龍 5 香港(T)
香港の空港に降り立ったのは、夜遅くだった。
香港の街は眠らない。エキセントリックなネオンサインは街を照らし出し、沢山の人々がまだ活動していた。
私達はエディの迎えの車に乗り込む。私はエディの家へ行くのかと思っていたが、着いたのは高層ビルのホテルだった。
私はエディに尋ねる。「あなたの家には帰らないの?」
「ゆっくり落ち着いてからにしよう。ホテルの方が気が楽だろう」
私は内心ほっとした。そんな私を見て彼は微笑んだ。
ホテルに入ると彼は、フロントでキーを貰い、ボーイに荷物を運ばせた。
着いた部屋は、多分特別室だろう。趣味の良い調度品が揃えられ、その上窓からはとても美しい夜景が見えた。そしてやっぱり趣味の良いベッドルームが二つあった。
私達は荷物を置くと、座り心地の良いソファーで寛いだ。私は靴を脱ぎ足を高くして寝そべる。
「足がむくんじゃったわ」
彼はそんな私を優しい目で見ていた。
彼はワインを開けるとグラスに注ぎ分け、それを私に手渡した。彼は私のグラスに自分のグラスを合わせ、心地好い音を響かせて言った。
「僕の街にようこそ」
私は笑ってグラスを上げる。「あなたの街が私を歓迎してくれますように」
彼はグラスを口に運び、言う。「もちろん、君はこの街の誰からも歓迎を受けるよ」
「あなたの恋人が、ナイフを持って私を殺しに来るんじゃないでしょうね」
彼はウインクをすると言った。「その時は諦めてくれ」
私は口に含んだワインを吹き出しそうになった。
彼は笑いながら続ける。「大丈夫だよ。ジョークだから。心配しないで。僕はここでは身持ちが堅いので有名なんだ」
「身持ちのが堅いって、女の人が言う言葉じゃなかったっけ?」
彼は笑った。「そうだったっけ。じゃあ、男はどう言うの?」
私は首を傾げて言う。「さぁ?なんて言うのかしら。分からないわ」
「とにかくそう言う事さ」
「つまり、私を殺しに来る、あなたの恋人は居ないって事ね」
彼が繰り返す。「はい。僕の恋人は居ないって言う事」
「じゃあ、恋人じゃなければ居るかも知れない?」
「かも知れない」
私は頷いて言った。「仕方ないわね」
彼も頷き、ワインを飲んだ。
彼は立ち上がり、電話をかける。初めは広東語で、そして次ぎにフランス語でかけた。
その間私は寝そべって煙草を吸っていた。電話をかけ終えた彼は、私の後ろに立って言った。「今日の朝、祖父が君に会いに来るらしい」
私は驚いて言う。「私の方から行かなきゃいけないんじゃないの?」
「構わない。祖父が来るって言っているからここで待てばいい」
「私で大丈夫なのかしら」
エディが微笑む。「大丈夫過ぎるくらいだよ。ただちゃんと靴を履いて座ってさえ居ればね」
私は慌てて起き上がった。
彼が声を立てて笑う。「まだ祖父は来ないよ。慌てなくていい。僕はそんな君を気に入ってるんだから」
私はまた寝そべって言った。「私どうしたらいいのか判らないわ」
彼は私の顔をのぞき込む。「リラックス」
私は頷いた。
彼はその後ソファーに座って言った。「加藤にも電話しておいた。昨日の礼を言って、もうパリを離れた事を伝えた」
「香港に来たって言ったの?」
彼が答える。「まさか。君に母の国を見せたいのでインドへ来てると言っておいたよ」
「彼、インドを探すのかしら」
エディはうつ向いて首を振った。「さあ?でも明日の夜祖父のパーティーがあるから、その次ぎの日には新聞で僕達がここに居る事を知るだろう」
「新聞に載るの?」
「はい」
私はそれに対して何も言わなかった。
「そろそろ寝た方がいいよ。もう夜中の二時だから」
「眠くないわ。だって飛行機の中でずっと寝てたんですもの」
「じゃあ、ドライブにでも行こうか?」
「夜中のドライブって楽しいかしら?」
彼は笑って言う。「はい」
私はしばらく考えた。そして言う。「ドライブは今度にしましょう。だって寝不足の顔でお爺様に会いたくないもの」
彼は頷いて言った。「時差の調整には眠るのが一番だ。睡眠薬をあげようか?それとも子守歌を歌おうか?」
「どちらも結構よ。私、眠るのは得意なの」
彼は即座に言った。「知ってるよ」
私達は笑った。
彼がベッドの用意をしてくれる。私は簡単にシャワーを浴び、ベッドに入った。彼がドアを少し開け、その隙間から顔だけ出して言った。
「添い寝の御用はないですか?」
