龍 7 神戸
 私達の乗った船は、神戸港に着いていた。

 入国手続きをエディにすべて任せて、私は一人でウエィティングルームで待つ。
 窓からは港の風景が見えた。阪神高速道路、ポートタワー、そして山には神戸市のマークが見えた。私は確かに日本に戻っていた。しかし船の上で感じていたようにやはり戻ったと言う実感が無い。私はその事に少し戸惑いを感じた。友人に電話をしようかと思ったが、止めた。そうしてしまうと自分の置かれた状況から逃げ出したく成るような気がしたのだ。それで私は戦地に着いたのだと思う事にした。そう思う事で少し自分の置かれた状況を認める事が出来る様な気がした。
 エディは思ったより早く戻って来た。
 「ヨーコ、行こうか。アルンが待っているよ」私は頷いて彼に従う。

 建物を出た所に黒塗のロールスロイスが止っていた。傍らに白い手袋の運転手とアルンが立っている。運転手が恭しく扉を開ける。エディは私を先に乗せ、後ろから自分も乗り込んだ。運転手はドアを閉めて運転席に回り、乗り込んだ。
 アルンは助手席に座り、運転手に「ホテルへ」と言った。
 走り出した車の中で私は言う。「ねえ。信じられないかも知れないけれど、私、ロールスロイスに乗ったのって、生まれて初めてよ」
 エディは微笑んで言った。「それは良かった。何でも初めての事は素晴らしい」
 「でも、これで旅をする訳じゃないわよね」
 「もちろん。なあ、アルン」エディが言った。アルンが振り返る。
 私はアルンに言う。「もう少しカジュアルな車だと嬉しいんだけれど。何だかこの車だと私、緊張してしまうの」
 アルンは前を向き直って言った。「カジュアルね。女性と車はエレガントな方がいいと思うんだけど。カジュアルだったらポルシェか何かにしようか?」
 エディが笑いながら言う。「お前に任せるよ。ねぇ、ヨーコ」
 私も笑いながらそれに同意した。そして付け加える。「アルン、私、エレガントじゃなくてご免なさいね」
 彼は両肩を上げて言った。「全然構わないさ」
 エディが声を上げて笑った。「君達はいいコンビだ。これからが楽しみだよ」
 私はアルンの真似をして肩をすくめてみせた。アルンもミラーでそれを見て笑った。
 車は船のように静かに走り、そして洋館の玄関で静かに止まった。運転手が下りて私の側のドアを開ける。

 私は差し伸べられた手を取って、車を降りる。エディとアルンも車を降りた。そこはエディの香港の家の様な瀟洒な洋館だった。私にはとてもホテルには見えなかったが、それはホテルだった。
 玄関には出迎えの人達が並んでいる。エディは私を誘って彼らの方へ向かって歩く。彼はみんなを知っている様だ。そして再会を喜んでいた。
 彼は私を紹介した。「妻のヨーコです」
 私は笑顔を作って頭を下げ、言う。「よろしくお願いします」
 一番偉そうに見える人が恭しく頭を下げて言った。「奥様。ようこそお出で下さいました。私、支配人の郷田です。何なりとお申し付け下さい」
 エディはボーイに荷物を運ぶ様に言うと、私を誘って中に入る。
 彼は振り返って言う。「ねえ郷田さん、まだ何か食べられるかな。お昼を食べ損ねちゃったんだ」
 支配人が答える。「何かお部屋に運ばせます」
 「頼むよ。アルンの分もね」
 「畏まりました」
 私達はボーイに案内されて歩く。ロビーも廊下もすべてがゴージャスなホテルだった。それはとても品が良く、しかもお金がかかっていることすら感じさせない。私は覚悟を決める。きっと驚くほど豪華な部屋に違いない。今度こそは何があっても驚くまいと思っていた。エディが歩きながらくすくす笑う。彼はまた覗き見をしたのだ。

