龍 5 香港(U)
 彼の連れて行ってくれたレストランは、とても賑やかな繁華街を通り抜けた所にあった。
 私達はその街の手前で車を降り、少し歩いた。彼は人混みの中を私を抱えるようにして歩く。彼が特別なのか、香港の人が皆そうなのかは判らないが、彼は事ある毎に私の体に触れる。日本ではとても恥ずかしく思える事なのに、出逢ったのがパリだったせいか、彼のそう言う行為を私は自然に受入れていた。そして彼に触れられている事は、私にとっても心地好い事だった。
 香港の街や人はどこかエキゾチックであきれるほどエキサイティングだった。まるでB級映画のようだ。洗練とは対局にあって、何もかもを包括しているように思えた。
 彼はいろんな店を冷やかしながら歩き、とても小気味よい言葉で店の人とやり取りをする。私には言葉の意味は判らないが彼が楽しんでいることはとても良く理解出来た。
 彼は私にスワトウのレースで出来たポーチや、可愛らしいマスコット人形を買ってくれた。
 「ヨーコ。香港らしいだろう」茶目っ気たっぷりに彼が言う。
 私は笑って答える。「本当ね。あなたが買ってくれる物がみんなこんな物なら私はちっとも悩まなくて済むのに」
 彼は笑った。「そうか、君はかわいい物が好きなんだね」
 「ええ。少女趣味なのよ」
 二人で笑った。そして歩いてレストランへ行った。

 そこは黒を基調にしたインテリアで統一されていて、落ち着いた感じの店で、何組かのカップルが食事をしていた。テーブルには銀色に輝くピューターの花瓶に、一輪づつ違う花が飾られている。
 案内された席に付くと彼は言った。「ヨーコ。此処は香港人達のデートスポットなんだよ。でもあまり知られていないんだ」
 「穴場なのね。あなた、身持ちが堅かった割に良く知っているわね」
 「一般常識だよ。それに料理の腕も一流なんだ」
 「何が美味しいの?」
 「何でもさ。素材が新鮮だからね」
 「じゃあ、あまりしつこくないソースの物を頼んでちょうだい。そうね、スパゲッティボンゴレビアンコなんかいいかしら」
 彼はメニューを見ながら言う。「そうだね。後は何にする?鳥と魚と肉と」
 私は答える。「魚にして」
 彼は言う。「じゃあ、後は僕に任せてね」
 頷きながら私は、きっと沢山の料理が運ばれて来るのだろうなと思っていた。そしてやはり運ばれてきた料理は食べきれない程の品数だった。それでも彼はいつものように片っ端から片付ける。多分残ることはないだろう。私達は食事をしながら話した。
 「ねえ、エディ。もしかしてお兄さんのお店の在ったショッピングセンターって、全部お兄さんの物なの?」
 彼はスパゲティを食べながら答える。「いや、アンディの物は建物だけだよ。土地は一族のものだ」
 私は言う。「一族って?」
 彼はフォークを置いてナフキンで口を拭って言う。「おじいさんとかそう言うの」
 私はうんざりした顔で尋ねる。「もしかして、それって財閥って言う物なのかしら」
 彼は頷く。
 「あなたの一族で後どんな物を持っているの?」
 彼はまるで自分の指が五本有ってその名前を告げるように淡々と答えた。
 「百貨店、病院、ホテル、劇場、カジノ、美術館もあったかな。そう言うのが世界各国にいくつもある」
 私は段々不機嫌な声になって言う。「あなたの物は幾つぐらい在るの?」
 彼は即座に言った。「全部僕の物になった」
 私は驚いて言う。「どう言う事?」
 彼が私の様子を見てすまなそうに答える。「僕が聖龍を継いだから」
 私は頭を抱えた。
 「ヨーコ心配しないで。実務はアンディがしてくれるよ。彼はそう言うのに向いてるんだ」
 私は首を振る。「そう言う問題じゃなくて」
 彼は笑って言う。「ヨーコと話していると金持ちであることがまるで罪だったような気がしてくる」
 私はそれに気付いて笑った。「本当。確かにそうだわ。あなたがどんなにお金持ちでも悪いことなんて何も無いんですものね。もしかしたら私って共産主義者だったのかも知れないわね」
 彼は大声で笑った。「ヨーコは本当に面白い言い方をする」
 私は彼の笑いが収まるのを待って尋ねた。「それで私はどうすればいいのかしら?」
 彼はよく判らないと言う風に首を傾げる。私は続ける。
 「その大金持ちの聖龍の妻としてよ」
 彼は優しく微笑んで言った。「そのままで良い。ただ僕の傍に居るだけで。一族の者はすべて、龍を背負った君が居るだけで満足するだろう。大龍が認めたんだ。その上君は美しく頭も良い。それにやっと僕も妻を持った。みんな僕の結婚を待っていたからね。だからみんな喜ぶよ。
 明日祖父の誕生パーティーで披露すればいいだけさ。祖父はそれを見越して僕達の為に自分の誕生パーティーを繰り上げたんだ。世界各国のナーガラージャ達が集まって来るから、ちょうど良かったんだ」
 彼の穏やかな笑顔を見ていると、私はそんなものかなと思った。そして料理を口に運んだ。けれど実際にパーティーに出ると、そんな簡単なものではないと言う事が判った。しかしその時口に運んだ物は彼が言ったように確かにおいしいイタリア料理だった。

