龍 4 パリ 香港
「ヨーコ、起きて。ヨーコ!」
エディの声で目覚めた。
「おはよう」私は言った。
「おはよう。気分はどう?」彼が尋ねた。
「まずまずって言うところかしら」
そう答えると、彼は微笑んで言う。「それは良かった」
「今何時なの?」
「5時を少し回ったところ」
私は毛布を被って言う。「もう少し眠らせてよ」
彼は部屋の灯りを全部付けて、困ったように言った。「7時の飛行機に乗るんだ。間に合わなくなちゃうよ」
「じゃあ私、飛行機に乗るのを止めるわ」
彼がもっと困った顔で言う。「ねえ、お願いだから起きてよ。飛行機の中で沢山眠れるから。それに香港に着いたら何でも欲しいものを買ってあげるから」
「本当に何でも買ってくれるの?」
「はい。何でも買ってあげる」
私はベッドの中で欲しい物を考えた。
彼が言う。「どうしたの?早く起きてよ」
「待って。今欲しい物を考えてるんだから」
「だから、とっても沢山飛行機に乗るんだ。それも飛行機の中で考えたら?」
「それもそうね」私はそう言って起き上がった。
「早く用意してね」そう言い残して彼は出て行った。
私は急いで顔を洗い髪をとかした。そして服を着替えて荷物をまとめた。エディが私の部屋を出てから15分で用意が終わった。私は化粧をしなかったのでサングラスをかけて寝室を出る。
「エディ。終わったわよ」
彼は私の荷物を持ち、一緒に部屋を出た。
彼はフロントで私の部屋と彼の部屋のチェックアウトを済ませ、私達は彼の呼んであったタクシーに乗り込んだ。
「ねえエディ、どうしてこんなに急ぐの?」
「ごめんごめん。でも君が急いでくれたから間に合いそうだ。状況がちょっと変化したんだ。早くパリを出た方がいい」
私はつぶやくように言ってみる。「私には判らない事ばかりよ」
「ところで、何か欲しい物は見付かったかい?」
私は首を振る。「だめみたい。今欲しい物が何も無いの」
「それは困ったね。じゃあ、また僕が何か考えてプレゼントするよ」
私はもう一度首を振って言った。「気にしないで。ちょっと我侭言ってみたかっただけなんだから」
彼は黙って私の頭を押さえて言う。「ヨーコ、僕は君の旅を無茶苦茶にしてしまったんだね。ごめん」
私は自分を納得させるために言う。「でもあなたは私の為に動いてくれているんでしょう?あなたは私を守ってくれているのに、多分謝る事なんて何も無いのよ」
彼はそれに対してただ首を横に振っただけで何も言わなかった。
「ねえ、あなた夕べから変よ。何か隠しているみたい」
「そうだね。そうかも知れない」
「言いたくないのなら言わなくても構わないのよ。どうせ私には何も判らないし、これからの事はあなたに任せてしまったんですもの」
彼は私の肩を抱いて言う。「いや、ちゃんと話すよ。ただ余りにも事態が急変したから説明する時間が無かったんだ。飛行機の中でゆっくり話そう」
彼は私の髪に触れていた。私は不思議なことに、どこか知らない国に売り飛ばされるかも知れないようなこんな不測の事態にさえ、不安感も不信感も感じていなかった。失うものが何もない強みだろうか。私は何も考えないで彼にもたれていた。
タクシーはほとんど車の居ない、まだ暗く眠ったままの街を走って行った。
空港に着くまであまり話をしなかった。ただ窓から流れるパリの景色を見ていた。一人でこの街に着き、二人でこの街を離れる。生まれる前から約束していた男と一緒に居る。彼の暖かさを肌で感じていると、その事が疑いようの無い事のように思えていた。
私は、心の中で「エディ」と呟いてみた。その名前はまるで幸せになる呪文のように私の心に安らぎを与えた。私はいつの間にか彼にもたれて眠っていた。
空港に着いて彼に起こされた。
彼はポーターを呼んで、私の荷物と先に積み込んであった彼の荷物をカートに積んで運ばせる。
