った。
 「それで、私は何をさせていただければ良いのですかな?」
 エディが答えた。「弘法大師空海の御廟に入らせていただきたいのです」
 老僧の目が動揺する。「それはまた、どうして?」
 エディが答える。「死してなお守り続ける封印が何かを知りたいのです」
 「大師の封印を解くおつもりですか?」
 エディが答える。「判りません。空海が何を封じたのか、なぜ封じたのかが知りたいのです。封印の意味を知った上で、その後のことは考えるつもりです。私は聖龍として、この妻の龍を正しく使わねばなりません。妻の龍は愛によって目覚めた龍です。近年には無かった事です。それなのに私達はまだ何も知らないのです。だから学ばねばなりません。聖龍の書にありました。空海に学べと。空海は聖龍に告げるべき知恵を持ち、座して待つと」
 老僧は頷くと言った。「判りました。お望みのように致しましょう。私どもにもその言は伝わっております。『聖なる龍の名を持つ者の為に入定し待つ』と師は申し置かれたそうです。今夜、日付の変わる時刻に御案内いたしましょう。その他に何か私共に出来る事はございませんか?」
 エディが言う。「申し訳無いのですが、私達は敵に追われています。全山に結界を。それと、妻の龍を解き放つ事によって何が起こるか判りません。お心構えを」
 老僧が答える。「判りました。結界は一時間ほどで完成するでしょう。その中でごゆるりとお寛ぎください。心構えの方は、もう出来ております。大師はこう言われました。龍の力を正しく使える者、それが聖龍だと。龍の力を聖龍以外の者に渡してはならぬ。そして聖龍以外には龍の力は使えぬとも。大師はこの大地も、空も、海も、人も、獣も、草々に至るまで、すべて龍の力によって生じたのだと教えております。この私の命の有るうちにこの様な素晴らしい龍に出逢えるとは思ってもいませんでした。巡り合わせ、因縁ですかな。ありがたいことです」老僧は合掌し、立ち上がった。そして続けた。
 「今は申し訳ないことに時間がありませんのでこれ以上お相手出来ませんが、後程夕食などご一緒いたしましょう。それまでゆっくり壇上伽藍でもご覧下さい」
 そう言い置いて、若い僧に伴われて出て行った。

 彼らが出て行ってから私はエディに尋ねる。「今のお爺さんもナーガラージャなの?」
 「違うよ」彼が答えた。
 「じゃあ、なぜオフの状態で私の龍が判ったの?」
 「修行の成果だよ。密教の僧侶は『観想』と言って、見えないものを感じて、観る修行をするんだ」
 「あの人、すごい目をしていたわ。深く澄んだ湖の様な目」
 彼が頷く。「高野山真言宗の最高位の僧だからね」
 「あんな人が沢山居るのかしら?」
 「いや、一握りだよ。その一握りの人達を探して、僕達は色んなことを学ばなければいけないんだ」
 私は首を傾げる。「私にも判るかしら?」
 「僕が理解すればいいだけだよ。僕が龍使いだからね。君はその龍を健やかに育てればいい」
 「でも大龍は私にも学べって言ったわ」
 彼は首を振る。「君はもう充分学んださ。君は僕の力を必要としないで、自ら愛を見つけた。君はちゃんと愛の本質を知っているじゃないか」
 「あなたが居るからよ。あなたを愛する事が出来たからこそ、愛を理解出来たの。でも私の理解している部分はとても小さな範囲だわ。あなたの思う大きな愛はとても解らない」
 「いや、君の愛は人の心に広がる力を持っている。きっと君の龍は人々の心に、穏やかで暖かい愛の種を蒔くだろう。そして人々がそれを育てるんだ。少しづつ世界が変わって行くんだ。それが多分君が龍を背負って生まれた理由だと思うよ」
 私は黙っていた。
 彼が続ける。「想像してごらんよ。今の僕達の幸せを、世界中の人達が味わうんだ。君がミツコに言ったように、僕だって今此処で君を失っても、君を愛した事だけで幸せだったと思えるよ。かつて人々が、失うことを恐れない程の幸せを得たことがあっただろうか? NOだ。はっきり言い切れる。でも僕達はそれを手にしたじゃないか。気の遠くなる程長い年月をかけて、君の前に生きた龍の蒔いた種を僕達が育てたんだよ。だから僕達もまたその種を蒔くんだ。きっと育ってくれるよ。何時か愛に溢れた世界に成るんだ」
 私は頷いた。
 エディは言う。「アルンが待っているよ」
 私は頷いて立ち上がり、彼と一緒に部屋を出た。

 庭を横切り、道に出るとアルンが立っていた。
 エディが言う。「今夜、大師に会えるそうだ」
 アルンは吸っていた煙草を地面に落とし踏み消した。
 「それは良かった」アルンが言う。
 私はアルンの落とした吸い殻を拾い上げるとゴミ箱に捨てた。アルンが恐縮する。エディは笑っていた。
 私が言う。「これからどうするの?」
 エディが言う。「一時間程で結界が完成するそうだ」
 アルンが頷いて言った。「どこか暖かい所で一時間待とう。インド人は寒さに弱いんだ」
 エディが言う。「香港人もそうだ」
 私が言う。「あら、日本人だってそうよ」
 私はエディとアルンの間に入って腕を組んだ。
 「ねえ、こう言うのって両手に花って言っちゃいけないのかしら?」
 「いい男二人だから別にいいんじゃないかい」アルンが言った。
 エディが言う。「花にも色々あるからな。例えば豪華な蘭の花もあれば、道端の草にだって花は咲く。どっちがどうとは言わないが・・・」
 私は言う。「じゃあ、この花二本、今夜お大師様に手向けましょう!」
 みんなで笑った。
 突然私はただならぬ気配を感じた。危機感とは違う、しかし、それまでに味わったことのない感覚だった。
 「エディ、これはなんなの?」
 エディが目を閉じる。そして言った。「始まったようだ」
 「何?」
 「結界を作ってくれてるんだよ。心を澄ましてごらん」
 私は言われたように深く深呼吸をし、心を静めた。
 根本大塔から強い意志を持ったエネルギーが天に向かって放たれていた。それはとても力強くどんどん天に向かって放射され、まるで噴水の様に、ある地点から四方八方に向かって雪崩落ちる。それは細い銀糸のような感じでキラキラ輝きながら落ちて、全山を包み込もうとしていた。

