龍 6 香港 神戸(U)
 朝目覚めると私はベッドの上に居た。エディは居なかった。私はそっと起き上がりローブをまといベッドルームの扉を開けた。
 彼はソファーに座って本を読んでいた。
 「おはよう。早起きね」私が声を掛けると、彼は顔を上げて言った。
 「おはよう。気分はどう?」
 私はくしゃくしゃに成った髪を掻き上げて言った。「まずまずよ」
 彼は読んでいた本をテーブルに臥せると私の方へ歩いて来た。そして私の髪を指でとかし、額に口付けすると言った。「シャワーを浴びておいで」
 私はバスルームへ行きシャワーを浴びた。

 身繕いを済ませリビングに出ると、彼は朝食をルームサービスにしていた。テーブル一杯に並んだ料理の前で、彼は紅茶を飲んでいた。私が席に付くと彼は私のカップにも紅茶を注いでくれた。私達は朝の日差しの中でゆっくりと朝食を楽しんだ。
 彼が言う。「今日一日は何をしたい?」
 私は考える。
 彼が言う。「プールは楽しかったかい?」
 「ええ、とっても」
 「じゃあ、今日も泳ぐかい?」
 私は少し考えて言った。「そうね。少し泳ごうかしら」
 彼は微笑んで頷いた。「だったら、僕も少し付き合うよ。また君が道に迷っちゃうと困るからね」
 私は頷いて言う。「そうして貰えると助かるわ。実を言うと私、またここにたどり着く自信がなかったのよ」
 二人で笑った。
 私達は食事を済ませると水着を持って部屋を出た。彼の水着も昨日と同じお店で買い、プールへ行った。
 プールには誰も居なかった。私達はゆっくり泳いだ。エディはとてもきれいなフォームで泳ぐ。まるで二頭の龍が泳いでいるようだった。私達は心地好い疲れを感じるまで泳いだ。
 彼はプールを上がると言った。「ヨーコは思っていたより上手に泳ぐね」
 「水の中に居ると、とても自由な感じがして気持ちいいのよ。そう、体が浮く感じが好きなの」
 彼は微笑んで言った。「重力からの解放感かな」
 「かも知れないわ」
 私達はしばらくプールサイドで休んでから、もう一度泳いだ。途中で沢山の人が入って来たので私達は泳ぐのを止めてプールを出た。
 服を着替えて彼が船内を案内してくれた。それで私は船内の事が凡そ判った。
 「エディ、これでもう迷わないで帰れると思うわ」
 彼は笑って言った。「そうだね。でも、昨日のパーティーでみんな君の事を知ったから、迷ってもすぐに連れて来てくれるさ」
 私も笑った。「みんな知ってるから迷子になるとカッコ悪いんじゃない」
 彼は言った。「なるほど」
 ほとんど船内を一週して、部屋に戻った。
 扉を開けると、電話が鳴っていた。エディが受話器を取る。そして言った。
 「アルンからだよ」
 私は頷いて見せ、バスルームに行って水着を洗って乾した。それを終わって出て来ると電話を終えたエディが言った。
 「ヨーコ、これからアルンと打ち合わせがあるんだ。君はどうする?」
 私は尋ねる。「難しい話なんでしょう?」
 彼は微笑んで頷く。「多分ね」
 「私、少しベッドルームで休むわ」
 彼は頷いて言った。「気が向いたら出て来ればいい」
 私も頷いた。

 私はベッドに寝そべって本を読んだ。日本の神話についての本だった。読めば読むほど判らなくなる。日本の神々について、まるで理解させることを拒んでいるようだった。
 天照大神とスサノオについての話が特に良く判らなかった。それに三貴子として天照大神と共に生まれたはずの月読の命はそれだけの記述で後は全然出てこない。
 スサノオはとても荒くれ者かと思えば突然人が変わったように良い神になってしまうし、ニニギの命は出雲に降臨するのかと思えば突然日向に降りてしまった。
 大和には神武より先に正当な神が居たようなのに簡単に神武に政権を渡してしまっている。
 私は同じところを何度も読み返しながら先に進む。それでもなかなか理解出来なかった。
 私はパリで加藤の言った事を思い出していた。征服者は自分達の都合の良いように歴史を書き換えてしまうらしい。
 きっと神々の名もその時に奪われたり変えられたりしたのだろう。この神々の中に龍はどれだけ居るのだろうか。
 エディは言った。ナーガラージャは虐げられた者たちの末裔だと。そして龍を待ち続けているのだとも。
 私はこの神話の中に龍を蘇らせることが出来るのだろうか。いや、皆はそれを望んでいるのだろうか。私にはそれすら判らなかった。今リビングへ行けば、エディとアルンが教えてくれるだろうか。きっと教えてくれるだろう。
 でもエディはどちらでも良いと言う。必要な時には判るのだろう。
 私は昨夜エディの知識が私に流れ込んで来たのを思い出した。古い道教の神の名前だった。ジョカとフッギ。人頭蛇身の対なる神だった。宇賀神。私はその神の日本名も知っていた。とても不思議だった。しかし不思議はとても沢山有った。今更驚く事でもないように思えた。私は本を読みながらいつの間にか眠っていた。
 途中でエディが様子を見に来たのを感じた。
 彼は読みかけていた本を片付けると、私を上向きに寝かせ、毛布を掛てくれた。そして音を立てないようにドアを閉めた。私は夢うつつの中でそれを感じていた。毛布の暖かさの中で私は、引きずり込まれるように眠りに落ちて行った。

