龍 3 再びパリ
パリに着いたのは3時を少し回った頃だった。
各々の想いの中にいて昼食も忘れていた私達は、目についたカフェに入り、ハムを挟んだパンと暖かくしたレモンジュースを頼んだ。
窓から、道行く人を見ながら堅いパンをかじる。
穏やかに晴れ渡った空。柔らかな日差し。肩を抱き寄せ、口付けをする恋人同志。コロコロと走る子供達。犬を連れて散歩する初老の婦人。龍の事や前世の事をのぞけば、とても平和な気分だった。
食事を終えた私達は、クリスマスの飾り付けで華やいだ雰囲気の百貨店へ行き、ショッピングを楽しむ事にした。
彼が連れて行ってくれたのは、オペラ座のすぐそばにあるギャルリ・ラファイエット。
入口を入ってすぐの所にアクセサリー売り場がある。私はそこで色を付けたガラスで出来たアクセサリーを選ぶ。それらはとても細かくカットされていて、光の入り方でたくさんの表情を見せてくれる。その表情は、ジャンク特有のカジュアルさを持っていて、今の自分にとてもピッタリな感じがしたので、ネックレスとイヤリングを同色のもので、赤と緑の2セットを買った。
彼はそれに対しては何も言わなかった。その後私はパリに来る前から欲しかったコートを見る為に洋服売場へ向かった。
グランドフロアーから天井までの大きな吹き抜けのスペースに、驚くほど大きなクリスマスツリーが飾られている。それを見ながら二人でエスカレーターに乗る。エスカレーターの上でも恋人達は抱き合ってキスをしている。いつも他人は幸せそうに見えるものだ。私はそんな風に思いながら、とんでもなく大きなクリスマスツリーを見上げた。
沢山コートが並んだ洋服売場で、私は気に入った物を何点か選び出す。
洋服を選ぶというのは、自分をどう演出するかということだ。
一番初めに手に取ったのは、いつもの自分に良く合うものだった。仕事を持って、それで生計を立てている、世間で言うキャリアウーマン風のキャメル色のダブルのコート。しかし、今の自分にはそれは少し印象が強すぎるように思えた。離婚して、一人旅をしているような女には、それなりの服がありそうな気がしたのだ。
次ぎに選んだのは、真黒のカシミアのシンプルなテーラードコートだった。しかし、それでは余りにもそれらし過ぎる。
私は次を選んだ。色はオフホワイト、とても高価なホワイトカシミアで織られた生地をふんだんに使い、ドレープの美しいものだった。しかし値段を見ると、それはもう一度パリまで来れるだけの値段だった。私は思い切ってカードで買おうかと迷ったが、今の自分にそのコートを着るだけの価値があるとは思えなかった。エディはそのコートをとても気に入っているらしく、とても熱心にそれを見ていた。
私はまた違うコート選ぶ。そして見つけ出したのが、真っ赤な、それも日本では見たこともないタイプの、そう、ちょうどエディの借りたシトロエンの色のロングコートだった。
私はそれを試着してみた。それはとてもカッティングが良く、重さを感じさせないように作られていた。それを着て鏡に映った私は、忘れてしまっていた若かった頃の自分自身を思い出させてくれた。少し頼りないけれどコケティシュで、元気一杯だった頃の私。それに値段も、物の割には手頃だった。
私はその真っ赤なコートを買うことに決めた。それを彼に告げると「とっても元気に見えるよ。よく似合う」そう言って喜んでくれた。彼は店員にそれ迄着ていたコートを包ませて、新しいコートを着て行くように言った。
買ったばかりのコートを着て外に出ると、世界が少しだけ変わったような感じがした。そして自分も少しずつ変わっているようでもあった。
エディは本当に細かいところまで気がついて、私はそこが言葉の通じない国であることすら忘れそうになっていた。彼にエスコートされているととてもリラックス出来る。
欲しかった物を買ってしまうと私は急に疲れを感じ、ホテルに戻りたいと彼に言った。彼はそんな私に微笑んで頷くと、車でホテルまで送り届けてくれた。
車の中で彼が言った。「何故白いのにしなかったの?」
私が答える。「バツイチで傷心旅行のオバサンには似合わないもの。あれはもっと元気な時に着るべきコートだわ。それに今贅沢しちゃうと後で大変な日々が待っているのよ」
「だったら僕がプレゼントしたら、着てくれる?」
「いいえ、きっと着ないわ。洋服ってね、その時その時の自分を演出するために着るものなのよ。
今の私は白のコートを翻して歩く気分じゃないもの。本当は黒いコートで沈んでいたい気分なの。でも、それじゃあんまりでしょう?
それで少し元気を出そうって思ってこの赤いのにしたの。洋服に自分が負けちゃったらみっともないでしょう?」
「確かにそうだね。君のその、洋服に対する価値観ってとっても素敵だ」
「どうもありがとう」
彼はホテルの玄関で私のルームナンバーを尋ねると、「後で一緒に食事しよう」と言って、一人でまた車に乗って出て行った。
私はフロントでキーを貰い部屋に戻った。
冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターを飲み、テレビのスイッチを入れ、靴を脱いでベッドの上に寝ころぶ。そうして小一時間程、意味の判らないテレビを見ながら、残してきた仕事の事や、別れた夫の事など取り留めもなく考えていたが、途中で面倒になって「やーめた」と声に出して言ってみた。
そうすると本当に頭の中から、面倒なことを追い出すことが出来た。
私は起き上がってデスクの引き出しを開け、備え付けの絵葉書を出して、長く会っていなかった友人達に離婚したことや、一人でパリに来ている事などを綴った。なるべく元気そうな文面で、辛そうに思われないように注意しながら書いた。三人分書いたところでペンを置いてボーッとしているとドアがノックされた。
「はいっ」私は答えてチェーンを架けたままドアを開けて見た。エディがちょっとすました笑顔で立っていた。
私はドアを閉めてチェーンを外すともう一度ドアを開けエディを招き入れた。
彼は大きな箱を持って入って来た。
「ヨーコ。君にプレゼント。ドレスなんだけど気に入って貰えるかな?」
私は尋ねる。「どうして?」
「明日これを着た君と一緒にオペラを観に行こうと思って」
私は恐る恐る箱を開けてみた。有名なデザイナーズブランドのドレスだった。私は驚いて彼を見る。
彼は屈託の無い笑顔で言った。「着てみてよ。きっと良く似合うから」
私は慎重にドレスを箱から出し、それを拡げてみる。素材は深い緑色のベルベットで、シンプルなデザインだ。ミディー丈で、黒いシルクのチャイナカラーがこのドレスのポイントになっている。
「ヨーコ、早く着てみてよ」エディにそう言われて、私はバスルームでそれを着た。簡単に髪をアップにし、何かの時の為にと思って日本から持ってきていた黒いハイヒールを履いて彼の前に立つ。
彼はそれを見てとても喜ぶ。
「とても綺麗だ。シンプルな物にして本当に良かった。君の美しさが一段と引き立つよ」
私は鏡に写る自分が信じられなかった。
「ありがとう。でも本当に良いの?」
彼は笑って頷く。「はい。君の為に選んで来たんだからね。そうだ、さっき買った緑のガラスのイヤリングを付けるといい」
私はバッグの中から包みを取り出して、それを付けてみた。彼は何度も頷きながら私の周りを回って「とっても良いよ」と言って誉めてくれた。彼の表情からは本当に喜んでいるとしか感じられなかった。私はもう一度丁寧に礼を言った。そしてそのことに関してあまり深く考え無いことにした。
「おなかすかない?」彼がそう言ったので、髪を下ろしカジュアルな服に着替えて食事に行くことにした。
私はフランス料理に飽きてきていたのでエディにそう言うと彼は「じゃあチャイニーズはどう?」と言った。私はそれに賛成した。
ホテルから2ブロック離れた所に在る店に、彼は案内してくれた。店に入り、席に付くと彼は、店の人と中国の言葉で長い間話していた。話が終わると店の人が奥から中国のお酒を持って来た。どうもこのお酒のことを話していたようだ。