 私達は暖かそうなお店を選んで入った。彼らはコーヒーを、私は紅茶を頼んだ。みんな無口になっていた。私とエディは結界が張り巡らされる情景をうっとりと感じていた。
 エネルギーの放射は、絶え間なく続き、天に向かって上る力と、降りて来て山を被う力が等しくなり、結界は完成した。
 私はエディに尋ねる。「誰があんなに強い意志を持ったエネルギーを放射したのかしら?さっき会ったお坊さんかしら?」
 「いや、法印は参加していないだろう。僕達が居た部屋の外で、阿闍梨達を根本大塔に集めるように言っていたから、多分その人達だと思うよ」
 「阿闍梨ってなに?」
 「いろんな修行を積んで偉くなったお坊さんの事だよ」
 とても簡単に教えてくれた。きっと色々あるのだろうが、私に言っても仕方の無い事を彼はよく知っていた。
 私は頷いて、アルンに尋ねる。「アルン。あなたにもさっきの力が判ったの?」
 「いや、判らなかった」
 「あなたはどの位感じたり見えたりできるの?」
 「見たり感じたりって、君達のような特別の力のことかい?」
 私は頷く。
 彼が続ける。「普通の人と変わらないと思うよ。ただ僕もナーガラージャだからヨーコの力が解き放たれた時には君の龍を見る事が出来るけど、後は何も判らない」
 私が問う。「でもあなたはイワノフが追って来ていた事を早くから気付いて居たんでしょう?」
 エディが笑いながら言う。「それはアルンの仕事だからね。僕に君の指のサイズが判ったのと同じ事さ」
 「そんなものなの?」
 アルンが笑って頷いた。「僕にはヨーコが急に目を覚ました事の方が不思議だったよ」
 「何故か判らないけど、とても不安で恐ろしくなったの。香港のホテルの時もそうだったわ。なんて言うのかしら?そう、胸の奥がムズムズし始めて、突然誰かに心臓を掴まれたみたいな感じがするの。痛いわけじゃないけど、とても不愉快で不安な感じ。そう、危機感って言ったら一番近いと思うわ」
 「不思議だ。僕にもそんなものがあればもっと安全に君達を守れるのに」
 エディが言う。「アルン、それは違う。ヨーコのような力があればお前はあらゆる可能性を考えなく成るだろう。するとそこには必ず隙が出来る。そんな奴に警護なんて任せられない」
 アルンが頷いた。
 私が言う。「アルン、でもあなた、ミツコの龍を感じたわね」
 彼はそれに対して、肯定も否定もしなかった。
 私は話題を変える。「もうこの山には敵は居ないのかしら?」
 「多分」アルンが答えた。私は何かが引っ掛かっていた。
 私は目を閉じて心を澄ます。頭の中にスクリーンを作り何かが映るのを待った。それはすぐにやって来た。十人程のお坊さんが塔の中で祈っていた。その祈りが一つに纏まって塔の上にどんどん昇って行くのが判った。ああして結界を作っているのだ。そして次は、どこか広いお堂の様な物の中でさっき会った老僧が祈るのが見えた。何度も素早く印を結び、真言を唱えている。私達の為に祈っているのが判った。私達は守られていた。そこへ突然誰かの怒りの感情が割り込んできた。私はそれに集中する。その怒りの出所はイワノフだった。彼はとても腹を立てていた。そして混乱してもいる。エディが銃を持っていた事を不思議に思い、それを忌々しく感じていた。
 私は目を開けて言った。「イワノフがこの山に居るわ」
 アルンが即座に席を立って出て行った。
 エディは微笑みながら私を見る。私は何となく照れ臭かった。
 「エディ。私、何だかいろんな事が出来る様に成ってきたみたい」
 彼は微笑んだまま言う。「心配しなくていい。それは君が元々持っていた力なんだ。心の強ばりが取れてきて、君が本来持っていた力が使える様に成っただけだから。それに僕がついてるから何も怖くなんてない」彼はそう言って私を抱き寄せた。私は彼の温もりの中で安心し切っていた。

 私達は店を出て、法印に言われたように壇上伽藍を見に行った。
 そこは本当に特殊な場所だった。元々土地の力の強い場所である上に、そこの塔の中で沢山の僧侶達が強い念の力を放出している。
 光の粒子が見えるような気がした。どんなに小さなものでも、くっきり見え、どんな小さな音でも、はっきり聞き取れそうに感じた。その特殊な空間を、二人で手を繋いで白い息を吐きながら歩いた。普通の恋人同志のように。いや、普通の新婚カップルの様にだっただろうか。
 途中で先程法印に付き添っていた若い僧に呼び止められた。法印が金龍院と言う宿坊で夕食に招いてくれるそうだ。私達はついでにアルンと私達の宿もお願いした。彼は快く引き受けてくれ、指差しながら場所を教えてくれた。
 彼はとても穏やかな目をしていた。歳はまだ二十歳かそこらだろう。好感の持てる青年だ。私達は丁寧に礼を言って別れた。