 私達は食事を終えホテルへ戻った。部屋には昼間買った物が届いていた。それにはアンディからの綺麗な花束が添えられていた。
 「エディ。あなた達兄弟ってとても仲がいいのね」
 彼は微笑んで答える。「そうだね、いつもアンディは僕の味方だったよ。それに僕は彼にずっと憧れてた」
 私も微笑んで言う。「あなた達ってとても良く似ているわ。顔もしぐさも」
 彼は肩をすくめる。「兄弟だからね」
 私は頷いた。
 私は貰ったお花を花瓶に生け、ドレスをクロゼットに掛けた。チョーカーとイヤリングを何処にしまおうか迷っているとエディが言った。「大丈夫だよ。何処に置いても。このホテルは安全なんだ」
 私はデスクの引き出しを開け、そこに入れる。私は振り向いて言う。「もしかしてこのホテルもあなたの物なの?」
 「残念ながらそうなんだ。でも気にしなくていいよ。名前だけの事だし、まだ正式には僕の物じゃないかも知れないから」
 「でも近いうちにあなたの物に成るのね」
 彼は頷く。「でも僕はお金を儲ける必要もなくなったし、使える額もたかがしれている。僕達二人が活動するのに不自由がなければいいんだから、僕の物であろうと誰の物であろうと関係ないよ。それに何も出来ないし。何をする気もない。そう、名誉オーナーみたいなものなんだ。聖龍の名前があるかぎりそう成るように決められているだけだから」
 私は何だか大変な事に成って来たと思った。
 窓から見える夜景はたくさんのネオンに彩られ、夕暮れ時と違ってとてもゴージャスな感じがした。
 私はお風呂で彼にオイルマッサージをして貰い、リラックスした。彼も髪を下ろしバスローブを羽織ってとてもリラックスしていた。
 私は言う。「とうとうあなたに付いてこんな所まで来てしまったわ」
 彼が微笑み、言った。「違うよ来たんじゃなくて僕の元へ戻ったんだろう」
 私は頷いて言う。「そうだったわね。この夢はもう覚めないのね」
 彼が笑った。「今までの30数年間が長い長い夢だったんだ」
 私は言う。「じゃあ、やっと目が覚めたばかりなのね」
 彼は私を抱き寄せるとそっと口付けした。
 私は彼を求めていた。そして彼も私を求めていた。私達はその夜、初めて二人で同じベッドに入り、そっと抱き合いながら眠った。それだけだった。それだけで私は満たされていた。生まれて初めて他人によって私は満たされていた。



 目覚めると彼はベッドに居なかった。私は上体を起こし、窓の外を見た。夕べのゴージャスな夜景と違い、さわやかな港が見えた。香港の街は本当にエディそのものだ。エディが香港の街その物なのかも知れない。
 私はベッドを降りると、シャワーを浴びて身繕いをした。そしてリビングルームの扉を開けるとエディが笑って言った。
 「おはよう。気分はどう?」
 私も笑い返す。「まずまずよ」
 「良く眠れたかい?」
 私は頷き言う。「あなたは?」
 彼は首を振って言った。「一晩中君の寝顔を見てたんだ」
 「嘘でしょう?」
 「半分はね。でも随分長い間見てたような気がするよ」
 「やだ」私が言った。
 「ヨーコはとても安心して眠っていた」
 私は茶化して言う。「夫の胸で眠ってどんな不安があると言うの?」
 彼は立ち上がって私を引き寄せた。「僕の妻なんだ」
 私は彼に口付けして言った。「多分ね」彼が笑った。そして私も笑った。

 私はレストランで朝食を食べながら、仕事をどうするか考えていた。そしてしばらく考え、彼には相談しないで結論を出した。辞めるしか方法がなかった。このままエディと居れば会社に行くことは不可能でもあり、その必要もなかった。後のことは後で考えれば良い。何かあっても自分一人で生きるくらいの事は出来そうに思えた。

 食事を終えて私達は部屋に戻った。10時を少し過ぎた頃だった。
 私は日本の会社に電話をかけ、同僚に仕事の引き継ぎをし、上司に電話を回してもらった。私は退職の旨を告げる。彼は一応引き止めてはくれたが、私には形式だけだと言う事が分かっていた。彼は最後に退職願いを出すように言って電話を切った。
 私は机に向かって退職願いを書く。
 『一身上の都合により』変な感じだった。一身上の都合って何だろう。私の龍が龍使いに捕まったとででも書こうか。ペンを持ってボーっと窓の外を眺めた。
 それまで黙っていたエディが後ろで笑い出す。私が振り返ると彼はソファーで笑い転げて居た。
 「そう書いておけば。事実なんだから」
 私は驚いて言う。「エディ。あなた何故私の考えている事が判るの?」
 彼は笑うのを止めて答える。「パリに居た時からずっと繋がってるんだよ。僕達は一つなんだ」
 私は言う。「それは構わないけど、覗き見は良くないわ。あの時も言ったはずよ」
 わざわざ相談する必要なんてなかったのだ。
 彼は素直に謝る。「ゴメン。でもさっきの退職理由はなかなか良かったよ。私の龍が龍使いに捕まりました。だから会社を辞めますって書けばいい」
 私は首を振って見せ、前を向き直って「一身上の都合により」と言う普通の退職願いを書き終えた。印鑑を押し、丁寧に折り畳んで封筒に入れ封をした。そして宛名を書き、裏に自分の名前も書いた。
 私はそれを持って立ち上がって言った。「エディ。これを出すのってどうしたらいいのかしら?」
 彼も立ち上がって答える。「フロントに頼めばやってくれるよ。ついでに街へ行こう」
 私は頷いてバッグを持ちジャケットを着た。