それは古いビンに入った飴色に輝くお酒だった。グラスに注いでもらって口に含むと、とても自然な甘さが口の中に拡がった。それがとても良いお酒だと言う事が判った。
彼が言うには、それは長い間寝かせた中国のお酒で、とても大切で特別の時に飲むものらしい。
「今日はそんなに特別な日なの?」
私の問には答えずに彼はグラスを高く掲げて言った。「前世からの巡り合わせに乾杯」
私もグラスを持ち上げて言う。「今度は逃げないわ」私がそう冗談で言うと、彼は大きく頷いた。そしてそれを一気に飲み干した。
「ヨーコ、この酒は、普通、結婚式の時に飲むものなんだよ。僕の国では女の子が生まれたら、お祝いの餅米でこれを仕込むんだ。そして、それをその娘がお嫁さんに行く時に飲むんだ。だからこれは君の年と同じ位経ったものだよ」
私は彼の唐突な話に面食らっていた。
彼は真剣な顔で続けた。「これが僕達の結婚式かも知れない」
私は何と答えて良いのか判らなかった。多分とても困った顔をしていたのだろう。彼はタイミング良く運ばれてきた料理を私の為に取り分けると「冗談だよ。ほら食べて。これ美味しいから」そう言ってお皿を私にくれた。
後で思うと本当にあれが結婚式だったのかも知れない。でもあの時私は、彼の冗談だよって言った言葉にホッとし、救われた思いがした。
私は曖昧に笑って見せ、その料理を口に運んだ。とても複雑な味がして、確かにそれは美味しかった。
料理は次から次へと運ばれて来る。彼は一つづつ説明をしながら取り分けてくれた。それは聞いたこともない茸だったり、話しに聞いただけで食べたことのないようなものばかりだった。しかし食べてみると、どれもがとても食べやすく料理され、中国の歴史の重さを感じさせるものばかりだった。
二人は本当に良く飲み、良く食べた。このまま彼と付き合い続けると十キロぐらいはすぐに肥ってしまうだろう。それでも私はあまりの量の多さに最後の一皿にはとうとう口を付けることさえ出来なかった。それにしてもエディは私の倍以上飲み、そして食べたが、全く変わることなく平気な顔をしていた。
二人は食べながら沢山の事を話した。そして他愛も無いことで良く笑った。私が別れた夫と一年間で交わした言葉や、見せた笑顔よりずっと多い様な気がする。
何百年もの空白もこのペースで行けば一ヶ月で埋まってしまうだろう。しかし私達には後4日しか残されていなかった。
4日間でどこまで埋まるのだろうか。
その時私の龍はエディの言うように目覚めるのだろうか。
それよりも、本当に龍などと言うものが存在しているのだろうか。
私には判らなかった。それにどう言う心理なのか、私達は龍の話を避けている。こんなに色んな事を沢山話すのに、龍の事にだけは触れようとしない。彼が言うには、私達は龍で繋がっているのに。
帰るまでに話す事が有るのだろうか。
やはり私には何も判らない。
自然に任せよう。私は諦めてそう思った。
しかし、彼と話しているうちに私は彼の言う龍を受け入れつつあった。ただ、それは「そんな事があってもいいか」と言う程度ではあったが。
食事を終えて、ホテルに戻ると彼は、自分の部屋から昨日のオイルと、髪の為のトリートメント剤を持って来てくれた。
彼は私のシャンプーを手伝い、丹念にトリートメントを塗り込んでくれる。そして昨夜と同じようにオイルでマッサージをしてくれた。
私はとてもリラックスしていた。なんの不安もなく、ただ何もかもを彼に任せ切っていた。
彼はそんな私を当たり前のように受け入れてくれていた。
受け入れられている事が、生まれて始めての安定感のようなものをもたらしていた。
これが彼の言った愛なのだろうか。
だったら確実に私は愛し始めているようだ。
しかし、彼は一体どうやって龍を目覚めさせると言うのだろう。
お風呂を終えて髪を乾かし終わると、信じられない程私の髪は蘇っていた。
彼が微笑んで言う。「中国四千年の歴史だよ」
私は壁に吊るした彼の選んだドレスを見て尋ねる。「あなたはどうしてこのドレスを選んだの?」
彼が少し考えてから答えた。「ヨーコのことを思うと、深い海の底に沈んでいくような感じがするんだ。どんどん沈んでいく。不安感と、母の中へ帰っていくような安堵感が入り交じって入るような感覚。それでこの深い海のような緑にした。
そして、ヨーコにはゴテゴテした飾りは必要ない。なるべくシンプルで、君の内側にあるものを引き出せるようなものがいいって思えたんだ。
それに少しチャイニーズだろう?」
「ええ。とっても素敵よ。でも私、ドレスアップすることなんて滅多に無いから、これを着てみた時にとっても驚いたわ」
「何に驚いたの?」
「だって見た事無い人が鏡の中にいるみたいだったのよ。私の知らない私の姿かしら?」
「僕には初めからその姿で見えてたけど」
「じゃあ、自分で思っている自分と、人が見ている自分の間には結構ギャップがあるのかも知れないわね」
「そうかも知れなね。僕は君の目にはどう見えているんだろう?」
私は正直に答える。
「そうね。とても繊細で、壊れやすい精神を持っているように見えるわ。ルックスは申し分無く美しいけれど、それはあなたの育ちの良さみたいなものを反映しているのだと思う。
とても優しいところと、とんでもなく冷たいところを合わせ持っているようにも見えるわね。危険な男だわ」
「ヨーコにとっても危険なの?」
「そうね。でもあなたが私に対して特別な思いがあるせいか、私に対するあなたはちょっと違うわね。
とっても不思議な事に、あなたと会ってから、今の今まで一度も危険だって思わなかったのよ。私のそう言うのを感じる部分が故障していたのかも知れないわね」
「いや、多分正常に作動していたんだと思うよ。だって、僕は一度も君に危害を与えようなんて思わなかったもの。命よりも大切な人だからね」
私は首を振って言う。「さぁ、それはどうかしらね。私が思うに、命より大切なのは私じゃなくって、あなたの龍じゃないかしら?」
「でも、僕はヨーコを愛しているんだよ」
「そんなの信じられないわ。だって私はまだあなたを愛して居ないんですもの。これからだって愛せるかどうかなんて判らないわ。ただの旅先で知り合った素敵な香港人として思い出の中に残るだけの人かも知れないもの」
「厳しい意見だね。でもそれが常識的な意見だ。ヨーコが常識的な人だって言うのがよく判ったよ。なのに僕の龍や前世の話に付き合ってくれてるんだ。どうもありがとう」
「どういたしまして。でもね、正直に言うと、何だか良く判らなくなってきているのよ。
世間の常識と、あなたの言う龍や前世の話の間で、何だか揺れ動いているの。
でも、今の私にはそれをしっかり考えるだけの思考力がないのね。
心も頭も目一杯疲れていて、実害さえなければどっちでもいいかって言うような投げ遣りな感じかも知れない」
「そうだね。辛いことがあったばかりだし、僕の話は余りにも突飛だもんね。ごめんね。でも、僕は君に危害を与えたりしないから。それに君を傷つけたりも決してしない。約束するから。だからもう少し僕に付き合ってね。パリにいる間だけ」
「そうね。そういう約束だったわね。それにあなたと居るととても安心できるの。とっても不思議だわ。知り合ったばかりの男の人とこうして狭い部屋にいても、安心して居られるっておかしなことよね。でも、ずっと昔からの友達みたいな感じなのよ」
「はい。生まれる前からの知り合いだからね」
「また、判らなくなりそうよ」
「ごめんごめん。疲れてるんだ。僕はそろそろ退散しよう。ゆっくり眠るといいよ」そう言うと彼は立ち上がった。
「そうね。そうするわ」
部屋を出る時に彼が言った。「もし良かったら僕の部屋に来ない?もう少し広いし、ベッドルームも二つ有るから」
私は答える。「狭い方が落ち着くのよ」
彼は微笑んで頷くと言った。「おやすみなさい」
私も微笑んで言った。「おやすみなさい。今日は本当にありがとう」
「どういたしまして」彼はそう言うと部屋を出て行った。
私は満たされた思いで眠りについた。
夢を見た。彼が黄色い僧服を着て私の元へ托鉢にやって来た。顔も年かっこうも違うが間違いなくそれはエディだった。
私は、食べ物と少しのお金を彼に渡した。