「ノン メルスィー」
「ウィ マダーム ボンニュイ ヨーコ」
「おやすみなさい」
私は三度ほど寝返りを打った。やはり彼に添い寝を頼めばよかっただろうか。初めての場所で初めてのベッド、その上睡眠は十分足りていた。眠れないかも知れない。しかしそんな風に思いながらも、何時の間にか私は眠っていた。
翌朝カーテンを閉め忘れていたので、窓から差し込む朝日を全身に浴びて目覚めた。
私はベッドの中で大きく伸びをする。それだけで私の体も頭も完璧に目覚めた。
シャワーを浴び、化粧をして寝室を出る。
リビングにエディの姿はなかった。私は彼の寝室をノックしてみる。応えはない。そっとドアを開けてみる。ベッドの上にも彼の姿はない。私はドアを静かに閉めてリビングのソファーに座り、煙草に火を付ける。そして冷蔵庫を開けてミネラルウォーターを飲む。私はなぜ彼が居ないのか考えてみた。多分、家へ戻ったのだろう。私が二本目の煙草を吸い終わったところで彼が戻ってきた。
「おはよう」彼が先に言った。私も返す。「おはよう」
彼はソファーに腰を下ろして言った。「今朝は早起きだったんだね」
「夕べ、カーテンを閉め忘れちゃったみたい」
「ゴメン。気がつかなかったよ」
私は首を振って言う。「あなたのせいじゃないわ。それに朝日がとても気持ち良かったし」
「良く眠れた?」
私は答える。「ええ、とても」
彼は微笑んで頷く。そして上着のポケットから小さな箱をだして私の前に置いた。
私は尋ねる。「何?」
彼が言う。「開けてみて」
私はそっと手に取ってその小さな箱を開ける。ダイヤの指輪だった。3キャラット前後の大きさで、とても綺麗にカットされたダイヤが、シンプルなニューヨークタイプの台に乗っていた。
私は尋ねる。「どうしたのこれ?」
彼は真剣な顔で答える。「君の為に作ったんだ」
「私の為に?」
「はい。君の為のこの石を、君の指に一番良く似合う台に乗せた」
私はあきれて言う。「こんなに朝早くから?」
彼は頷く。
彼が私の手から箱を取り、指輪を持って私の指に付けた。それは生まれた時からそこにあったようにピッタリと収まっていた。私は指輪の収まった指と彼の顔を交互に見る。彼の真剣な顔がそこにあった。私はどうして良いか分からなかった。
彼が不安そうな声で言う。「気に入らない?」
私は首を横に振る。「いいえ。そうじゃなくて・・」後の言葉が続かない。
「じゃあ、気に入ったんだね」
私は頷く。
彼はとても嬉しそうな顔で笑った。
「良かった」ほっとしたように彼はそう言った。
私は迷っていた。「私がこれを貰っていいのかしら?」
彼は不思議そうに言う。「どうして?」
私は首を振って言った。「だってエディ、こんな高価なもの」
「夫が妻に指輪をプレゼントして何故いけないの?」
「でも私達は結婚した訳じゃないわ。それに私、良く判らない。あなたの言っている結婚がどういうものなのか」
「僕のこと、愛してないの?」
「そうじゃないと思うけど・・・。それにこれは高価すぎるわ」
彼は私の手を取って言う。「君は僕の妻なんだ。だってそうだろう?そのために僕達は生まれ変わって来たんだから。それに僕の妻に高価すぎるものなんて無い。どんな高価なものを身に付けたって君は君でしかないんだ」
私は良く分らなかった。
彼が私をのぞき込むようにして言う。「ヨーコ。君を愛してるんだ」
私は頷く。「多分、私も・・・」
「それ以外に何が必要なんだい?」
私は首を振って言う。「それだけだと思う・・・」
究極的にはそれだけだ。それに私はその時点では、それを貰うことで自分がどんなトラブルに巻き込まれるのかなど考え付きもしなかった。それで私は素直に彼の気持ちを受け入れることにした。
「どうもありがとう。本当に嬉しいわ」
彼は微笑んで言う。「良かった。パリで初めて会った時君の指輪の痕がとても寂しそうに見えたんだ」
私はそっと微笑んだ。
彼が続ける「君に指輪を贈るのを楽しみにしていたんだよ。石は初めからこれに決まっていた。ただどんなフレームに乗せようかってずっと考えていた。でも君はいつもシンプルな物がよく似合うから、結局これにした」
私は手をかざして指輪を見る。「とっても素敵よ。それにサイズもピッタリ」
「僕はプロフェッショナルだからね」
私は頷いた。
「11時に祖父が来るよ。食事はどうする?」