 とても長い夢を見ていた。エディに揺り起こされた時私は、自分が誰でどこにいるのかも判らない状態だった。
 「ヨーコ。ヨーコ起きて」
 美しい男の顔が目の前にあった。私は言ってみた。「ヨーコ」しばらくしてそれが自分の名前で、私を呼んだのがエディである事が理解出来た。
 「エディ。私とても長い夢を見てたの」
 彼は微笑んで頷くと、椅子を持って来てベッドの傍に腰かけた。私は話し始める。
 「あなたが私を殺した時の事だったわ。私はとても疲れていて怪我もしていたの。それに何日も何も食べていなかった。とても寒くって、体が氷のように冷たかったわ。でも何かに引き寄せられるように歩いていたの。フラフラとね。そして敵の兵隊であるあなたに出逢った。
 でもあなただと気付いたのは死の瞬間だったわ。昨日あなたが言ったように、あなたは何も知らずに私を撃ったのよ。
 誰かに肩を掴まれて。あれは事故だったわ。
 でも私は暗やみの中であなたを感じたの。銃口から吹き出した花火に照らされたあなたの顔が、私の記憶を蘇らせたのよ。
 その瞬間物凄い衝撃が私を襲った。私は驚いて胸に手を当てたの。初めはすごい勢いで血が噴き出していたわ。その血がとても暖かかったのよ」
 私は彼を見た。彼は目を閉じて私の話を聞いていた。私は続けた。
 「ねえ、不思議だと思わない?体は冷え切っているのに血だけは暖かいの。私はその暖かさがあなただって思ったわ。血の暖かさに触れて、とても幸せな感じがしたの。でも血はすぐに無くなってしまったわ。ドロドロとしか出てこなくなって、次の瞬間、とてつもない痛みがやってきた。私は助けてって叫んだ」
 彼が低く言う。「君は何も言わなかった」
 私は言う。「そう。声にならなかったのね。でも叫んだつもりだったのよ。だけどその痛みも長くは続かなかったわ。まるで波が引くように意識と共に遠退いて行った。遠退く意識の中で私はあなたを感じていた。とても懐かしくて、とても安らいだ気持ちだった。あの血の暖かさがあなただったのね。それで、私はとても満ち足りた気持ちで死を迎えたの。
 それから時が経ったわ。瞬間の様な、永遠の様な時が流れた。
 私は光の中にいた。どこから来るのか判らない光。色もなく、暖かさもない、純粋な光よ。ただ、安らいでいたわ。
 そこには安らぎ以外何も無かった。その中で私は休んだの。随分永い間考える事を止めてただ休んだ。
 するとどの位経ったか判らないんだけど少しずつ光が変化を始めた。どう言う風に変わっているのかは判らないんだけど、確かにその光は変化していた。
 私はその時、すごい早さで色々な事を理解したの。それは地球の始まりから終わりまでを理解する位の量よ。確かにあの時私は、地球の始まりから終わりまで、いやそれ以上に、なぜこの地球が創造されたのかまで理解していたと思うわ。そして、それと同じ位の量で私自身をも理解したの。
 宇宙全体も、地球の一生も、人の一生も、同じ量なのよ。肉体の細胞一つ一つが生き物で、意思や感情を持っていたわ。人間一人一人に意思や感情があるのと同じ様にね。
 今思うと、とても不思議な事ばかりなのに、夢の中の私はすべて当たり前のように理解していた。それと同時に自分のすべきことも理解していた。でもそれが思い出せないのよ。まるで何かに邪魔されているみたいに思い出せない。
 でも私は確かにあの時点ですべてを理解したのよ。そして、するべきことが出来るようにちゃんとインプットし、作動させた。あの封印はもう一度あの光の中に戻らなければ解けないわ。それも理解しているの」
 私は自分に言い聞かせるように言い終えるとエディを見た。
 彼が尋ねる。「龍はいた?」私は首を振る。
 「龍も、神もいないわ。ただ光があっただけで、形もなければ熱もないの。そして想いも感情もない。ただ理解するだけの世界。つまり、肉体で感じるものをすべて取り払った世界なのよ」
 彼は優しく私の手を取って言った。「随分遠くまで行って来たんだね」
 私は彼の手の温かさを感じながら言った。
 「あなたが私で、私があなた。個がすべてですべてが個なのよ。多分そう言う事だわ。まるでメビウスの輪のように」
 彼が言う。「少し目を閉じて休むといいよ。君はとても遠い所まで旅をして来たんだから」
 私は目を閉じて彼の手の温もりを感じていた。それはあの時の血の暖かさだった。
 しばらくそうしていてから、私は言った。
 「エディ。あなたおなかすいて居るんじゃないの?」
 彼は答える。「はい。もうペコペコだよ」
 私は笑って起き上がった。そして尋ねる。「アルンはどうしたの?」
 「もう帰ったよ。それで君を起こしに来たんだ」
 「今何時?」
 彼が時計を見て答える。「2時を少し過ぎたところ」
 「おなかすいたわ」
 彼は私を起こして言った。「レストランへ行けばまだ何か食べられるよ」
 私は頷いて靴を履いた。
 立ち上がると、未だ体と精神のバランスがよく取れていないような感じがして、少しふらっとした。彼が慌てて支えてくれた。
 私は言う。「きっと、おなかがすきすぎているのよ」
 彼は笑って言った。「ヨーコは強い」
 私も笑った。

