龍 6 香港 神戸(T)
 香港の街が見えなくなって私達は船室へ戻った。

 エディは私を先に部屋に入れ、自分も入るとドアを閉める。そして私をそっと抱き寄せ口付けをした。とても優しく丁寧な口付けだった。
 そっと唇を離して言う。「愛してる」私は彼の暖かさに包まれ、触れ合う事の喜びを感じていた。
 私は彼の胸に頬を付け、心で尋ねた。「いつ私はあなたの妻に成れるの?」
 彼は声に出して答えた。「今すぐにでも」そう言って彼は私を抱え上げるとベッドに運んだ。彼は私に覆い被さると強く抱きしめる。私の中でまた何かが大きく動いた。
 彼はそっと体を離し横に座り私の髪に触れる。私は戸惑いを感じていた。
 彼は言った。「もう少し時間を掛よう」
 私は起き上がり、彼を押し倒して彼の胸に耳を付ける。彼の鼓動がトクットクッと規則正しく聞こえた。彼はずっと私の髪に触れていた。私は頭を起こし、彼の胸や肩に触れながら言った。
 「ねえ、龍が起きる時の事を教えて」
 彼は倒れたままの姿で答えた。「そうだね。多分僕達が愛し合う事で目覚めるはずだ」
 私は問う。「それってSEXするって言う事?」
 彼が答える。「多分ね。でもそれだけで完璧かどうかは判らない。そうすることで目覚めても、また眠ってしまうかも知れないから。多分完全に目覚める為には愛の深さが大切なんだと思う」
 「私達は愛し合っているわ。このままSEXすればきっと目覚めるわね」
 「それは判らない。僕が君を抱きしめるといつも龍が動く。その時君はどうしても心を閉じてしまう」
 「怖いの」
 彼は頷いて言った。「判っている。そのまま僕が君を抱けばいいのかも知れない。でも僕も不安なんだ。一度起こすのに失敗した龍は巧く使えなくなる。それに僕は情熱だけでSEXするほど若くないのかも知れない」
 「でも、何時かはそうしなければいけないのでしょう?」
 彼は頷く。
 私が続ける。「後でトライしてみましょうよ」
 彼が私の顔を見る。
 私は目で笑って言う。「私だって正常な女よ」
 彼も笑って言った。「僕みたいに他で済ませるわけには行かないって言う事かな?」
 「冗談よ」私もちゃんと笑った。
 私は今のままで十分満足していた。生まれて初めて、他人によって満たされている。これ以上何を望むと言うのだろうか。ただエディの望むものを与えられない自分に苛立っているだけなのだ。彼は私の心を読んでいる。
 私は彼の悲しみを感じていた。なぜ悲しむのだろう。幾ら彼の心を探っても、その悲しみの出所は判らなかった。多分彼にも判らない感情なのだろう。出逢った事を悲しんでいるのだろうか。それとも生まれて来た事をだろうか。これが私の知っているエディ・リーの姿だ。この悲しみこそが彼の本質なのだ。
 私は心の手で彼の悲しみにそっと触れてみた。柔らかくて暖かい手触りだった。そしてそれはとても懐かしい香りがした。その香りに誘われて、涙が込み上げて来る。
 私は何も言わずに彼の胸に顔を埋めてしばらく泣いた。とても幸せな涙だった。泣く事で心が解放されていた。その後、解放された心に何かが流れ込んで来るのを感じた。
 ドクッドクッと規則正しく流れ込む。赤く、暖かく、そして力強い。血だ。それが彼の言う龍の正体なのだろうか。
 心に流れ込んだ血は私の体にも流れ込む。彼がずっと私を見ていた。不安はなかった。彼の心が私の中に居るのを感じていた。そして穏やかに見守られている安心感。
 どんどん私の体の中に龍の血が流れ込む。彼が私の体を強く抱きしめた。もう何も動かない。私は私の龍が彼を受け入れたことを感じていた。
 どの位抱き合って居たのだろうか。船窓から見える空はもう真っ暗だった。私は起き上がって灯を付けた。何だかとても照れ臭かった。
 エディはベッドに座って目を閉じていた。私は彼の前に屈み込み彼の両手を取った。
 彼が目を開ける。穏やかな瞳だった。
 彼が言う。「ありがとう」
 私は首を傾げる。
 「愛してる?」私は馬鹿げた質問をした。
 彼は微笑んだ。そして私を抱き起こし、抱き上げて言った。
 「ヨーコ。僕は生まれ変わって本当に良かった。僕はこんなに満たされたんだ」
 彼は子供のようにはしゃいで、部屋の中を私を抱いたまま歩き回った。その時、部屋の電話のベルが鳴った。
 エディはその電話を受けて私に言う。「アルンが食事を一緒にしないかと言って居るんだが、どうする?」
 「お化粧を直してから行くわ」彼はそれをアルンに伝えると電話を切った。私は急いで化粧を直し、髪をチャイナ風にまとめ、パリでもらったドレスを着た。もちろんエディもタキシードを着た。

 私は彼にエスコートされてレストランに入る。
 アルンは窓際の席で友人と話していた。私達が席に付くと彼らは黙り込んだ。
 エディは微笑んで言う。「邪魔だったかな?」
 アルンはかぶりを振り、ゆっくりとした口調で言った。「いや、驚いていたんだ」
 私が尋ねる。「私達、何か変?」
 アルンが答える。「そうじゃない。余りにも美しいんで驚いて居るだ」
 私はエディの顔を見て言った。「昨日の私とそんなに違うかしら?」
 エディがアルンを見る。
 アルンが言う。「輝いてるんだ。まるで別の世界の人のように見える」
 エディは穏やかに笑った。私には良く判らなかった。
 エディがテレパシーで言う。「ヨーコの龍が目覚めかけて居るんだ」
 私は言った。「そう言えばアルンも昨日よりハンサムよ」
 私達とアルンの友人が笑った。そして雰囲気が少しカジュアルに変わった。
 エディが言う。「アルン。君の友達を紹介してくれないか」
 アルンは頷いて言う。「沢村夫妻。こちらが一男さんで、こちらが裕美子さん。彼は若いけれどとても優秀な医者だ。そしてこちらが李聖龍とその妻、エディとヨーコさん」
 私達は握手を交わした。
 一男さんはエディに会えた事でとても感激しているようだった。きっとエディに付随する何かが彼を感激させたのだろう。取敢ず私は、日本語で話せる事でほっとしていた。
 挨拶が終わるとウエイターがシャンパンを持って来てみんなのグラスに注いでくれた。それでカンパイをし、食事を始めた。
 沢村夫妻は新婚旅行を兼ねてこの船に乗ったと言った。一男さんが28歳、裕美子さんが25歳。私は彼らの若さが羨ましかった。新婚の若い二人は屈託がなく、とても楽しそうに見えた。
 「いいわね。新婚旅行って」私が言う。
 エディはあきれたように言った。「僕達だってそうじゃないか」
 アルンが声を立てて笑った。「エディ。お前ヨーコさんと結婚したんじゃなかったのか?」 
 エディが私の方を見て言った。「ヨーコ。確か僕達は結婚したよね」
 私は考え込む。「ねえ、私達って何時結婚したのかしら?」
 エディがアルンに言う。「そう言う事なんだ。僕達はいつの間にか結婚していたものだから実感がないのさ」
 みんなは冗談だと思って笑った。
 私も笑いながら、結婚記念日を何時にするべきか考えていた。やはりロワールからパリに戻ったあの日なのだろうか。特別なお酒で乾杯したあの夜。
 私達はとても和やかに食事をした。食事を終えて沢村夫妻は引き上げて行った。