 彼がフロントの人に何か言うと丁寧に私の退職願いをあずかってくれた。
 彼はウインクをして言う。「OK これでいい」
 私はふぅーっと溜息をついてから顔を上げ、彼に向かって笑いかけた。
 「エディ。これでおしまいよ。もう何もないわ」あなただけって言おうかと思ったが、止めにした。彼は大きく頷くと言った。
 「大丈夫。僕が居る」そう言ってもう一度ウインクして見せた。
 彼には私の心が判る。私には彼の心が判っているのだろうか。自分でもよく判らなかった。多分まだ私には他人の心を読むだけの余裕がないのだ。何時かきっと私にも判る時が来るのだろう。それについても考える事を放棄した。

 私達はエディの車に乗って街へ出かけた。エディはとても綺麗な靴と、小さなバッグをペアで買ってくれた。私はそれに対して何も言わなかった。それにしても彼はとても楽しそうに物を運ぶ。

 その後彼の家へ行った。
 門を抜けてから長い坂道を車で登る。お爺さんもお母さんも今夜のパーティーの用意で外出していた。私は何人かのメイドや執事に迎えられた。丘の上に建つ彼の家は歴史のあるホテルのように見えた。

 彼は私を誘うと、一つの部屋の厚い木の扉を開けた。そこには完璧に美しい龍の絵があった。彼はその絵の前に私を座らせ、自分も隣に座った。
 「これが今まで僕の恋人だったんだ」
 「私の龍ってこんなに美しいの?」
 彼が微笑んで言う。「とんでもない。こんな物じゃないよ。君の龍に比べればこんなのは子供の描いた絵にしか過ぎない」私は溜息をつく。彼が続ける。
 「それに君の龍はどんどん成長するんだ。今は未だ目を見ていないけれど、目を開けて動き始めたら、それは例え様も無いぐらい美しいと思うよ」
 私はソファーの背にもたれてしばらく目を閉じた。目を開けていると龍の絵に引きずり込まれそうな気がしたのだ。
 しばらくそうしていると、彼が私の肩に触れて言った。「ヨーコ。僕の部屋へ行こう。荷造りをして置かないといけない」
 私は言う。「荷造りって何?」
 彼はあきれたように言う。「明日僕達は日本に発つんだよ。忘れちゃったの?」
 私はそこで初めて思い出した。「そう言えば、お爺様がそんな事を言ってたわね」
 私の頭は日常から離れてしまっていた。
 彼が言う。「大丈夫。僕に任せておけばちゃんと連れて行くから」
 私は悔し紛れに言う。「あなたが龍使いですものね」
 彼は笑ってみせた。「ウイ マダーム こちらへどうぞ」そう言って私の手を取って彼の部屋へ案内する。