 ボーイが部屋のドアを開けた。しかしやっぱり私は中に入って立ちすくんだ。
 「これは・・・」
 エディが笑う。「やっぱり驚いたね」
 私は驚くと言うより、あきれていた。
 「龍の間だよ。香港と同じものだ」
 私はこんなお金の使い方があるなんて想像したこともなかった。
 「あなた達っていったいどんな頭をしているの?」
 彼が言う。「気に入らないかい?嫌だったら部屋を変えるよ」
 「そう言う問題じゃ無いでしょう。あなた、日本に居たって、ここに住んでたの?」
 「そうだよ。ここは僕の部屋だ」
 ボーイが荷物を置いて出て行った。
 私はアルンに尋ねる。「アルンもここに住んでいるの?」
 「いや、僕は自分の家がある。ここから車で十分程の所だけど」
 「家事はどうしているの?」
 「住み込みのおばさんが居るんだ」
 エディが言う。「彼女の作るカレーはとても美味しいんだよ」
 「彼女は昔インドに居たんだ。だから本物の家庭のカレーを作ってくれる」
 芦屋に住んでちゃんとメイドが居る。彼もお金持ちなんだ。私は考えることを諦めてソファーに座る。
 エディが香港から送った荷物が着いていた。私の知らない荷物もあった。彼はそれを解いた。中から三挺の銃が出て来た。私は驚いてそれを見る。エディはアルンにその中の一つを渡して言う。
 「これは例の銃だ。持っていてくれ」
 アルンは何も言わずに頷くと受け取り、それをベルトに挟んだ。その時彼の胸に違う銃が有るのが見えた。
 その後エディは、銀色で小さめの銃を私に差し出した。「もしもの時の為に持っていてくれ」
 私はそれを受け取る時に手が震えた。手に取るとそれは見た目よりしっかりした重みがあり、それは私自身の命の重さのような気がした。
 もう一挺はエディ自身の為の物だった。彼は簡単にチェックするとベルトに挟む。私はそれをしばらく手に持っていたが、諦めてバッグに入れた。その間私は一言も口をきかなかった。ここは間違いなく戦場だった。

 エディの頼んだ昼食が運ばれて来て、三人でそれを食べる。私はピストルを渡された事で、少し緊張していた。アルンは食べ終わるとすぐに用が有ると言って出て行った。

 私達は簡単に荷物を解き、龍の間で寛ぐ。私は靴を脱ぎソファーに寝そべる。彼は何か難しそうな物を読んでいた。
 「ねえ、何を読んでいるの?」
 「試験に良く出る龍の使い方。これであなたも龍が使える」
 「それって参考書の様な物なの?」
 「そう。李家に伝わるとても大切な古文書さ。ずっと一子相伝で伝わって来た物なんだ。今はアンディが管理している。でも彼は中を見た事は無い。これは龍を見つけた者だけが中を見る事が出来るんだ。そしてまた封をして次に龍を見つけた者がそれを見る」
 「エディ。それってとても大切な物なんじゃないの?でもあなたが今見てるのは、私にはコピーした物に見えるんだけど」
 彼は笑って答える。「そうだよ。だってこんなに難しい物を一度見ただけじゃ覚えられないもの。内緒でコピーしたんだ」
 「あなたって言う人は・・・」私は溜息をついた。
 彼は悪戯っ子のように笑うと言った。「退屈なの?」
 「いいえ。構わないのよ。ちゃんとお勉強して」
 「大丈夫だよ。もうほとんど理解出来た。後は実戦で学ぶだけだ。それに不思議な事にヨーコは何も学ばなくてもちゃんと上手に龍を育てる」私は首を傾げる。
 彼が続ける。「君には龍使いなんて必要無かったのかも知れないね」
 「まさか。私は何もしないであなたについて来ただけよ。ちょっと勝手な事をし過ぎちゃったかも知れないけれど」
 彼が私の頭を撫でる。「君は好きなように振る舞えばいいんだよ。僕は君が好きなように振る舞う事が出来るようにサポートする為に居るんだ。君をコントロールする為に居るんじゃない」
 「龍使いって龍をコントロールするんじゃないの?」
 「はい。龍使いはただのサポーターだよ」
 私は良く解らなかった。
 彼は笑って言った。「大丈夫。僕に任せて。ちゃんと参考書も持ってるし、それに僕は君を愛してる」
 「そう言う問題なのかしら?」
 「はい。それに何も無いよりましだろう?」
 「それもそうね」私はまた考える事を放棄した。
 彼が思い付いた様に言う。「ヨーコ。ピストルを撃った事なんて無いよね」
 私は頷く。
 「じゃあ一度撃ってみた方がいい」
 私は訳が解らなくてキョトンとしていた。
 彼は笑って私に手を差し伸べて立たせると言った。「ヨーコ、こっちへ来てごらん」

 彼は私のバッグを持ち、手を引いてベッドルームに向かう。そしてベッドルームの中にあるクロゼットの扉を開け、その中の隠し扉を開けた。
 「ここから地下に下りられるんだ。ちょっと狭いから気を付けてね」彼はそう言うと、灯りを付け、私の手を持ったまま先に下りた。私は訳が解らないまま付いて行く。