 私達は三人で最上階にあるバーに移った。窓ガラスがとても良く磨き込まれていて、遠くの船の灯や、降るような星が座ったままで見えた。とてもロマンチックなバーだった。
 アルンがどちらへともなく言う。「新婚の邪魔をして悪かったかな?」
 私は首を横に振った。
 エディとアルンは英語で何かしばらく話した。アルンは信じられないという顔で首を振る。そして言った。「ヨーコさん」
 私は言う。「ヨーコでいいわ」
 彼が言い直す。「ヨーコ。君は李家についてちゃんと知らないんだって?」
 私は答える。「エディがとてもお金持ちだって言う事を教えてくれたわ。それにナーガラージャって言う組織をお爺様が作ったって言うお話も聞いている」
 アルンは頷いて言う。「それに対して君はどう思っているの?」
 「どう思うって?エディがお金持ちで、李聖龍という名前を継いで、その妻に私が成ったって言う事に対してかしら?」
 アルンが頷く。
 私はしばらく考え、そしてどちらへともなく言った。
 「ねぇ、私何もかも良く理解出来ていないのよ。今私が言ったことも理解しているのじゃなくて、ただ彼に言われた事を覚えているだけよ。でもね、私にとってそんな事はどうでもいいことなの。何故なら、私にはすべてが特別すぎて、何もかもが嘘だっていいって言う事。そして何もかもが本当の事でも、同じ事だわ。巧く説明できているかしら?」
 アルンが言う。「何となくだ」
 私は続ける。「きっとあなた達にとってはとても大切な事なんだろうけれど、私にはどうでもいい事なの。でもきっと私にとってとても大切な事が、あなた達には取るに足らない事だと思うわ。生きてきたシステムや価値観が違い過ぎるのよ」
 アルンが尋ねる。「ではなぜ君は此処に居るんだい?」
 私は微笑んでエディを見た。「彼を愛しているのよ」
 アルンが言う。「知り合ってまだ一週間も経っていないのにかい?」
 私は大きく頷く。エディは黙って微笑んでいた。
 アルンが意を決した様に言った。「僕は嘘が付けないから本当の事を言うよ。気を悪くするかも知れないけど許してくれ」
 私は首を振って言う。「大丈夫よ。気にしないわ。だからあなたの思うように言ってみて」
 彼が頷いて話し始めた。「僕が知っているだけでも、エディとの結婚を望んだ女性はとても沢山居たんだ。僕には考えられない程の数だ」
 私は頷いて相槌を打つ。「そうでしょうね。彼はとても素敵で、優しくって、その上大財閥の一員なのでしょう?女性にとってこれ以上の条件はないものね」
 その後はアルンが言いにくそうなので私がかわりに言う。
 「私も彼の条件が気に入ったんだってあなたは思うのね?」
 彼は小さく頷いた。
 私は少し考える。そして言う。「だったら良かったのに」
 私はそれについて考えた。しかし結論がどうしても導き出せない。私はアルンに言う。
 「ねえ、それについて説明するのには、少し時間を貰えないかしら。自分でも良く判らないのよ。私にとって今までの生活を捨ててしまう程の価値がエディにあったのかどうか。あなたには理解できないかも知れないけれど、私、自分の生活に結構満足していたの。自分の仕事に対しても愛情を持っていたわ。
 私、働く事って大好き。自分のした仕事が誰かに認められたり、私の技術や経験を必要としてくれる人が居るって言う事に対してとても満足していたわ。確かに離婚は辛かったけれど、悲しんだり辛がったりしている自分がいとおしくもあった。
 なのに何故か私はそのすべてを捨ててエディについて来てしまった。何故なのか自分でも本当に良く判らないのよ」
 アルンが良く判らないと言う様な顔をして私を見ていた。そんなアルンに私が尋ねる。
 「じゃあアルン。エディは何故そんなに沢山の女性の中から私を選んだんだと思う?」
 アルンはエディの方を見る。エディは微笑んだまま何も言わない。アルンは仕方なさそうに答える。
 「確かにヨーコは美しい。しかし、それだけならもっと美しい女性が居たと思う」
 私は頷く。それを見て彼が続ける。「それに頭もよさそうだ。でもそれにも同じ事が言える」
 私はやはり頷いた。
 「僕には龍が居たからだとしか思えないんだ」
 彼はとても正直だった。
 私は微笑んで言った。「そうね。その答えはとても当を得ているわ。そしてあなたはその事を快く思っていない」
 彼は困ったような顔をした。エディがアルンを助けるように言った。
 「アルン、ヨーコが言ったように少し時間を掛けよう。この船が神戸に着くまでに、きっと君の納得できる答えが得られると思うよ」そう言って私の方を向いて、とても素敵に笑った。私もそれに対して笑顔を返した。
 私達は話題を変えてしばらく他愛のない話をし、何杯かのお酒を飲み、とても寛いだ時間を過ごした。そしてエディは席を立つとアルンに言った。「明日また会おう」そして私の手を取って立たせるとバーを出た。

 歩きながら彼は言う。「ヨーコ。アルンの事どう思う?」
 私は答える。「私、彼の事好きだわ。とても正直だし、あなたの事をとても大切に思っている。良い人みたい」
 「Good! 素晴らしい。君は人を見る目がある」
 私は笑った。「それはどうかしら?人を見る目があったら離婚するような事にはならなかったんじゃないかしら。それにこうしてあなたと居たかどうかも怪しいものよ」
 彼は私の腰を抱いて言った。「君に人を見る目が無くて良かった」
 私達は笑った。

 船室に戻り私達は部屋着に着替えて寛いだ。彼がお風呂の用意をしてくれた。
 「あなたって本当に良く気が付くし良く動くのね」
 「君に任せると、きっとお湯を溢れさせたり、栓を忘れたりしそうだからね」
 「かも知れない。でも、多分私にも出来ると思うわ」
 「じゃあ今度頼もうか」
 「でも面倒臭そうだからやっぱりあなたに任せるわ」
 「ほらね。やってみる前からもう面倒臭いって言ってるよ」
 「ねえ、あなたが居るとメイドもいらないわね」
 「僕は二人だけで居るのが好きなんだ。でも何時か一所に落ち着けたらちゃんとメイドも置けばいいよ」
 私は驚いて言う。「いやよ。私、自分の事ぐらい自分で出来るわ。それにそんな大きな家に住むのなんていや」
 彼が言う。「寂しいから?」
 私は頷いた。
 彼は微笑んで私の肩を抱き、頬に口付けするとバスルームのお湯を止めに行った。そして戻って来ると嬉しそうに言った。
 「完璧だったよ。やっぱり僕はお風呂の用意をするのに向いているのかも知れない」
 私は笑った。
 彼が言う。「一緒に入ろうか」
 私は迷った。
 彼が私の手を取ってバスルームへ連れて行く。「一緒に入ろう!」
 彼の声に急かされ、私は服を脱いで先にバスタブに入った。彼は後から入って来て隣に座る。二人並んで入ってもゆったりとしているぐらい大きなバスタブだった。
 私が尋ねる。「このバスは誰が選んだの?」
 「母だ」
 「素敵なお母様だったわね。あなたもアンディも、目がお母様に良く似ていたわ」
 彼は頷く。「でも彼女はとても可愛そうな人だ。龍に夫を奪われた」
 私は何も言えなかった。彼は私を抱き寄せると言った。
 「僕は君にそんな思いをさせないで済む。良かった」
 「だって私が龍ですもの」そう言ってくすっと笑った。
 彼はいつものオイルマッサージをしてくれた。
 「お姫様の気分よ。もしかしたらこれのせいであなたについて来たのかも知れないわね」
 「明日アルンにそう言ってやれば?」
 私は笑いながら言った。「彼、きっと真っ赤になるわよ」
 エディも笑いながら言った。「はい」