 彼の部屋は小さな建売住宅が一つ入ってしまいそうな広さの中に、とても趣味のいい家具がそろえられていて、壁一面には本が並んでいた。本の背中にはあらゆる国の文字が書かれている。その上ベッドルームは別にあった。
 「こんな所に一人でいて寂しくなかったの?」
 「自分の部屋に居て寂しがる人なんて居ないだろう?」
 それはそうだ。
 「こんな所に住んでいたら、ホテルはスイートルームじゃないと息が詰まっちゃうわね」
 彼は笑った。私は続ける。「でも私は寂しいだろうな」
 「大丈夫。君を一人にしたりしないから。僕と二人だったら寂しくないだろう」
 私は素直に頷いた。
 彼は幾つかのトランクケースに荷物を詰める。私は彼の本棚から日本の神話についての本や龍についての本を選んで彼の荷物に入れてもらった。
 「あなた、日本語が喋れるだけじゃなくて読む事も出来るのね」
 「平仮名とカタカナさえ覚えれば後は僕の国の文字だからね」
 なるほど。
 「ねえ、あなたいったい何カ国語ぐらい話せるの?」
 「広東語、北京語、上海語、英語、フランス語、後ドイツとイタリーが簡単な会話程度なら大丈夫。それにヒンドゥー語と日本語かな」
 私は呆れてしまった。「私、何だか自分が物凄く馬鹿だったような気がするわ」
 「どうして?」
 「だって私、六年も学校で英語を習ったのに何も判らないし、日本語だって自分の伝えたい事をちゃんと伝えられているのか怪しいものよ」
 彼は少し悲しそうな顔をして言う。「自国語だけで暮らせる民族は幸せなんだよ。それに君が日本語だけしか話せなくても、僕達には何の不自由も無いじゃないか」
 私は少し意地悪く言う。「あなたは私が何も言わなくても判るものね」
 彼が笑う。「そう。僕の趣味は覗き見だからね」私も笑った。
 彼は荷物を先に送ると言うので、私は彼の本を一冊だけ借りてバッグに入れた。眠くなくて暇な時に読むつもりだった。
 彼には荷造りの才能があって、あっと言う間に三つのトランクケースに、驚く程の荷物をきちんと詰め込んだ。そして執事を呼ぶと荷物を送るように告げる。何人かの若い男の人がやってきて荷物を運び出した。
 私はその様子を不思議な感じで見ていた。そして言う。「まるで映画を観ているみたいよ」
 彼はまた少し悲しそうな顔をした。私はそれでちょっと反省した。彼が悪いわけじゃない。生きているシステムが違うだけなんだ。
 私は元気を出して言った。「エディ、私おなかがすいたわ」
 彼は微笑むと言った。「何が食べたい?」
 「天麩羅うどん!」
 「日本に着いたら幾らでも食べられるだろう?」
 「今食べたいの」
 彼は笑って言った。「OK 香港にもちゃんと日本料理が食べられる店ぐらいある。そこへ行こう」
 私は我侭を通した事で何だかいけない事をした様な気がした。しかし彼はとても嬉しそうにはしゃいで日本料理店へ連れて行ってくれた。

 食事を終えて私達はホテルに戻った。
 彼は私の為に美容院の予約を取った。「日本人の美容師が居るから大丈夫だよ。プロにマッサージしてもらって髪をセットしてもらったらいい」私は頷いた。
 自分は用が有るからと言ってボーイを電話で呼び、私のドレスや靴を彼に持たせ美容室まで案内させた。

 私はボーイと一緒に美容室へ行った。とてもゆったりしたサロンだ。入口を入ると、とてもシックな感じの女性がボーイの持っていたドレスを受け取り、「田中様ですね」と言ってすぐに個室へ案内してくれた。私は何も言わずに席に付く。
 「私は中山と申します」
 「よろしくお願いします」
 彼女はドレスをハンガーに掛けて言った。「素敵なドレスですね。髪は柔らかな感じのアップにしましょうか?」
 私は「そうしてください」と言った。彼女はじっと私の髪を観ていた。そして言った。「エステのご予約も頂いておりますのでゆっくりお寛ぎください」
 私は言われるままに服を着替えてすべてを任せる。三人の美容師が一度に私の手と足と顔に施術した。とても気持ち良くて眠ってしまいそうだった。私は何となくお金持ちも悪くないなと思った。

 長い時間をかけて出来上がった自分を鏡で見た時私は本当に驚いた。とても自分とは思えないレディがそこに居た。
 個室を出るとタキシードで盛装したエディが迎えに来てくれていた。彼も少し驚いたようだった。
 「ヨーコ。とっても素敵だよ」そう言って私の後ろに回り、アンディーにもらったダイヤのチョーカーとイヤリングを付けてくれた。
 美容室の大きな鏡に写った二人はとてもゴージャスに見えた。
 私が言う。「この二人はいったい誰なの?」
 彼が答える。「李聖龍とその妻さ」
 私は彼の方を向いて笑う。「エディは何処へ行ったのかしら?」
 彼が笑う。「さあ?」
 彼は私の着て来た服や靴を部屋に運ぶようにボーイに告げると、写真館へ私を連れて行った。