「どうせあなたはおなかがすいて居るんでしょう?」
「はい」
「香港式の朝食はどんななの?」
彼は指を鳴らして「飲茶にしよう」と言って私の手を取って立ち上がった。
私達はホテルの一階のレストランへ降りた。席に付くと彼は、ワゴンを呼んで次から次へと料理を取り、私に勧めた。私は竹で出来た蒸し器の中から一つづつ食べ、残りを彼が全部食べた。食べながら彼が言う。
「祖父と会った後、ドライブに行くかい?」
私はなにげなく答える。「そうね」
「そうだ、明日のパーティーのドレスも買わなくちゃ」
「ドレスならパリで頂いたのがあるあわ」
彼は首を振って言う。「だめだめ。明日は正装じゃないと。それに宝石も揃えなきゃ」
私は溜息をついた。
「大丈夫。僕に任せて!」
彼がとても楽しそうなので、私は何も言わなかった。
彼はワゴンに乗っていたほとんどの種類の料理を食べたんじゃないだろうか。それぐらい良く食べた。食べ終わった時テーブルには、まるで爆撃を受けた廃墟のように食器が散らばっていた。
部屋に戻り30分程経ってドアのチャイムが鳴った。
エディが出迎える。私も緊張して立ち上がった。
エディのお爺さんは、とても大きなおなかをした、とても優しそうな人だった。
エディとお爺さんは抱き合って挨拶をする。
その後を女の人が静かに入って来た。多分彼のお母さんだろう。とても気品のある美しい人だ。エディはお母さんの目を受け継いだようだ。
エディはお母さんとも抱き合って挨拶をする。そして二人に私を紹介した。
私は緊張しながら二人と握手する。お爺さんが私を見て何か言った。エディが訳してくれる。
「君の龍はとても素晴らしいって言ってるよ。君のこともとても気に入ったみたいだ」
エディは二人にソファーを勧め、私にも座るように言った。
エディとお爺さんが話し、お母さんはとても心配そうに二人を見ていた。私は言葉が判らないのでただ見ているだけだった。
二人が広東語で話しているのを聞いていると、それはとてもリズミカルで、お母さんの心配そうな顔がなければ、まるで天気の事でも話しているような感じだった。
途中で彼が私に言った。「ヨーコ。祖父が君を僕の妻として認めたよ。今までどんな縁談にも反対してきたのに、君は文句無しだ」
私は言う。「でもお母様はとても心配そうだわ」
「祖父が僕達に旅をするように言ったんだ」
「旅って何処に?」
「日本に行く事になるだろう。出発は明後日の夜だそうだ」
私は尋ねる。「日本に何があるの?」
「僕達にとって必要な事らしい。君の龍はまもなく目覚める。その時に僕がちゃんとコントロール出来るように学ばなくてはいけない。その上僕のミスで敵に君のことを知られている。すべての問題をクリアするのには、祖父が言うようにするべきなんだ」
私は頷く。そして言った。「大変ね」
彼が笑って言う。「大丈夫だよ。僕達はどこへ行っても守られるし、助けられる。祖父が君を認めたことで、僕はもう聖龍に成ってしまったからね」
「そんなに簡単なものなの?例えばみんなで会議して決めるとか、いろいろ試すとかは無いの?」
彼は笑って答える。「無い。大龍が認めればそれでいいんだ。誰も大龍の決定に逆らえない。だから僕達はもう正式な夫婦だって言う事さ」
良く判らないけれど私は一応お爺さんに頭を下げた。お爺さんは私に優しく笑いかけ、何か言った。エディがそれを訳す。
「ヨーコ。気を付けるんだよって言ってるよ。僕を信じて今のままの綺麗な心で居続けるんだよって」
私は不覚にも涙が溢れそうになった。
エディが驚いて言う。「どうしたの?」
私は首を振って答えた。「何でもないわ。ただ私、今まで綺麗な心だなんて、言って貰った事なんて一度もなかったの。自分勝手で、わがままで、気が強くて、そんな自分があなたみたいな人に愛されるなんて信じられない。その上初めて会った人にまでそんな風に言って貰って、何だか私・・・」
エディが優しい声で言った。「僕はそんなヨーコを愛しているんだよ。勝手で、わがままで、気が強くて、その上泣き虫。僕の理想の女性像だ。その上綺麗な心を持っている。だから祖父は君を妻と認めたんだよ。
君の龍を見て妻と認めたわけじゃない。僕達が愛し合えなければ愛の龍は目覚めない。だから祖父は君に会いたがったんだよ。そしてまもなく君の龍が目覚めるって言った。つまり僕達の愛が本物だって見抜いたって言う事さ」