 「ねえ、エディ。あんな青春の過ごし方もあるのね」
 エディは彼の後ろ姿を見送りながら言う。「そうだね。僕が僧であった時もあんな風だったろうか?」
 私は首を横に振った。
 彼が続ける。「君に出逢うまでは、僕だってとても穏やかだったんだよ」
 私は彼の手を握り締めて言う。「私の知っているあなたは、いつもとても切ない目をしていたわ。かわいそうなくらいに」
 彼は私の手を握り返した。
 遠くにアルンが見えた。私はアルンに向かって手を振る。彼はそれに気付いて近付いて来る。
 エディは夕食に招かれた事と宿を頼んだ事を告げた。アルンはそれに対して頷いた。
 私が尋ねる。「イワノフは居た?」
 アルンが答える。「居たよ。ヨーコの言ったとおりだ。奴は僕達の車に発信機を付けてたんだ。だからここがバレてしまった」
 私が驚く。「本当に007みたいに成ってきたわね」
 エディが言う。「今はどこに?」
 「車を奥の院に移動させたら着いてきたようだ。車の側で待てば戻ると思って居るんだろう。車の見える喫茶店で僕達を待っているよ」
 「他の国の誰かと連絡を取った形跡は?」
 「無い。どうも奴は一人で行動しているようだ。それに奴はエスパーじゃない。KGBでは一流だが、精神の力、つまり龍の力などは全く信じていない。だからヨーコが何者であるかも理解していないし、ただヨーコの誘拐を指示されただけで、気楽に考えていたら、お前の思わぬ反撃に遭って混乱しているようだ。それで急いでナーガラージャについて調べた形跡がある。しかしCIAやECの奴等とはコンタクトを取ってはいない」
 私はイワノフに対して興味がわいてきた。
 「ねえ、イワノフの傍に連れて行ってくれない?」私が言った。
 「危険すぎる」アルンが即座に言った。
 私はエディに目をやって言う。「私の夫が守ってくれるわ」
 アルンが困ったような顔でエディを見る。エディは何も言わずに笑ってみせた。それは肯定の意味を表していた。
 アルンは諦めたように、「ついてきて」と言うと歩き始めた。

 私はエディの手をしっかり握って歩いた。
 街中を十分程歩くとイワノフの居る喫茶店が見えた。私達は気付かれない様に少し離れた喫茶店に入る。
 私はエディの隣に座り、彼に寄り掛かり、深く呼吸をして、力を抜いた。その時、初めて意識的に龍の力を使おうと思った。
 心を静めて、その心をイワノフの元に飛ばす。彼の心にそっと触れてみる。
 なぜこんな事が出来るのだろう。そしてなぜ私はこんなやり方を知っているのだろう。とても不思議だったが、私はいつもの様にそれに対して考える事を諦めていた。
 まず私は、自分の頭のてっぺんからするりと抜け出した。もちろんそれはイメージの世界でだ。そして、出た時と反対の要領でイワノフの中に滑り込んだ。しかし、その感覚はイメージだけでは無く、奇妙な手応えを持っていた。その時に見ているものは五感としての目では無く、自分の心の目だ。自分が過去に体験したものとしてそれは感じられた。
 しばらくすると彼の心の中が見えてきた。国に残してきた奥さんと子供が見えた。古い石で出来たアパートに住んでいる。子供は十歳位の女の子と五、六歳位の男の子だ。奥さんはあまりイワノフのことを愛してはいない。仕事で留守の多い夫に対して不満を持っている。口げんかの絶えない夫婦だ。しかし彼は子供をとても愛していた。特に下の男の子を強く愛していた。そして奥さんは上の女の子を強く愛していた。それで喧嘩になることもあるようだ。
 彼は今までに三人の人を殺していた。一人は同国人の犯罪者だ。そして後の二人はアメリカのスパイだった。銃の引き金を引いた時に、彼は心に大きな傷を負っていた。彼の心には大きな傷がポッカリと口を開けていた。かわいそうに。私はそう思った。彼のせいでは無い。それは彼の仕事であって、その上因縁でもあった。前世において彼に殺された人達が、彼をひどい目に合わせていたのだ。そして彼が復讐を望んだのではなく、殺された人達が償う事を望んでいたのだった。だからそれは仕方の無い事だったのだ。彼はそれによって傷つくべきではなかった。何故か私は彼の前世においてのことまで知っていた。
 私は涙が込み上げてくるのを感じていた。そっと彼の傷口に触れてみた。彼の心がビクッとする。私は彼に意思を流し込んだ。
 「心配しないで。あなたも心を静めて。危険な事なんて何もないのよ」
 彼は驚いて周りを見回す。もちろん何も見付からない。始め彼は何が何だが判らなくて、とてもうろたえていたが、物理的な危険を発見できないので少しずつ落ち着いてきた。私は彼が落ち着くのを見計らって愛の感情を流し込んだ。根気強く、愛される喜びと愛する喜びの感情をだ。彼のポッカリ開いた穴には愛が必要だと感じたのだ。思ったように彼の心は段々安らいできた。そして自分から愛を求め始める。百パーセントの愛だ。彼の心にどんどん流れ込んで行く。まるで乾いた砂が水を吸い込むように。
 随分時が経った。イワノフの心に暖かさが満ちた。
 「エディ、私行ってくるわ」
 エディが微笑んで頷いた。私はそっと立ち上がる。
 アルンが慌てて言う。「ヨーコ、何処へ?」
 「イワノフの所へよ」
 アルンがエディを見る。エディは静かに頷いた。
 私が言う。「エディ、何かあったら、あなたがね」私はそう言って歩き始める。アルンが何か言おうとするのをエディが止めた。私はただイワノフの事だけを思っていた。