 重い鉄の扉を開けると、そこはテレビで見るような射撃の練習場に成っていた。私は彼の持っていたバッグを受け取り、さっき貰ったピストルを取り出す。彼がそれを取って弾を入れてくれた。そして私の後ろに回りヘッドフォンのような物を被せると、私に覆い被さるようにして、後ろから私の両手に銃を握らせる。冷たい銃の感覚と、暖かいエディの手に挟まれて、私の手は私の意思から遠ざかっていた。
 私は的を見ていた。彼の手が私の指と一緒に引き金を引く。生まれて初めての衝撃が私の肱と肩を襲った。その衝撃は思っていたよりずっと大きくて、彼が後ろで支えていなければピストルを取り落としたに違いない。
 パーンと言う軽い音と共に、弾は的の中心から少し逸れた所に当たっていた。
 「ワァッ」私が声を上げる。
 「簡単だろう?一人でやってみてごらんよ。嫌な奴を思い浮かべて引き金を引くと気持ちがすっきりするから」
 「ねえエディ。私今嫌な奴が思い浮かばないんだけれど、どうしたらいいと思う?」
 「それは困ったね。じゃあ何も考えないで撃ってごらん。集中する事もストレスの解消にはなるから」
 私は頷いて銃を構えた。そして的に意識を集中して引き金を引く。思ったより簡単に出来た。もっと堅くて抵抗があるのかと思っていたがそんなに力はいらなかった。
 弾は的の端の方に当たっていた。衝撃にももう腕が慣れていた。
 「エディ。これでいいのかしら」
 「GOOD 初めてにしては上出来だ」
 私は続けて撃つ。だんだん弾は中心に集まってくる。エディが弾を詰め替えてくれた。私はそれを受け取ってまた的に向かう。彼も隣で撃つ。弾が発射される時の音が私のものとは全く違った。ヘッドフォンを付けていても頭の芯まで届いて、脳を揺さぶるような音だった。そして的に開いた穴の大きさも全然違う。彼の撃った弾は的の中心に命中していた。私は自分の的を狙う。一発、二発、三発目で初めて中心に当たる。彼が驚いて見ていた。私は残りの弾もほとんど中心に集めた。
 「ヨーコ。君はすごいよ。オリンピックにだって行けるかも知れない」
 私は笑って言う。「これ、面白いわね。何だか007に成った気分よ」
 「君は集中力があるんだね。それに体のバランスがとてもいい」
 「良く判らないわ。でも本当にストレスの解消にはいいみたいよ」
 彼は笑って、また弾を入れ替えてくれた。そして自分もとても怖い顔をして撃つ。私はそれを見ていた。彼が撃ち終わったところで私が言った。
 「あなたのそんな怖い顔って二度目だわ」彼が首を傾げる。
 私が言う。「一度目はロアールから戻る車の中で見たのよ。香港のホテルでの時は後ろ姿だったから怒った声しか知らないし」
 彼は銃を置いて私の手を取って言う。「あの時そんなに怖い顔をしてたかい?」
 私は頷く。
 彼が続ける。「ごめんね。でもあの時僕は本当に君を失うのが恐ろしかったんだ」
 私は頷いた。「いつも笑っていられるといいわね」
 「ああ。大丈夫だよ。僕は君を見ているととても幸せな気持ちに成れるんだ」
 私が言う。「じゃあ、あの的に私の写真を貼りましょう。そうしたら怖い顔をしなくても撃てるかも知れないわよ」
 彼は困った顔で言う。「僕の悲しい顔が見たいのかい?心配しないで。練習しなくても大丈夫だから」
 私は慌てて言った。「冗談よ。何も心配なんてしていないわ。それに私、しばらくは死について考えるのを止めたの」
 「そうだったね。これはただのスポーツだ。オリンピックにだって有るからね」
 「でも、銃の形が大分違うように思うけど」
 「気のせいだよ」彼はそう言うと笑った。
 「そろそろ部屋に戻ろうか」
 彼の言葉に私は頷いて、銃をバッグに入れる。