彼の目は私をずっと見ていた。
私はみられる恥ずかしさにうつ向いている。
しばらくして彼は私に向かって言った。
「龍女だ。君は龍を背負っている」そう言って私の前にひざまづいた。私は他人の目を気にして彼を近くの木陰に連れて行った。
その時の私は、自分の龍について知っていた。彼にそれが判る事の方が不思議だった。
彼は、自分は日本に住む龍の一族だと言った。彼は私の龍を解き放とうとしたが、私の龍は夫の龍使いによって縛られていて動けなかった。あの時の夫が龍使いだったのだ。
しかし、夫は龍を封じる事だけしか考えていなかった。
日本の僧は龍を解き放とうとしていた。
私は恐ろしかった。それで彼に言った。「お願い私をそっとしておいて。今の幸せを壊さないで」そう頼んだ。
彼は、私の施したものを捨てて走り去った。
それからしばらくして夫は、私を店の者が誰も居ない部屋に呼び付けた。
夫は嫌がる私を木のテーブルのような物に縛り付け、口の中に布きれを押し込むと小刀を取り出し、私の内腿を切り裂いて、私の体内に何かを押し込むと針と糸で縫い合わせた。私はあまりの痛さに気を失った。
それが私の龍に対する封印だったのだ。
夫は傷の癒えないままの私を船に乗せた。そしてその船の上で私は、傷が化膿し、高熱を出し、苦しみ抜いた挙句に、日本を目の前にして死んだ。
そして私の死体はどこかの海辺に流れ着いた。
それを見つけた村人達は可愛そうにと言って私を丁寧に葬ってくれた。
その後もう一度生まれ変わっていた。
戦争中の事だった。
真っ暗な森の中を一人で歩いていた。
とても寒くて疲れていた。
そして、敵の兵隊に撃たれて死んだ。
まだ十八歳だった。
そして眠り続ける龍を背負ってまた生まれ変わった。それが今の私だった。
その後、取り留めのない夢を見た。
学生の頃恋をしていた男の子が出てきて言った。「君は僕が居なくても大丈夫。でもあいつには僕が必要なんだ。だから僕の事は忘れてくれ」そう言われて私はひどく傷ついていた。
それから私は別れた夫と旅行に行っている夢も見た。
そこは知らない場所で、私がお風呂を上がって部屋に戻ったら、夫が知らない女性と差し向かいでお酒を飲んでいた。それを目の当たりにして私は驚き、立ちすくんでいた。
すると夫が私の方を向いて、何事もなかった様な顔で言い放った。「俺はお前に飽きたんだ。こいつと結婚することにした。二度と俺の前に現れるな」そして表情一つ変えずに私に荷物を投げ付けた。
私はまたひどく傷ついていた。
目覚めた時私は泣いていた。全くひどい夢だった。あんなに満たされた思いで眠りについたのに余りにもひどい気分だった。
私はベッドの中でしばらく泣いた。しかし泣いている内に段々馬鹿馬鹿しく成ってきて私は起きることにした。
ベッドを下り、シャワーを浴びると、嫌な夢は完全に吹き飛んでいた。私の新しい一日の始まりだった。
私は身支度を整え、化粧をし、ホテルを出た。
またサクレクールへ向かって歩いた。白い息を吐きながら、モンマルトルの坂を登る。まだ観光客の来ない時間。
礼拝堂の中に入り頭を垂れた。頭の中には音もなく徐々に白い光が充満し、そして最後には心がフッと浮き上がるような感じがした。それはまるで天使が翼を拡げて舞い降りてきたかのようだった。
私は何も考えずにしばらくその光を感じ続けた。
周りでも同じように神に祈っている人達がいた。きっとその人達も天使に抱かれているのだろう。私はその人達の邪魔にならないように、音を立てないようにして外へ出る。
外は初めての日のように晴れ上がってはいなかった。まだ時間が早過ぎるのだ。白い霧が晴れ、真っ青な空が出るまではもう少し時間がかかる。
犬を散歩させる人達とすれ違いながら石畳の坂を下る。そして長い階段を下りたところで開いているキャフェを見つけて入った。
窓際の席に座りテ・オレを頼んだ。運ばれてきた紅茶は、冷たくなった私の手を暖め、そして身体の中からも暖めてくれた。
窓の外を通り過ぎる人達は一様に暖かそうなコートに身を包み白い息を吐いている。
枯れ葉を集める清掃車も通った。みんな生きていた。
私は、今までの自分の人生について何となく考えた。
ただ少し気が強いだけで他に何の取柄もない女だ。
美しいわけでもなく、才能があるわけでもない。
ただ生まれてきてしまったから生きている。そんな風に思っていた。
しかしエディは、私に龍が居ると言う。それは特別な状況だった。
私は今まで一度も特別であったことなどない。
特別出来る訳でもなければ、特別出来ない訳でもない。
普通に学校に行き、普通に卒業した。
普通に仕事をし、普通に恋愛をして結婚した。
そして離婚が普通だったかどうかは分からないが、今の時代そんなに特別でもないと思う。
しかも原因が夫の浮気と来れば、それはやはり普通の状況だろう。
特別を望んだ事もなければ、特別に望まれた事もない。
全然だめで無ければ、少し駄目なぐらいは我慢した。
「まあこんなものでしょう」と思えれば、それは大満足に値した。
そんな人生だ。
今になって君は龍を背負っているんだと言われても、どうしようも無い。
そんなのは特別中の特別で、私には全く関係のないことだ。
彼は一体何を考えているのだろう。
しかし彼が作り話で私の気を引いたところで何になると言うのだ。
お金持ちで、知性があって、飛び切りハンサムときている。
私なんかよりいつも特別な人生を歩んでいる女性だって、彼は簡単に手に入れるだろう。
なのに彼は私に執着を見せている。私をとても丁寧に扱い、喜ばせようとしている。
彼の話を信じるしか他に彼の行動を理解出来なかった。
と言うことは、私に龍が付いていると言う事と、前世での因縁を認めるしか無いと言うことだ。
特別すぎる。
それは、きっと・・・特別に慣れた人でも更に特別な状況だろう。
しかし男の人が言い寄って来る事すら私にとっては特別な状況なのだから、後の特別が物凄く特別でも「まあいいか」。
それ以上考えることを放棄した。きっと同じ所をぐるぐる回るに決まっている。
私はギャルソンを呼んで精算し、そして地下鉄の駅まで歩いた。
地下鉄に乗ってルーブル美術館へ行った。
ガラスのピラミットを下りて行くと、そこはショッピングセンターになっていた。ハンバーガーショップで朝食を取り、美術館に入った。
朝早いせいか人影もまばらで、ゆっくりと見ることが出来た。
死んでから百年以上も経たないとここには飾られない。時間の洗礼を受けた美術品ばかりだ。
私は、たっぷりと時間をかけ、コツコツと足音をたてながら観て回った。
百年以上もの間、人々に美しいと思われ続けただけあって、どの作品からも安定感が漂っていた。
私が初めてここに来た頃、そうまだ入口がピラミットなんかじゃなかった頃の事だ。裸の男が立て膝で横向きに座っていた絵が在った。私は何かとても引きつけられるものを感じて長い間その絵の前にたたずんでいた覚えがある。しかし今回は見つけることが出来なかった。確かあの絵には、孤独が描かれていたのだ。
百年という時間が美術品にとって長いのか短いのかは判らないが、そう言う価値観が在っても良い様な気になっていた。
お昼を少し回ったころ、ルーブルを後にした。
建物を出てセーヌ川沿いに歩く。風は冷たかったが日差しはとても暖かく、散歩にはちょうど良い日和だ。
カルーゼル凱旋門の所からチュルリー公園に入る。
砂利を踏みしめながら歩く。
途中でベンチに座って煙草を吸った。
そう言えばエディは龍が目覚めると私に危険が及ぶと言っていた。それから私を守るのに自分の命では足りないかも知れないとも。
私はそれについて考えた。
その前に取敢ず龍を受け入れてしまう必要があった。私は声に出して言ってみる。
「私には龍が居る」
少し落ち着いたような気がした。そしてもう一度言ってみる。
「エディは、私の龍を必要としている」
そこから考え始める事にした。
夕べの夢は本当にあった事だったのだろうか。
確かにロワールから帰る車の中でエディが言ったのを聞いているうちに思い出した事と繋がっていた。
転生などと言うものが本当に存在するのだろうか?