私はパスポートを渡し、彼が出国と搭乗の手続きを手際良く済ませた。私の手元には帰国のためのチケットが残った。私はそれを彼の目の前で破り捨てて言った。
「これでおしまい」
彼は私の手を取って握り締めた。
「僕に任せて」
私は頷いた。
私達はチェックインするとすぐに飛行機に乗った。彼の取った席はファーストクラスだった。『随分贅沢な人さらいだ』私はそう思って一人ほくそ笑んだ。
「あなたってなんて贅沢なの」
「誰かが乗ってあげないと可愛そうだろう」
「それはそうだけど」
「そんな事気にしないの。君が望むならこの飛行機全部買い取ってプレゼントするよ」
「ありがとう。でも、遠慮しとくわ。家が狭いから置く所が無いの」
「それは残念だ。女性がみんな君みたいに遠慮深いと男は助かるんだが」
「そう、じゃぁまず大きな家を貰ってから、飛行機を買って貰おうかしら」
彼は笑った。「それはいい考えだ。やっぱり男は苦労するようになっているのかな」
私は頷きながら言う。「多分ね」
そんなやり取りをしている間に飛行機は離陸していた。
「このまま香港へ着くの?」
「いや、ロンドンで乗り換えだよ」
「乗り継ぎの時、少し時間はある?」
「一時間程あるよ」
「香水が切れかけているの・・・」
「OK それを僕がプレゼントしよう。いつも君が付けているのでいいのかい?」
「ええ、そうよ」
彼は名前を聞かない。私は黙っている事にした。
エアーホステスが回って来て、彼が私に言った。「何か飲物を貰うかい?」
私は少し考える。そして尋ねた。「ねえ、紅茶が美味しいのは、ロンドンの空港とこことだったらどっちかしら?」
彼も少し考えて答えた。「多分、ここの方が美味しいと思うな」
「じゃあ、ミルクをたっぷり入れた紅茶が欲しいわ」
彼はそれを頼んでくれた。彼はコーヒーを頼んだ。そして私に言う。
「日本人は朝みんなコーヒーを飲むって思ってたよ」
私は尋ねる。「どうして?」
「だって日本に居た頃、どこのキャフェテリアでもみんなコーヒーを飲んでいたし、それに紅茶を頼んでちゃんとした物が出て来た事が無かったから」
「そうね。紅茶の美味しい喫茶店ってあまり無いのよ。でも私はコーヒーが苦手だから仕方ないの。最近は少しづつだけど紅茶を上手にいれてくれるお店も増えてきたのよ」
「僕が隣でコーヒーを飲んでも構わない?」
「私の洋服に零したいりしなければね」
彼は大袈裟に肩をすくめてみせた。「気をつけなくっちゃ」
「そう、気を付けて。でないとずっとコーヒーの臭いに付きまとわれて頭が痛くなっちゃうから」
「それは大変だ」私は笑顔を向けた。彼も笑顔を返す。
コーヒーと紅茶が運ばれてきて、私達はそれを飲んだ。彼が言ったように香りの良い美味しい紅茶だった。
「これ、とても美味しいわ」
彼は笑って言う。「それは良かった。後でヒースローのも試してみたら?」
「おなかいっぱいじゃなかったらね」
彼も美味しそうにコーヒーを飲んだ。
小一時間でロンドンヒースロー空港に着いた。彼はトランジットの手続きを済ませ、私をキャフェテリアに座らせると紅茶を運んで来て、そのまま私に待つように言ってどこかへ行った。そしてしばらくして戻って来ると、私に小さな箱を差し出した。
「これで良かったんだろう。ロメオジリ。ベースになっているユリの香りが君にとても良く似合う」
私は驚く。「よく判ったわね。あまり知れれてないから、きっと判らないと思ってたわ」
彼は片目をつぶって見せると言った。「君の事なら何でも判るんだ」
「どうもありがとう。とっても嬉しいわ」
「どういたしまして。早起きした甲斐があったかい?」
「本当にありがとう」
私はその箱を開け、蓋を取って足首に少しスプレーすると、また箱に入れてバッグにしまった。これで百合の香りに包まれて眠ることができる。
その後私達は、香港行きの飛行機に乗り込んだ。