 ゆっくりとイワノフの居るところへ歩いて行く。彼の居る店に入って彼の前に立つ。彼は放心状態だった。
 「イワノフさんですね」
 彼は驚いて声も出ない。
 「私がヨーコです。知ってるわよね」そう言って笑った。
 彼はとてもうろたえていた。
 「日本語は話せますか?」
 彼は頷く。
 「少し一緒に散歩しましょう」
 彼は反射的に立ち上がった。そして胸につるした銃に手をやった。私は彼に笑ってみせた。
 「心配しないで大丈夫よ。私があなたを狙って居るんじゃなくて、あなたが私を狙ってるんでしょう?」
 彼は苦笑すると頷いた。

 私達は店を出て奥の院に続く道に出た。両側にお墓の並ぶ道を並んで歩く。
 「怪我は無かったのかしら?」
 「大丈夫」
 「良かったわ」
 彼は立ち止まり、言った。「何故なんだ?」
 私は振り向いて、彼の手を取って引っ張る。
 「歩きましょうよ」
 彼が歩きながらもう一度言う。「何故なんだ。君は私が敵だと知って居るんだろう?」
 「知ってるわ。あなたは私を誘拐しようとして居るんでしょう?」
 私は彼の腕に手を回して歩く。まるで恋人同志みたいに。
 「怖くないのかい?」彼が尋ねる。
 私は笑って答える。「怖くなんてないわ」
 彼は立ち止まって私を見る。
 「私に何をしたんだ」
 私は首を横に振った。
 彼が続ける。「あれは君じゃないのか?」
 私が答える。「私よ。あれが私の力。あなた達が欲しがっている力」
 彼がまた歩き始めた。
 「私にはとても心地よく、愛のように感じられたんだが」
 「そう、確かに愛だわ。私が夫にもらった愛のすべてよ。その喜びをあなたに上げたの」
 「何故。何故そんな事をした?」
 「あなたの悲しみがとても辛かったのよ」
 「私の悲しみ?」
 「そう、あなたが人を撃った時の心の傷よ」
 彼は驚いて私の手を振り解いた。「何故そんな事を言うんだ」
 私はそれに対して答えなかった。
 彼は少し考えて言った。「判るんだな。それが君の力なのか。国はそんな力を欲して何をしようとしているのだろう?」最後は自分に問い掛けているようだった。
 私は彼に言う。「ねえイワノフ。あなたがどんなにすごい人でも、私はあなたに連れて行かれる事なんてないわ」
 彼は少し憐れみを含んだ微笑みを浮かべて言う。「私はプロフェッショナルだ。君を誘拐するぐらい簡単な事だよ」
 私はうつ向いて首を横に振る。
 「無理だわ。あなたが連れていけるのは私の死体だけよ」
 「私は君を殺しはしない。私の受けた指令は君を生きたまま国へ連れて帰る事だからね」
 「あなたが殺さなくても、私の夫が私を殺してくれるわ」
 「愛されていないのか?」
 「とんでもない。さっきあなたに見せてあげたじゃないの。彼は私を彼自身よりも愛しているわ」
 「ならばなぜ君の夫が君を殺すんだ?」
 私は微笑んでみせた。
 彼が言う。「生きたまま誰にも渡さないと言う事か」
 私は頷く。
 「しかし愛する者は殺せはしない。そう言うものだ。どんな悪い奴でもそうなんだ」
 私は首を振って言う。「彼は違うわ。彼はちゃんと私を殺してくれる。何故ならそれを私が望んでいるからよ」
 イワノフが言う。「私なら絶対君を殺しはしない。この暖かさを失いたく無いからだ」彼は私の手を取ってそう言った。そして、「死とはこの暖かさを失う事なんだ。それは冷たくて硬い。君のこの暖かさや柔らかさを失う事が死ぬと言うことなんだよ。それはとても恐ろしい事なんだ」まるで子供に死を説明するように言った。
 私は微笑んでみせる。そして彼の手を両手で玩びながら言った。
 「あなたが私を連れ去ろうとしたら、私はこの場所で夫に撃たれて死ねるわ。それはとても素晴らしい事よ。私は夫と一緒じゃないと生きられないの。そして生きて居る限り、しなくてはいけない使命も持っているの。
 今夜は千二百年近く前に死んだ人と会わなくてはいけないわ。そしてずっと戦い続けている神々とも。それらのことは、すべて夫と一緒でなければ駄目なことなの。
 私が夫と離れるって言う事は死を意味することなのよ。私はあなたの事が好き。出来ればあなたの望む事を叶えてあげたいとも思う。でも、今はあなたと一緒にいけないの。私は、もしかしたら私のこれからをあなたに託したかったから、こうしてあなたに会いに来たのかも知れない」
 彼が首を傾げる。私が続ける。
 「あなたが私を連れ去るのなら、私はここで命を終えられる。そしてあなたがそうしないのなら、私は夫と自分の使命を果たす。自分で決めるのが面倒だったのかも知れない」
 彼は優しく私を抱き寄せた。「ヨーコ、君はとても辛い人生を歩いて居るんだね」
 私は彼の胸で首を振った。「とんでもないわ。私はこの世の中で一番幸せな女よ」
 彼が抱きしめる腕に少し力を込めた。
 「私には東洋の人間の考え方は理解出来ない。私達にとって愛すると言う事は生きる事なのに、君達には死すら愛だと言う。私はこうして君を抱きしめる事によって君を守りたいと思う気持ちがわいてくる。そして君に生きていて欲しいとも思う。今日始めて君に会ったのに、私は君を愛し始めている。私が生きて居る間は君も生きていてくれないか?」
 私は顔を上げて彼を見た。彼はとても複雑な表情を浮かべていた。私はまた彼の胸に額を付けて言った。
 「出来ればそうしたい。でも敵はあなただけじゃないわ」
 「大丈夫。君達の組織について調べた。たいしたものだ。どこの国の軍隊より優秀だ。CIAもECの者たちも君達の組織をもってすれば守れるだろう」
 私は首を振って答える。「違うわ。私達が本当に戦わなくてはいけない敵は、神々なのよ。私に龍の力があるかぎり戦わなくてはならないの」
 彼が言う。「そんなもの捨ててしまえばいい。愛する男と密やかに暮らすのが幸せなんだ」
 「ありがとう」私はそう言って顔を上げ彼に口付けした。彼は溢れるほどの愛で抱きしめてくれた。
 エディの感情が微笑んでいた。私はイワノフから離れ、もう一度「ありがとう」と言った。そして後ろを向いてエディの方へ走った。