 私達はレストランで食事をし、デッキに出た。
 私達の乗った船は、白い波を立てながら進んでいた。私はこの海に眠る龍の事を思っていた。静かに眠り続けて欲しい。
 私は隣で海を見ていたエディに言う。「ねえ、私夕べヒットラーの龍を知っているって言うマダムに会ったわ」
 「マダムローザだ。マダムと話したの?」
 「ええ、少しだけ」
 「彼女はなんて言ったの?」
 「ヒットラーの龍は黒くて凶暴な目をしていたって。でも私の龍はあなたが居るから大丈夫だろうって言ってくれた」
 「そう。彼女がそう言ったの」
 「ええ。あなたマダムの事、よく知っているの?」
 「未だ僕が子供だった頃に、祖父と一緒に会った事がある」
 「どんな人なの?」
 彼は少し考えて言った。「彼女はヒットラーの龍を使う為に生まれて来たのに、間に合わなかったんだ。彼女がヒットラーを愛する前に、彼は自らの欲で龍を目覚めさせてしまった。可愛そうなマダムローザ。僕は間に合って本当に良かった」
 そう言って彼はとても辛そうな表情を見せた。私はそこに龍使いの悲しみを感じた。そして、その悲しみはすべてのナーガラージャ達が、多少の差はあっても持っていた。それは、この世に生まれて来た者達すべての共通の悲しみなのかも知れない。
 私達は長い間風に吹かれながら海を見ていた。その海は彼の街香港にも、私の生まれた国日本にも繋がっていた。

 私達は船室に戻り、エディはソファーに座って本を読む。
 私は日本神話の本にめげていたので、ベッドルームで荷物の整理をしたり部屋を片付けたりした。とても穏やかな時間が流れていた。
 する事がなくなってリビングに出ると、エディは真剣な顔で本に没頭していた。私は彼の邪魔にならない様にそっと部屋を出て、船内を散歩する事にした。もう迷わないで戻る自信もあった。