やはり彼はファーストクラスの席を取っていた。行き先は本当に香港らしい。そして彼は本当にお金持ちらしい。
シートに座って離陸を待つ。周りには誰も乗って来なかった。彼にはさっき破り捨てたチケットを手に入れる為に、私がどれだけ考えたかなんて判らないだろう。私には関係ないけれど、確かにお金持ちと呼ばれる者は存在するようだ。
彼がとなりのシートで言った。「ヨーコはお金持ちが嫌いなのかい?」
私は驚いて彼の顔を見る。彼は真剣な目をしていた。私は答える事にした。
「好きとか嫌いとかって言う問題じゃないのよ。私にはお金持ちって言うものが良く理解出来ないだけよ」
「でも、みんなお金持ちになろうと思って頑張るんだろう?」
「そうね。だけど私は少し違うかも知れない。確かに私だってお金持ちには成りたかったのよ。ただ私の思うお金持ちって言うのは、毎日食べる物が有って、少し自由に使えるお金があればいいのよ。それが私の思うお金持ちのレベルなの。パリへ行きたいなって思ったら、一生懸命働いて、エコノミーのシートを、いろんな情報を集めながらその中で一番安いのを買うの。それで一週間だけの休暇を楽しむ。ファーストクラスじゃないのよ。それで十分満足してた。私の思うお金持ちってその程度だったわ。それにお金ってそんなに沢山有っても使い方も判らないし、それに贅沢に慣れると後がこまっちゃうに決まっているもの」
彼が真剣な顔で言う。「何も困らないから心配しなくていいよ」
私が冗談ぽく言う。「あなたが居るから?」彼は真剣な顔のままで頷いた。
私は慌てて言う。「私はあなたの何なの?」
彼がキッパリとした口調で言う。「君は僕の妻だ」
私は本当に驚いた。「いつ私はあなたと結婚したの?」
「パリで出逢った時から、いや、生まれる前から決まってたんだ」
「あなた頭は大丈夫?」私はあきれてそう言った。
「多分ね。君は僕の妻に成る事に反対かい?」私は絶句した。
飛行機が離陸を始める。私は加速のための重力を体に感じていた。彼が私の手を取って言った。
「ヨーコ、愛して居るんだ」
ジェット機のエンジン音と重なって私の耳にその言葉が届いた。
私は目を閉じて飛行機が上昇するのを感じていた。そして大きく旋回し水平飛行になった時、私は言った。
「もしかして、私があなたの妻である必要が有るのかしら?」
彼は答える。「そう。それはずっと昔から決まっていた事なんだ。龍と龍使いが一つになる。それがすべての始まりなんだ。たまたま僕達は男と女で生まれて来た。だから結婚した方がいい。それに何よりも僕達は愛し合っている」
「ロワールでの賭にあなたがやっぱり勝ったのね」
「はい。君はやっぱり負けた」
「その事は後でゆっくり考えるわ。その前に龍のこと教えてくれる?」
彼は微笑むと言った。「OK 何でも聞いて」
「私の龍は目覚めたの?」
「いや、未だだ。しかし、いずれ目覚める」
「あなたの力で?」
「はい。僕が目覚めさせる」
「あなたが目覚めさせなければどう成るの?」
「愛以外の力で目覚めるだろう」
「それはどう言う事かしら?」
「僕達が今逃げてきた敵によって目覚めさせられるって言う事だよ」
「その敵はいったい誰なの?」
彼は少し考えて言った。「加藤がいけなかったんだ」
「加藤さんがどうしたの?」
「加藤が敵に君のことを知らせた。君の龍はとてつもない力を持ってるんだ。君の龍が目覚めると大地の龍や海の龍、そして天の龍が共鳴し、君の思うままに暴れる」
私は正直に言う。「私には良く判らないわ。それってどう言う事なの?」
彼が言いにくそうに答える。「最終兵器に成り得るって言う事さ。君が破壊を望めば、大津波を起こしたり、大地震を起こしたり、竜巻を起こしたり出来るんだ。そして人の心を操る事も出来るから暗殺だって簡単な事だ」
私はその言葉に寒気がした。
「ナポレオンやヒットラーのした事を思い出してごらん。君の龍は彼らの数十倍も強いんだ」