 狭い階段を上って部屋に戻る。
 「ヨーコ。手を洗ってお茶にしようよ。ここの紅茶もとても美味しいんだ」
 「いいわね。賛成よ」
 彼は電話で紅茶を頼むと、私達は並んで手を洗った。リビングの戸棚の扉を開けるとテレビがあった。とても久しぶりに日本語の番組を見る。それはほんの少しだけ私を日常に戻してくれた。しかしどんなテレビドラマよりドラマティックな人生の中に自分が居るのを思い出すと、それはとても虚ろな感じがして、私はスイッチを切った。
 紅茶が運ばれて来て彼がカップに注ぎ分けてくれた。
 「おいしいわ」
 「ここの紅茶は僕が居なくても充分美味しいんだよ」
 「あら、先に言われちゃったわね」
 彼は片目をつぶって見せると紅茶を飲んだ。
 窓から見える景色はまるで知らない国のように見えた。
 「ねえ、ここって本当に神戸なの?」
 「はい」
 「私の知っている事って本当に僅かな事だけだったのね。自分の国で、自分が住んで居た所のすぐ近くに、全く別の世界が有るんですもの。でもこのホテルって、どんなガイドブックにも載っていないんでしょうね」
 「ナーガラージャのガイドブックにはちゃんと載っているよ。それに利用客も結構居るんだ。採算は取れているからね」
 「そんなにナーガラージャって沢山居るの?」
 「結構ね。でも一般の客だって居たんだよ。今は僕達が居るからだめだけど」
 「あら、じゃあ赤字になっちゃうわね」
 「構わないさ。もし何か有った時に一般人を巻き込みたく無いだろう」
 「それにお金に困ったりしないしね」
 「そのとおり。ヨーコも大分慣れたね」
 「そうよ、あなたの、聖龍の妻ですもの」そう言って私は笑ってみせた。彼も笑った。

 私達は紅茶を飲み終わり、食器を片付けてもらう。そしてまた二人になって寛いだ。
 私は彼にもたれて、いろんな事を思っていた。初めてエディに会った時の事や、香港の丘の上で彼が泣いた事など。まだほんの一週間前の事なのに随分昔の事のように思える。しかし、それはくっきりとした輪郭を持っていて、記憶が薄らいだせいで昔のように思えるのとは違った。沢山の事を一度に経験した為に記憶の密度が高くなっているのだ。彼は静かに私に触れていた。これからいったいどうなるのだろう。そう思ったところで彼が言った。
 「ヨーコ。心配しなくていいよ。僕達に任せて」
 私が尋ねる。「僕達?」
 「そう、僕達だよ。アルンやナーガラージャ達の事さ」
 私は頷いて目を閉じる。そして考えるのを止めた。彼の暖かさを感じているととても落ち着いた。彼は私に触れながらいろんな事を考えていた。私はそれを見ないでうたた寝をする。知ったところで私にはどうする事も出来ないのだ。とても静かに時が流れた。それはとても幸せな時間だった。

 日が落ちて外が真っ暗になった頃、二人で食事に行った。ロビーの横がレストランに成っていて、私達は窓際に席を取って夕食を頼む。
 エディは入口に背を向けて座り、私は彼と向かい合って座っていた。彼の頼んだワインと幾つかの料理が運ばれて来て、私達はそれを楽しんだ。いつもの事ながらそれはとても高級な物で、それでいてあっさりと仕上げられている。私達は料理について話しながら食べた。彼の食べ物に対する知識と情熱は、人並みはずれた物があった。しかし彼はとても楽しそうにそれを語り、そして食べる。
 途中で美しい女性がレストランに入って来た。彼女は私の方をじっと見つめていた。私は指輪を確認する。それはちゃんと肌に触れていて龍は見えてないはずだった。初め、船で会った人だろうと思ったが、彼女の思い詰めたような表情がとても気にかかった。十分程経ったころ彼女の見ているのが私ではなくてエディの背中だと言う事に気付いた。そして彼女の後ろに幼い龍の影も認めた。それで彼女が何時かエディの言った、日本で会った龍を背負った女性だと言うのが判った。私は彼女の姿をエディにテレパシーで送る。彼は飲みかけていたワインのグラスを置いて振り返って言った。「ミツコ」
 それが彼女の名前だった。
 私はエディの背中に言う。「ミツコさんに謝った方がいいみたいよ。彼女、とても傷付いているわ。それにあなたをずっと待って居たみたい」
 彼は振り向いて私を見る。
 「ちょっと行ってくるよ」
 「行ってらっしゃい。そしてちゃんと彼女の思いを受け止めてあげて」
 彼はナフキンで口を拭うと立ち上がった。
 「エディ、私食べ終わったら部屋に戻っているわね」
 彼は頷くと、振り向いて、彼女の方へゆっくりと歩いて行った。
 私はなるべく彼らを見ないようにして食事を続けた。彼女の龍は、まだ本当に幼く、後何度かは転生を繰り返さなくてはならないだろう。でも彼女の龍も私の龍に共鳴するのだろうか。私には判らない。
 彼女は泣いていた。彼女を残して日本を去ったエディを責めている。彼女は確かにエディを愛していたのだ。可愛そうに。エディが彼女を傷付けたのだ。私に何か出来る事が有るだろうか。彼女はこのホテルに来て、彼を待ち続けていたのだ。もう何年も。そしてやっと彼を見つけたと言うのに、彼は私を連れていた。私には彼女のやり場のない悲しみが判った。私はうつ向いて涙をこらえる。悲しいのは私じゃない。彼女なんだ。そう思って涙をこらえた。エディは彼女に泣かれてオロオロしていた。
 「困ったよ。ヨーコ、どうしよう」
 彼の思考が届く。彼も龍以外ではただの男のようだ。
 私は彼に伝える。「男でしょう。しっかりしてよ。ちゃんと謝って彼女に許してもらうのよ」そして私は席を立った。
 彼の後ろを通って出口に向かう。彼が振り向いてキーを渡してくれた。私は彼女に少し微笑んで会釈を送る。彼女はそれに対して戸惑いを見せた。私は立ち止まらずにそのままロビーに出た。
 ロビーでアルンに出逢った。
 「ヨーコ。聖龍は?」
 私は彼をレストランから少し離れた所へ導いて、言った。「エディの昔の彼女と鉢合わせしちゃったのよ。彼、とても困っているわ。あなた助けてあげたら?」
 彼は片目をつぶって見せるとレストランを覗きに行った。そして戻って来て言う。
 「美人だ。僕の手に負えそうにないよ。美人は苦手なんだ」
 「アルン。その割には私は大丈夫なのね」
 「どうして?」
 私達は笑った。
 「先に部屋に戻っていましょう。キーは貰ったから」私は顔の前でキーを振った。