私は頷いた。
私はお爺さんとお母さんに向かって丁寧に頭を下げ「ありがとうございます」とだけ言った。お母さんが私の手を取って抱きしめた。私は涙がこぼれた。彼女は私の涙を優しく拭いてくれた。お爺さんは大きな暖かい手で私の頭を撫でた。お母さんが言った。エディが訳してくれた。
「僕の事を宜しくって言ってるよ。僕の妻が君で良かったって」
私は頷いてみせた。お母さんも何度も頷いてくれた。帰り際にお爺さんとお母さんはもう一度私を抱きしめてくれた。私は5年も一緒に暮らした別れた夫の両親と、一度も触れ合った事など無かった事を思い出していた。
二人が帰った後エディは私を抱きしめて言った。
「愛してる」
強く息が出来ない程。私は身体全体で彼を感じていた。そして愛されていることを彼の腕から感じた。
その時、意識の奥の方で何かが動いた。私の中にしっかり貼り付いている何かが、大きな力で剥がされようとしているような、とても大きな衝撃と、恐怖を伴った感覚だ。私は驚いてエディから離れた。するとそれはまた静かになった。エディはそっと口付けをして私をソファーに座らせた。そして優しく微笑むと言った。
「そうだ。兄に会いに行こう。兄の店で君のアクセサリーを選べばいい。僕の店よりずっと良いものが揃っている」
私に何も言う暇を与えずに彼は立ち上がって私の手を取った。私は彼に従う。完全に彼のペースに巻き込まれていた。自分を見失っている私には、彼に任せる以外他に方法がなかったのだ。
ロビーに降りると彼は自分の車を持って来ていた。それは夕暮れ時の空のような深いブルーのカブリオレだった。彼はドアを開けて私を乗せた。その車のシートは適度な温度で暖められていた。
15分程走った所に、お兄さんが店を出しているショッピングセンターがあった。
エディは無造作に車を止めると私の方へ回ってドアを開けた。
お兄さんの店は、とても大きなビルの一階のほとんどを占めていた。
私は言う。「すごいお店ね」
彼は肩をすくめてみせた。そして私の腰に手を回して歩き始めた。
店に入ると店員の人がみんな彼に陽気に声を掛けた。彼が広東語で何か言うと一番偉そうな人が奥の方を向いて何か言った。彼は私にそこで待つように言って奥に入って行った。
彼はすぐに男の人と出て来た。お兄さんだ。すぐに分かった。とても良く似ていて、彼よりも風格があった。
お兄さんは私に笑いかけると言った。
「初めまして。私が兄のアンディです」
とてもきれいな発音の日本語だ。
私も笑顔を作って言う。「初めまして。ヨーコです。よろしくお願いします」
エディは広東語でアンディに何か言う。お兄さんは大きく頷いて奥の方へ歩いて行く。エディは私の手を取って誘う。
アンディはショーケースの扉を開けて私に言った。「ヨーコ。遠慮しないで、好きな物を好きなだけ持って行きなさい。僕からの結婚祝いだから」
私は驚いてエディを見た。エディは笑って言う。「全部貰っちゃえば?」
アンディはとても感じ良く笑った。そしてエディに広東語で何か言う。エディは頷いてショーケースをのぞき込み、とても豪華なチョーカーを選び出した。
「ヨーコ、これなんかどうだい?」
私はそれを手に取って見る。それはダイヤをふんだんに使い、ずっしりとした重さを持っていた。彼は私の後ろに回り、それを私の首に付けた。私は心の中で、これ一つで立派なマンションが買えるのだろうと思った。
鏡をのぞき込んでエディが言う。「悪くない」
アンディが別のショーケースから良く似たイメージのイヤリングを持って来た。マンションが二件分になった。
エディはそれを受け取ると私の耳に付ける。そしてもう一度鏡をのぞき込んで言った。「これにしよう。とても良く似合う」
私はマンションの重さを身に付け、何も言えずにただ驚いていた。
エディが言う。「ヨーコ。笑って」
私は言われたように微笑みを作る。
アンディが言う。「素晴らしい。この宝石はヨーコと出逢うのを待っていたようだ。まるでエディみたいにね」そう言って片目をつぶった。兄弟で良く似たしぐさをする。本当に仲の良い兄弟なのだろう。
エディは私の指輪をアンディに見せて何か言った。アンディは頷くと言う。
「ワンダフル」エディもアンディもとても嬉しそうだった。
店に客が来て店員がアンディを呼びに来た。アンディは「好きなだけ持って行って」そう言うと私達の側から離れた。