 途中で一度立ち止まって振り返った。イワノフが私を見ていた。私は彼に手を振って、木陰にいたエディに向かって走り彼の胸に飛び込んだ。
 エディはイワノフに敬礼を送る。イワノフはとても日本的に頭を下げて礼をした。
 アルンは少し怒っているようだった。
 私はエディの肩越しにアルンに言う。「ごめんなさいね。勝手なことをしちゃって」
 アルンは口元だけで笑って返した。私はもう一度エディの胸に顔を埋めた。いとおしい人。愛の感情をもう一度イワノフに送った。

 私達は宿坊に向かった。アルンは一言も口をきかない。私は心一杯にエディを感じていた。

 宿坊に着いて名前を告げると、とても簡素で、それでいて落ち着きのある部屋に案内された。
 私はとても疲れていたのでエディにもたれてうたた寝をする。

 アルンとエディが話していた。
 「ヨーコは本当に良く眠る」アルンが言った。
 それにエディが答える。「龍の力を使うと精神の力がとても消耗するんだ。ヨーコはその為にいろんな訓練をした訳じゃないので普通以上に疲れる。僕が気を付けないと彼女の精神が壊れてしまうかも知れない。彼女が慣れる前に龍が成長してしまったんだ。本当はとても危険な事だ。でも僕にはこうして休ませてやることしか出来ない」そう言って、首を横に振った。
 私はうつらうつらしながらそれを聞いていた。その後二人は英語に切り替えて話し始めた。
 私はその中身をエディの心を通して知る事が出来た。眠りの中にいながら彼の心を感じていた。私の考えたり思ったりする部分は眠っていた。なのに彼の心とは繋がっていた。特別の力の満ちた場所で、なおかつ強い念の力に守られた結界の中だったからだろうか。とにかくアルンがエディに何かを問い掛けていた。
 多分、アルンがエディにお前は妻が目の前でほかの男とキスをして腹が立たないのかと問い掛けたのだろう。エディはとてもおかしそうに笑って言った。
 「お前にはヨーコの愛が見えないのか?」アルンが何か言ったようだ。
 エディが言う。「ヨーコはイワノフを愛で充たしたんだ。イワノフの悲しみを癒した。それがヨーコの龍の力だ。ヨーコもそれにはまだ気付いてはいないだろう。しかしそれが龍、神の力なんだ。お前は神のすることに腹を立てているのか?」
 アルンが何か言う。
 「そうさ、確かにヨーコは僕の妻だ。そして龍でもある。もしここでお前とヨーコがSEXをしたとしても、それをヨーコが望むのなら僕は平気かも知れない。それ以上にヨーコの喜びを自分の喜びとするだろう。ヨーコは必要のない事を望んだりはしない。ヨーコが望むならそれは必ず必要なことだからだ。だからそのことで僕が苦しむ必要はない。それにヨーコの喜びは僕の喜びであり、僕にとっても必要な事なんだ。例えば僕が右手でヨーコの柔らかな胸に触れたとする。左手はそれに対してジェラシーを感じるだろうか。そんな事はありえない。触れたのは僕の右手であり、そして左手も僕の物だからだ。僕達は普通の関係じゃないんだ。どこかで完全に繋がっている」
 アルンはそれに対してよく判らないと答えたようだ。
 エディは困ったように言った。「本質的な愛の問題だ。何時かヨーコが言ったようにお前も本当に愛すべき人に出逢ったらきっと理解できるだろう。ただもう何度か生まれ変わる必要があるかも知れないが。しかし、何度も転生を繰り返し、一つの魂を愛し続け、そしてそれと本当に結ばれた時、お前も聖龍となり、今の僕達の事を思い出し、理解するだろう。だからその時の為にも全力でヨーコを守ってもらいたい。ヨーコは必ず一つの道を示してくれるから」
 アルンは質問を変えた。それに対してエディが言う。
 「アルン、お前に言っておかなくてはならない事がある。僕はヨーコに死を与える為に存在している。それが聖龍の仕事だ。ヨーコはいつも僕に、死を与えられる事を望んでいる。多分ヨーコにとって死は快楽なのだろう。何故なら、死こそが、ヨーコが龍の力から逃れ得る唯一の方法だからだ。僕はヨーコを龍の力から解放してやるために聖龍と成った。しかしヨーコは使命を持って生まれてきている。だからその使命を果たした時、若しくは龍の力が間違って使われそうになった時、僕は迷わずヨーコを殺す。この手で必ずヨーコに死を与えるんだ。それが聖龍だからだ。
 さっきヨーコは龍の意思で動いた。ヨーコの中には愛しか無かったんだ。龍が愛によって動く時、それを助けるのが龍使いだ。
 もしイワノフがヨーコを連れ去ろうとしたなら僕は迷わずヨーコを撃っただろう。ヨーコもそうしてくれと言って出て行っただろう?
 あの時イワノフはヨーコの愛を必要としていた。そして奴はヨーコの龍に触れて愛に目覚めた。ヨーコの喜びが僕に流れ込んできた。それは例え様も無いほどの喜びだった」
 エディはそう言い終わると私の顔に触れ、髪を撫でた。
 私はその時とても安らいでいた。ただエディの温もりの中で眠ることが私にとって何よりも幸せな事のように思えていた。