 二人で並んで写真を撮った。彼はそれをすぐに仕上げるように言うと部屋に戻った。

 三十分程で写真が出来上がり、彼はそれを金で出来た写真立てに入れ、自分で綺麗に包装した。私達は彼の用意した花束と写真立てを持ってパーティー会場へ向かった。

 会場はそのホテルの最上階だった。会場には沢山の人達が集まっていた。良くは判らなかったが後で聞くと延べ人数にして千五百人から二千人位の人達が集まったらしい。

 私達はまずお爺さんの所へ行って挨拶した。
 エディは私からのプレゼントだと言って花束を渡す。写真立ては彼からのプレゼントだった。私はただ微笑んで「おめでとうございます」とだけ言った。お爺さんはとても優しく笑ってくれた。そしてエディからのプレゼントの包みを開け、二人の写真をとても喜んでくれた。
 次から次へと招待客が挨拶に来る。エディはその一人一人と挨拶を交わす。私はただ微笑みを絶やさないよう気を付けていた。彼が教えてくれる客の肩書きは、私をうんざりさせて余り有るほどのものだった。
 少し挨拶の客が途切れたところで彼は、私を従兄弟に紹介してくれた。従兄弟はインド人でアルンと言った。エディの母方の従兄弟で、彼とは年が同じだ。小さい時からとても仲が良かったらしい。
 彼はエディより10センチ以上背が高く体もガッチリしている。髪は短く刈り込まれ、髭をたくわえている。顔はどことなくエディに似ていたが、受ける印象は全く違った。肌の色はよく日焼けした日本人位の色で、エディが美術の先生ならアルンは体育の先生と言った感じだ。しかし、タキシードで正装した彼はエディとはまた違ったダンディズムを感じさせた。
 エディが日本語で言った。「アルン。僕の妻を紹介しよう。ヨーコだ」
 アルンは私の方を向いて微笑み、そして言った。「アルンです。初めまして」
 そしてエディに向かって言った。「とても魅力的な人だ。エディ、待った甲斐があったな」そして私に手を差し出した。私は彼と握手すると言った。
 「初めまして。ヨーコです。よろしくお願いします。とても日本語がお上手なんですね」
 エディが言う。「アルンはもう十年も日本に住んでいるんだ。僕が日本に居た時も随分世話になったんだよ」
 私は頷いて言う。「二人で悪い事をいっぱいしたんでしょう?」エディは笑う。
 「いえ そんな事 無いです」アルンは緊張した感じで、何だか中学生のように答えた。
 私は笑いをこらえて尋ねる。「何時こちらへ来られたんですか?」
 アルンはとても実直そうに答える。「昨日、船で着きました」
 私はエディを見る。
 エディが言う。「例の船で来たのか?」
 アルンはほっとしたように答える。きっと私に気を使っているのだ。
 「とても良かったよ。客船としては超一流の物だ。快適だったよ」
 エディが尋ねる。「帰りはどうするんだ?」
 アルンが答える。「聖龍に任せるさ」
 私には意味が判らなかった。
 「ヨーコ、船で日本に行こうか?」
 「アルンの乗ってきた客船?」
 エディが頷く。「三日掛かるけどゆったりとハニムーンを楽しむって言うのも良いと思わない?」
 私は反対する理由もないので頷いた。エディは嬉しそうに笑うと言った。
 「アルン。僕達も船にするよ」
 アルンは頷くと私に「失礼」と言って離れて行った。
 私はまたエディと一緒に沢山の人達と挨拶を交わした。言葉が解らないと言う事はこんな時笑顔を作るだけで良いのでかえって便利だった。しかし後で部屋に戻った時に私の顔は元に戻らないほど疲れていた。

 3時間ほど経った後エディが言った。「ヨーコ。疲れただろう」私は素直に頷いた。

 彼は私を部屋に送り届けると「まだ大切な用が有るから」と言って一人で出て行った。私はそのままベッドに倒れ込んだ。
 余りにも特別すぎる。私は誰かに文句を言いたい気分だったが、疲れと眠気には勝てなかった。私はそのまま朝まで眠った。



 「ヨーコ!ヨーコ!」エディの声で目覚めた。
 彼はさっぱりとした顔で私の肩をゆすっていた。
 私が言う。「おはよう」
 彼はとても素敵に笑うと言った。「そのまま寝ちゃったんだ」
 私は頷いて言った。「とっても、とっても疲れちゃったんだもの」
 彼は笑顔のまま言った。「夕べ、ナーガラージャの会合で僕達のことが正式に認められたよ。みんな君の事をとっても気に入っていた。でもこの姿を見られたらダメになっちゃうかも知れないけど」
 私はベッドに起き上がって言った。「だって、パーティーなんて初めてだったのよ」
 彼は私の頭を撫でると言う。「今朝の君はとてもキュートだよ。ほら、早く着替えてシャワーを浴びておいで。食事に行こう」

 私はドレスの裾をたくし上げてベッドを下り、バスルームに行った。
 ゆっくりと髪を洗いシャワーを浴びる。そして歯を磨き服を着て化粧をした。

 リビングルームに出るとエディは煙草を吸っていた。私は瞬間的に、なんの根拠もなく彼が誰かと寝てきた事を理解した。
 「あなた誰かと寝て来たのね」
 彼は少し考えて頷く。「僕だって正常な男なんだ」
 私も頷いた。
 何故か嫉妬心は沸いてこなかった。それより彼の浮気が判った事の方が不思議だった。
 私には彼がどんなふうに女の人を抱くのか想像できなかった。彼は私に対するのと同じように他の女の人にも接するのだろうか。きっと優しさは変わらないだろう。それは彼の本質だからだ。しかしどんなふうに女の人を誘うのだろう。想像出来なかった。私はいつも彼がするように彼の心を覗いてみた。そこには、私に対する愛と思いやりが満ち溢れていた。そして後ろめたさなど何処にも無かった。私は確かに愛されている。それだけで良い様な気がした。
 私は笑顔を作って言う。「食事に行きましょう?」彼も素敵に笑うと頷いた。

 朝食を終えて彼が言った。「ヨーコ。僕は今日、どうしてもしなければいけない仕事があるんだ。一人で此処に居てくれるかい?」
 私は頷いて答える。「ええ、構わないわ。荷物をまとめたりしなくちゃならないし、部屋からの眺めもとても綺麗だから、飽きる事も無いと思う」
 彼は微笑んで言う。「船は5時に出る。僕は3時までには戻ってくるから。食事はルームサービスを取っても良いし、此処に来て何かを頼んでも良い」
 私は笑って言った。「大丈夫よ。子供じゃないんだから一人でできるわ。これでも私、立派な社会人だったのよ」
 彼は笑って私の手に触れた。そして言う。「そう。僕のヨーコはしっかりしてるんだ。眠気には勝てないけどね」
 私は彼の手を握り返して言う。「でも、誰にも迷惑は掛けないわ」
 彼は頷いた。