 お風呂を終えて私達はリビングで寛いだ。
 私は彼に尋ねる。「あなたさっきアルンと何を話したの?」
 彼が首を傾げる。
 「あなたが何か言ってからアルンが質問を始めたのよ」
 彼は頷いて言った。「アルンは君の事を知りたがっていたんだ。だから君と会って二日目には結婚を決めていた事や、君は僕の事を何も知らずに僕について香港まで来た事を言ったんだよ」
 「それに対してあなたはなんの説明もしなかったのね」
 彼は頷く。
 「本当に変よね。アルンじゃなくったって変だって思うわ。でも私達は愛し合う為に生まれて変わって来たんですもの、当たり前の事だったのよね」
 「はい。龍のせいじゃない。龍が僕達の愛を利用したんだ」
 私は頷く。そして考えた。アルンはいったいどんな答えを求めて私に質問したのだろうか。
 私はエディの心を覗いてみた。ホテルで彼を強く求めてから、彼の心を覗く事が簡単になっていた。彼の心はとても穏やかに澄んでいた。それを知って私は考える事を止めた。きっと答えは向こうからやって来るだろう。それを待ってアルンに伝えよう。
 私は少し疲れていた。「エディ。私眠いわ」

 彼が立ち上がるとベッドの用意をしてくれた。私はベッドに滑り込む。
 彼が言う。「僕は向こうの部屋で寝ようか?」
 私は首を横に振って言う。「此処で寝て」彼は微笑み頷いた。
 「じゃあ先に寝てなさい。後で僕も来るから」そう言ってリビングへ出て行った。しばらくして彼がベッドに入って来た。私達は抱き合い、そして口付けをして眠った。完璧な眠りだった。



 朝私は何処に居るのか判らなかった。隣で美しい東洋人の男が眠っていた。エディ。私はそっとベッドを降りてシャワーを浴びた。
 バスルームを出ると彼はローブをはおって煙草を吸っていた。
 「おはよう」私は言った。
 「おはよう。今日は早起きだったんだね」彼が言う。
 「あなたの寝顔が見たかったのよ」
 彼が笑う。「どうだった?」
 「朝起きたら、隣にとても美しい東洋人の男の人が寝てたわ」
 彼は吸っていた煙草にむせて咳き込んだ。
 私は言う。「おじさん大丈夫?」
 彼は煙草を消して私の後ろに回ると私の首に腕を回して言った。
 「おじさんはないんじゃないの?」
 私は笑って言う。「お兄さんだったかしら?でもアンディの子供達はおじさんって呼ぶんでしょう?」
 彼は腕を解いて言った。「みんなエディって呼ぶよ」
 「それってバカにされてるんじゃないの?」
 「かも知れない。頼りないおじさんだからね」
 私は大きく頷いた。
 彼は大きな声で言った。「ヨーコ!」
 私は彼から逃げ出して言う。「頼りにしてるわ。エディおじさま!」
 彼は諦めてバスルームへ行った。私は朝からとても元気だった。きっと良く眠れたせいだ。

 エディがシャワーを終えるのを待って、私達はレストランへ行った。
 窓際の席に座り海を眺めた。とても穏やかな海。この先に日本が、そして新しい自分の生活がある。
 私が尋ねる。「ねえ、どうしてこの船はこんなに穏やかで安全なの?」
 彼はそれに答える。「この船に乗っている人達すべてがナーガラージャ達だからだよ」
 私は驚いて言う。「みんなそうなの?」
 「違うのは君一人だ。君は龍だからね。乗務員も乗客もみんなそうだよ。だってこの船は祖父のパーティーに出席する人の為の船だったんだもの」
 「だったらおじいさまが突然パーティーの日取りを繰り上げて、大変だったんじゃないの?」
 「多分ね。でも、タイロンのためだったらみんなどんなことでもするよ。それに僕の結婚披露があるって噂が立って、初めの予定より沢山集まったらしい」
 「みんな忙しい人なのに?」
 「それがナーガラージャって言うものなんだ」 
 私は心の中で『大変なことになった』と思ったが、そのことについて深く考えるのはやめた。
 「じゃあ、私はパーティーでみんなに会って居るのね」
 「はい。だけど人が多すぎて僕だってほとんど覚えていないけどね」
 私は溜息をついた。彼は微笑むと食事を続けた。
 私はしばらくしてまた彼に尋ねる。「ねえ、そんなに沢山のナーガラージャが居るのになぜ一般の人達はその事を知らないのかしら?」
 彼は言葉を選びながらゆっくり答える。「それはナーガラージャ、つまり龍神族の歴史について説明しなければ解らない事だ。何時か加藤が話した事と重複すると思うけど、虐げられた者たちの歴史なんだ」
 何だか暗い話になりそうなので聞くのが面倒に思えた。「エディ。私はそれについて知る必要があるかしら?」
 彼は首を横に振った。そして言う。「ヨーコは知らなくてもいい事だ」
 「じゃあ、一度に聞くのは止めましょう。私はあなたやアルンを信じるわ。そしてあなたの尊敬するお爺様が作った組織ですもの、きっと必要があって作られたんでしょう?」
 彼が頷き、言った。「そうだ。ヨーコは何も心配する必要はない。僕が今その話をして君の心に悪い感情が芽生えたりしない方が良い。君は愛によって龍を目覚めさせるんだ。必要な事は必要な時期が来れば自然に判るさ。ただこれだけは知っておいてくれないか。ナーガラージャはとても大きな組織だ。そして力もある。しかし犯罪やそれに準ずる行為は全く無い。だから安心して」
 私は頷いた。何となくそんな物が在っても良いような気になっていた。彼は穏やかに微笑むと私に向かって頷いた。
 私は質問を変える。「エディ、あなたは愛についてどう考えるの?」
 彼は窓の方を向いて考えた。私はお茶を飲みながら答えを待つ。暫くして彼が言った。
 「僕にとっての愛は、君だ。君の存在が僕にとっての愛のすべてだと思う」
 今度は私が考える番だった。私はどんな答えを期待して尋ねたのだろうか。優しさ、思いやり、情熱だとか忍耐、そんな言葉を期待していたのかも知れない。しかし彼は、私が愛だと言った。私は彼の心を覗いてみた。彼の中に私が居た。彼の中で私は人間で、ただの女だった。そして彼はそれをいとおしく思っていた。私が私を思うよりもっと私を受け入れようとしていた。私の嫌いな私も、彼はいとおしく思っている。私は彼の強さを知った。そして私は言う。「エディ、あなたって強いのね」
 彼は首を傾げて笑う。そして言った。「何度も何度も生まれ変わって、やっと君を手に入れたんだよ。その間に鍛えられたのさ。でも君はいつも変わらない。いつもとてもピュアーで、それでいて心が強い。僕はいつも君の心に鍛えられてきたのさ」
 私は尋ねる。「私の心が強いの?」
 「強いって言うと意味が少し違うかも知れないが、君の心はとても柔らかく、そして硬い。その上とても弱くてそれでいて強くもある。そして信じると言う事に長けた心だ」
 「誰でもそうなんじゃないかしら?」
 彼は首を振った。「ヨーコ、君は自分を一番信じない。僕が信じられてどうして自分が信じられないんだ?いつもそうなんだよ君は。だから僕が君にとって必要なんだ。君の素晴らしさを言葉では言い表すのはとても難しい。今の僕に一つ言える事は、君は僕のエゴイズムを包み込んでくれるって言う事くらいだ」
 私は問い返す。「あなたのエゴイズム?」
 「そうだよ、君はいつも僕のエゴイスティックな所をちゃんと包み込んでくれる。それも何事も無かった様にだ」
 私には良く判らなかった。彼がエゴイストだなんて思った事も無かったので、私は彼の答えに驚いていた。彼はそんな私を見て微笑んだ。そして言う。
 「ほらね。君はあれだけの事を、何事も無かった様に受け入れてしまうんだ。それが君の素晴らしさなんだよ。僕はとてもエゴイスティックな男だ。それは僕が一番良く知っている。多分そのせいで今まで結婚を考えなかったのだと思う。
 アルンが言った事は確かに事実だが、僕との結婚を望んだ女性と一緒にならなかったのは、すべて僕の方のエゴイズムだったんだ。彼女達はちゃんと僕を愛してくれたし、僕にふさわしく成る為に随分努力してくれもした。僕が本当に彼女達を愛せなかっただけなんだ。
 僕は随分彼女達を傷付けたと思う。だけど僕にはどうしようも無かった。君を探していたんだ。僕の魂がいつも君を求めていた。そして僕はとうとう君を見つけた。なのに僕は君をこんな危険な事に巻き込んでいる。僕は自分のエゴにうんざりさせられたよ。僕はただ君を幸せにしたかっただけなのに」そう言って彼は視線を落とした。
 私は彼の手を取って言う。「あなたが思った事はもう完璧よ。私は生まれて初めて幸せで満たされているわ。これ以上私は何を望めばいいのかしら。私があなたにふさわしく成る為に何か努力する必要があるのなら言って。でなければあなたが傷付けた女性達に申し訳無いわ」
 彼は顔を上げると言った。「何もない。僕エディの、そして聖龍の、どちらの立場であっても、君は何一つ変わる必要も努力する必要もない。ただ僕が君に望むのは、君がいつまでも君のままで居続けてくれる事だけだ。そして僕はいつもそれを望んで来た。そして君は僕の為にいつもその魂を持って生まれ変わってくれたんだ。君はその為に随分辛い思いをしてきたじゃないか。なのに君は僕が望んだからその魂のままで生まれ変わってくれたんだよ」
 私はまた何かを思い出そうとしていた。頭の中で何かが動いていた。地面から這い出た小さな虫がお日様の下でモゾモゾ動き始めた様な感じだ。
 エディに言う。「部屋へ戻りましょう。私何か思い出しそうよ」
 彼は頷き席を立った。私は何も考えないようにして部屋に戻った。