 エディに揺り起こされる。目覚めると窓の外は真っ暗になっていた。アルンが窓際に立って外を見ている。
 「なぁに?」私が言う。
 「食事の用意が出来たって」エディが答えた。
 私は起き上がり大きく伸びをして、髪を直し、エディと部屋を出た。

 「アルンは?」
 「仕事だよ」
 私は頷いた。

 私達はとてもきれいな部屋に通された。襖にはとても力強いタッチで描かれた墨絵の龍が居た。
 私は小さな声でエディに言う。「中国の龍と日本の龍は随分違うわね」
 「どちらも力強い。太陽の下の龍と月光の下の龍だと思ってごらん」
 私はその答えに納得した。太陽の下で金色に輝く龍と、月の光を浴びて墨絵の中で飛ぶ龍だ。

 私達が席についてしばらくすると、昼間に会った老僧があの清々しい目をした若い僧に伴われて部屋に入って来た。
 エディはとても丁寧に挨拶をする。
 「お招きにあずかりありがとうございます」
 私は隣で頭を下げた。
 老僧は笑いながら顔の前で手を振り「イヤ イヤ そんなに畏まらずに、もっと寛いで下さい。お若い方に正座はお辛いでしょう。どうぞ足を崩して下さい」と言った。
 私達は足を崩して座り直した。
 老僧は暖かい微笑みを浮かべて私達を見ていた。若い僧を彼は「春水」と紹介した。
 エディが「妻がとても澄んだ目をしていると感心していました」と言う。
 老僧は大きく頷いて、「春水は何れこの私の後を継ぐでしょう。だから何の心配もなくお話しください」と言った。
 エディが結界に対しての礼を言う。
 「たいした事ではありません。修行の一環ですよ」
 私が言う。「今も祈り続けてくれているのですね」
 老僧はとても柔らかな笑顔で頷く。
 「彼らは何日も不眠不休で祈り続ける修行をしているのです。心配はいりません」そう言って春水さんに向かって「お客様にお酒をお注ぎしなさい」と言った。
 エディが慌てて断る。「いえ、今夜の事がございますので」
 私もお酒を飲む気にはなれなかった。
 老僧が言う。「では、精進料理ですがどうぞ召し上がってください」そして自分も箸を使った。
 料理は本当に手間のかかった物ばかりで、本当に肉類は無いのにとてもそうは思えない程ボリュームもあった。何か判らないものは春水さんに尋ねると教えてくれた。
 食事も大分進んだ頃、老僧が言った。
 「夕方、奥様は龍の力を使いましたか?」明るく張りのある声だった。
 「はい」私は小さく答えた。
 「やはりあれが龍の力でしたか」自分に言い聞かせるように言った。そしてお茶を飲んで一息入れると言った。
 「とても気持ちが昂揚しましてな。何ですか五十年も前の、そう、この春水位の年の頃に戻ったような気がしました。何かこう胸が高鳴って力一杯飛び上がりたいような、そんな気持ちでした」老僧は言葉を切った。
 しばらくしてエディが言った。「法印。失礼ですが恋愛のご経験は?」
 老僧は首を横に振り、答えた。「いいえ。ありません。私は幼くしてこのお山に入り、すべてを仏に捧げてまいりました」
 エディが言う。「今日法印がお感じになった気持ちの昂揚が、私達にとっての愛の感情だと思います。今日は妻は敵を愛で充たしました。それを法印がお感じになったのです」
 老僧は何度も頷いた。そして言った。
 「弥勒の愛も、大師の愛もあのようなものであれば良いのですが」
 エディは静かに頷いた。そして言った。
 「大師の入定の時の事をお聞かせいただけますか?」
 老僧は遠い目をしていた。春水さんが食べ終わった食器を片付けてくれた。
 老僧が静かに語り始めた。
 「そうですな。大師の事を語らねばなりませんな」自分に言い聞かせるように言った。そして首に掛けていた数珠を手に持って語り始めた。
 「入定の時の事ですか。しかし、まず空海と言う人物について語らなければならないでしょう」彼は数珠を摺り合わせるようにして真言を唱え、続けた。
 「空海、幼名を真魚と申しましてな、四国の讃岐の出です。父も母も、そうあなた達と同じ龍神族の出でした。それで生まれた子供に真なる魚、真水の中の魚、つまり鯉ですな、その名を付けました。鯉はその身のまま長大なる時を経て登竜門を抜け、龍と成ると言い伝えられています。それを望んだのでしょう。
 真魚は生まれた時から龍の様相を呈していたようです。そして成長と共にますますそれがはっきりしてきたのです。彼は今で言う超人でした。覚える事の早さに加え、考える事の緻密さを持って、天童と呼ばれた程の子供でありました。普通の学問などはすぐに極めてしまい、彼に物を教えられる人などじきに居なくなってしまいました。しかし彼の知識に対する欲求は留まることを知りませんでした。私が思うに、大師は欲望の人だったのでしょう」
 エディも私も溜息をついた。老僧はさらに続ける。
 「欲望と言いましても、私達が持つような小さなものではありません。彼はすべての人を救うと言う大欲に取り付かれたのです。その為の修行は何一つ厭いませんでした。