 彼は私を部屋へ送り届けると一人で出て行った。
 私はバルコニーに出てベンチで寛ぐ。柔らかな日差しを浴びた香港の街はとても優雅に見えた。
 私は一人でパリに行ってからの事を、一つづつ丁寧に思い出した。何もかもが映画の中の事の様に思えた。
 私は何処に居るのだろう、三十年間自分だと信じていた私が、何もかも間違っていたような気がした。
 しかしエディの記憶だけはどんどん鮮明になって来る。彼がどんな時にどんな顔をしてどんな声で話したかまで、私には思い出せた。その記憶は立体的で手が触れられる程だった。まるで3Dの映画だ。それで私に判った事は、ただ彼が私を愛していると言う事だけだった。そして私も彼を愛し始めていた。
 彼は私の事を妻と呼んだ。私は初め冗談だと思っていた。しかし実感は無いが、私は彼の妻であるらしい。
 私は左手の指輪を見た。確かな存在感を持ってそれはそこにあった。それは朝の光を浴びて七色に輝いていた。私は彼の妻になってから彼を愛し始めていた。愛されることによる満足感では無く、本当に愛し始めていた。
 私はしばらく愛について考えた。今まで何度か彼に愛してると言ったが、それは本当の愛だったのだろうか。彼に充たされた事を伝えたかっただけなのではないだろうか。
 私は彼に嘘をついたのだろうか。いや、違う。私の中の愛と言う言葉にはそう言う意味も含まれているのだ。そして今思う愛は少しそこから成長し始めている。
 私は彼のすべてを受け入れつつある。彼の言う龍の話も、彼に付随する色々な事も。しかしそれは彼自信を愛しているからだ。私の知っているエディリーを愛し始めているのだ。
 では、私の知っているエディリーとはどんな男なのだろうか。香港の財閥でもなく、もちろんナーガラージャなんて言うものでもない。まして李聖龍なんかであるはずもない。ただ美しく繊細で脆い。そして私を全身全霊で愛してくれる。生まれる前から私を愛し続けている。私が何をしようと彼は私を受け入れるだろう。
 私はそんな彼に何を返せるのだろうか。私には何も思い付かなかった。そして思った。愛に対して何かを返すべきなのだろうかと。
 私は一人で首を振った。そんな事は出来はしない。そんな事を考える事すら間違っているように思えた。
 彼の愛に応えるのではなく自分の心に忠実に彼を愛せば良い。愛は誰の問題でもなく、自分自身の問題だからだ。
 愛と恩は違う。恩返しとは言うけれど愛返しとは言わない。愛とは愛し合うことで、奪うものでも与えるものでもない。
 私は別れた夫の事を思った。彼を私は愛していたのだろうか。彼は私を愛していたのだろうか。今となっては思い出せもしなかった。愛のない生活だったのかも知れない。
 今私がエディに対して持っている気持ちが愛ならば、彼の浮気を許せなかった私は、彼を愛してはいなかったのかも知れない。人並みに恋をして結婚し一緒に生活をした。ただ知識として知っていた結婚生活を忠実に実行しただけだったのだ。
 私は別れた夫に申し訳ない気持ちに成った。彼を浮気に追いやったのは私だったのだ。
 きっと彼も愛を求めていたのだろう。しかし彼も私を愛してはいなかった。それが今の私には理解出来る。彼も今の私とエディのような愛があることを感付いていたのかも知れない。そしてそれを探していたのだろう。彼はもうそれを見つけただろうか。あの時の愛人がそうだったのだろうか。私には判らなかった。そして今はそれを知る必要もなかった。
 これから何が起こるのだろう。李聖龍とその妻。私とエディの事だ。私にはその意味さえ理解出来ていない。パーティーに集まった沢山の人達。ナーガラージャ。そして愛によって目覚めた龍と、それを使う龍使い。
 私は煙草に火を付け大きく吸い込んだ。そしてフーっと音を立てて吐き出す。「何があっても失うのはこの命一つだけよ」私は声に出して言ってみた。そして煙草を一本吸い終わると部屋に入って荷物を片付けた。

 私はエディのように才能がないのか、荷物を片付けているのか散らかしているのか判らない。何度もトランクから出したり入れたりを繰り返す。気付いたら一時を少し回っていた。