「でも私が望まなければ何も起こらないわ」
彼は首を横に振る。
「今の科学でなら、君の心をコントロールするぐらい簡単な事なんだよ。
特殊な薬品を注射して脳のある部分に刺激を与える。すると君は彼らの思うとおりの人間に作り替えられる。
自ら龍が目覚める事を望むように成るだろう。そして君の龍は、欲によって目覚める。
アメリカもロシアも、そしてヨーロッパの各国も今極秘で君を探しているんだ。しかし本当に龍の力を理解しているのはロシアとアメリカだけだと思う。後の連中は多分君を研究材料として探しているだけだろう」
私は尋ねる。「加藤さんがどうしてそれに関係あるの?」
「加藤はECの心霊学協会に所属していたんだ。僕が迂闊だった。昔彼は趣味で研究していただけだったのにいつの間にか組織に入っていた。それもかなり熱心に活動していたようだ。
その彼に君の話をしてしまったものだから、彼は自分の目で確かめようと君に会いたがった。会って君の龍の存在を確認し、報告をしたんだ。
加藤はかねがね龍の存在をめぐってフランス人達と討論していたらしい。ヨーロッパの人間には、人につく龍の思想は解りにくいんだ。
それに対して東洋人で神社の息子である彼は、人龍の存在を主張して譲らなかったそうだ。そこに僕が迂闊に君の話をしてしまったからこんな事に成ってしまった」
彼はすまなそうに言った。
「それであなたはあの時途中で話をはぐらかしたのね。でもそれって何時判ったの?」
「途中で気付いたんだ。なんか変だなって。話し方もそうだったし、それに昔の彼と何となく変わっていた。
それでこれは注意しなければいけないって思った。そしてすぐに調べさせたら今言った様な報告だった。きっと今頃奴等は僕達の居たホテルに行って僕達を探しているよ」
私は溜息をつく。
「調べさせたの・・・。あなたっていろんな事が出来るのね」
彼はそれに対してはうつ向いて首を振っただけで何も言わなかった。
「ところで研究材料って、私、何をされるところだったの?」
「つまり・・・言いにくいんだけど・・・モルモットみたいな事かな」
「それって、人権はどうなるの?」
「一人旅の日本人女性行方不明って言うのじゃない?」
私は納得した。
「ねえ、じゃあ、あなたの力によって目覚めた龍はいったいどうなるの?」
彼は微笑んで言った。
「僕にもまだ良く分からないんだ。でも僕達の仲間はみんな愛で目覚めた龍を待ち望んでいる。しかし大きく何かが変わったりはしない。それだけは確かな事なんだ。龍の時間はゆったりと流れるからね。
大きな河が少しずつ流れを変えるように、君の龍は時代の流れを少しずつ変える役割を果たすだろう。しかし、危険は付きまとう。
加藤が言ったように龍は虐げられた者達の象徴なんだ。そして今もその勢力は残っている。
虐げた者達も、虐げられた者達も君を狙ってる。
虐げた者達は龍が目覚めた事を知れば必ず叩きに来る。虐げられた者達は利用しようとする。利用出来なければ殺す。そんなものだろう。火の神にとっては龍の力もただの道具と同じなんだ」
「それって変よ。虐げられた者達も私の龍を利用しに来るなんて」
「自分達の正当性を証明する為に君が必要なんだ。でも本当に龍のことを理解しているのは僕達の仲間だけだよ。後の者たちはヒの神の考え方が身に付いてしまっている。随分長く虐げられてきたからね。本当に恐ろしいのは、ヒの神その物より、ヒの神に感化された龍を奉る者たちなのかも知れない」
「あなたの仲間達って何?」
「ナーガラージャって言うんだ。僕の祖父が前の戦争の時に、バラバラになっていた本来の精神を受け継いだ龍神族を集めた。それがナーガラージャだ」
私が繰り返す。「ナーガラージャ」彼が頷いた。
私達は運ばれてきた食事を食べた。パリに来る時に食べた機内食とは、全く違う物だった。贅沢ってこう言う事なのだろうか。しかし何れにしてもおなか一杯になったことには変わりない。私はしばらく贅沢について考えていたが、いつの間にか眠ってしまった。