 しばらく歩くと、眺めの良いサロンに出た。そこには、窓に向かってソファーが並べられ、一人だけそのソファーに座って海を見ている人が居た。私も少し休もうと思い、ソファーの前に回る。一人で海を見ていたのはマダムローザだった。
 私は彼女に声を掛けてみた。「マダーム、ご一緒してよろしいですか?」
 彼女は私を見上げると微笑んで頷く。私は彼女のとなりに腰を下ろして海を見る。
 彼女が私の方を見て行った。「ヨーコ、エディ坊やはどうしたの?」
 「部屋でとても難しそうな本を読んでたので、邪魔しないように散歩に出て来たんです」
 彼女は微笑んだまま頷いた。私は少し考えてから、思い切って言ってみた。
 「もし宜しかったら、ヒットラーの龍の事を話していただけませんか?」
 彼女は私の顔をじっと見ると言った。「もちろん構わないわよ。何を話せばいいのかしら?」
 私は尋ねる。「マダムはヒットラーの龍使いだったのですか?」
 彼女は少しの間目を閉じた。そして言った。
 「エディ坊やは何て言ったの?」
 私は少し言い辛かったが、正直に言う事にした。
 「あなたはヒットラーの龍を使う為に生まれて来たのに、彼の龍の成長に間に合わなかったと」
 「彼はそう言ったのね。それであなたはそれにどう思うの?」
 私は海の方に目をむけて考えた。そして言う。
 「私は。そう、私はあなたが龍使いの使命を全うしたように思います」
 「どうしてそう思うの?」彼女が尋ねる。
 「マダムの中の悲しみが余りにも大きすぎて、私にはとても哀れに思えるのです」
 彼女は驚いたような顔をした。私は慌てて謝る。
 「すみません。とても失礼な事を言ってしまいました。もっと適当な言葉を見つけられれば良かったのですが。本当にすみません」
 彼女が言う。「構わないのよ。哀れってとても素敵な言葉だわ。つまりあなたは、私の悲しみを見て、龍使いの使命を果たしたと思ったのね」
 私は頷く。彼女が続ける。
 「あなたは龍使いの使命が何なのか知っているの?」
 私はもう一度頷く。
 「エディ坊やに聞いたの?」
 私は首を横に振って言った。「マダーム。龍使いが龍の事を良く知っているように、龍にも龍使いの事が判るものなのです。そして二人で最後の仕事へ向かって協力し合いながら走って行くものなのではないでしょうか」
 彼女は黙ってうつ向いていた。私は慌てて言う。
 「すみません。私、調子に乗って偉そうな事を言ってしまいました」
 「構わないのよ。そんな事を気にしているんじゃないんだから。ただ、あなたを見ていると、昔の事を色々思い出してしまうだけなのよ。だから気にしないで。思った様に何でも言ってちょうだい」そう言ってそっと微笑んだ。
 私は何を言って良いのか判らないのでしばらく黙っていた。
 しばらくしてマダムローザは問わず語りに語り始めた。
 「初めて彼に会ったのは、私が未だ小学生の頃だったのよ。父が外交官でドイツに居た時の事だったわ」
 彼女は一つづつ思い出しながら、そしてとても丁寧に言葉を選んで話した。
 「あの時、そうあれは父の主催したガーデンパーティーの時だったの。
 私は大人の集まりなので、自分の部屋の窓から楽しそうな大人達を見ていたのよ。その中にアドルフが居たの。
 彼はあまり目立つ感じじゃなくて、そうね、どちらかと言えばちょっと神経質な感じで、木にもたれてひっそりとしていたわ。
 その時私、彼に龍の影を見たの。それは未だ影でしかなくて輪郭さえもはっきりしていなかったわ。とってもびっくりしたわ。まるで二重写しの映像みたいな感じで、視線がある一点にある時だけそれは見えたの。
 初めは気のせいかと思ったのよ。でも、何度も見直して、その度にある一点に視線が合うとそれは必ず見えるのよ。
 それでパーティーが終わった後、私は父にその事を言ったの。父は、それがお前に見えたのならそれはお前の使う龍なのかも知れないと言ったわ」
 「お父様は龍についての知識がおありだったのですか?」私が尋ねた。
 「ええ。家は龍神族の家系だったのよ」
 「なのにお父様には見えずに、マダムにだけ見えたのですね」
 「ええそうよ。だって本当に未だ影でしかなかったのですもの」
 私は頷いた。
 「でもあの時、私は本当に未だ子供だったのよ。龍使いが何をするのかも知らなかったわ。それにその後すぐに父は日本に帰る事になって、私もついて帰ってしまったの。
 次に彼を見た時には彼はもう総督になっていたわ。影でしか無かった龍はしっかりとした質感を伴った龍に成長していた。そして、どの角度から見てもしっかり見えるようにもなっていたわ。それは思い出すだけで体がガタガタ震えるほど、怖ろしい姿をしていた。真っ黒で凶暴な目を見開いていた。
 エディ坊やのお爺さんがナーガラージャを集めたのも、あれがきっかけだったのかも知れないわね。
 世界中のナーガラージャに見る事が出来る程、彼の龍はしっかりしていた。今のあなたの龍と同じぐらい力を持っていたのよ。でもその力は神の力と悪魔の力ほど質が違ったけど」
 私は尋ねる。「誰が彼の龍を育てたのかしら?」
 彼女は力無く首を振ると言った。「いろんな人の欲が彼自身の欲を煽ったのよ。誰も彼に愛を与えなかったの。彼の側近に火の一族に魂を売った龍使いが居た事も確かなんだけど、でもその人は龍使いの本当の仕事を知らなかったの。だから彼の龍はあなたの龍の様に成れなかったのよ」
 「マダムはその後どうなさったのですか?」
 「大龍、エディ坊やのお爺様に頼んでドイツに渡らせてもらったわ。そして大龍の力でアドルフに近付いたの。その時は私ももう大人に成っていたから。それに龍使いとして何かをしないではいられなかったの。
 まず香港まで船で行って、大龍に、いろんな人に紹介状を書いてもらった。その上とても沢山のお金も持たせてもらったわ。大龍は私に賭けていたのよ。アドルフの龍を静められるのは私しか居ないのを知っていたのね。
 それで、それを持って私はまずイギリスへ渡って、その後ドイツに入ったのよ。いろんなつてを頼って、彼の、アドルフの別荘に潜り込んだの。
 その別荘には彼の愛人が居たのよ。エヴァと言ってとても美しい人だったわ。私は彼女の世話係としてその別荘に住み込んだ。彼女はとても彼を愛していたわ。でも彼女には龍の望む物を与えられなかったの。龍に愛を与えられるのは龍使いだけよ。お互いに求めても求めても与えられる事の無い、辛い生活だったのかも知れないわね。とても悲しいことだわ」
 マダムローザはとても寂しそうに言った。そして暫く目を閉じた。その後また遠くを見るような目をして話し続ける。
 「そう、あれはある嵐の夜だった。エヴァが外出して別荘に居ない夜に、突然アドルフがやって来たの。とてもひどい雨で、車を止めた所から扉までの間だけでずぶ濡れになった程の雨だったわ。私はずぶ濡れになった彼に驚いたもの。
 私はすぐにお風呂の用意をして彼の世話をしたわ。彼はエヴァが居ないので少しがっかりしていたけれど、外はすごい嵐で戻る事も出来なかったのよ。
 その夜初めて私は彼の龍と話したわ。その時彼が、疲れのせいか、雨に濡れたせいかは判らないけれど、すごい熱を出したのよ。私は一晩中付きっ切りで看病しながら彼の龍に呼び掛けたのよ。あなたは間違っているって。あなたの本質は愛なんだって、何故か彼の龍は私の事を知っていたわ。そして寂しそうな目をして言ったのよ。真黒で、恐ろしい彼の龍の目が、とても寂しそうだったのよ。そんな目をしながら龍は、なぜもっと早くに私の前に現われなかったんだって。
 私は泣いたわ。辛くって、悲しくって、胸が締め付けられる思いで泣いた。彼は自分が間違っている事を知っていたのよ。なのに彼にはどうしようも無かったのね。
 彼の龍は自分のして来た事を私にすべて見せたわ。私はそれをすべて受け入れようとした。それが龍の望む愛だったのよ。受け入れることが龍使いである私の愛でもあった。なのに私は彼が沢山の人を殺している所で恐ろしくなってしまったの。龍はそれをとても敏感に感じ取って私の心から去って行ったわ」
 マダムは目を閉じていた。そして涙が一筋こぼれ落ちた。
 私は言う。「マダーム。なぜ彼があんなに沢山の人を殺したと思われますか?」
 彼女は黙って首を振った。
 私が言う。「龍にとっては血が愛なんです」
 マダムは大きく目を見開くと私の顔を食い入るように見て言った。
 「そうだったの。それで彼はあんなに沢山の血を流す事を求めたのね。それだけ愛が欲しかったんだわ。可愛そうなアドルフ」
 私は目を閉じて言う。「血は暖かさであって、そして安らぎなのです。愛に充たされていればそれが判ります。でもきっと彼にはそれが判らなかったのでしょう。充たされない心に龍が目覚めた。龍には血を求める習性があるのかも知れません。でも、彼はその求め方を知らなかったのでしょうね」
 「それで彼はあんなに人の血にこだわり、そしてあんなに沢山の血を流したのね」
 私は頷いた。
 「彼が悪かったんじゃなかったんだわ。なのに私は彼を受け入れられなかった」
 「マダーム。でも彼はその後、あなたを受け入れたんでしょう?」
 彼女は小さく頷いた。そして言う。「そうね。それで彼は破滅に向かって突っ走ったのよ」
 私にはその事が良く理解出来た。
 「マダーム。あなた今彼と一緒に居ますね」
 彼女は頷いて言った。「良く判るわね。そうよ、私はいつも彼と一緒なの」
 そう言ってブラウスのボタンを一つ外すと、真っ赤なルビーのペンダントを取り出し、首から外して私に手渡してくれた。それは暖かく、そして小さく脈打っていた。私は手の中にヒットラーの龍を感じていた。
 彼女が言う。「最後の日に彼を訪ねたのはエヴァだけじゃなかったのよ。彼がエヴァを銃で撃った後、私がこの手で彼を撃ったの。そして彼の龍をこの石に移したのよ。その時初めて彼と私は一つに成れたの」そう言うと彼女は自分の手を見つめながら涙を流した。私は手の中のアドルフヒットラーに安らぎを感じていた。
 「マダーム。彼はとても安らいでいるわ。あなたの愛を彼は受け入れていたのね。そしてあなたも彼を愛していたのね」私はそう言って自分の龍を解き放した。