エディが言う。「ヨーコ他に欲しい物は無い?」
私は首を振る。「充分すぎるわ」
彼が笑う。「ヨーコは本当に物を欲しがらないんだね」
「必要な物だけあればいいのよ。でも、これも本当に必要なものなのかしら?」
彼は頷く。「もちろんさ。パーティーにジャンクを付けて行ったりしたら、祖父がみんなの笑い者になる。だから君は何も心配しなくていいんだ。それにアンディだってプレゼントを考える手間が省けただろう?かわいい弟の結婚祝いなんだから。君が気にすることなんて何も無いんだよ」
「結婚祝いって言われても・・・。本当にいいの?」私が尋ねた。
「はい」彼が笑顔で答えた。
チョーカーとイヤリングを外すと店員を呼んで渡した。「ホテルに届けてもらおう」彼はそう言うと私を誘って店を出た。
エディは店のガラスごしにアンディに手を振る。アンディが軽く会釈した。私は丁寧に礼をした。
その後私達はレストランで食事をした。私は軽いものを頼み、彼はちゃんと食べた。
彼は私の手を取って、指輪を見ながら言った。「アンディも素晴らしいって言ってくれた。良かった。」
私は頷く。
彼は続ける。「ヨーコ、君は次にまた生まれ変わってもこの指輪を貰ってくれるだろうか?」
「ねぇエディ。私、本当にどうしたらいいのか判らないの。今度のことで私は何も自分で決めていないような気がするのよ。ただ、あなたを信じるって言うことを自分で決めただけ。それを決めた時にはその信じるの中に、龍だとか、ナーガラージャだとか、結婚だとかって言うものが含まれるなんて考え付きもしなかったの」
「ヨーコは後悔しているのかい?」
「後悔するも何も、自分が今どういう状態なのかすら理解出来ていないのよ」
「ヨーコ。僕は君を愛している。それは間違いのないことだ。それだけを信じていてくれないか?その他の事は他人事だと思っていてくれていいから。君はいつも君のままでいればいい。そして君自身の心で僕を愛していてくれさえすれば、僕は他に何も望まないから」
「私、怖いのよ」
「ヨーコ。君は何も恐れる必要なんてない。今君が感じている不安の本質は、変化というものなんだ。今までの自分を取り巻いていた環境と、今の自分を取り巻こうとしている環境の違いというものに君は不安を感じているだけさ。しかし、人は変化せずには生きられない。だからそれに対応出来る能力を元来持っているものなんだ。すぐに慣れるさ」
「変化?本当にそれだけなのかしら?」
「はい。それだけ。だから何も心配いらない。君は何も変わる必要なんてないし、龍のことやナーガラージャのことなんて何も考えないでいいんだ。僕が君を愛していると言うことだけ知っていてくれれば」
「でも、自分の置かれた状況を理解して、それに順応することってとても大切なことでしょう?」
「確かに。でも、君が何を知ったところで、君は君でしかないって言うのも判るだろう?誰も君に対して君以外のものを望んだりしない。それにもし望まれたとしても君は君自身でいることしか出来ないだろう?」
「それはそうだけど・・・。でも、努力することぐらいは出来るわ」
「努力して僕の愛する君を変えてしまうのかい?そうしたら僕の愛するヨーコがどこにもいなくなってしまう。僕はまた生まれ変わって君を探すことになるんだよ」
「良く判らないわ。あなたの言う愛って言うものが私には良く判らないのよ」
「大丈夫。君はただ戸惑っているだけだ。何も急がなくていい。君は今まで通りにしていればいいよ。環境の変化に対しては僕が全部引き受けるから。僕に任せておけばいいんだよ。君は僕を信じるって言う決心をしてくれた。それだけで僕は本当に嬉しいんだ。他に何も望むものなんてないよ」
「嘘よ。あなたは龍が目覚めることを望んでいるわ。そしてそれはあなたのまだ知らない環境に入って行くって言うことなんじゃないのかしら?」
「そうかもしれない。確かに僕にだってそれに対する不安はある。愛する君を危険に晒すことになるからね。でも、僕は今君を手放したくない。これから先だって決して君を失いたくない。今ここで君を元の環境に帰してしまうって言うことは、僕が君を失うって言うことなんだ。そんなこと今の僕には考えられない。僕はこの先何度生まれ変わっても、その指輪を君に贈って、その度に君と幸せに成るんだ」
「幸せって、そんなに簡単に成れるものなのかしら?」