 おなかがすいたので散らかしたまま一人でレストランへ行った。そして軽く食事をしてまた部屋に戻る。
 今度は巧く行きそうだった。私はエディについて考えながら荷物を詰めた。
 彼はどんなふうに女性を抱くのだろうか。私はまだ知らなかった。彼に抱きしめられると私の中で何かが動く。そして私はいつも彼から逃げてしまう。彼はそれを知っていてそれ以上は何もしない。私の龍は本当に目覚めるのだろうか。私は彼にどうやって龍を目覚めさせるのか尋ねなかった。彼が龍使いなんだ。彼に任せれば良い。
 そう言えば、別れた夫は私をどんなふうに抱いたのだろうか。それも良く思い出せなかった。
 とても不思議な感じだ。目が覚めた後、夢の記憶がどんどん遠退くように、エディと出会うまでの私の生活の記憶がどんどん遠退いてしまう。きっとこれからの私に必要の無い事なのだろう。それで良いような気がした。もしかして私はとても楽天的な人間だったのかも知れない。今までそんなふうに思ったことなど無かったのに。エディに受け入れられている安心感のせいだろうか。
 とても巧く荷物が纏まった。彼にもらった二着のドレスも巧く入った。私は一人で微笑んでトランクに鍵を架ける。その途端になんの根拠も無く、私の中から何かとても大きな不安感が沸いてきた。それは大きなショックと危機感を伴っていた。私は焦った。私は目を閉じて私の中に耳を澄ませた。逃げるべきだと思った。私は逃げる事を欲していた。

 私は急いで部屋を出て廊下を走る。6機あるエレベーターの一つがゆっくり上って来ていた。私はボタンを押すのを止めた。そして非常階段で一階だけ下に降り、下りのボタンを押した。
 上って来ていたエレベーターはさっきまで私の居た階に止った。そしてすぐに下りてきた。私は中に誰も居ないのを確認しエレベーターに乗り込んだ。
 私達の部屋の在った階には他の客はいない。多分、今頃私を探しているのだろう。私はエレベーターの中でそう思った。エレベーターの動きがとても遅く感じられた。私は個室の中で地団駄を踏むようにしてロビーに着くのを待った。

 ロビーに着いてドアーが開いた時、私は大変な事に気付いた。私は逃げるべき場所を知らなかったのだ。私は取敢ずロビーの柱の影に回り、立ちすくんだ。そしてエレベーターの方を覗き見る。
 5分程して私の居た階にエレベーターが止り、そしてゆっくり下りてきた。私は怖かった。とても恐ろしくエレベーターから見えない方に回り、隠れた。足が震え、心臓が百メートルを全力疾走した後のように高鳴った。
 私は目を閉じてエディを強く求めていた。そうする事より他に何も思い付かなかった。
 「助けて。エディ!助けて」
 突然閉じた目にエディの姿が見えた。彼は車に乗っていた。そして彼の目にはもうこのホテルが見えていた。その時、二人の白人の男が私の目の前に立った。彼らは見上げるほど大きく、私は怖じ気付いた。
 「タナカヨーコさんですね」私はかぶりを振る。それに構わず「一緒に来てください」と片方の男がカタコトの日本語で言った。私はもう一度首を横に振って二人の間を擦り抜けて走った。すぐに彼らは追い掛けて来る。私は玄関を走り出た。エディの青い車がすごいスピードで入って来た。そしてキーッという音を立てて急停車すると、彼は飛び降り、私を抱きしめた。私には振り返る勇気がなかった。
 彼が言った。「ヨーコ。もう大丈夫」
 私は彼の腕の中で震えていた。彼は大きな声で何か怒鳴った。そして抱きかかえるようにして私をロビーに連れて入るとソファーに座らせた。
 ボーイを呼んで飲物を運ばせる。私が落ち着く迄彼は私の肩を抱いていてくれた。
 「もう大丈夫よ」私がそう言うと彼は何人かの人を集め、その人達に対して広東語で怒鳴った。私はその時初めて何を恐れていたのか思い出した。それほど私は混乱していた。私を追い掛けて来たあの二人はどうしたのだろう。そう思ってロビーを見回す。しかし彼らはもう何処にもいなかった。エディの話す声が穏やかになっていた。良く見ると昨日紹介されたアルンも居た。エディは私の視線に気付くと集まっていた人達に手で「もういい」と言う素振りをして私の方に戻って来た。
 私は尋ねる。「私を追い掛けて来た二人はどうしたの?」
 彼は言う。「気にしなくて良い。それより荷物は片付いたかい?」私は頷く。
 彼は笑顔を作って言った。「じゃあ、港に行こうか」
 私はもう一度尋ねる。「さっきの人達はいったい誰なの?」
 彼はしょうがないと言う顔でしぶしぶ答えた。「多分、加藤の組織の者だよ。アルンが追い出したからもう大丈夫さ」
 「どうしてアルンなの?」
 「彼も一緒に船に乗るのさ。日本に戻るんだ」
 答えに成っていない彼の言葉に私は曖昧に頷いた。
 エディは言う。「立てるかい?」
 私はもう一度頷く。そしてそっと立ち上がった。

 エディはボーイに荷物を運ぶように言い、私を車に乗せた。
 ボーイはすぐに私のトランクとエディの荷物を持って降りて来た。それを車に積み込むと私の方を向いて笑顔を見せた。私達は沢山のホテルの人達に見送られ港へ向かった。