肉体が滅びても、魂だけで存在することなど可能なのだろうか?
今まで生きてきたことのすべてを、私は記憶しているだろうか?
いや、そんな自信は無い。
なのに、生まれる前に生きていたことの記憶があるなんて馬鹿げている。
しかし、私は思い出していた。
彼の話を信じたのでも、理解したのでもなく、私が経験したことを思い出していたのだ。
大体において思い出すということは、普通忘れていることを、何かのきっかけで起こるのだ。
忘れている時には、それは存在しないのと同じ状態だ。
そして、何かのきっかけで思い出した時には、確かにそれは存在する。
それを新しく学んだ時の感覚と、昔知っていたことを思い出した感覚とは全く違うものだ。
もしかしたら私は生まれてからこれまでのことを、すべて記憶しているのかも知れない。
ただ、思い出すという行為が巧く出来ないだけなのかも知れない。
もし本当に前世というものがあり、私の魂自体がそれを経験していたのなら、エディというきっかけによってそれが思い出されても不思議ではないのではないだろうか。
しかし、もしそうなら魂の記憶装置というものは、膨大な容量を持っている事になる。
何故なら、転生を続ける限り無限に近い記憶を刻み続けなければならないからだ。
この頭の中の脳という限られた容量でそれを記憶することなど不可能だ。
すると魂というものはこの脳の中に存在するわけではないと言う事になる。
もしかすると、魂は肉体とは関係のないところにも存在しているのではないだろうか?
無限に記憶し続ける大きなマザーコンピューターがあり、今のこの肉体というのは、端末機に過ぎないのではないだろうか?
端末機が経験したことをマザーコンピューターに記憶させてあるのではないだろうか?
それで、何かのキーワードでマザーコンピューターから情報を引き出すことが出来る。
それがエディという存在によって思い出された私の過去生の記憶なのかも知れない。
確かに私は生まれ変わって来た。少なくとも今の私にはそう思うことが一番納得の行く考え方のようだ。
そっと腿に触れてみた。今も腿を切り裂かれた痛みを覚えている。夢の中だけの事ではない。そんなふうに思えた。
もし生まれ変わってきたのならば、何故私はここに生まれ変わって来たのだろう。
魂に意志があるのだろうか?
人とは前世でやり残したことを成し遂げるために生まれてくるのだろうか?
ならば、肉体を持たない魂の存在とは、神の領域に重なってくるのではないだろうか?
神の意志によって生かされているという考え方と、自分自身の意志によって生きているという考え方のちょうど中間が、肉体を持っていない時の自らの魂によって決められた生き方なのだろうか?
判らない。
結局私はエディに出逢った。転生を認めるならば、そのためだけではないにせよ、エディと出逢う為にも私は生まれ変わったと言う事になる。
ならばこれは偶然ではなくて必然だったのだ。その為に危険が及ぶとしても、その為に生まれてきたのなら仕方のない事なのかも知れない。
それでエディの言う危険に巻き込まれて死んでしまったら、私はまた生まれ変わるのだろうか。
きっとそうに違いない。
今は死ぬことが恐ろしいが、もしかしたら生まれる事の方がもっと恐ろしいのかも知れない。
何となくそんな気がした。
やはり思考が閉じている。エディなら良い答えを出してくれるだろうか。ただ漠然とではあったが、もっと思い出せば先に進めるような気がしていた。
私の知らない事を思い出す。前世の記憶が蘇るのはそんな感じだった。
フォンと龍山の話を思い出した時、私は確かに知らない事を思い出していた。
それを知ったのではなく、思い出したと言えるのは、私はその事実だけではなく、それに付随する風の感触や、光の色なども一緒に思い出したからだ。
もしかしたら離婚のショックで、私の頭はおかしくなっているのではないだろうか。
エディに聞いたことが、変になった頭の中でシャッフルされて、他の経験とそれらがすり変わり、思い出したように感じているだけなのかも知れない。
きっと休養が必要なのだろう。
答えを見いだせないまま、また歩き始めた。
コンコルド広場の手前にオランジェリー美術館がある。
入口を入りチケットを買った。
コートを預けて中に入る。私は途中で思い付き、ホテルに電話してエディを呼んでもらった。
しばらく待つとエディが出た。
「もしもしエディ?」私が言った。
「ヨーコかい?何処へ行っちゃったの?心配してたんだよぉ」
彼の声は本当に心配そうだった。
私は明るい声で言う。「大丈夫よ。今オランジェリーに居るから」
「すぐに迎えに行くからそこを動かないで」
「冗談でしょう?一人で来たんだから一人で帰れるわよ。ただ今夜オペラに連れてってくれるって言っていたから、何時頃戻ればいいのかと思って電話しただけよ」
「6時頃用意を済ませて部屋にいてくれたら迎えに行くよ。でも本当に大丈夫なの?」
「大丈夫だって。これでももう四回もパリに来てるんだし、電話だってちゃんとかけられたでしょう?」
「分かった。でも気を付けてね」
「ええ じゃあ6時に」そう言って電話を切った。
私は一人で笑った。誰かが心配してくれているって結構気持ちの良いものだった。
まず二階に上がり、印象派の絵を観た。ルーブルで観たような安定感はないが、若い弾むような心がそこに描き出されていた。ルーブルが老人なら、ここの絵は青年なのかも知れない。
この絵達も百年経つとあんなふうに老いるのだろうか。
もし、ここにある絵が百年後のある日ルーブルに入る事になったとしたら、きっと色んな経験を経た老人として迎えられるのだろう。その中の何枚かの絵がルーブルの壁で「オレ、なんか場違いなところに来ちゃったよ」などと戸惑っているのを想像して、私は思わず微笑んだ。
それから私はゆっくりと階段を下り、睡蓮の間に入る。
陽光に照らしだされた蓮池がぐるりを取り巻いている。中央の椅子に腰掛けると、まるで蓮池の真ん中にいるような錯覚に陥る。
たくさんの種類の光が降り注いでいる。モネはきっとこの光を描きたかったのだ。光を描くためにこんなに沢山の睡蓮を描いたのだ。
私は暖かな光を感じながら何も考えずに長い時間そこに座っていた。何人もの人が私の前を横切って行く。その人達にも睡蓮に当たっているのと同じ光が当たった。睡蓮と同じ色彩を帯びた人達が何人も私の前を通り過ぎて行った。
オランジェリーを出たのは3時を少し回った頃だった。私は目についたカフェに入り軽い食事をした。食事を済ませると少し疲れを感じた。オルセー美術館にも行く予定だったが止めにしてタクシーを拾い、ホテルに戻った。
部屋に戻ると私は、顔を洗い、着ていたものを脱いで、ベッドに潜り込む。落ちる感覚と同時に眠りがやってきた。
目覚めた時、もう日は暮れて部屋は真っ暗だった。
私は手探りでスタンドのスイッチを付け、時計を見た。5時を少し過ぎていた。