 部屋に戻るとアルンはレストランに電話をかけてエディを呼び出した。そして広東語で何か話す。
 電話を切って言った。「もうすぐ戻るよ。それにしても今は電話がコードレスでテーブルまで持って行っちゃうから、かえって不便だね。内緒話しが出来ない」彼はそれで広東語を使ったのだ。
 「アルン、あなたは何カ国語ぐらい話せるの?」
 「エディと同じぐらいは何とか成ると思うよ」
 私はまた落ち込んだ。彼がそれを見て慰めてくれる。
 「僕の仕事だからね。ヨーコは日本語だけでも何も不自由しないんだから、いいじゃないか」
 私は言う。「ありがとう。エディもそう言って慰めてくれたわ」
 彼は両肩をすくめてみせた。私もそれを真似て笑った。
 十分程でエディは戻って来た。
 「アルン、助かったよ。ありがとう」
 私が言う。「エディ、あなたちゃんと判って貰えたの?」
 「誠意を持って話して来たつもりだけど、女性の心理は難しいよ」
 「その事については後でゆっくり聞くわね。アルンと何か話があったんでしょう?」
 エディが頷く。「報告を聞こうか」
 アルンが頷いて話し始めた。「まず、明日の予定だが、高野山真言宗の法院とアポイントメントが取れている。昼頃に向こうに着けばOKだ。後の事は聖龍の仕事だ」
 「判った。それで敵の状況はどうだ」
 アルンが鞄の中から大きめの茶色い封筒を取り出して中身を拡げる。何枚かの写真だった。私はそれを手に取って見る。
 アルンが言う。「まずパリから追って来ている連中はたいして心配する事は無いだろう。ECの関係で六人程来ているがほとんどの連中は龍の存在を信じていない。だから半分は観光気分のようだ。奴等はポートピアホテルに滞在している。後、問題なのはロシアとアメリカだ。どちらもプロフェッショナルの諜報員が送り込まれている。まずロシアはたった一人だがイワノフと言ってかなり腕利きの男だ。そしてアメリカはスミスとモーリスの二人だ。この二人はCIAに属している。しかしありがたい事にロシアもアメリカも心霊学については全くの素人だ。ただヨーコを連れて帰れと言う指示を受けているだけだ。しかしECの連中はテレパシーのキャッチが出来る。でも今はECの連中と、ロシア、アメリカはコンタクトが取れていないのでまず安心して居られるだろう。とにかくこのホテルの外ではテレパシーは使わないようにしてくれ」
 私が尋ねる。「このホテルの中だとどうして大丈夫なの?」
 エディが答える。「このホテルの建っている場所が特殊なんだ。ここは大地の気が上に向かって流れているから、まるで壁のような役目を果たして居る。だから人の出入りだけ気を付ければ敵は防げる。この壁がなければ、エスパー達にどんな攻撃を受けるか判らない」
 「それってどう言う事なの?」
 「例えば、眠っている僕に働きかけて君を連れ出したり出来る。それよりも君自身を催眠状態にして此処から出て行くようにする事の方が簡単かも知れない。そうなったら防ぎようがない」
 「でも、此処は大丈夫なのね」
 「はい。でも外に出たときはなるべくテレパシーを使わないで。ECの奴等がどの程度の能力なのかは判らないが、ある程度の能力を持った奴等なら半径十キロ位の範囲で僕達の場所を知る事が出来るはずだ」
 「外で私が寝ている時は大丈夫なのかしら?」
 「僕が起きていればすぐに判るから大丈夫だよ」私は頷いた。
 アルンが続ける。「物理的な攻撃に関しては僕達が守れる。それにしてもロシアとアメリカはちょっと気になる存在だ。どちらも少数ながらかなりの経歴を持った奴等だ。そしてこの後どれだけ増員があるか知れない」
 エディが尋ねる。「肝心の日本はどうなんだ」
 アルンが答える。「心配はいらない。全く動く気配がないんだ。今度の事でかなり探ってはみたが、龍について知識を持っていたのは、仏教系では、明日行く高野山真言宗の最高指導者と比叡山の天台宗の最高指導者だけだ。後、伊勢の方はまず動くにも動く組織が無い。天理は肥大し過ぎて動けない。大本と金光はどうも龍神系の臭いがする。後は皆龍の事になど無関心だ」
 エディが尋ねる。「出雲はどうなんだ」
 「残念ながら出雲に関しては何も判らない。敵と味方が入り交じっていて見分けすらつかない。火の神にカムフラージュした龍神も居れば、その反対も居る。手が付けられないんだ。しかし混乱しているだけに攻撃を受ける可能性も少ない。いや、もう今の日本に神の為に戦う意志を持つ者は誰も居ないだろう」
 エディが言う。「こっちのナーガラージャ達は何と言っている?」
 「出雲については誰も語らない」
 「判った。ありがとう」エディが言った。
 私はアルンの持ってきた写真を見ていた。
 「アッ、この二人って香港のホテルにいた人達だわ」
 アルンが言う。「ECから来ているドイツ人のハインツとボルツだ。ヨーコ、あの時は悪かったね。僕達が油断して居たんだ」
 「構わないわ。エディが助けてくれたもの」そう言って笑った。しかしアルンはとても神妙な顔をしていた。
 「気にしないでね」私が言った。
 「あの時はまだヨーコの龍が目覚めていなかったから、緊張感が無かったんだよな」エディが言う。
 「本当に申し訳無い」アルンは本当にすまなさそうに言った。
 エディが話題を変える。「出雲についてもう少し詳しく知りたいな」
 「判った。しかし時間が掛かるかも知れない」
 「構わないさ。龍の時間は穏やかに流れる」
 アルンは広げた資料を片付け「明日の朝9時に迎えに来る」と言って帰って行った。