 運転をしながらエディが言う。「ヨーコ、良く逃げられたね」
 私は急にとても怖くなった事や、階段で一階だけ下りてからエレベーターに乗った事、そしてエディを強く求めたら車に乗ったエディが見えた事などを話した。彼は頷くと片手で私の手を取って言った。
 「僕にも君の声が聞こえたよ。君が僕を求めていた」
 「エディ。あなたはさっき何をあんなに怒っていたの?」
 彼は少し照れたように言った。「あのホテルで君にあんな恐ろしい思いをさせた事を怒っていたんだよ」
 「どう言う事?」
 「あのホテルや、これから行くであろう僕達のホテルで、決して有ってはならない事なんだ」
 私には良く理解できなかった。
 彼はそんな私に言う。「またゆっくり説明するよ。僕達のハニムーンの間にね。船の上で三日間はゆっくり出来るんだ」
 私は取敢ずそれで良いと思った。彼がそう言う限りきっとその方が良いのだ。急ぐ事は無い。そう思い、私は彼の顔を見て笑顔を作った。
 「あなたが居てくれて良かったわ」
 彼は微笑んで言う。「少し僕を見直したかい?」
 「ほんの少しね」
 彼は声を立てて笑った。そして私も笑った。

 港に着くとパリでの空港の時のように彼がすべての手続きをした。私はすべてを任せていた。そして船に乗る。アルンの言ったようにとても素敵な客船だった。
 案内されて私達は船室に入る。そこはエディらしくとてもゴージャスな部屋だった。私はまた立ち尽くす。彼は私の後ろで言う。
 「もういい加減に慣れなよ。僕と居ると仕方ない事なんだ」
 私は黙って頷いた。
 床には一目でシルクと判る段通が敷き詰められ、家具は螺鈿細工で統一されている。そしてその模様はすべて龍がモチーフになっていた。
 「もしかしてこの船もあなたの物なの?」
 彼はすまなそうな顔で頷いた。「ナーガラージャの船さ」
 私は諦めてベッドルームの一つを覗く。思ったとおり、とても趣味のいいベッドルームだった。彼の選ぶ部屋はいつもゴージャスなリビングに、簡素とも言えるようなさりげなさの中にとても機能的でかつしっかり仕事のされた家具でコーディネートされたベッドルームが付いている。私はそのことを彼に言うと彼は笑いながら言った。
 「それは李家の伝統さ。さっきのホテルだって、この船だって、僕一人で選んだわけじゃない。祖父と母とアンディとでいつも決めるんだ僕一人で選んだら此処まで豪華にしたりはしない。祖父がこう言うのが好みなのさ。僕とアンディはいつもベッドルームを担当するんだ」
 私は頷いて言った。「でも、とても調和が取れているわ。お互いを尊重しているのね」
 彼は微笑む。「そんなふうに思った事なんてなかったよ。でも君の言うとおりかも知れない」そう言ってベッドルームを改めて見回した。
 「ヨーコ、取敢ず神戸へ着くまでの3日間、此処が僕達の新居だ。でもこれからもよく似たものだと思うよ。すべてが終わるまでは移動を繰り返す事に成ると思う。でも僕達はいつも一緒だ。だから僕の居る所で寛いでくれ。そこが僕達の家なんだから」
 私は頷いた。「何処へ行っても驚く程豪華なんでしょうね」
 「君に良く似合うよ」
 私は驚いて言った。「まさか?」彼は笑って答えなかった。
 出航までまだ時間があった。彼は紅茶を頼んでそれを二人で飲んだ。
 私は紅茶を一口飲んで言った。「おいしいわ」
 彼は微笑む。「パリからロンドンへ飛んだ時の紅茶とどっちがおいしい?」
 「同じ位よ」
 彼は不満そうな顔をした。私は続ける。「あなたと飲む紅茶はいつでも何処ででも最高においしいのよ」
 彼は笑う。
 その時電話が鳴った。彼が受話器を取って英語で話す。そしてすぐに切った。
 彼は私に言う。「アルンが乗船したから行ってくるよ。君は此処で寛いでいてくれ。出航する時には迎えに来るから」
 私は頷いた。

 私は彼を送り出し、ソファーに戻って日本神話の本を読むことにした。しかしそれはとても難解で私はすぐに飽きてしまった。もう少し頭が元気な時に読もう。今日は少し疲れている。自分にそう言い聞かせると私は荷物を解いた。それなら頭を使わなくて良い。
 バスルームに化粧品を並べ、クロゼットに服を掛た。そうする事で少しだけ自分の部屋と言う気になった。私は思い付いて小さめのベッドルームにあるバスルームで下着を洗濯し簡単に干した。そしてヒーターのスイッチをONにしてリビングに出て寛いだ。

 しばらくしてエディが迎えに来た。私達はデッキに出る。お爺さんやお母さん、そしてアンディとその家族が見送りに来てくれていた。エディは甥や姪達に広東語で何か言う。アンディが私に「気を付けて」と日本語で言った。私は「ありがとう」と言って手を振る。
 船の別れは名残惜しい。私達の乗った船は、ドラを鳴らしながらゆっくりと岸壁を離れる。私達はみんなが見えなく成るまで手を振った。

 ふっと見上げた空には、夕焼けに染まった雲が真っ赤な龍の形を作っていた。