 サロンの入口をエディが走り込んで来るのを感じた。その後私はエディの目ですべてを見ていた。

 私の龍が部屋の中をゆらゆらと泳ぐ。抜け殻と化した私の体はソファーに倒れ込んで居た。
 エディは私の側に走って来ると私の体を抱き起こす。龍は穏やかに部屋の中を舞う。入口にはアルンも居た。アルンはただ呆然と立ちすくむ。
 私の龍がマダムローザのペンダントをくわえる。そして二度三度と大きく頭を振った。大粒の深紅のルビーから銀色の光が弾けた。その光が龍の形をとり始める。そして私の龍とヒットラーの龍が歓喜の舞を舞う。とても美しく、喜びに溢れていた。それはまるで、中華街の龍踊りのように、時には激しく、時には穏やかに、懐かしさを確かめ合う様に二頭が絡み合う。お互いに相手を確かめ、それに満足した二頭の龍は、しばらくの間見つめ合っていた。そして銀色のヒットラーの龍が静かに目を閉じ、金色の私の龍の中に飲み込まれて行った。それはとても自然で、飲み込まれると言うより、ヒットラーの龍が私の龍の体内に潜り込むという感じだった。
 マダムローザは大きく目を見開いてそれを見ていた。二頭の龍は息を合わせるようにして、何度も身をくねらせながら一つになった。最後に銀色の尾が見えなくなって、それは終わった。
 金色の龍は輝きを増し、初めより少したくましさを身に付けたように思えた。エディが私の手を取って指輪を回す。龍は音もなく空間に溶けるように消えた。

 私は耳元でエディの声を聞いた。
 「ヨーコ!ヨーコ!大丈夫かい?」
 私はゆっくり目を開ける。自分の目で周りを見た。そっと首を起こすとマダムローザが寂しそうに微笑んでいた。
 私は起き上がりマダムローザに言った。「ごめんなさい。あなたのアドルフを・・・」
 彼女はゆっくり首を振って言う。「構わないのよ。彼が望んだ事ですもの。それに、私もそれを望んでいたのよ。ありがとう。本当にありがとう」彼女はそう言って涙を流しながら私の手を握る。
 私はその手を握り返して言った。「本当に良かったのかしら。マダムは寂しくないですか?」
 彼女は少し微笑んで答える。「もちろん寂しいわ。でもこれで良かったのよ。だって彼あんなに輝いて、それにとっても喜んでいた。あの恐ろしかった暗黒の龍が嘘のようだったわ。あなたの龍に救われたのよ。きっと彼はあなたを助けてくれるわ。その為に一つに成ったのよ」
 エディが床に落ちたルビーを拾い上げると、マダムに差し出した。マダムはそれを受け取る。
 「ありがとう。彼の抜け殻ね。やっとこれで私の仕事は終わったのね」
 エディが頷く。
 「マダーム。龍使いのすべての使命を終えられたのですね。僕もマダムの様にやれるだけの事をやってみます」
 彼女は頷いて言う。「エディ坊や。大きくなったわね。そしてとても立派になったわ。あなたはヨーコがたとえどんな事をしても、彼女を愛し続けてあげてね。そして彼女を幸せにするのよ。それが龍使いの仕事なんですからね」
 「はい。マダーム。きっとそうします」そう言って握手を交わした。そしてマダムは私の方を見て言った。
 「ヨーコ。エディ坊やを信じるのよ。必ずあなたを幸せにしてくれるから。聖龍にしかあなたの求める物を与える事は出来ないのよ。だからお願いね」
 私は何も言わずにただ頷いた。
 私はエディに抱きかかえられるようにして立ち上がった。そしてもう一度マダムローザに頭を下げた。彼女も立ち上がって私を抱きしめてくれた。淡いバラの香りがした。

 私はエディに誘われてサロンを出た。彼は呆然と立ちすくむアルンの肩を叩いて言う。「アルン。しっかりしてくれよ」
 アルンは我に返って言う。「聖龍。大丈夫なのか?」
 エディが言う。「何が?」
 「ヨーコの事だよ。ふらふらしているじゃないか」
 私がふざけて言う。「アルン、大丈夫よ。少しおなかがすいただけだわ」
 エディが笑う。「今龍を一匹飲んだじゃないか」
 「でもまだ足りないのよ」
 アルンが隣で言葉を失っていた。
 「ヨーコ。アルンにジョークが通じていないよ」
 「アルンごめんなさい。私が悪かったわ。でも本当に大丈夫なのよ。でも何か飲物が欲しいわ」
 エディが言う。「部屋に戻ったら紅茶を頼んであげるよ」
 私は頷いた。
 エディがアルンに言う。「お前も一緒に来るかい?」
 彼は首を横に振って言った。「いや。用が有るからまたにするよ。後で会おう」そう言って私達と反対の方向へ歩いて行った。
 私達は部屋に戻る。私はまだ少しふらふらした。それは寝起きの時のようで、精神と肉体のバランスが巧く取れていない感じだった。
 彼は私を支えながら言った。「ヨーコ。君は本当に素晴らしいよ」
 「素晴らしいのは私じゃなくて龍でしょう」
 彼は腰に回した腕に力を込めて言った。「違うよ。君が素晴らしいんだ」
 私は首を横に振って、言う。「でも、あなたが来てくれて良かったわ。自分で龍を解き放てても収める事は出来ないのね」
 彼が笑う。「そうだね。普通の時は大丈夫だけれど、さっきみたいに完全に龍が出てしまうと、体は抜け殻になってしまうんだ。これからは僕が居る時にしか指輪を回さない様にしようね。そうすれば大丈夫だろう?」
 私は頷いた。そして言う。
 「きっと慣れるわ。いつもこんなにふらふらしていたら大変だものね」
 「そうだね。だけどいつもこうして僕が支えてあげるから心配はいらないよ」
 私は笑って言った。「頼りにしてるわ」
 「OK 任せて」