私は起き上がり、シャワーを浴びて眠気を追い払った。いつもより丁寧に化粧をし、髪をチャイナ風にまとめ、エディにもらったドレスを着る。イヤリングを付けパルファムを付けたところでドアがノックされた。私は急いで靴を履きドアを開けた。
ちゃんと正装したエディが微笑んで立っていた。
私は彼を招き入れると彼の前でターンして見せた。
「どう?」
彼は「素晴らしい!」と言って優しく抱き寄せベイゼした。
彼は何だかなつかしい匂いがした。
私達はホテルを出て、彼の呼んであった車に乗った。
「何処へ行くの?」私が尋ねると彼が答えた。
「学生の時の友人と一緒に食事をしてからオペラハウスへ行くつもりだよ」
「私が一緒でいいのかしら?私言葉が解らないし、変じゃない?」
「変って?」
「だって・・・」
私が言い淀むと彼が言った。「大丈夫。友人は日本人だし、奥さんは日本語は話せないが聞くことは出来る。だから何も心配しなくていい。君はとても素敵だ。自信を持っていいよ。それに彼は日本の心霊学にとても深い知識を持っているから、僕達にきっと良い話を聞かせてくれると思う」
私は黙って頷いた。
エディは続ける。「それにしてもとてもチャーミングだ。正直言って少し驚いた」
「私そんなふうに誉めてもらったのって生まれて初めてよ」
彼は大袈裟に驚いた素振りを作ると言った。「それは君がそんなに素晴らしい姿を誰にも見せなかったからだよ」
私はうつ向いて首を横に振った。
「僕だって初めて君を見た時はこんなにチャーミングだとは気付かなかったよ。龍を背負った疲れた東洋人の女性。そんなふうにしか見えなかったからね。
でも君は話し始めると、どんどん魅力的に成ったんだ。何かが僕を引きつける。本当に不思議なくらいだった。
それでロワールへ誘ったんだ。
するとまるで蛹が蝶になるように美しくなった。多分それについてはこれから会う友人が話してくれるよ」
そう言って私の手を握った。
私はその手を持って、私の腿に当てる。彼は驚いたように私を見る。
私は彼から目をそらせて言う。「昔の龍使いは、ここを切り裂いて何かを埋めたの」
彼は食い入るように私を見つめる。そして言った。
「思い出したのかい?」
私は頷いた。
「夢で見たの。夢の中で私はその傷が元で船の上で死んだの。あなたもあんな風にするの?」言い終えて彼を見る。
彼は大きくかぶりを振って言う。
「僕は決して君を傷つけない。君の心も体もだ。信じてくれ」
私は彼の手をシートの上に下ろした。
私は窓の外を見ながら大きく深呼吸した。そして言った。
「今日はご免なさい。少し一人になって考えてみたかったの。あなたがあんなに心配してくれるなんて思わなかったから。でも心配してくれて、何だか嬉しかったのよ」
彼は言った。「構わない。君は君のしたいようにすればいいんだ。僕は君を束縛するつもりなんて無いんだから。ただ、君がいなくなるんじゃないかってとても不安だっただけさ」
「私が居なくなるって?」
「はい。僕の前から今君が居なくなったら、僕はどうしていいか判らない」
彼はまるで子供のように言った。
私は笑顔を作って彼に向けた。
「愛してるのね」私は言った。
彼は答える。「はい。とってもね」
二人共、まるで他人事の様に言った。
私は彼に尋ねてみる。「ねえ、エディ。私の頭って変なのかしら?」
彼は答える。「頭って、中のことかい?それとも外側かい?」
「中身よ」
「多分正常だと思うよ。多分だけど」
「多分ね」私は繰り返した。
彼は口の端を上げて笑う。そして優しい声で言った。
「僕が混乱させたんだ。誰だって突然龍の話なんてされたら驚いてしまうよ。
それに君は辛いことを思い出してしまった。
でも君はとても素直に僕を受け入れてくれるね。
決してだましてなんて居ないから安心して。僕を信用して。本当に僕は君を愛してるんだ」
私は溜息をついた。彼は今私に愛を告白している。とても特別な状況がまた始まった。
『私は特別なんて大嫌いだ!』そう叫びたかったが我慢してしばらく黙っていた。
車は日本料理店の前に止まった。
彼が言う。「着いたよ」
私は頷いた。彼が先に降り、私に手を差し伸べた。私は彼に手をあずけて車を降りた。
店に入って彼が名前を告げると奥の席に案内された。
彼の友人夫妻は先に席についていた。私達が案内されると立ち上がって挨拶をした。
男性は加藤良三と名乗った。女性は彼の妻でモニクと言った。私は彼らと握手を交わしてから席に付いた。
ワインが運ばれてきてカンパイをする。モニクは簡単な会話以外日本語は話せないが、聞くことは出来た。
私が日本語で話しかけると、フランス語で答える。それを何れかの男性が日本語に訳してくれた。私が居なければ三人はフランス語で会話をするのだろう。
エディはモニクにフランス語で何か話しかけた。モニクは笑って私に向かって何か話しかける。横から加藤が訳してくれた。
「今エディが君は君の美しさを信じ無いんだと言ったんだ。するとモニクが君のオーラについて話している」
「オーラ?モニクにはオーラが見えるの?」私が尋ねる。
モニクが頷くと言った。
今度はエディが訳す。「そうモニクにはオーラが見えるんだ。君のオーラは月の光のように澄み切っていると言っている」
モニクが話を続けると、エディが少し顔を赤らめた。
加藤が訳す。「モニクは君がエディに恋をしているようだと言っている」
私も少し赤くなるのを感じながらモニクに尋ねる。「どうして?」
モニクは更に続ける。するとエディは決まり悪そうにうつ向いてしまった。
加藤が笑いながら訳す。「エディは君を愛しているらしいと言っている」
愛と恋という表現で微妙なニュアンスを使い分けた。
私は、もう一度モニクに尋ねる。「何故モニクにはオーラが見えるの?」
モニクが答えようとしたところでエディが言った。
「僕が説明しよう」
モニクが頷く。
エディが続ける。
「僕が昔聞いた話だ。実はモニクは写真家なんだ。
ある時モノクロームで撮られた写真を彼女が見た時に、彼女はその中に色を感じたそうだ。
僕もその写真を見せてもらったけれど、ジプシーのお婆さんの写真だった。
とても味わいのある写真だ。
その白黒写真にモニクは色を感じた。良い写真には、写っている者と写した者のオーラが写り込むそうだ。それが写真に力を与える。
それに気付いてからモニクは色んな人の色を感じようと人の後ろを見るように努めたんだって。
そうしたらあらゆる人が、色を伴った光を放っている事に気付いたそうだ。そうだったね」
モニクに向かって言った。モニクが頷いて言った。
エディが訳す。「君にも見えるって。やってみるかい?」
私は答える。「ええ。でもどうすればいいの?」
モニクが何か言う。エディが訳す。「その向こうに座っているカップルを見てごらん。まず女性の方だ。彼女の回りに意識を集めて色を感じるんだ」
私は、言われた女性を見た。モニクが日本語で「ナニモカンガエナイデ」と言った。