目覚めた時エディは音楽を聴いていた。彼はいったい何時眠るのだろうか。いつも私より後に寝て先に起きる。そして居眠りもしない。私はふと思い付いて彼に尋ねた。
「エディ、龍を背負って生まれて来たのは私だけなの?」
彼はヘッドフォンを外してそれに答えた。「いや。後何人かは居るはずだ」
「その人達はどうしてるの?」
「一人は、自ら龍を目覚めさせた。彼の名はダライラマ。チベット仏教の最高指導者で、平和主義者だ。しかし後の人達は分からない。
僕が知るかぎりでは日本に一人居たが、彼女の龍はまだ幼い。例え目覚めたとしても他の龍を共鳴させる事は出来ないだろう。後は判らない。
君が何も知らないで居たように他の人達も何も知らずに一生を終えるんだ。しかし君の龍が目覚めた時にはその人達の龍も共鳴するかも知れない」
私は更に尋ねる。「その人達は私のように狙われたりしないの?」
「ナーガラージャにしか龍は見えないんだ。まだ龍を見つけたと言う連絡は入っていないから、多分大丈夫だと思うよ」
「私ってとても不運だったんだ」
彼が笑う。「はい、僕に見付かった」
「私の龍はあなたに捕まって今香港まで護送されているのね」
私がそう言うと彼は大声で笑った。「ヨーコはいつも面白い言い方をする」
私はまた尋ねる。「ところでエディ、さっきの話だけれど、どうして私はあなたの妻でなければいけないの?」
彼は笑うのを止めて答えた。「龍を使う人のことを『センロン』聖龍と書くんだが、そう言うんだ。そしてその妻が龍なんだ。そう言い伝えられている。いつも龍が女性で龍使いが男性であるとは限らないのだけれど、何故か李家にはそう伝わって居るんだ。
とても長い間聖龍の名を継ぐものは生まれなかったが、僕がその名を継ぐ事になった。僕が君の龍を見つけたからだ。
『李聖龍』ナーガラージャの最高位に座る者の名だ。世界中の仲間達が僕達の為に働いてくれる。そして僕達を助けてくれるんだ」
「それって神話のようなものなの?例えば白い神が来て自分達を助けるって言うような」
「多分ね。最後の聖龍の予言の様な物だったんだろう。不思議な事に祖父が龍神族を集めた時、ほとんどの人達が同じ言い伝えを持っていたんだ。だから、君は僕の妻であるべきなんだ。それとも僕の事がそんなに嫌いなのかい?」
私は口ごもる。「そんなに嫌いかと言われても」
彼が私をのぞき込む。そして言う。「君の思っている結婚とはきっと違うものだと思うよ。僕は君を束縛したりしないし、君に家事を押しつける事もない。ただいつも側にいて僕が君を守るんだ。君はいつも君の思うままに振る舞い、僕がそれをサポートする。離婚したばかりの君には辛いかも知れないが、判ってくれないか。君が僕の妻でないとナーガラージャの助けが受けられないんだ」
彼はそう言い終わってしばらく黙った。私も黙っていた。
彼が先に話し始めた。「ヨーコ。僕が間違っていた。本当はナーガラージャなんてどうでも良いんだ。僕が君を愛しているから、妻にしたい。あの時のように逃げ出したりしないで、ずっと僕の傍に居てくれ。僕はもう二度と君を失いたくない。僕にとって君の龍なんて本当はどうでもいいんだ。僕はただヨーコが好きなんだ」
私は彼を見た。
彼の言葉が嘘ではないように思えた。
私はこの美しい男を愛し始めているようにも思えた。
そして、彼の言う龍の話はほとんど受け入れられてもいた。
しかし受け入れているだけで、それが何を意味するのかは理解できていない。
私は何も理解出来ていない頭で考えなければならなかった。
それで目を閉じて彼と初めて会った時からの事を思い出してみる事にした。
ロワールでの事やパリに戻ってからの事。
私は彼を信頼していた。その信頼は愛と呼ぶべきものなのだろうか?