 部屋について彼は私をソファーに座らせると約束どおり紅茶を注文してくれた。
 「アルンがとても驚いていたわね」
 「彼は龍について何も知らないからね」
 「あら、それなら私もよ」
 「そうか、僕も新米の龍使いだから良くは知らないんだ」
 私達は笑った。
 「きっと彼もすぐに慣れるわ。ずっと私達と一緒に居てくれるんでしょう?」
 「そうだよ。アルンはずっと僕達を守ってくれる。頼りに成る男だよ」
 私も頷いた。「そう言えば、私が迷子に成った時フロントの人がアルンの事を隊長って呼んでたわ」
 彼は頷いて言う。「そうだよ。アルンは偉いんだ。龍と聖龍を守る特殊部隊の隊長さ。ナーガラージャの青年達は、みんなアルンに憧れて居るんだよ。憧れのスター。とても強くて頼りに成る」
 「そうなんだ。すごい!でも、内緒の話だけど彼恋人が居ないんだって。それで悩んでたわよ」
 「なるほど。それでヨーコに相談してたんだ。それでなんて言ってあげたの?」
 「まだ出逢ってないだけよって言ったわ」
 「確かに。それは素晴らしい答えだ」
 「だって、そうとしか思えなかったんですもの」
 「そのとおりだ。きっと彼も僕達みたいに運命的な恋に落ちるさ」
 「その時が楽しみね」
 「はい。そうだね」
 そんな話をしているうちにエディの頼んでくれた紅茶が運ばれて来た。彼は私のカップに紅茶を注いでくれる。
 私はその紅茶を一口飲んで言った。「おいしいわ。やっぱりあなたと飲む紅茶はいつも飛び切りおいしい。なぜかしら?」
 「きっと紅茶に魔法がかかって居るんだ」
 「龍と龍使い。それに今度は魔法使いまで出て来るの?まるでおとぎ話ね。それに私はシンデレラみたいに突然お金持ちに成っちゃったし」
 「君はシンデレラなんかじゃないね。僕が思うに、多分、眠り姫の方が近いよ」
 「だったら、あなたのキスで目覚めたのかしら」
 「違ったっけ?」
 「そうだったかも知れないわね。でももう忘れちゃったわ」
 彼は笑いながらカップをテーブルに置いて私の後ろに回ると体を屈めて口付けをした。
 「どう?思い出した?」
 私は笑って言った。「あら。目が覚めるんじゃなくて眠くなって来たわよ」
 「変だな。そんな筈無いんだけどな」
 「でも何だか気が抜けたのかしら、本当に少し眠いわ」
 彼は私の肩を抱いて言う。「そうかも知れないね。初めて龍が抜け出しちゃったんだもの。疲れていてもおかしくないよ。少し横になって頭と体を休めるといいよ」
 私は頷いて紅茶を飲み干すと彼にもたれかかった。
 彼は私を抱き上げるとベッドルームに運び、ベッドに横たえた。そして毛布を掛けると部屋を出て行こうとした。
 「エディ、何だか寂しいの。傍に居てくれない?」
 彼は微笑んで戻って来た。そして椅子をベッドサイドに持って来て座った。
 「これでいいかい?」
 私は頷いて目を閉じた。自分で思っていたより疲れていたのか、眠りはすぐにやって来た。

 私は夢を見ていた。いや、それは夢じゃなかったのかも知れない。しかし私は初め、夢だと思っていた。
 ベッドルームにブルーの光が満ちていた。その中心にエディが居た。ブルーの光はエディから出て居た。龍が居た。ブルーの光の中を穏やかに龍が泳ぐ。龍はエディの周りを回る。私には龍が聖龍としてのエディを試しているように思えた。私には何も聞こえない。しかし龍が何かを言うとエディの光がほんの少しだけ揺らぐ。しかしその光の強さは変わらない。
 私はエディの心に耳を澄ます。私への愛を彼は龍に示していた。龍が彼を挑発する。彼はそれに動じない。そして心を開き続ける。次の瞬間彼の光が大きく揺らいだ。私は彼が大きく動揺したのを感じた。それが良く無い事だと言う事も直感的に理解した。私は焦った。彼を助けなくてはいけないと思ってもがいた。目覚めさえすれば良いと思った。しかし私は眠りに捕われていた。体が動かない。言葉になるかどうかは分からなかったが、私は力一杯叫んだ。
 「私にも見せて!」
 その途端、エディの中のヴィジョンが私の中に飛び込んで来た。それは見るもおぞましい光景だった。私が大龍の上に股がり、大きなナイフで胸を切り裂いている。そして大龍の胸に手を突っ込み心臓を掴み出し、それを大きな口を開けてかぶりつく。大龍は血に塗れ、大きく目を見開いて事切れていた。私はその血を浴び、髪を振り乱し、まるで悪魔のような顔で心臓を口にしていた。
 私は叫ぼうとした。「いやだ。やめて」そう叫びたかった。しかし声は出ない。私はエディに助けを求めようと彼を見た。彼は初めと同じ様子で椅子に座って居た。そして私は彼が微笑むのを見た。私は自分の悪魔のような姿よりも、彼が微笑んで居ることの方に、怖れの様な感情を持った。
 「どうしてなの?何故あなたは微笑んで居るの?」
 彼は私の問に答えた。「それもヨーコなんだよ。僕の愛するヨーコなんだ」
 私は大声で叫んだ。言葉にならない叫びだった。それで眠りから逃れる事が出来た。