 私達はお風呂に入って寛いだ。
 「エディ。あなたミツコさんの事どうするつもり?」
 「どうしようもないさ。だって僕はヨーコのことを愛して居るんだから」
 「それで済む問題なの?」
 「じゃあ、どうしたらいいんだ?」
 「あなたが傷つけたのよ。あなたが責任を持って彼女に判ってもらうしか無いんじゃないの?」
 「それはそうだけど。でも、ミツコは手ごわい」
 「私の龍より?」
 彼は笑って答えない。私は大きく溜息をついて言った。
 「香港でこんな事が有るんじゃないかと思っていたのに」
 「ごめん」
 私は笑う。「私に謝っても仕方が無いでしょう。ミツコさんに謝らなくっちゃ」
 彼はいつものようにオイルでマッサージをしてくれた。私は考えることを止めた。考えても仕方がない。とにかく私はエディを信じていた。いや、信じるより他に出来ることがなかったと言った方が正しいかも知れない。
 そのまま自分の家に帰ることも出来ただろう。そして、新しい仕事を探し、エディに出逢う前の生活に戻ればよかったのかも知れない。エディやアルンの言う敵の事など忘れてしまうことも出来たかも知れない。
 こんなに大層に守られてなどいなければ、敵だって私を狙ったりしないだろうとも思えた。
 だいたい私に彼らが言うような価値があるはずがないのだ。しかし、私は自分の元居た場所に戻ろうとは思わなかった。私の人生の歯車は、エディと出逢うことで外れたのではなく、エディという新しい歯車を得て、本来あるべき形に戻ったのだという実感があった。それに、エディはすでに私にとって掛け替えのないものに成っていた。だから、私は彼らを信じ、すべてを彼らの手に委ねるしかなかったのだ。

 お風呂を終えて二人でワインを飲む。それはとても良く冷えていてお風呂で火照った体にとても気持ち良かった。彼はとてもリラックスしていた。私はそんな彼を見ているのがとても心地好い。
 「ねえ、エディ」
 「何?」
 「何でもないわ。今夜はゆっくり眠れるかしら」
 「もちろん。此処は完璧に安全さ」
 私は頷いてベッドルームに行った。そしてベッドに滑り込み目を閉じる。彼が「おやすみ」と言って額に口付けする。彼がベッドに入って来たのも気付かないぐらい、私はすぐに眠っていた。