私は、じっとその女性のすぐ後ろに視点を合わせるようにして、そして目を閉じた。そしてもう一度目を開けて見た。すると彼女の回りを淡い黄色の光が包んでいるのを感じた。
「イエローみたい」私が言った。
モニクは微笑んで言った。「オトコハ?」
私は同じように見た。今度はさっきより早く判った。
「グリーンよ」
モニクは私の手を取って言った。「カンタンネ」そう言うとエディに向かって何か言った。
エディがそれを訳す。「じゃあ、どんな形をしている?」
私はもう一度先程のカップルを見た。
緑の光が黄色の光に向かって流れていた。しかし黄色の光はそれをよけるように流れている。私はそんなふうに言った。
するとモニクは違うカップルを指定した。今度の二人は女性が水色で男性がパープルだった。それがマーブルのように綺麗に混ざり合っていた。
私がそう言うとモニクがそれを説明してくれた。
エディが訳したところによると、初めの二人は男性の片思いで、女性はあまり良くは思っていない。後の二人は多分夫婦だろうとの事だった。私は何となく解るような気がした。
モニクに尋ねる。「私とエディはどんなふうに見えるの?」
モニクの答えを加藤が訳した。
「ヨーコのオーラは今まで見た誰よりも透き通っていて柔らかく美しい。さっき言ったようにまるで月の光のようだ。
多分君が君の力をフルに発揮できるようになれば、それは太陽のように輝くのだろう。
エディはサファイアのような深いブルーだ。そしてそのブルーの輝きは君を包み込もうとしている。
君のオーラはそれを拒否しない。だから君はエディに恋を、エディは君を愛していると言ったんだ」
私はモニクに向かって頷いた。そして龍について尋ねるべきかどうか少し考え、思い切って尋ねてみた。
「モニクにも私の龍が見えるの?」モニクは首を横に振って何か言った。
加藤がそれを訳す。
「いや、モニクに龍は見えない。彼女の見えるものは君が出している物だけだ。龍は君の中にいる。そうだな」そう言ってエディを見た。エディは頷く。
加藤が続けた。
「昨日エディが電話をくれて君の話をしてくれたんだ。君の龍の話も聞いた。
エディと僕は学生の頃からの付き合いで、彼が龍使いの血筋だと言うことを知っていたから、彼は僕に君の龍の話をしたんだと思う。
そして言ったんだ。君がとても素晴らしい女性だと。
だから僕達は今日君に会えるのをとても楽しみにしていたんだよ。そして会ってみて驚いた。
思っていたよりもっと君は素晴らしかった」
加藤夫妻は顔を見合わせて頷いた。そして続けた。
「失礼な言い方かも知れないが、姿形じゃなくて君の素晴らしさは目で見て感じるものではなく、別の次元の物のように思えるんだ。君の龍が目覚めようとしているからなんだろうか?」
私は加藤に言う。
「どうもありがとう。でも私には何も解らないのよ。ただ怖いだけ。私には龍が何かすら理解できていないし、龍の事だって、エディの事だって、本当に信じているのかどうか解らないわ。ただ考えることを放棄しているだけかも知れないの」
加藤はそれに対して言った。
「それはとても正直な気持ちだと思う。多分僕が君の立場であったら怖くてエディのそばにいられないだろう。
でも僕はエディのことを良く知っている。彼は作り話で女性の気を引くような男じゃない。
それに龍の力は確かにあるんだ。昔から人々はそれを利用して来た。
エディのお爺さんの風水もそうだし、日本にもそれはある。
昔には陰陽道と呼ばれる学問もあったし、今でもあらゆる宗教の中にその思想は生きている。
だから心配しなくていいよ」
私は言った。
「ありがとう。今はまだ何も考えられないだけなのよ。でも思い出しかけてるの。ロワールでも夢の中で龍に会ったわ。でもただの夢かも知れないし・・・そんな話をした後だったから、そのせいで見た夢かも知れない」
加藤が言う。「話してみてくれないか?その君の夢を」
私は、なるべく見た夢に対して忠実に話した。それはとても断片的な話だったが、そこに居る誰もが真剣に聞いてくれた。
中国で生まれた事や、船の上で死んだ事。そしてその後もう一度生まれ変わり銃で撃たれて死んだ事。
「そんな夢だったのよ」私はそう言って話し終えた。エディは私の手を握りしめていた。しばらくの間誰も何も言わなかった。
一番初めに加藤が言った。「その夢は眠ってすぐに見たものなのかい?」
「ロワールの時はそうよ。だって目覚めた時には一時間しかたっていなかったもの」
「それは素晴らしい。君は夢の中でアカシックレコードと繋がったんだ。普通の夢は大体一時間半は眠らないと見ないものだからね」
私は尋ねる。「アカシックレコード?」
「そうだ。宇宙意識と呼ばれる物だ。多分君の見た夢はただの夢なんかじゃない。
君は宇宙意識と繋がって、そこから過去の記憶を持ち帰ったんだと思うよ。
君の龍が目覚めたら君はきっと眠らなくても宇宙意識とチャネリングするようになるだろう。
全宇宙のすべての記憶、つまり神の力を手に入れるんだ」
昼間一人で考えていた、マザーコンピューターの様な物のようだ。自分が勝手に思い付いたことが、ちゃんとした名前を持っているということに、私は少し驚いていた。私は更に尋ねる。
「じゃあ、龍っていったい何なの?」
加藤はしばらく考えてゆっくり話しだした。
「君の龍についてはよく解らないが、一般的な龍について話をしよう。
日本においての龍信仰は神代の時代、つまり神話の時代に遡る。まず出雲神話に出て来るヤマタノオロチがそうだ。知っているかい?」
「スサノオの命がお酒に酔わせて退治したあれでしょう。子供の頃絵本で見たことがあるわ」
「そう。でも本当はちょっと違うかも知れない。何故なら出雲の神自体が龍神なんだ。龍と蛇はほとんど同じ物と思っていい。龍蛇神と言う呼び方があるぐらいだから」
「じゃあ。あのお話は仲間割れのお話だったの?」
「いや、そんな単純なものじゃない。つまり作り替えられたんだ。天孫族によってね」
私にはよく解らなかった。
加藤は続ける。
「つまり征服者と被征服者の話なんだ。天照大神を筆頭とする天孫族。しかしこれにも諸説があって一概には天照大神とは言い難いんだが、まあここでは一般的にそうしておこう。
その天孫族が出雲族を征服した。そしてその時の話を正当化する為にスサノオにヤマタノオロチの話を押しつけたんだ。
スサノオは出雲の偉大な王だった。そしてその王は龍を奉っていた。多分龍の力を使う術を知っていたんだろう。
そのスサノオが、龍を思わせるヤマタノオロチを退治したと言う風に後世に伝える事によって、長い年月を掛て自分達の征服を正当化してしまった。
まずスサノオを自分達の神の系図の中に書き加え、その上龍を退治したことにした。
スサノオとその一族にとっては幾重にも張られた罠にはまった様なものだろう。誇り高い出雲の神を貶めたんだ」
私は尋ねる。「じゃあ、龍の敵は何なの?その天孫族はどうしてそんなにスサノオをいじめるの?」
加藤は苦笑して言った。