 部屋のドアを開けた途端、私は彼の心の中に加藤が居るのに気付いた。すると頭の中の虫が大きく動いた。
 私はソファーに座って言った。「ねえ、加藤さんがどうしたの?」
 彼は私を見ると答えた。「僕は夕べ夢を見たんだ。いや、夢と言うより過去を、アカシックレコードを見て来たと言った方がいいだろう」
 彼はそこで言葉を切った。私は次の言葉を待った。
 暫くして彼が自分の手を見つめながら言った。「僕が君を殺したんだ。今の生のすぐ前の時だ。君を銃で撃った兵隊は僕だった」
 彼の心にまた悲しみが満ちて来た。私は出来るだけ心を静めて彼の話を聞いた。彼が続ける。
 「加藤はあの時も僕の友人だった。名前はチャン。戦地で野営をしていた時の事だ。僕が君を見つけた時、君は随分衰弱した様子で森の中をふらふらと歩いていた。僕はとっさに銃を構えたんだ。でも撃つつもりなんて無かった。
 その時後ろに居たチャンが僕の肩を突然掴んだ。その瞬間、銃は発射され君に当たった。君は力無く倒れ、そして死んだ。僕はその瞬間自分の殺した相手が君だったと言う事を理解した。呆然と立ちすくむ僕にチャンは『気にするな此処は戦場なんだ』と言ったんだ」
 私は尋ねる。「あなたは生まれ変わる度に前世の記憶を持っているの?」
 「はい。でも生まれた時からじゃない。自分がなすべき事に遭遇した直前若しくは直後に思い出すようだ」
 「それで私を殺した後に思い出したのね」
 彼は頷く。
 「それでその後どうなったの?」
 「何人も人を殺した」
 「戦争だったのよ」
 彼が頷き、言った。「でも僕は君を殺してから一年後、君を撃った銃で自殺した。心が壊れてしまっていたんだ」
 私はその時の事を彼の心を通して見た。
 「多分あなたはあの時、私を殺す為に生まれていたのよ」
 彼は判らないと言う風に首を横に振る。私は彼の手に触れながら言う。「あなたはあの時、私を殺す事を学んだのよ。それはあなたが聖龍になる為に必要だったからだわ。エディ、あなたは私をこの手で殺すのよ」
 彼の心の悲しみは彼から溢れ出さんばかりに満ちていた。そして反対に私の心には喜びが満ちて来ていた。その喜びの心を彼に伝えた。
 私は言う。「あなたの悲しみは愛する者をその手で殺す事だったのね」
 彼は戸惑っていた。
 私は尋ねる。「あなたは死を恐れる?」
 彼は首を横に振る。
 私は続ける。「そうよね。前世の記憶を持つ者は死を恐れないわ。死はただの過程であって、終わりでは無い事を理解するものね。私も恐れはしない。あなたが私に死を与えてくれるのならば、それは私にとって最上の喜びだと思える。あなたに愛を与えられるのと、死を与えられるのは、私にとって同じ事よ。だから悲しまないで。あなたも私に死を与える為に生まれて来た事を喜んでちょうだい」
 「ヨーコ、でも残されたものは辛い」
 「そうね。けれど誰もその苦しみを和らげることなんて出来ないし、それから逃れることも出来ないのよ。生まれてきたものは必ず死ぬわ。どれだけ愛し合っていても、何時かは必ずどちらかが一人になる。生まれてきたかぎりそれをそのまま受け入れるしか無いんじゃないかしら」
 彼は大きく首を振ると、私を抱き寄せた。
 「なぜ僕はこんなに君を愛してしまうのだろう?」
 私は答える。「簡単な事だわ。私達は愛し合う必要があるからよ。元々二人は一つだったの。それが二つに分かれて生まれてしまった。一つに戻る為には沢山の事を学ぶ必要があったんだと思うわ。その為に何度も擦れ違いを繰り返し、加藤さんに邪魔されながら生まれ変わってきたのよ」
 彼が言う。「そしてやっと結ばれる。一つに戻れるんだ」
 私は彼の腕の中で言った。「そう、永い時間がかかったわ」
 私は彼の背中に腕を回し、抱きしめた。彼も私を抱きしめる。もう私の中で何も動かない。

 私達はベッドルームに行き光の中で結ばれた。それはとても丁寧な交りだった。龍に祝福された交りだったような気がする。私は心と体の両方を彼に満たされていた。それは気が遠くなる程の祝福感だった。