 朝目覚めると彼はもうベッドに居なかった。相変わらず早起きだ。私は寝起きでふらつきながらベッドルームの扉を開けた。
 リビングでは、彼が音も無く舞っていた。何と言う拳法なのだろうか。しかしそれは武術と言うより、私には舞っているようにしか見えなかった。
 聞こえるのは呼吸の音だけで、高く跳躍しても足音すらしない。しなやかに、たおやかに舞う。まるで龍のようだった。後ろで束ねた長く豊かな黒髪が流れるように揺れる。目に光を宿し、体中の筋肉がバネの様にしなう。本当に美しい男だ。
 私はしばらく見とれていたが、ベッドルームに戻りシャワーを浴びることにした。

 シャワーを終えて身支度を整え、リビングを覗くと彼はソファーで寛いでいた。
 「おはよう」彼が言った。
 「おはよう」私も言う。「ねえ、さっきのアレ、何なの?」
 「朝の運動さ。毎日やらないとエネルギーが不足するんだ」
 「毎日?」
 「そうだよ。ヨーコは眠っていて気付かなかっただけさ」なるほどと思った。
 「エディ。荷物はどうすばいいのかしら?」
 「簡単でいいよ。でも寒いといけないから着る物は暖かい物にした方がいい」
 私は頷いて二日分ぐらいの荷物を作った。ずっと旅行中なので迷う事も無い。トランクケースから小ぶりのバッグに移すだけだ。彼の荷物もよく似たものだった。
 彼は電話でボーイを呼ぶと荷物を運ばせた。そして私達は朝食をとりにレストランに下りた。