 目覚めた時も夢の中と同じ様にエディは座って居た。私は重い体をやっとの事で操り、ベッドに起き上がって言う。
 「エディ、龍はあなたに何をしたの?」
 彼は夢の中と同じように、穏やかに微笑んでいた。そしていつもの彼の優しい声で言った。
 「君は見なくて良かったのに」
 「あなたが戦っていたのに私は何も出来なかったのよ」
 彼は黙って首を横に振った。

 私はベッドを下りて彼の側に行き、そして彼の足元にひざまづいて彼の手を取った。
 「何故。何故あなたは微笑んだの?」
 彼は夢の中と同じ口調で言った。「あれもヨーコなんだ。僕の愛するヨーコなんだよ」
 私は彼の手を取って泣いた。
 彼はそんな私の髪を撫でて言った。「泣かないで。ほら、もう大丈夫だから」
 私は彼のそこ知れぬ強さを感じていた。そして彼と出逢えた事に感謝していた。エディは龍との戦いで、しばらくは立ち上がる事も出来ない程疲れていた。
 私は彼の膝に頭を乗せて彼の存在を感じていた。
 窓の外では真っ赤な夕日が沈もうとしていた。

 夕食はルームサービスにして、二人だけでゆっくり食べた。
 私が言う。「エディ。あなたが試したのね」
 彼は微笑むだけで答えなかった。私はきっと彼が自分を試したのだと思った。
 「ねえ、明日は何時に神戸に着くの?」
 「12時だよ」
 「何だか変な感じよ」
 「何が?」
 「良く判らないけど、日本に帰るって何だか変よ。だって、日本には私の生活があったのよ。でも明日神戸に着いても、もう私の生活は何も無いわ」
 彼は少し困ったような顔をして言う。「ごめんね。僕が君の大切なものを全部壊してしまったね」
 私は彼の言った大切なものについて考える。
 私にとって大切なものっていったい何だったのだろう。
 仕事?生活?そんなものになんの価値があったんだろう。良く判らなくなっていた。
 私は彼の顔を見た。彼は心配そうに私を見ていた。私は彼に微笑んでみせる。
 「今、私にとって大切なものって、あなたしかないわ。マダムローザが言ってたじゃないの。私の望むものは、聖龍にしか与えられないって。それって素晴らしい事だわ。だってあなたと居れば、私は必ず与えられるって言う事だもの。そうでしょう?」
 彼はゆっくりと頷いた。「そうだね。僕はきっと君の望むものを与えてみせるよ」
 私は死について考えていた。彼に与えられる穏やかで愛に満ちた死。
 「ヨーコ。もう死について考えるのは止さないか。僕達はまだ生きている。それにまだ結ばれたばかりだ。僕は君ともっと楽しみたいんだ」そう言って立ち上がると私を後ろから抱きしめた。
 私は彼の胸にもたれ掛かって、言った。「そうね。私も、もうしばらくは生きていたいわ」
 彼が言う。「僕達は良く気が合う」
 私が言う。「夫婦ですもの」
 彼が笑う。「そうさ。ただの夫婦だよ」

 その夜私達は二人で抱き合って眠った。とても深く、そして安らかな眠りだった。



 私は朝日を浴びて目覚めた。彼はもうベッドには居なかった。時計を見ると8時を回ったところだった。
 彼は本当にいつも早起きだ。私はベッドの上で伸びをした。手や足の先まで意識を通わせる。とても気持ちの良い朝だった。私はベッドの上で彼を呼んでみた。
 「エディ!」
 彼がドアを開けて首を出す。「ヨーコ。おはよう。気分はどう?」
 「とってもいいわ」
 「それは良かった」
 「あなた何してるの?」
 「君が起きるのを待っていたんだよ」
 「起こせばいいのに。おなかがすいたんでしょう」
 「良く判るね。でも君がとても気持ち良さそうに眠っていたから、起こしたり出来なかったんだよ。それにヨーコを起こすのは大変だからね」
 「どうして?」
 「もう忘れちゃったのかい?ほら、パリから香港に飛んだ朝の事」
 「そう言えばそんな事も有ったわね」
 私はベッドの上に起き上がり髪を捌いた。
 「私ひどい顔してない?」
 彼は微笑んで答えた。「チャーミング」
 私も微笑んでベッドを下りて言う。「シャワーを浴びて用意するから、もう少し待っていてね」
 彼は「OK」と言ってドアを閉める。

 用意がすんでベッドルームを出ると彼は電話で話していた。私は彼の電話が終わるのを待つ。
 彼は電話を終えると言った。「アルンが食事をしながらこれからの予定を話してくれるって」
 私は頷いた。