 私達は身支度を整えるとリビングのソファーに座った。彼は初めてパリで会った時と、ちっとも変わっていない。でも私は随分変わったように思える。たった一週間で何もかもが変わってしまった。
 私は彼に尋ねた。「私の龍は目覚めたのかしら?」
 彼は微笑んで言った。「はい。とても美しい目をしている。穏やかで、それでいて力のある目だ」
 「私にも見せてくれない?」
 彼は頷いて言った。「僕の心を覗いていて」
 私は彼の心に目を凝らした。目を閉じて心を静める。そして彼を全身に感じる。彼の精神が集中するのを感じた。
 私は彼の目で私を見ていた。テレビ画面の中のもう一つのテレビ画面を見るような不思議な感じ。彼の心に私の姿が映る。そして彼の視線が動く。龍が居た。金色に輝く黄金の龍。美しく繊細でなおかつ力強い。これが私の龍。私は目を開けた。彼の微笑みがそこにあった。
 私は言う。「素晴らしい」
 彼は頷く。
 「初めからあなたには見えていたの?」
 「いや、君が一つづつ理解を深める度に、力強く、そして美しく成って行ったんだよ。初めはおぼろげな影の様な物だった。それが一枚づつベールを脱ぐようにはっきりと輪郭を現わし、デテールを形作り、そして輝き始めた。それは素晴らしい体験だった」
 「あなたはそれをずっと見ていたのね」
 彼は頷いて言う。「はい。龍使いとしても、ただの男としても、それはとても幸せな事だった」
 「これで完璧なのかしら?」
 私は少し首を傾げる。「良く分からないんだ。僕は新米の龍使いだからね」そう言うと口の端を上げて笑った。
 私はフォンで居た時の事を思った。「ねえ、フォンはどうして船に乗ったのかしら?」
 「加藤だ。あの時も加藤が居た。あの時の名前は法蓮」
 私は思い出した。「そう。彼が法蓮だったの」その名前がきっかけになって私はいろんな事を思い出していた。
 彼が言う。「奴も君の事が好きだったんだ。龍山だった僕は、あの時もあいつに相談して失敗したんだ。僕は君の事を忘れられなくてずっと塞ぎ込んでいた。そんな僕を見て奴が僕に尋ねたんだ。そして僕は君のことを話してしまった。奴は次の托鉢の時に君を見に行って、そして君に一目惚れしたんだ」
 私が言う。「彼が私の夫に、私とあなたが通じたと言ったのよ。私を愛していた夫には許せなかった。だから夫は龍封じの石を体にうめたのよ。あの時私はあなたの事がどうしても気にかかっていたわ。どうしようも無くあなたの事が頭から離れなかったの。その上夫が私の体に傷を付けた。
 そんな時法蓮がやって来て、あなたは私への思いが通じない事を悩んで失意のうちに日本へ帰ったと言ったの。私はいてもたっても居られなくて夫に言ったわ。『私はもうあなたを愛せない。だから日本へ行かせて』って。夫はそれで仕方なく私を船に乗せたの。だって彼は私とあなたが通じたと思いこんでいたから、もう私を抱けなかったのですもの。
 その後いろんな事があって、やっと船に乗ったら法蓮が居たの。初め彼は何くれとなく面倒を見てくれたわ。日本に着いたらすぐにあなたに会えるだとか、きっと幸せに暮らせるとかって言って励ましてもくれた。私には彼がとても良い人だって思えたわ。でも私の傷が段々悪化して、高熱を出し、もう助からないと思った時に彼が言ったのよ。『僕は死にそうな病人を連れて来てしまったのか。龍山に任せておけばよかった』とね。
 私は苦しい息の下で尋ねたの『龍山はどこ?』ってね。彼はそれには何も答えなかった。私はその時だまさされた事を感じていたわ。そして死んだの。ひどい話よね。でも私、あの時、三人もの男に愛されていたのね」
 彼が頷いた。「そう、あの時も君はとてもチャーミングだった」そう言って微笑んだ。そして続ける。
 「法蓮はあの時僕に言ったんだ。『あの女は止せ。あの女には魔性の臭いがする。お前の手に負える女じゃ無い。それにお前は仏の道を学ぶ為に国費でここまで来たのだろう。女に現を抜かすなんてもっての外だろう』とね。
 その後僕は奴に推薦されて新しい修行の為に山に篭もったんだ。その間に君を連れ去られてしまった。僕はその修行を終えて、随分後に君の夫に会ったよ。彼は僕に君が僕を追って日本に渡った事を告げた。そしてなぜ僕が此処にいるのかと言ったんだ。僕は驚いて君を乗せた船の人達を探して聞いた。君が船の上で死んだ事。そして法蓮が一緒だった事も。僕はあの時も気が狂ったようになった。そしてそのまままた山に戻って二度と山を下りる事は無かった」
 私は溜息をつく。「加藤さんは、ずっと生まれ変わり、死に変わって、私達の邪魔をしているのね。きっとその前もそうだったのよ」
 彼は口の端を上げて笑うと、言った。「その前の話もしようか?」
 私は首を振って言う。「もう沢山よ。終わった生の事より今の事の方が大切だわ。それに私、初めてあなたと一緒に成れたのよ。もう辛かった事なんてどうでもいいわ」
 彼は頷いた。そして言う。「僕は君と一緒になる為に、何百年、何千年も待ったんだ。そしてやっと君を手に入れた。だから僕はまだ君を殺したくない。もっともっと君を愛していたい」
 私は頷く。「私もそうよ。でももし、今此処であなたに殺されても構わないと思える程の幸せを、あなたに貰ったわ。本当にありがとう」
 彼が笑うと言った。「ところで、おなかすかない?」
 「もうお昼ですものね」
 彼がレストランに誘った。
 私はふっと思って尋ねる。「ねえ、私の龍って、あなたにしか見えないの?」
 「今の龍ならナーガラージャでありさえすれば誰にでも見えるだろう」
 「それって目立って仕方ないんじゃやないの?」
 彼は笑う。「そうだよ。団体旅行の旗みたいな物だ」
 私は怒って言う。「笑い事じゃないわ。そんなのみっともなくってよ」
 彼はまだ笑いながら言った。「神が、神である事をみっともないなんて言ってどうするの。みんなが聞いたらがっかりするよ。だってみんな何千年も君の龍を待ち続けて居たんだよ」
 確かに彼の言うとおりだ。私はやりこめられてシュンとした。
 彼は優しく言う。「大丈夫。船を降りる迄にはちゃんとコントロールの仕方を教えてあげるから」
 私は仕方なく頷いた。
 「ほら、お化粧を直してレストランへ行こう」
 私は言われたように化粧を直すと彼と一緒に部屋を出た。

 私達がレストランに着くと、まず入口のボーイが私の方を見たまま動けなく成った。エディはそんなことには気にも止めず、私の腰に腕を回して中に入る。私はすぐにアルンの後ろ姿を見つけた。
 「アルンが居るわ」私が言うとエディはアルンの席の方へ私を誘って歩いた。私を見た人はすべてストップモーションのように止まってしまう。
 エディがアルンに声をかけた。「アルン。此処に座ってもいいかい?」アルンは「いいよ」と言って振り向いた。そして私の龍に釘付けになった。
 私はエディに言う。「ねぇ、これどうしたらいいのかしら。私、まるでゴーゴンになっちゃった気分よ。私を見るとみんな石になちゃうの」
 「みんな驚いて居るだけさ。すぐに慣れるよ」エディはそう言って私の為に椅子を引いてくれた。私はその椅子に腰掛ける。エディも隣に座るとウエィターを呼ぶ。しかし誰もが私の方を注目していれ気付かない。
 エディは仕方なさそうに苦笑いすると、アルンに言った。「アルン、しっかりしてくれよ」
 アルンは我に返って、椅子の背もたれに体を預けて言った。「話には聞いていたが、これはすごい。すごすぎるよ」そして回りを見渡して続けた。「見るなと言う方が無理だ」
 エディは頷いて、私の手を取ると、彼のくれたダイヤの指輪を内側に回し、私の手を握らせた。周りから溜息の音が聞こえた。私は訳が判らなくてエディの顔を見る。
 エディが言う。「そのダイヤを肌に触れさせれば良い。その石がフォンの夫がフォンの体に埋め込んだ物と同じ力を持っているんだ」
 「これが龍静めの石だったのね」
 彼は頷く。「ほんの少し触れるだけで良い」
 私は握った手を少し開いてみる。そしていろいろ試してみた。それで少し斜めにしておけば日常生活に不便無く肌に触れさせておけることが判った。アルンは私の手を食い入るように見ていた。そして目を閉じて溜息をついた。
 エディがもう一度ウェイターを呼ぶ。今度はちゃんと来た。エディは注文を告げるとそのウェイターに尋ねる。「感想は?」
 彼は震える声で言った。「聖龍様。とても素晴らしく思います。そしてこの船で働けた事を誇りに思います」
 エディが言った。「ありがとう」
 ウェイターは頭を下げると立ち去った。
 私はエディに向かって言う。「あなたって本当に偉い人なのね」
 エディは笑う。「僕が偉い人な訳じゃないよ。ただ聖龍の名前が偉いのさ」
 私はなるほどと思って言った。「そう言う訳なんだ。何となく理解できるような気がするわ」
 彼は私の肩に手を回して笑った。
 「でも君はすごいみたいだよ」エディが肩に回した手に力を入れた。
 「私がすごいんじゃなくて、すごいのは龍でしょう?ねぇアルン?」
 アルンは曖昧に頷いた。
 エディは私から手を離すと煙草に火を付けて言った。「アルン、何か言ってくれよ」
 アルンは龍の残像を振り払うように頭を軽く振ると言った。「もう完全なのか?」
 エディは煙草の煙を吐き出すと言った。「はい。でも良く判らない」
 「聖龍とその妻。認めざるを得ないな」
 「そう言う事だ。頼んだぞ」
 アルンが頷く。私には良く判らない会話だった。
 アルンが私に言う。「ヨーコ昨日の答えはもういいよ。君達が本当に愛し合っている事がよく判った。失礼な事を言ってすまなかった」
 私は首を横に振って答える。「あなたは何も失礼な事なんて言って無いわよ。私が巧く説明出来なかったのがいけないの。巧く話せる様になったら聞いてね」
 彼はとても素敵に微笑むとゆっくりと頷いた。
 エディの頼んだ物が運ばれてきた。そしてテーブルにセッティングが終わったところで船長が挨拶にやって来た。
 エディは座ったまま握手をする。船長は私に最大の敬意をはらうとエディに次のような意味のことを言った。
 素晴らしい航海になりました。この船の乗員すべてがとても喜んでいます。今夜私主催のパーティーを催しますのでぜひご出席ください。
 エディはその申し出を丁寧に受けると、快適な航海に対して労いの言葉などをかけた。船長はそれに感激した様子だった。最後に私に向かって丁寧に頭を下げると席を離れて行った。
 私達は食事を始めた。アルンも私達の為に中断していた食事を再開する。エディとアルンは英語で何か話しながら食べていた。
 私は窓から見える海を見ながら食事をした。何かが始まろうとしている。アルンはいったいどう言う立場なのだろう。
 エディはアルンに絶対的信頼感を持っていた。私にはそれが良く判った。エディの心を覗いてみた。彼らはこれからの計画を話している。とてもややこしくて難しい事の様だった。私はエディに任せれば良い事なので、すぐに覗くのをやめた。きっとその為に彼らは英語で話しているのだろう。彼らなりの思いやりなのだ。
 エディは私がおなか一杯で食べられない分まできれいにたいらげると、言った。「ヨーコ、デザートはどうする?」
 私はシャーベットをもらう。彼はケーキとコーヒーをもらった。アルンはうんざりした顔で食後のコーヒーを飲んでいた。
 私がデザートは食べないのと尋ねるとアルンはこう答えた。「甘い物は苦手なんだ」
 普通の男の人だった。私はそう思ってエディを見ると彼はケーキを食べ終えたところだった。
 私はエディに言う。「もう一つ食べたいんでしょう」
 「大丈夫。ちゃんと頼んであるからもうすぐ運ばれてくるよ」
 そしてすぐにとても甘そうなチョコレートケーキが運ばれてきた。彼は嬉しそうにそれを食べた。アルンと私は両手を挙げて肩をすくめた。
 エディが言う。「僕のエネルギー源なんだからそんな目で見るなよ」
 アルンと私は顔を見合わせて笑った。
 エディは何事もなかったように食べ終わると、言った。「アルン、部屋に戻ってもう少し日本の事を説明してくれないか?」
 アルンは頷きコーヒーを飲み干すと立ち上がった。
 私達も続いて席を立ち部屋へ向かった。