 朝食が運ばれて来たところでミツコがレストランに入って来た。私はエディにそれを告げる。彼は席を立って彼女の元へ行く。私はその間に食事をした。ちょうど食べ終わった頃彼が戻って来て言う。「ミツコが君と話したいって言ってるんだけど、いいかな?」
 「構わないわよ。あなたは此処で食べてて。そう、私の紅茶を向こうの席に運ばせてくれないかしら」
 エディはウエイターを呼ぶ。
 私は席を立ってミツコの所へ行った。
 「こんにちは。ここに座っていいかしら?」
 ミツコが頷く。私は彼女と向かい合って座った。
 「私、田中陽子って言うの」
 彼女は消え入るような声で言った。「伊達光子です」
 ウエイターが私の紅茶を運んで来てテーブルに置く。私はそれを一口飲んで言う。
 「何をお話すればいいのかしら?」
 彼女はしばらくうつ向いていた。そして顔を上げてとても断定的に言う。
 「とても失礼なことを言います。でも許してください」私は頷く。そして彼女が続ける。
 「彼を、私に返して下さい」
 「彼って、エディの事かしら?」
 彼女はしっかりと私の目を見つめて頷く。彼女の瞳から、彼女がしっかりした精神の持ち主だと言う事が判った。私は彼女に好感を持った。
 彼女が言う。「私、夕べ一晩彼を諦めようと努力したんです。ずっと彼だけを思って待ち続けて、やっと彼を見つけた時にはあなたが居て、彼はあなたを心から愛している。どうしようも無いですよね。だから諦めようと努力したんです。でも私の中の彼は、彼が居ない間にもう私だけの彼になっていて、忘れようが無いのです。彼の声、彼の腕、彼の匂い、何もかもが私には忘れられない。判って居るんです。判って居るんですけれど心が、・・・」そう言って彼女はうつ向いた。
 私は尋ねる。「彼は、あなたに龍の話をした?」
 彼女が答える。「ええ。私の龍はまだ幼いって、初めて会った時にそう言いました」
 「それであなたはその話しを信じた?」
 「いいえ。そんな話信じられる訳ないもの」
 私は笑って言う。「そうよね。そんな馬鹿なこと無いわよね。じゃあ、あなたは彼のどこに引かれたの?」
 彼女は少し考えて言う。「すべてです」
 私はそれに頷いて言う。「じゃあ、今は龍の事を信じられる?」
 彼女は首を横に振る。
 「彼を信じていないの?」私が言った。
 彼女はゆっくりと考えながら話す。「龍の事と彼を愛している事は関係無いと思うんです。私には何故彼やあなたが龍にこだわるのかが判らない。私の父もナーガラージャですけれど、あんなのはただのおとぎ話でしかないわ。確かに彼の部屋の龍はとても素晴らしかったけど、あれはただの絵でしかない。私は生きている彼が好きなんです。エディを愛して居るんです」
 素晴らしい答えだった。
 私は溜息を付いて、エディにテレパシーで尋ねる。「エディ、今此処で龍の力を解き放つと、何か不都合があるかしら?」
 彼が答える。「問題ない」
 「ミツコの龍は反応する?」
 「彼女の龍は幼すぎるから判らない」
 「彼女も巻き込む事に成るかしら?」
 「君の思うように、龍の望むようにやればいいんだ。もしそれで彼女を巻き込んだとしても、それが彼女にとって必要な事なのかも知れないからね」
 ミツコが不思議そうに、テレパシーのために黙り込んだ私を見ていた。
 私は意を決して言う。「ミツコさん。良く私を見ててくれる?」
 そして私は指輪を回した。
 彼女の顔から見る見るうちに血の気が引いた。私は慌てて立ち上がってエディを呼ぶ。エディは飛んで来て、倒れそうになったミツコを支えた。私はまた指輪を回して龍を収めた。周りから溜息が聞こえた。私は座る。
 エディが言う。「ミツコ、ヨーコが僕の龍なんだ」
 彼女は戸惑いながらも頷いた。
 「エディ、アルンが来たみたいよ。もう少し彼女と話したいから先に行ってくれる?」彼は頷いて私達の席を離れた。
 私は言う。「信じて貰えたかしら?彼の話は全部本当なの。彼が龍使いで私が龍。今は、あなたに彼を返してあげるわけには行かないのよ。私達は二人で一つのセットなの。あなたが彼に引かれたのは彼の龍使いの血のせいかも知れない。何時かあなたも、あなたの龍を育ててくれる龍使いと運命的に出逢うわ。だからゴメンなさい。あなたを傷つけた彼を許して。信じられないかも知れないけれど、私達、何度も何度も生まれ変わって愛を育てたの。だから今の生では出逢ってからまだ十日程しか経っていないけれど、運命だったの。どうしようもないの。
 私あなたの事大好きよ。だって同じ龍を背負った者同志ですもの。彼をあなたにあげてしまってもいいと思うぐらいよ。だって私はこの十日余りで何百年もの不幸や苦しみを埋め合わせても余る程の幸せを手に入れたのよ。彼がその幸せを与えてくれたの。
 世界中で一番の幸せだと思うわ。もうこれ以上望むものなんて何もない。だからあなたに彼を返してもいいと思えるのよ。でもあなたに彼を返してもあなたが彼から貰える幸せは私がもらった幸せの何十分の一にもならないわよ。それでも普通の人の何倍もあるでしょうけど。でも私の幸せとは比べ物にならないわ。
 あなたは辛い道を行かなくっちゃならないかも知れないけど、あなたの龍使いに出逢った時には今の私と同じだけの幸せを与えられるのよ。それを待ってもらえないかしら?
 それに今はあなたにエディを返せない訳もあるの。私達は龍と龍使いとして戦わなければいけない敵を持っているから。でもこんな話しも信じてもらえないかも知れないわね」
 彼女は静かに聞いていた。そして言う。「ヨーコさん、本当に私にも龍が居るんですか?」
 私は頷いて言う。「ええ、私にも、エディにも見えるわ」
 彼女は首を横に振ると言った。「私何が何だか判らなくなってしまいました。またお会いして貰えませんか。それまでゆっくり考えてみます」
 「それはいい考えよ。きっと私達良いお友達になれると思うわ。いつになるかは判らないけど、巧く時間を見つけて必ず連絡するわ」
 タイミング良くアルンが私を迎えに来た。私は席を立つとミツコにアルンを紹介する。
 アルンとミツコが握手をする。アルンがミツコの龍に反応する。こんなに小さい龍に反応するなんてミツコの龍使いはアルンなのかも知れない。いや、多分間違いなくミツコとアルンは恋をする。そう思うととても嬉しくなった。

 私とアルンはミツコと別れてロビーに出た。私はエディに向かって走る。
 「エディ、ミツコの龍はアルンの龍よ。二人はきっと恋をするわ」
 エディが私の思いと体を受け止めてくれた。私達から愛と喜びの感情が溢れだして、ホテルの中のナーガラージャに広がった。
 エディが私を抱き上げると言った。
 「ヨーコ。ありがとう」

 アルンが玄関を出た所に車を付けていた。
 真っ赤なベンツ。私が言う。「アルン、とてもカジュアルよ」
 彼は私の為にドアを開けふざけて言う。「奥様のお望みですから」
 私はアルンの頬にキスをして車に乗り込んだ。エディとアルンは前の座席で、運転はアルンがした。

 振り返ると、私達の居たホテルが朝日を浴びて輝いていた。