「いじめるって言われるとなんか変だけれど、彼らは恐れたんだよ。龍神族の結束の強さとか精神力の強さなんかをね。彼らはヒを奉っていたんだ。炎の火もそうだし太陽の日もそうだ。元々は・・・炎の火なんだ。つまり物質文明の始まりの火。
そして龍は精神文明の象徴だ。太古、この地球上には龍を象徴として戴く精神文明が栄えていた。しかし地球上の環境変化などで道具が必要になって来た。
ある時点まで人々は温室のような穏やかな気候の中で暮らしてきたんだ。それが天変地異、つまり聖書に描かれている大洪水のようなものが、完全にこの星の環境を変えてしまった。
確かに大昔地球はエデンの様な楽園だったんだ。人は裸でも暮らせるほど気候は穏やかで、食べるものはわざわざ育て無くとも幾らでもあった。
その頃の人々は道具など使わなくとも精神の力で幸福を手に入れていた。
こんな説がある。それは太古には地球の周囲を厚い水蒸気が覆っていたというものだ。それが有害な紫外線や、放射線を遮っていて、地球を温室状態にしていた。
その為に人々は驚くほどの長寿を保ち、穏やかな時の流れを楽しめるだけの時間を持っていた。それが巨大隕石の衝突か、それがすぐそばを通ったことによってその水蒸気の膜が破れ、雨となって地球に降り注いだって言うものなんだ。それが各地に残る洪水伝説だってね。
それで、今のように直に太陽の光を受ける暑い場所や、熱の及ばない寒い場所が出来た。その上それは季節によって変わる。
そのために人々は体温の調節をし、食物を確保する努力をする必要に迫られたって言うことだね。
それが物質文明の始まりなんだ。
そして生命にとって有害な紫外線や放射線を直に浴び、その上努力しなければ生きられないというストレスによって、それまでの寿命の十分の一位しか生きられなくなった。
穏やかに流れ続けていた時はどんどん加速して、今のように物に囲まれ、時間に追われ、精神を休める事すら出来ない世の中になってしまったって言うことだね。
人は火を使い始めた時から狂ったのかも知れない。でもそれも仕方のない事だったんだろう。そうしなくては生きていけないような環境になってしまたのだから。
しかし、ある一族は太古の精神を忘れなかった。それが龍を奉る者達だ。
どんなに生きにくい世界であっても、かつて自分達が一つの文明を築いたという誇りを持ち続けたんだ。
火の神を欺きながらじっと息を潜め、火の神の勢力が強い時には休み、その勢力が落ちてきた時には少しづつ力を延ばす。そんなことを繰り返して来た。
だから神道にも仏教にも龍神は居る。そして世界各国の神話にも、やはり龍は残っている。そして今残っているほとんどの神は、龍の後に現れている。例えば釈迦の最初の説法を聞いたのがナーガと呼ばれる龍だった様にね。
つまり仏教の生まれる前からナーガは居たって言う事さ。
でも、さっきも言ったように、今伝えられている物語はすべてヒの神が伝えたものだから、龍を悪者のように伝えて居るんだ。
だから、エデンの園でアダムとイブをそそのかしたのも蛇だって言って居るだろう。それに釈迦のナーガの話だって、修行の邪魔をしたり、釈迦の説法によって初めて救われたりしている。でも、本当の事は判らない。
とにかく道具を発達させることを善しとしなかった龍神族は、新しい武器を持った火の一族に殺され、征服され、追いやられてしまった。そして東へ東へと追いやられ、日本が最後だったのかも知れない。
その為かどうかは解らないが日本に於いて龍神族に加えられた圧力は大変大きな物だったようだ。
しかし圧力が強ければ強い程反発力も強くなる。その為に圧力が弱った時に龍神信仰が復活するんだ。そして火の神の仲間ですよと欺きながら生き永らえてきた。
神や仏の末席に加わることで龍の名を残した。つまり逆手を取ったんだ。しかし本当の精神は忘れていない。
そうだなエディ」
エディが続けて話す。
「はい。龍の一族は人々の中に種を撒き続けて来たんだ。精神文化の種をね。そして何時かそれが芽吹き、花を咲かせる事を夢見てきた。
龍は戦わない。待つんだ。龍の時は穏やかに流れる。何万年の単位など龍にとって、一眠りに過ぎない。
火の神は人間の一生のような短い単位でしか物を計れない。だからいつも急ぐ。
しかし魂は人の体を船として何度も生まれ変わり、死に変わりして続く。ヨーコと僕がこうして出逢えたのも、魂がそう決めてあったからだと思う」
加藤がとても興味深そうにエディを見つめていた。私はエディの言う魂と肉体の関係を取敢えず受け入れた。そして尋ねる。
「でも、龍の力っていったい何なの?」
加藤のエディを見る目が鋭くなった。エディが話し始める。
「簡単に言えば超能力のようなものさ。物質文明で理解出来ない力の事だ。例えばテレパシーとか瞬間移動とか予言なんかもそうかも知れない」
加藤が続ける。「しかし今超能力者と呼ばれている人達には偽物が沢山含まれているんじゃないかな。それに本物であってもスプーンを曲げたりするような力が龍の力と呼べるだろうか?」
エディが答える。「違う。龍の力はもっと巨大だ。君の言う宇宙意識とのチャネリングもそうだ。過去現在未来のすべてを知る事が出来る。しかしそれは必要があればだ。
龍の力は魂の成長を目指している。だから必要がなければ働かない。そして龍の力は人にあるだけではない。多分、人龍と言うのは大地や海や空の龍のスイッチのようなものだろう。
ヨーコの龍が目覚める事によってすべての龍の封印が解かれるんだ。それが魂の成長に必要であればだけどね」
私は尋ねる。「誰がその封印をしたの?」
加藤が冷たい口調で言い放つ。「龍使いだよ」
私はエディを見る。エディは私に暖かい眼差しを送った。私は彼の言葉を待った。
彼はゆっくり言う。「そうだよヨーコ。今までの龍使いは、しかるべき時が来るまで龍を眠らせるのが仕事だったんだ。
多分君がフォンであった時の夫は、君の体に龍静めの石を埋め込んで君の力を封じたんだ。龍山だった僕が君の龍を起こすのを恐れたからだろう。つまり君の夫だった龍使いは、君の龍を使うだけの力が無かったんだよ。
龍使いは使いきれない龍を目覚めさせるとどう言う事になるのか良く知って居るんだ。だから一番初めに龍静めについて学ぶ。
それは火の神に利用されない為でもあるんだ。今まで何度か龍は目覚めたが、その度に火の神に利用され、大変な事になった。
ナポレオンもヒットラーもそうだった。彼らは欲によって龍の力を目覚めさせたんだよ。でも本当の龍は愛によって目覚める」
私は尋ねる。「欲によって目覚めた龍が、世界征服を果たせなかったのはなぜ?」
エディが答える。「龍使いがちゃんとコントロールしたんだよ」
「つまり殺したのね」
エディは悪びれた風もなく大きく頷いた。
「じゃあ、愛によって目覚めた龍にはどんな力があるの?」
加藤は何か考え込んでいた。エディはしばらく考えて言った。