「はい。だって今の僕には君を失うこと以外に不幸を考え付けない。つまり君と居さえすれば、僕は必ず幸せで居られるっていうことだ」
「何だかとても短絡的な感じがするわね。でも、そんなものだったらいいわね」
「そんなものなの。だから君も幸せになりたかったら、今も、そして生まれ変わっても、僕にその指輪をもらえばいいんだ。そうすれば僕の幸せが君をも幸せにするから」
「期待しているわ」私は良く噛んでいないものをまるごと飲み込むようにして、そう言って笑ってみせた。
食事を終えてエディは私をブティックへ連れて行った。
そこで彼はとても丁寧にドレスを選ぶ。私は彼の手に取った物を椅子に座って、好きか嫌いかを答えるだけだった。私には自分がドレスを着て、新聞に報道されるような盛大なパーティーに出ているというシチュエーションを思い描くことが出来なかったので、彼にドレス選びを任せた。
彼は最終的に3着のドレスを選び出し、私はそれを試着してみた。そのどれもがとても上質で着心地の良い物だった。
彼は二番目に着てみたドレスをとても気に入ったようだった。私はそのドレスをもう一度試着し、少し大きい分をピンでつまんで直してもらうことにした。
それは黒いシルクサテンで出来た、シンプルなロングドレスだ。ちょうど良い裾幅で、足を動かすととても綺麗になびく。
私は鏡の前でターンしてみる。襟ぐりの後ろのカットもちょうど良く、柔らかなラインで背中を切り取っている。そのラインは少し上だと野暮ったくなり、少し下がるだけで下品になる、完璧に計算されたラインだった。前の襟ぐりは少しつまり気味のもので、アンディの店で選んだチョーカーをきっと引き立ててくれるだろう。
エディは言う。「ヨーコは本当にシンプルな物がよく似合う。きっと明日のパーティーで君が一番綺麗だよ」
私は何と言って良いのか分からなかった。彼はそんな私を優しい目でじっと見ていた。
シルクのドレスを着て本物のダイヤモンドで身を飾る。エディと出逢う前の私には考えられない事だった。
私は言ってみる。「エディ。私シンデレラみたい。十二時が来るが怖いわ」
彼は笑って言う。「大丈夫。元に戻ったって、僕がガラスの靴を持って、きっと探し出してみせるから」
私はまた溜息をついた。夢でも見ないようなキザなせりふだ。しかしエディが口にすると彼の人柄のせいか、育ちの良さなのか、キザには聞こえなかった。
彼は店の人にドレスを直してホテルに届けるように言うと店を出た。
私達は車を止めた所まで歩く。私は彼の居る現実の世界を目の当たりにして、彼の言った環境の変化に対する不安を、改めて感じていた。彼は想像していたよりもはるかにお金持ちだ。はるかにと言うよりも想像できる範囲を超えているような予感があった。環境も価値観も違い過ぎる。理解することなどとうてい無理に思え、私はうつ向いて黙っていた。
車に乗って彼が私に言う。「ヨーコ、どうしたの?」
私は正直に言う。「やっぱりあなたが遠い世界の人みたいな感じがするの」
彼は私の方を向いて言う。「どうして?」
私はうつ向いたまま首を横に振る。
彼が言う。「ほら。ちゃんと僕を見て。僕が遠くに居るからかい?それとも僕のどこかが変わったかい?」
私は顔を上げて彼を見る。彼はパリで出逢った時のままだった。変わったのは私の心の方だ。私は何が何だか分からなくなっていた。
彼は私の手を取ると言った。「ヨーコ。僕が金持ちだったって言う事がそんなに辛いことなの?」
私は彼から目を逸らした。
彼が続ける。「僕の為に我慢してくれないか?きっとすぐに慣れるから」
私は言う。「ごめんなさい。そう言うつもりじゃないの。ただ今までと余りにもすべてが違い過ぎるの。あなたに愛されていることすら私には信じられない出来事なのよ。その上あなたの家族にとても良くしてもらって・・・。
私ってきっと幸せに慣れていないのね。幸せであればある程何処かから誰かが出てきて『ウソだよ。ほらだまされた。身の程知らずが、お前がそんな幸せに成れる訳ないだろう』って言いそうな気がするの。きっととてもひねくれていて、疑い深い性格なのね」
彼が言う。「君は、幸せになってからそれを失うぐらいだったら、初めから不幸で居たほうがいいって思っているだけなんだ。でも、幸せになってみないと本当のところは判らないって思わないかい?