 部屋に戻ると船長からのプレゼントとパーティーの招待状が届いていた。
 プレゼントは真紅のチャイナドレスだった。それに金糸で龍が縫い取られている。私はベッドルームでそれを着てみた。サイズはピッタリだった。
 私はベッドルームからエディを呼ぶ。
 エディは扉を開けて入って来ると私を見て言った。「素晴らしい。君の前世はきっと中国人だったんだ」
 「そうよ。あなた知ってるじゃない」
 彼は笑った。「そうだったね。でもフォンの時はもっとゆったりしたドレスだったよ。時代が違うんだ」
 私は頷いた。「そうね。でも私これ、とっても気に入ったわ。船長にお礼を言わなくちゃ」
 「今夜のパーティーで僕もお礼を言ってあげるよ」
 私は頷いた。
 彼は思い付いたように言った。「そうだ、君もアルンの話を聞くかい?」
 「聞いて判るかしら?」
 「判るのは判るけどつまらなく無いかい?」
 「つまらない話なの?」
 「それは君次第だ。でもつまらなそうだと思うのならエステティックサロンに行って、その後髪をセットしてもらったらいいよ」
 私は考えた。香港のホテルでしてもらった時にとても気持ち良かったのを思い出していた。
 「でも、贅沢じゃ無くって?」
 彼が笑って言う。「僕の為に綺麗に成って来てくれないかい?それにこの船の上では、何をしても、何を食べてもお金はかからない。そう言うシステムなんだ。何も心配しなくていいんだよ。運動不足ならアスレチックジムも、プールだってある。好きなように振る舞えばいい。少なくともこの船の上には敵は居ないから。こんな状況って今だけしか無いかも知れないよ」
 私はそれを聞いて少し心が動いた。
 「ねぇ、水着はどこで買えるかしら?」
 彼が言う。「泳ぐの?」
 私は頷く。
 「案内させるから付いて行けばいいよ。それで伝票に君の名前をサインすればいい」
 私は頷いた。そして言う。「少し泳いでからサロンで綺麗にしてもらうわ。それでいいかしら?」
 彼は微笑んで言う。「Good! それでいい」そう言うと電話でボーイを呼んだ。
 私は急いで服を着替える。
 「迷子になったら大きな声で僕を呼ぶんだよ。スーパーマンみたいに飛んで行くから」
 「この船では日本語が通じるんでしょう。大丈夫よ」
 アルンがベッドルームのドアをノックする。そして言った。「誰か来たよ」
 私は急いで出た。
 エディが後ろから言う。「気を付けるんだよ。溺れない様にね」
 私は振り向かずに手だけ振った。

 きちんと制服を着た二十歳ぐらいの男の子が、私をショップがある場所へ案内してくれた。私は彼にプールの場所を聞いてからチップを渡してお礼を言った。彼は恐縮していたが、とても素敵に笑うと帰って行った。
 私はなるべくシンプルな形の水着の中から綺麗なサファイヤブルーの物を選び、エディが言ったように伝票にサインをして包んでもらった。それを持ってプールに行った。