「人々の心に愛を目覚めさせるのさ」茶化すように答えた。まるではぐらかすような答えだった。私はエディの顔を見つめた。彼は私に何か語りかけていた。それが私には良く解らない。しかし彼の目は私に愛を告げているようだった。何故かそんなふうに思えた。
私は言う。「愛って見えないもの、解らないわよね」
エディがモニクに向かって言う。「でも、モニクには見えるんだよね」
モニクが頷いて日本語で言う。「ヨーコニモ デキル」
私は言う。「でも自分の愛は見えないわ」
モニクが言う。「ダイジョウブ ヨーコ エディ アイシテル」
私はモニクに向かって笑いかけた彼女は頷いた。そしてもう一度言った。「エディ ヨーコ アイシテル イロ マザッタ」
私とエディは顔を見合わせた。彼は私の肩を抱いて頬に口付けした。私は赤くなるのを感じた。モニクが笑っていた。しかし加藤は何か考え込んだままだった。
私達は食事を終えて外に出た。
モニクがそっと私に近づいて来ると言った。「ヨーコ エディハホントニアイシテル ドラゴンジャナイ アナタヲ ネ」
私は頷いて彼女の手を取った。「ありがとう」
彼女は軽く笑いかけると加藤の側に行った。
エディが近付いて来る。私は思っていた。何百年も前のことを思い出し、一週間前の自分が目覚めた後の夢のように遠退いて行く。奇妙な感じ。龍が目覚める前に私がやっと目覚めたのだろうか。
エディはとても美しい身のこなしで歩いて来る。
私はこの三十年間ずっと夢の中に居たのだろうか。もっと若くて、美しい心を持っていた頃に、この美しい中国人と知り合いたかった。
「大丈夫。君は充分若くて美しい。そして心の傷ももう治りかけている」
私の心にダイレクトにエディの思考が伝わった。驚いてエディを見る。彼は片目をつぶってみせた。
私は心の中で言った。「エディ。のぞき見はいけないわ」
彼の思考が伝わる。「突然チャンネルが繋がったんだ」
私は考えることを諦めた。まるで夢の中の様に色んな事が起こる。今私は起きているのだろうか?眠っているのだろうか?私はそっとエディの手をつねってみた。
「アイヤー」
少なくとも彼は起きている。彼は笑っていた。きっと私の心を覗き見したのだ。
四人は一台の車に乗ってオペラハウスへ行った。開演十分前に席に付き、加藤に粗筋を聞いた。フランス語の解らない私は雰囲気だけ楽しんだ。
オペラが終わった後、加藤夫妻は私達を自宅に誘ってくれたが、エディは疲れているからと言って丁寧に辞退した。私はエディにすべてをまかせていた。
二人でホテルに戻った。
エディはフロントでメッセージを受け取り、私を部屋に誘った。
私は彼の部屋へ付いて行った。そこは私の部屋と違って、最上階のとても眺めの良いスイートルームだった。
「あなたいつも一人でこんなに広い部屋を取るの?」
彼は笑って言う。「彼女が出来た時に困らないようにね」
「あきれた人ね」
メッセージを読んで彼は真顔で言った。「冗談じゃなくて君はここに移って来た方がいい。僕が手伝うから今すぐ荷物をまとめて」
私は良く判らなかったが、彼の真剣な顔を見て思わず頷いた。
それから急いで私の部屋に行き、荷物をまとめた。彼はとても手際良く動く。五分ほどで荷物はまとまり、エレベーターで彼の部屋に行った。
私は彼の使っていない方の寝室で部屋着に着替える。彼は電話で話していた。とても深刻な話しをしているようだった。電話を終えると彼は言う。
「ヨーコ、明日出来るだけ早くここを出た方がいい」
「出るってどこへ行くの?」
彼は少し迷って言った。「香港へ来ない?」
「どうして?」私が尋ねる。
「一番安全だからだよ」
「それって、ここに居ると危険って言うこと?」
「それに祖父が誕生日のパーティーを一週間繰り上げると言うんだ」
「そのパーティーって何時なの?」
「三日後の夜」
私は溜息をついた。「エディ。私、あなたに尋ねたい事が沢山あるんだけど、今とても疲れてるの。どうしたらいいかしら」
「お風呂に入ってみるって言うのはどう?ゆっくりリラックスして考えをまとめる。そして元気が出たら僕に尋ねる」
「もし元気が出なかったら?」
「明日、香港行きの飛行機の中で尋ねるって言うのは?」
私はまた溜息をついた。
彼は微笑むと立ち上がり、バスの用意をした。
「取敢えずお風呂に入ろう」
私は彼が寝室に消えてからそう自分に言い聞かせた。
私は沢山ある戸棚の中から冷蔵庫を見つけだし、ビールを開けた。彼がバスの用意を終えて部屋に戻ってきた時、私はビールを飲んでいた。
彼が尋ねる。「全部飲んでからお風呂にする?それとも後半分は僕にくれる?」
「あなたに上げる」私はそう言ってバスルームへ向かう。
着ているものを全部脱いで、暖かいお湯に体を沈めると少し気持ちが落ち着いた。化粧を落として体を洗う。そして髪を洗ってシャワーで流すととてもすっきりした。私はもう一度バスタブにお湯を溜めて体を沈めた。お湯の中で私は何かを考えようとした。しかし何を考えるべきなのかも判らなかった。疲れていたのだ。初めての事ばかり続き、その上特別変なことばかりだ。何も考えられなくても当たり前のようにも思えた。そのまま目を閉じると眠ってしまいそうだった。自分の体が段々溶けてお湯になってしまいそうな感じ。
バスタブの栓を抜いて立ち上がり、タオルで軽く体を拭いてバスローブを着た。
寝室を出るとエディはいなかった。彼の寝室からシャワーの音がしていた。テーブルの上には、氷の中に入ったワインが置いてあった。彼が栓を抜いてくれている。私はそれをグラスに注いで飲んだ。
窓からとても綺麗な夜景が見えていた。何もかもが特別だった。特別の部屋で男の人に特別扱いされている。しかし私は少しづつそれに慣れつつあった。
ワインを飲みながら煙草を吸った。彼がバスローブをまとい、濡れた髪を下ろして寝室を出てきた時、私は二杯目のワインを飲んでいた。彼は私の横に着て肩を抱いた。そして私のグラスにワインを注ぎ足すと一気に飲んだ。
「どう?元気は出た?」私は首を振って彼の肩に頭を乗せた。
彼は私の濡れた頭を撫でる。
「質問は明日にしようね。今夜は髪を乾かして寝よう」
そう言うと私を立たせ、バスルームの洗面台の前へ連れて行き椅子に座らせ、ドライヤーで私の髪を手際良く乾かしてくれた。そして上手にブラシでとかし付けると鏡の中の私に向かって言った。「ほら、こんなに綺麗だ」
私は首を振ると立ち上がりバスルームを出た。
彼はベッドのカバーを取り、毛布を少しはがして言った。「おやすみ。ヨーコ」
私は頷いて毛布の中に滑り込んだ。彼が灯りを消して出て行く。
ドアが閉まった。
なぜ彼はこんなに私に優しいのだろう?
それまで私は、男の人がこんなに優しいところなど見た事すら無かった。もちろんその優しさが自分に向けられた事などある筈もない。
きっと彼は私にだけ優しい訳じゃない。
そう思う事にして私は目を閉じた。
眠りがやってくるまでエディの使うドライヤーの音がしていた。私はその音を聞きながら眠った。