 二人でレストランへ行ってアルンを探したが、彼は未だ来ていなかった。窓際の席に座って朝食を頼んだ。
 アルンはすぐに来た。私達は食べながら話す。
 アルンが言う。「正午に入港して入国手続きを済ませ、神戸のホテルに案内するよ。其処で今日は一日ゆっくりしていてくれ。それで明日の朝、高野山に向かう。聖龍、それでいいか?」
 エディが頷く。
 私が尋ねる。「高野山で何をするの?」
 エディが答える。「偉いお坊さんにいろんな事を教えてもらうんだ」
 私はよく判らないままに頷いた。
 エディが言う。「その日程すべて整うんだな」
 アルンが頷く。
 「ありがとう」エディが言った。
 私が尋ねる。「その後はどうするの?」
 エディが答える。「琵琶湖、熊野、四国、そして出雲に行くことになると思うよ。でも行ってみなければ判らない。もっと行かなければならない所があるかも判らないし、行けなくなる所があるかも知れない。きっと龍が教えてくれるよ」
 私は首を横に振って言う。「あなた達に任せるわ。でも私の家に帰れるのかしら?」
 アルンがエディの方を見る。
 エディが答える。「ヨーコ。しばらくは無理だと思うよ。でもどうしても帰りたいのなら何とかするよ」
 私は少し考えた。まだ帰る必要に迫られてはいなかったので私は言った。「別にいいわ。でも時間が空いたら言ってね。洋服なんかも入れ替えたいから」
 エディが頷いた。
 私が言う。「アルンはずっと一緒にいてくれるの?」
 アルンが答える。「ああ。僕が運転手だよ。新婚夫婦の邪魔かも知れないけどね」
 エディが言う。「アルンの運転はとっても安全なんだ」
 私はアルンに手を差し出して言った。「よろしくお願いします」
 彼はその手を握って言った。「こちらこそよろしく。栄えある役目をありがとう」
 私が尋ねる。「龍には慣れそう?」
 アルンが答える。「多分ね。でも昨日のには驚いたよ」
 「私だってそうよ。だって私はあなたより龍について何も知らないのよ。つい最近までただのおばさんだったんですもの」
 「それにしては落ち着いていた」
 「ただ気が強いだけなのよ。おばさんの図太さかも知れないわね」
 エディは笑って見ている。そしてタイミングを見計らって言った。「みんな何千年も待ち続けてたんだ。知っている人なんて誰も居ないよ。みんなが初めての事なんだ。だから慎重にやろう」
 アルンが頷いた。
 「どこのホテルに泊まるの?」私が尋ねる。
 アルンが答えかけるのを止めてエディが言った。「六甲山にある僕達のホテルだよ」
 「ナーガラージャのホテルなのね」
 彼は頷いた。私はそれ以上尋ねなかった。
 「高野山ってまだ雪は降っていないのかしら?」
 アルンが答える。「大丈夫みたいだよ」
 「そう。でも寒いんでしょうね」
 エディが言う。「大丈夫だよ。でも暖かい格好をして行こう」
 私は頷いた。
 エディがアルンに言った。「敵の状況はつかめたか?」
 アルンが答える。「大体だ。船を降りれば正確な報告が出来ると思う」
 エディは頷いた。
 私は紅茶を飲みながら窓の外に目をやる。そこには確かに日本の風景が拡がっていた。
 「日本に着いちゃったわね」私が言う。二人共窓の外を見る。
 「本当だ。確かに日本に着いたようだ」エディがそう言って私に笑顔を向けた。
 私は微笑み返して言う。「懐かしい?」彼は肩をすくめてみせた。
 「私も良くは判らないわ。何だか私の国じゃないみたいな気もするし。でも船を下りたらホッとするのかも知れないわね」
 「少なくともみんな日本語をしゃべってるよ」
 「そうね。これからは微笑んでるだけでは済まないわね」
 彼が笑った。
 「大丈夫さ。未だパーティーの予定は無いから」
 「良かった。でも未だ無いだけなのよね」
 「そうだね。でも君は多分巧くやれるよ。君は黙っていたってみんなに気に入られる」
 私はアルンの方を見て言う。「アルン以外にはね」
 アルンが慌てて言った。「僕はヨーコを気に入らなかったっけ?そんな事無いだろう?」
 私は笑って言う。「ただチェックが厳しかっただけよね」
 エディが笑って見ていた。アルンはとても困っていた。
 私は少し意地悪だったと反省して続ける。「アルン。気にしないで。冗談なんだから。あなたは初めからとても親切だったわよ。私はあなたの事を、とっても頼りにして居るのよ」
 エディも言う。「そうさ。ヨーコは初めからお前の事をとても気に入っていたんだ。頼むぞ」
 アルンが真顔で頷いた。

 私達は食事を終えて部屋に戻り荷物をまとめた。
 私がするのをエディが横で見ていて言う。「ヨーコ。僕がやるよ。君に任せるともう一度香港まで戻ってしまいそうだ」
 「香港までで片付けば、たいしたものよ。パリまで戻っちゃうかも知れないわ」
 彼は肩をすくめて私を退かせ荷物を詰めた。
 私はバスルームの自分の化粧品などをまとめて彼の側まで運ぶ。彼はとても手際良くそれを詰め込む。私はそれを見ながら言う。
 「あなたってとても才能があるわ。香港のあなたのおうちの時もそうだったし、パリで私の部屋からあなたの部屋へ移る時もそうだった」
 彼は笑いながら荷物を詰める。そして言った。「香港から出る時に一人で良く出来たね」
 「そう。あの時も途中でだめかと思ったのよ。でもお昼御飯を食べて戻ったら何故かとても巧く入ったの。それがとても嬉しかったわ。でもトランクケースに鍵を掛け終えた途端にとっても怖くなったの」
 「そうだったね。でも君の機転で助かったんだ」
 「違うわ。あなたが助けてくれたのよ」
 彼は全部詰め終えてトランクケースを閉じた。
 「ほら。終わったよ」
 「どうもありがとう」私が言った。
 彼は微笑んで言った。「どういたしまして。これからも僕の仕事になりそうだね」
 「その内に私も巧く出来るように成るかも知れないわよ」
 「構わないよ。上手な方がやればいいんだ。そんなに大変な仕事じゃない」
 「龍を使う事にくらべればね」
 彼は笑った。
 彼は電話でボーイを呼び荷物を運ばせた。

 しばらくしてエンジンの音が変わり、船は静かに神戸港に接岸した。