 プールに他の客は居なかった。私はゆっくりと何も考えずにただ泳いだ。初めは続けて何本か泳ぎ、そして少し休んだ。その後は泳いでは休み、休んでは泳ぐ。心地よい疲労感が私を包むまで泳いだ。水の中に居ると、まるで本当の龍になった様な気がした。
 一時間ほど経った頃、私は泳ぐのを止めてサウナルームへ入った。しばらく其処で汗を流し、ジャグジーバスを使った。体がとても軽くなったような気がした。私はその後髪をセットしてもらうために美容院へ行った。
 美容院の場所はすぐに判った。ガラスで出来た大きな扉を開けて中に入ると、受付に女性が居た。私はセットをして貰えるか尋ねた。彼女は予約で一杯なので待ち時間がかなり有ると言った。そして名前とルームナンバーを書いて行けば後で電話をくれると言った。私は出された紙に名前を書いた。彼女は途中で中から呼ばれて居なくなった。私は名前を書いた後困ってしまった。ルームナンバーを知らなかったのだ。私は彼女の出て来るのを少し待ったが彼女はなかなか出て来なかった。私は諦めて書いた名前を横線で消すと美容院を後にした。
 私は一人で船内を歩いた。自分の部屋が判らなくなっていた。
 しばらく歩くと大きなロビーに出た。そこには案内所があったので私は尋ねることにした。
 「すみません。エディリーの部屋へはどう行けばいいのですか?」
 きちんと制服に身を包んだ三十歳位の男性が丁寧に応対してくれた。彼はしばらく下を向いて探したが、エディの名前はみつからなかった。
 「申し訳ございませんが、そのような名前の方はご乗船いただいておりません」
 私は困ってしまった。そしてもう一度言った。「私は田中陽子と言います。李聖龍に連絡して貰えませんか?」
 彼は困った顔で言った。「申し訳ございません。それは出来ない事になっております」
 私はもう一度言ってみた。「私の部屋へ帰りたいんです。アルンにも電話は繋いでもらえませんか?」
 彼は言う。「隊長ですか?」
 私は判らない。
 「アルンでも聖龍でもいいから連絡して欲しいの。私帰れなくなったの」
 彼が言う。「ルームナンバーをお教えいただければご案内いたしますが」
 「ルームナンバーを知らないのよ。ドアには何も書いてなかったし。ずっと夫について来ただけだから何も知らないの」
 彼は困ったように言った。「奥様。ご主人様のお名前をお教えいただけますか?」
 私は泣きそうな声で言う。「だからエディリー 李聖龍だと言っているじゃないの」
 彼は慌ててどこかに電話をかけた。そして私に受話器を渡すと言った。
 「奥様。聖龍様です」
 私は受話器に向かって言う。「エディ、帰り道が判らなくなっちゃったの」
 彼は受話器の向こうで笑いながら言った。「だから大きな声で僕を呼びなさいって言ったろう」
 「どうすればいいの?」
 「其処がどこか判るかい?」
 私は船員に聞こうとした。すると彼が言った。「今の人に替わって」
 私は船員に受話器を渡した。「夫が替わるようにって」彼が受話器を取って何か話した。そしてもう一度私に受話器を渡す。
 エディが言った。「今の人が案内してくれるからついておいで」
 私は「判った」と言って受話器を返した。
 船員の彼はカウンターから出てくると私に丁寧に謝った。
 「奥様。失礼いたしました。申し訳ございません。私は吉田と申します。ご案内いたしますのでこちらへどうぞ」
 「お手数をお懸けします。私が不注意だったんです。ルームナンバーも知らずに出て来てしまって。本当にすみません」
 私達は歩きながら話していた。吉田さんが言う。「いえ、御存じ無いのは当たり前なのです。オーナーズルームにナンバーはございませんので」
 私はなるほどと思った。幾つかの角を曲がり、階段を昇った所に部屋はあった。彼がノックをした。エディが返事をしてドアを開けた。吉田さんはエディにも丁寧に失礼の有ったことを謝った。
 エディが言う。「妻はそんな事を気にしたりしないよ。それに迷惑を懸けたのは妻の方なんだから気にしないでくれ。それよりも仕事中に悪かったね」そう言ってチップを渡し「ありがとう」と言って握手をした。吉田さんは感激した様子だった。やはりエディに付随するものに感激したのだろう。私も丁寧に礼を言った。彼はドアをそっと閉めて帰って行った。
 アルンはテーブル一杯に拡がっていた資料の様な物を片付けた。そして私に言う。
 「帰って来れてよかったね」
 私は頷いて言った。「だって、この船とても大きいんですもの」
 彼は笑って頷いた。
 そしてエディに向かって言う。「続きは明日にしよう。僕もパーティーの用意をしなくちゃ」
 エディが言う。「そうしてくれ」
 私は使っていない方の寝室のバスルームへ行って昨日の洗濯物を片付け、水着を洗って乾かした。
 リビングに戻ると、アルンはもう居なかった。
 エディが言う。「ヨーコ、沢山泳いだの?」
 「ええ。とても久しぶりで気持ち良かったわ。何も考えないでただ泳いだの」
 彼は頷くと言った。「それは良かったね。ところで髪はどうするの?」
 私は美容院での事を話した。
 彼は笑いながら言った。「みんなパーティーの為に予約していたんだ。でも今頃君の名前を見てあわてているよ。オーナーを追い返しちゃった訳だから」
 そんな事を言っている時に電話が鳴った。エディが出る。しばらく話して彼が振り返ると言った。
 「ヨーコ。すぐに髪をセットしてくれるって言ってるよ。どうする?」
 「このままじゃまずいかしら?」
 彼はウインクをして見せると言った。「行っておいでよ。船長のドレスに合わせてもらえば?」
 私は頷いた。彼は電話の相手に迎えに来るように言って電話を切った。
 そして言った。「ほらね。言った通りだろう?」
 私は苦笑した。「私そんなに偉くなんてないのに。なんか特別扱いみたいで嫌だわ」
 彼は後ろから私の両肩に手を置くと言った。「構わないんだよ。君は特別なんだ。あんなにすごい龍を背負っていて特別じゃない方がおかしいだろう。でも僕は特別じゃない普通の君が好きなんだから。ちょっと目を離すと帰って来れなくなる、普通よりもっと頼りない君の事を愛してるんだよ。だからみんなの好意に甘えていればいいじゃないか。
 だって君は彼らにとって神様なんだ。さっき君が思ったように、みんなは僕に付随した何かに感激しているんだ。そして君に付随する龍をみんながありがたがって居るんだから、それは君のせいでも何でもないんだ。良くしてもらったらありがとうと言えばいいんだよ」そう言って彼は後ろから覆い被さるように私を抱きしめた。私は彼の腕の中で頷いた。
 彼が言う。「ドレスを持って行った方がいいよ」
 私は彼の腕の中から抜け出してベッドルームで靴を履き替えドレスを持って来た。
 迎えの人はすぐに来た。そしてまた、先程は失礼しましたと言って私に謝った。私は微笑んで首を横に振る。そして言った。「宜しくお願いします」
 エディは「僕も用意してから迎えに行くから帰りは心配しないでいいよ」そう言って笑って見せた。

 私は案内された美容室でチャイナドレスに合うように、前のパーティーの時より小さく髪を結い上げてもらった。そして化粧もしてもらい。ドレスに着替えた。前の時よりすこしキュートな感じになっていた。
 エディが迎えに来てイヤリングを付けてくれた。
 彼が言った。「とても良く似合うよ。本物のチャイニーズみたいだ。写真を撮って祖父に送ろうよ。きっと喜ぶから」
 「そうね。お爺様はきっと中国人のお嫁さんを望んでいたんでしょうね」
 彼は微笑んで言う。「でも君だって前世は中国人だ。そして僕が日本人だったんだ。仕方ないじゃないか。でも君のこの姿を見れば間違いなく喜ぶよ」
 「写真を撮ってもらいましょう。そしてお爺様に送って」
 エディは頷いて言った。「そうしよう」