本当は僕だって君が僕の前から消えてしまうんじゃないかって不安なんだ。だって君は何度も僕の前から居なくなったんだから。それで僕は何度も何度も君を探して生まれ変わった。そしてやっと今こうして手の届く所に君が居る。それがとても不思議な感じがする。こうして触ったら溶けてなくなってしまいそうなんだ」
そう言って私の頬に触れる。そして続ける。
「僕は君が眠っている時に何度も何度も君を見に行くんだ。何故だと思う?」
私は首を横に振る。
彼が言う。「眠って起きたら君と出逢ったのが夢だったんじゃないかって心配になるから。そして君の寝顔を見て夢じゃなかった、もしこれが夢でもまだ覚めていないから大丈夫だって安心してまた眠るんだ。僕にとって幸せとは、君がこうしてここに居ることなんだ。そして僕は君と居ることですでに幸せを手に入れた。だから金で買える物なんて何の価値もない。ただ君を飾ったり君が喜んだりしてくれさえすればそれでいいんだ」そう言うと彼は悲しそうな顔をした。
私は本当にどうしたらいいのか判らなく成っていた。
彼は私の顔をのぞき込んで言う。「ヨーコ。僕の顔をちゃんと見て。僕を信じて」
私は目を上げて彼を見る。とても美しく、そして繊細で傷つきやすい男の顔がそこにあった。それはパリで知り合ったエディ・リーの顔だった。
多分彼の言うように私の抱いている恐れとは、心地好いものを沢山与えられることによって、それが与えられなくなった時の惨めさだとか不便さだとかにたいするものなのだ。与えられることを恐れているのではない。要するに、手に入れる喜びには、失う恐ろしさが付いてくるということだ。
きっと今までの私の中では、手に入れることの喜びよりも、失うことへの恐れのほうがはるかに大きかったのだろう。だから決して分不相応な物を欲しがったりしなかったのだ。
彼の言うように素直に幸せを受け入れるべきなのだろう。彼に与えられる幸せだけでなく、彼の言う龍も含め、すべてをまるごと受け入れようと思った。何故なら、その時の私は、受け入れるものと受け入れないものを選択するだけのエネルギーも知識も持ち合わせていなかったのだ。
つまり、すべてを拒絶するか、すべてを受け入れるかのどちらかの選択肢しか無かった。その時の私もまたエディを失いたくなかった。それが愛なのかどうかはまだ判らなかったが、彼は確かに私にとって特別だった。
私は、エディの横顔を見ながら彼の言う龍の姿を思い浮かべ、目を閉じてそれをそのまま飲み込むイメージを描いた。
私はその龍の姿の中に、彼と居ることで起こる良いことや悪いことすべてを重ねてまるごと飲み込む事によって覚悟を決めようとしたのだ。
私は大きく息を吸い込んでから言う。
「エディ、ごめんなさいね。きっとあなたが言ったようにすぐに慣れるわ。私はあなたを信じてはいるの。ただ、自分の幸せが信じられ無いだけなの。本当よ。本当に信じられないぐらい幸せなの」
彼は私を抱きしめた。
私の中でまた何かが動いた。私は驚いて彼の手を振り解く。彼はそれに対して何も言わずに前を向いてエンジンをかけた。
私は彼の横顔を見る。何事もなかったように彼が言う。「ドライブに行こう」
私はふと思い付いて彼に尋ねた。「エディ。あなた龍の起こし方を知っているの?」
彼は即座に答える。「はい。僕は龍使いだからね」
龍と龍使い。私はシートにもたれかかり目を閉じた。私はその方法を尋ねなかった。それを知ることが怖かったからかも知れない。
車は街中を抜け、灰色の高速道路を走り、それを降りて小高い丘に登った。眼下には高層ビルやヨーロッパ風の建物が渾然一体となって立ち並ぶ香港の街が拡がっていた。その間を縫うように走る今通って来たばかりの高速道路や、遠くには頂に白い屋敷のある小さな緑の丘も見えた。そして沢山の船の休む港も見える。
車を止めて彼が言う。「ヨーコ、見て。これが僕の街、香港だ」
車を降りて私は彼の街を見た。
「とても綺麗ね。いろんなものが入り交じっているのに、どれもが巧く溶け合っている」私が言った。
彼は嬉しそうに頷いた。
「何時か君とこの街で暮らそう。沢山子供を作って幸せな家庭を作るんだ」
私は言った。「次に生まれ変わった時にね」
彼は私を見る。私は街を見ていた。
彼が言う。「龍の事なんか忘れてこのまま二人で暮らそうか」
「そうね。そう出来たらとても幸せでしょうね」