 龍神族の中でもっとも色濃くその血統を受け継いだ者達を山人とかサンカとか申します。太古の形のままの龍神信仰を残した者達の集まりです。本来は決して世間の表には出ずに山の中に住んで龍神を守り続けているのです。
 しかしすべての者がそうではありません。山を降り、普通に暮らしている者たちもいます。しかし里人として暮らしている龍神族に太古の能力を有したものが生まれると、ある一定の期間山人の中に返すのです。
 真魚もまたその一人でした。真魚は自らそれを望んだとも伝えられています。その為に正史の中に空白の期間があるのです。
 彼は山人の仲間として迎えられ、山の中で暮らしました。都で教える学問などとは決定的に違う知識が山人の中に残っていたからです。今我々が行している密教のもっと純粋な形のものです。つまりそれが龍の知恵だったのでしょう。
 私達の真言密教は、あなた達龍神族の守って来た物を形から真似したものなのかも知れません。口にダラニを唱え、手に印を結んで、心に仏を観るのです。つまりそれは龍の声を真似、龍の形を作り、龍の心になる。それが基本です。多種多様な龍の姿や心を一つづつの仏に置き換え、この後ろに掛かる曼陀羅に表現しています。中央の大日如来の化身としてこれだけの仏が居るわけです」
 そう言って後ろの曼陀羅を指指した。そしてまた向き直って言う。
 「そしてこの大日も龍の一つの形でしかないのです。空海はそれを良く理解していたようです。そして多くの仲間達がどうして山に隠れて住まなければならなかったのかも理解していました。だからそれを救うために龍を大日の姿に託したのでしょう。空海は唐に渡る前にこの日本でほとんどのことを理解していました。宇宙についても、この大地の成り立ちについても、その上彼は時についても理解していたようです」
 エディが言う。「我々の教えの奥義です」
 法印が頷く。「そうでしょう。それを知ったうえで空海は唐に渡ったのです。そして惠果阿闍利に会いました。それも恐らく龍神族の持つ情報機関の力があったからでしょう。惠果阿闍利は彼の来る前から彼の噂を知っていたようです。それは彼が龍神族の中でも何百年に一度出るかどうかと言う位の天才だったからです。そして彼に伝えるべき知識を持っていた阿闍利は彼を待ち焦がれていたのです。しかし実を申しますと伝えるべきものは知識だけではなかったのです」
 私達は息を飲んで次の言葉を待った。
 「惠果阿闍利の龍がもう弱ってきていたのです」
 「惠果阿闍利にも龍が居たのですか?」
 エディが言う。法印は頷くと話しを続けた。
 「そうです。そして日本から最強の龍を迎え、阿闍梨は、自ら進んで彼の中に潜り込みました」
 「飲み込んでしまったのですね」エディが言う。
 「そうです。空海は惠果闍梨の知恵も、知識も、龍も、すべて伝えられて日本に戻ったのです。私には良く判りませんが、多分龍を日本に集める必要があったのでしょう」
 エディが頷き、言う。「龍神族に国の観念はありません。必要な時に必要な所に移動します」
 法印が頷いた。
 私はヒットラーの龍を飲み込んだ時の事を思い出していた。同じ事が千二百年も前にも起こったのだろう。何かの戦いに備えていたのだと私は思った。法印の話は続く。
 「空海は日本に戻り、この高野山を開きました。それも山人の力が有っての事でしょう。何故ならこの山は以前から山人にとって聖なる山であったからです。
 太古、火の神が攻めて来た時もこのお山には近づけませんでした。だからこのお山を迂回して大和の国へ入ったのです。その為に大和の地にいた龍神族は追われたようですが、私はその事に就てはよく知りません。私が知っているのはこのお山の事だけなのです。
 そして最強の龍と化した空海は京の都にも広く知られ、幾つかの奇跡を人々に乞われるまま起こしたようです。朝廷はその力を求め、怖れもしました。空海はその事を良く理解していたようです。つかず離れず、表に出過ぎないように注意していました。龍の力は強大で、彼はその龍に導かれて各地を回っています。要所要所に龍の力のコントロール装置として寺院を作って回ったのです。強すぎる所ではその力を少し逃し、弱すぎる所にはその力を導き寄せる工夫をしました。四国の八十八カ所ではそれが今も機能しています。あそこで空海は何かに備えて龍の力を、右回りに連続して回らせる事によって生きたままコントロールしたのです。
 それは多分、自分には龍使いが居ない為、龍の力が増大しすぎた時の為の安全装置のつもりだったのかも知れません。それほど彼の龍は力をつけていたのです。そしてコントロールし切れなく成るのを恐れても居たようです」
 エディが言う。「法印。龍は大きな変化を望まないのです。余りにも大きな力で流れを変えると世の中がひっくり返ってしまいます。多分大師はそれを怖れたのでしょう」
 法印が頷き、言った。「その通りでしょう。空海が何かを恐れていた事は確かです。自分の龍の力以上の何かをです。秘伝として伝わる物の中に、四国の龍はどこかに出口が設けてあり、その封印を解く事によってどこかに向かって流れ出すように仕掛けられていると伝わっております。しかしそれがどこに有ってどこに向かっているのかは誰も知りません。