もしそれが愛であるならば、私は彼の美しさを愛しているのだろうか?
それとも彼の優しさをだろうか?
違う様に思えた。何の理由も無く、私の心の奥の方で魂が彼を強く求めているのだ。
前世の因縁?
信じようと、信じまいとそれは確かにあるのだ。その確信はあった。
私は彼に引きずられるのではなく、自分自身で望んで動いているようにも思えた。
もし、彼が私をだましているとしたら、それは彼がだまそうと思っているだけではなく、私自身がだまされることを望んでいるからなのだ。つまり、今の状況に何か罪があるとしたら、二人は共犯だと言うことだ。
もしかしたら現実から逃避したがっていた私の心が、彼を作りだしたのかも知れない。彼が私の中に龍を見ているように私は彼の中に実在しない理想的な男性を見ているだけなのではないだろうか?
私は、長く複雑な夢の中にいる。そんなふうに思えた。しかし、今私はこの夢から覚めることを望んではいなかった。
私は私の知らない私の一番深いところで彼を愛していた。
理由など無く、確かに私は彼を愛している。それに、私の中にあんなにのさばっていた寂しさが、今は一かけらも見あたらない。
彼は確かに私の心の傷を癒したのだ。
私の心の中に今あるのは、彼が私に与えてくれた思いやりと優しさばかりだった。
有難かった。それは本当に有り難いことだった。
私は閉じた目から、涙がこぼれるのを感じた。そして目を開けて彼を見た。彼は優しく微笑んでいた。
彼が言った。「大丈夫。これは現実だよ。香港に着けば、それはすぐに判る。そして僕達は共犯者なんだ。だからもう離れられないんだよ」
涙の向こうの彼が段々近付いて来てそっと私の唇に触れた。
「エディ。覗き見はだめよ」
彼はまた笑った。そして私も笑った。
私は共犯者の手を握ってまた眠った。彼も今度は寝たようだった。
目覚めた時に、二度目の食事が運ばれてきた。私は半分も食べられなかったが、彼は私の分までぺろりと平らげてしまった。
「あなた本当に良く食べるわね」
「君は本当に良く眠る」
「眠るのにお金はかからないわ」
「食べるのに不自由する程貧しくはないから心配しないで。僕の妻にはお金の心配なんて必要ないんだよ。君の欲しい物は何でも買える」
「あなたは私なんかじゃなくて、もっと色んな物を欲しがる女性を妻にするべきよ。そうすればあなたのお金が役に立つから。私はただゆっくり眠れれば満足なの。そんなにお金は使えないわ」
彼はオーバーに肩をすくめてみせた。「世の中うまく行かないね」
私は言った。「そんなものよ」
私は香港に着くまで彼の温もりを手に感じながらまた眠った。