彼は私の肩に手を回して髪に触れる。泣いているようだった。私は彼の肩に頭を乗せじっと街を見ていた。
「ねえエディ。私達の帰る所って、此処なのかしら?」
「ヨーコ。君の帰る場所は僕の居る所だ。そして僕の帰る場所は君の居る所なんだ。それでいいじゃないか」
私は頷いた。そして彼の手をそっと握った。彼の手はとても暖かかった。
夕日に照らされた香港の街は何処となく寂しげで、しかも美しかった。私にはそれがまるでエディそのもののように思えた。
エディの悲しみを感じた。彼もまた恐れていることも理解できた。彼の心が揺れているのも私には感じられた。
彼の悲しみを手の中で玩びながら私は彼の前に回って言う。「ねえ、お願いがあるの」
彼が私をじっと見る。
私は彼の目を見つめて言う。
「私が敵に捕らわれて私の龍が欲望によって目覚めようとしたら、あなたのこの手で私を殺して」私はそう言って彼の手を取り自分の首に当てる。
彼は何も答えない。彼の瞳の中に私が居るのが見えた。
私は続ける。「私はあなたが言ったように、私の龍が目覚めることによって世界を破滅に導いたりしたくない。私の為に地震が起こったり、沢山の人が死んだりして欲しくないのよ。判るでしょう?」
彼が頷いた。
「あなたが龍使いだから頼んでいるんじゃないの。もちろんそれがあなたの仕事なんだろうけど、でも私はあなたに、エディに殺されたい。そしてまた生まれ変わってあなたと巡り会いたい。輪廻を繋ぐのよ。だから私を一人にしないで。あなたがピストルで私を殺すのなら、いつも弾の届く距離に居て。ナイフで私を殺すのならもっとそばに」
彼の目から涙がこぼれた。私はうつ向いて涙をこらえた。そして彼に笑顔を作ってみせる。
「私、怖くなんてないわ。だから泣かないで。それに、私の龍はまだ目覚めてすら居ないのよ」
私はそう言い終わると、少し彼から離れて丘の上を歩いた。
冷たい風が火照った頬に心地好かった。私は一人で、フォンと龍山の事を思い出していた。風の匂いや、光の色をも思い出せた。そしてその時の感情に胸が締め付けられる感覚も思い出した。
僧形の彼が林の中で泣いていた。今のエディとそれが重なった。そしてその後の寂しい死の姿を見ていた。私の思考はやはり死ぬ為に生まれていると言うところに辿り着いてしまう。そして生まれ変わる為に死ぬ。結局陰陽両極は一つなのだ。
しばらく歩いて振り返ると、エディがロワールの時のように青い光に包まれて立っていた。それを見て私は彼の傍に戻る。彼の光の中に入ってみた。ロワールで思ったようにその光は冷たくなかった。その時私には、その光が彼そのものである事が理解出来た。
彼の光の中はとても心地好かった。私は彼の手を取る。彼の頬を涙が伝う。私はそっとそれを拭う。
彼が言った。「ヨーコ、僕に守りきれるかどうかは判らないけど、でも僕はやってみる。君のこの暖かさを失いたく無いんだ。もし、もしも、僕に守りきれなかったら君の言うように僕のこの手で君を殺す。そしてまた生まれ変わって君を探すよ。必ず僕は君を見つける。そしてまた一緒になろう。龍なんて居なければ良かったのに。そうすれば僕達はただの夫婦で居られた」
「そうしたら、あなたは私を見つけられなかったわ」
彼は首を振る。「いや、僕はきっと君を見つけたはずだ。何故なら、僕は君を愛しているからだ。僕達は愛し合う為に生まれ変わった。だから龍が僕達を必要としたのさ」
「発想の転換ね」
「はい。だって龍の為に愛し合うなんて間違っているよ。僕が欲しいのは龍なんかじゃないんだもの。僕は人間の女性であるヨーコが欲しいんだ。君の暖かさに触れてそれが判ったよ。もう迷わない。逃げたって同じ事だ。僕は君を愛してる。それでいいんだ。そして君が龍を背負っているのならそれごと僕は愛する。その為にいろんな問題が生じるならそれに立ち向かえばいい。僕はどんな事をしても君を失いたくない。それがたとえ君を殺す事でも。そうする事によってまた君と会えるなら僕は恐れない」
私は頷いた。
「行こう」彼はそう言うと私の手を取って車に戻った。私には彼が「生きよう」と言ったように聞こえた。
ドアを開けて私を乗せると自分も運転席に乗ってエンジンをかける。そして私の方に身を乗り出して軽く口付けをした。
彼は車を発進させると言った。「夕食には何を食べたい?」
私は答える。「イタリア料理がいいわ」
彼は「OK それならいいお店がある」そう言って丘を下りた。