 しかし空海の生きて居る間には彼の恐れた事は起こらなかったようです。自分の死期を悟った空海は、静かに準備を始め、それが整った時に弟子に伴われ入定しました。その時、我々の知らない真言を唱えていたそうです。それはどの教典にも無い物です。きっとそれが龍の言葉なのでしょうな。
 そしてその時の弟子に伝えた言葉が今日あなたにお伝えした事なのです。聖なる龍の名を持つ者を座して待つ。伝えるべき事があるのだと。そのように伝えられております。
 しかし入定されてから一度も聖なる龍の名を持つ者は現れませんでした。歴代の法印の中で私が初めてこの事を話したのではないでしょうか。だから大師はそのままお待ちだと思います。あなた達に大切な事をお伝えする為に千二百年近くもお待ちなのです。今夜きっとあなた達にそれを教えてくれる事でしょう」
 そう言い終わると法印は少し小さくなって歳を取ったように見えた。
 エディが尋ねる。「では法印はそれが何なのかは御存じないのですね?」
 老僧は頷く。
 「そうです。それは大師だけしか知りません」
 エディは深々と頭を下げ言った。「ありがとうございました」
 老僧は首を横に振って言う。「ところで叡山には登られましたか?」
 「いいえ。ここが一番初めです」
 「そうですか。ぜひ、叡山に登られるとよろしいでしょう」
 エディが一呼吸置いて言う。「失礼を承知の上でお尋ねしますが、比叡山側との確執は取れたのですか?」
 老僧は笑って言う。「そんなものは初めから無かったのです。確かに昔は修行の足らない僧の間ではそんな事もあったようですが、少なくとも空海と最澄の間では確執など微塵もなかったのです。二人は尊敬し合っていました」
 エディが言う。「もしかして空海と最澄の関係は、私と妻の関係だったのではないですか?」
 老僧は大きく頷いた。「そうです。その通りです。良く気付かれましたな」
 エディが言う。「私も初めは二人とも龍使いであったのだと思っていました。自然の力を使う龍使いです。しかしこのお山に来て空海が龍そのものであったのではないかと思い、空海の龍が惠果阿闍梨の龍を飲み込んだ事をお聞きして、それは間違いのない事だと確信いたしました」
 老僧が言う。「ほう。それは何故ですかな?」
 「妻の龍もヒットラーの龍を同じように体内に納めたからです。それは、例えようもなく美しい光景でした」
 老僧は驚いたように目を見張って言った。「そうですか。本当の事だったですか。私はただ語り伝えられた事を話しただけで、本当は何かの喩えであろうと思っていたのです。龍が龍を飲むなどと本当は信じていなかったのですが。そうですか、本当にあった事だったのですか」
 エディが頷いて言った。「空海とは自ら目覚めた龍だったのでしょうか?」
 「そうではありません。空海の龍を目覚めさせたのは最澄でした。唐に渡る船の上での事です。第一船に空海が乗り、第二船に最澄が乗っていました。そして修行を積んだ二人の僧に船の違いなどなんの障害にもならなかったのです。
 大海の上で二人は心で語り合っていました。そして最澄の愛の心が空海の龍を目覚めさせたのです。それは船出して二日目に嵐に遭ったさなかだったそうです。嵐の中でなす術もなくただ祈るばかりだった時にお互いの気持ちが通じたのでしょう。そしてその後の事を暗示するように二人の乗った船は漂流し、別れ別れになったのでした。しかし唐に着いた時にはすでに空海の龍は最澄の愛の心によって目覚めた状態でした。そして惠果阿闍梨によって育てられたのでしょう。日本に戻る前に惠果阿闍梨より送られた沢山の法具の中に龍静めの石もありました。空海はそれを携えて入定しています」
 私は付けていたダイヤの指輪を外して法印に差し出した。
 「これが私の龍静めの石です」
 「ほう。では今のあなたの龍は解き放たれているのですね」
 「はい。でも今は龍のするべき事がないので静かにしています。しかし必要のある時に解き放つと龍は妻の体から抜け出し、妻の体は骸と化してしまいます」エディが言った。そして法印から指輪を受け取り私の指に付けた。
 私が言う。「私には何も出来ないのです。龍の思うままにしか龍の力は使えません。龍使いと共に居なければ何も出来ないのです」
 法印は大きく頷いた。「龍と龍使いが共に在ると言う事は、素晴らしい事です。弘法大師もどれだけそれを望んでいた事でしょう。そして自分達に出来なかった事を託したかったのでしょう。あなた達がそれをしてくれるのですね」
 エディが頷く。
 法印が続ける。「これで私が先代より伝えられた事をすべてお話ししました。今夜、日にちの変わる頃、御廟にご案内いたします。あなた達は若く美しい。そして何よりもお強い。素晴らしい事です。この私がこの事を告げる事が出来てとても嬉しく思います。ありがたいことです。後で春水を迎えにやりますのでそれまでゆっくりとお寛ぎください」
 法印はそう言って立ち上がるとゆっくりと部屋を出て行った。
 私達も少し遅れて部屋を出た。