 私達はパーティー会場へ行った。会場は随分賑わっていた。彼は船長の所へ行ってドレスの礼と、招待に対しても礼を言った。私も笑顔で礼を言った。
 エディが私の手を取って指輪を外に回す。周りの空気が一瞬のうちに変わった。船長はしばらく私の龍を見つめてから私の手に口付けすると言った。
 「この船に船長として乗せていただいた事を感謝します。そして今まで生きていた事をこれほど嬉しく思った事はありません。この船のすべての乗員を代表してお礼を言います。ありがとうございます。本当に美しい。例え様も無い程、穏やかで、高貴で、そして力強い。自分の想像力の貧困さを思い知らされた思いです。今まで私が夢見ていた龍の姿が余りにも貧相だったように思います。この龍は必ず私達ナーガラージャを救ってくれるでしょう」
 私の龍を見て静まり返った会場で、エディが言う。
 「船長。妻の龍は目覚めたばかりです。私にも何が出来るかはまだ判りませんが、必ず何かを成し遂げてくれるでしょう。しかし御存じの通り龍は急激な変化を望みません。時間がかかるのです。だから覚えておいてください。そして語り継いでください。この龍の素晴らしさを」
 船長の目が潤んでいるように見えた。そして会場から拍手が起こっていた。エディは拍手をする人達に対して笑顔を向けた。私もそれにならって笑顔を作った。エディは船長と握手をすると「ではまた」と言って彼から離れた。
 エディは慣れた感じで沢山の人達の間を挨拶をしながら渡り歩いた。その間にバイキング形式の料理を取り分けて食べる。私は彼にすべてを任せて付いて歩いた。
 私は途中で窓際のソファーに腰掛けた老婦人に気付いた。私はとても彼女が気にかかったのでエディから離れて彼女のそばに行った。
 「マダーム、お楽しみですか?」彼女に声をかける。
 彼女は驚いて私の方を振り向くと大きく目を見開いて食い入るように見、そしてフーッを大きく息を吐くと笑顔を作って言った。「ええ、とても楽しんでいるわ」
 私は微笑みを作る。彼女の目が何かを語ろうとしていた。私はしばらく彼女が語り始めるのを待った。少し間を置いて、彼女が話始めた。
 「あなたの龍は本当に素晴らしいわ」
 「ありがとうございます」
 彼女が続ける。「私、ヒットラーの龍を知っているのよ」
 私は驚いて尋ねる。「アドルフヒットラーですか?」
 彼女は頷く。「そうよ。彼も龍を背負っていたの」
 「その龍は私の龍と同じですか?」
 彼女は大きく首を横に振ると言った。「似ても似つかないわ。彼の龍は黒くてもっと凶暴な目をしていた。本当は私、もう龍なんて生まれなければ良いと思っていたのよ。だって本当に怖ろしかったんですもの。でもあなたの龍を見て、それが取り越し苦労だった事が解ったわ。あなたの龍はとても穏やかな目をしている。聖龍の愛を受けたのね」
 私は頷いて言った。「何時か、私の龍もヒットラーの龍の様になるのでしょうか?」
 彼女は答える。「いいえ、大丈夫だと思うわ。あなたの龍はもう大分育っているし、聖龍が付いているもの」
 私はホッとして笑顔で頷いた。
 彼女の知り合いが彼女のための飲物を持ってそばに来たので私は「マダーム、どうもありがとうございました」と言って私は彼女のそばを離れた。
 エディは相変わらずいろいろな人の間を渡り歩いていた。私はアルンが座っているのを見つけたので彼のそばに行って少し休む事にした。
 「アルン。私、疲れちゃった。ここに座ってもいいかしら」私は少し蓮っ葉な言い方でそう言った。
 彼は笑顔で頷いた。そして私のために飲物を注文してくれた。
 彼がエディを目で追うと言う。「奴は本当にタフだな」
 私もエディを見ながら言う。「本当に。それにとても慣れているわ」
 彼が頷く。
 「随分永く日本に住んでるんですってね。どこに居るの?」
 「芦屋だよ」
 私は思わず言う。「すごい!」
 彼は片目をつぶってみせた。
 「僕は君の方がすごいと思うけどな」
 私は笑う。「そうだったわ。でも私すぐに忘れちゃうのよ。だってこんな状況に居た事なんて無かったし、三十年間、本当に普通に暮らしてきたの。芦屋に住むなんて言ったら夢のまた夢だったのよ」
 彼は頷いて、言った。「でもこれからは君の望むものはすべて手に入るよ。芦屋の豪邸だって、コンコルド飛行機だって、スペースシャトルさえ聖龍は買ってくれるだろう」
 私は首を横に振って言った。「何も欲しくなんてないわ。私の住んでいるマンションは1LDKで古いけれど私だけのお城なの。それに友達から安く譲ってもらった車は、1リッターで小さいけれど私のために良く走ってくれる。もちろん空を飛んだりはしないけどね。でも飛行機が欲しいと思った事なんて一度もないわ。それに私目がいいから星まで行かなくてもちゃんと見えるの。だからスペースシャトルは必要ないわ。私はただ、毎日が平凡に暮らせれば幸せだと思っていたの」
 彼が言う。「君は本当に普通の人なんだね。でも平凡って言うのが一番難しい。でも、いや、だからそれが幸せの本質なのかも知れない」
 私はグラスを見つめながら頷いた。
 彼が続ける。「なのに君は、龍を背負って生まれてきてしまった。可愛そうなヨーコ」
 「ありがとう。でも私は代わりにエディを手に入れたわ」
 彼は笑う。そして自分に言い聞かせるようにゆっくりと言った。
 「そうだね。君はとてもも面白い発想をする。君が聖龍を手に入れたのか」
 私はエディの姿を目で追いながら言う。「そうよ。でも、私が手に入れたのはエディ・リー。パリで拾ったの。とても美しくて神秘的で、そして繊細で傷つきやすい。それに何よりも彼は私を愛してくれるわ」
 アルンもエディを目で追いながら言う。「確かに君の言うとおりの男だ。しかし彼は李聖龍だ」肯定とも否定ともとれる言い方だった。私も曖昧に頷いた。
 私はアルンに尋ねる。「アルン。あなた女性を愛した事がないんじゃない?」彼の表情が曇る。
 私は慌てて謝った。「ごめんなさい。失礼な事を言っちゃったわね。そんな訳ないわよね」
 彼は首を横に振って言った。「いや、構わない。そのとおりなのだから。僕だって恋をする事だってあるし、肉体的な欲求だってある。しかし何故か愛し始めようとすると冷めてしまうんだ。何故なんだろう?」
 彼は自分に問い掛けているようだった。私はそれに対する答えを一つだけ持っていた。だから私はそれを言ってみた。
 「アルン、あなたはまだ出逢っていないだけなのよ」
 彼は私を見る。そして弾かれたように椅子の背に体を預けた。そして大きく息を吸って吐いた。そしてまた元どおりの位置に戻ると言った。「まだ出逢っていない?」
 私は大きく頷く。「そうよ。それだけの事なのよ」
 エディが微笑みながら私の方へ歩いて来る。ずっと昔から出逢うことの決まっていた私の男。そしてやっと出逢えた。
 エディがアルンの肩を叩くと言った。「どうしたアルン?」
 「ヨーコに人生相談に乗ってもらったのさ」
 「それで問題は解決したか?」
 「多分な。素晴らしい答えをもらったよ」
 「それは良かった」エディはそう言うと、私に笑いかけた。私は良く判らないままに笑った。そして言う。
 「エディ、あなた疲れない?私はもうくたくたよ」
 彼は私の肩に手を置くと言った。「判ったよ。部屋に帰ろう」そして私の手を取った。
 私はアルンに向かって言う。「おやすみなさい」
 彼も微笑んで片手を上げて言った。「おやすみ」

 私達は部屋に戻った。
 エディが言う。「ヨーコは本当に不思議だ」
 私は意味が判らない。彼が続ける。「誰もがヨーコの事を気に入ってしまう。君は何もしないのに皆が君に引かれる」
 私はよく判らないまま首を横に振った。しかし彼はその事を喜んでいるようだった。

 私達はバスルームで長い間リラックスした。二人でお湯の中でまどろむ。そこは二人だけの世界だった。彼の体はとてもしなやかな筋肉で覆われ、無駄な肉など少しもない。
 「あなたの食べたあのすごい量の食物は、いったいどこへ消えてしまうのかしら?」
 「全部君への愛情に変わってしまうんだよ」
 「まさか。でもそれが本当だったら私ってすぐに愛情太りしちゃうわね」
 彼が笑って言う。「だったら僕は愛するものが大きく成ってとても嬉しいよ」
 「でも抱えるのがたいへんよ」
 「その時の為にもっと鍛えるさ」
 私達は他愛のない会話を交わした。そして二人で順番に髪を洗い、体を洗った。そして簡単に体を拭いてバスローブをはおり、二人でリビングで寛いだ。

 私は部屋を暗くして船窓から外を見た。真っ暗な海がそこにあった。微かにエンジンの音が響いている。空には満天の星が輝いていた。
 エディがよく冷えたワインの入ったグラスをくれた。私はそれを、窓の外を見ながら一気に飲み干す。冷たいワインが火照った体に気持ち良かった。彼は私のすぐ後ろに立っていた。私は彼に体を預けると尋ねてみた。「愛してる?」
 彼が心で答えた。
 私は言う。「ちゃんと言って。普通の恋人同志のように」
 彼が声に出して言う。「愛してるよ。龍なんかとは無関係な、ただの女として君を愛している」
 彼はそう言うと、私を乱暴に抱き寄せ、激しく口付けをした。そしてそのままソファーに押し倒すととても情熱的に私を抱いた。私は持っていたグラスが床に転がるのを彼の腕の中で見ていた。
 初めての時とは全く違う。それはとても動物的で、本能のままの交りだった。私は彼を受け入れていた。彼は私を求め続け、私は与え続ける。果てしのない行為だった。
 すべての生きとし生けるものが繰り返し続けている行為。抱き合い絡み合う。龍体と化した二人の交わり。向かい合って口付けをする。ジョカとフッギの姿だった。それは私には無い知識だった。エディの知識が私に流れて来ていた。元々一つだったのだ。薄れ行く意識の中でそんな事を思っていた。