龍 2 ロワール
 随分急いだにもかかわらず、ホテルに帰り着いたのは九時を大分過ぎていた。

 エディはロビーのソファーに座って煙草を吸っていた。酔っ払って私を誘った訳ではなさそうだ。私が玄関を入るのをみつけると、彼は煙草を消し、立ち上がって微笑んだ。
 「ごめんなさい。お待たせしちゃったわね」私がそう言うと彼は首を横に振り、言った。 
 「いや、そんなに待っていないよ。僕も今来たところさ」私は笑顔を作ってみせた。
 彼が尋ねる。「朝早くから何処へいってたの?」
 私は早く目覚めてしまったのでサクレクールへ行って来た事を話した。とても綺麗だった事や、神に祝福を受けたような感じがしたと言うような事をだ。彼はそれをとても興味深く聞いてくれ、そして自分も帰るまでに是非行ってみると言った。
 「そうするといいわ。とても素敵だから」私はそう答えた。

 彼はコンシェルジェに車のキーをもらい、私をエスコートすると玄関を出た。
 彼がドアを開けてくれた車は、赤と呼ぶよりもルージュとフランス語で呼ぶべき、日本人の思い浮かべる赤とは少しニュアンスの違う色のシトロエンだった。私が車に乗り込むと、彼は静かに体で押すような感じでドアを閉め、運転席に回り自分も乗り込んだ。
 「一番フランスらしい車にしたよ」彼はそう言った。私は頷く。
 彼は続ける。「でも乗り心地は判らないよ。フランスの車だから」
 私は繰り返す「フランスの車ですもの」顔を見合わせて笑った。
 彼が言う。「ヨーコは昨日より、元気になった」
 私が答える。「良く眠れたからよ。それに神様の祝福を受けて来たんですもの。でも、夕べはそんなにひどかった?」彼は笑って答えない。
 そのかわりに尋ねた。「どこか見たい所はない?途中で寄り道できるよ」
 私は即座に答えた。「もし、橋を渡るのならポンヌフを渡って」
 「OK」そう言うと彼は車を走らせた。
 確かに彼の運転は丁寧だった。多分事故に遭う事はないだろう。車は町並みの中を走る。道幅が狭い。確かにパリだ。
 信号で止まると彼は言った。「どうしてポンヌフなの?」
 「大好きなの」彼は少し首をすくめてみせた。
 理由なんてない。ただ、初めてこの街へ来た時にバスで渡り、橋の由来を聞いてそれがとても気に入っただけだ。だから他に説明のしようがなかった。それで、私も真似をして首をすくめた。
 ポンヌフの袂で彼は車を止めてくれた。私は自分でドアを開けて下りてみる。新橋と言う名前のくせに一番古くなってしまった橋が、確かにセーヌの流れをまたいでいた。私はそれを確認するとまた車に乗り込んだ。エディは静かに車を発進させる。
 人が走る位のゆっくりした速度で橋を渡りながら、彼が言った。
 「反対側の袂でもう一度降りるかい?」
 「いいえ、いいわ。そのまま行って」彼は橋を渡りきると車を止めずに速度を上げた。ポンヌフはすぐに見えなくなった。

 町中を抜けると車は高速道路に入った。
 初めは住宅街のような、日本の地方都市のような風景が窓から見えていたが、それはすぐにフランスの田舎の風景に変わった。刈り入れの終わった畑が続き、ミレーの落ち穂拾いのような色合いの山や畑が拡がっている。フランスは農業国なのだ。
 車の乗り心地は少しふわふわしていたが、渋滞もなく快適なドライブだ。
 エディは日本に居た時の話しをあたりさわりなくする。
 初め私達はあまりお互いについて尋ねなかった。暗黙の了解のようにそんなルールが出来上がっていたようだ。
 それでも二人は結構いろんな話をした。彼が日本に居た時の話や、私が前にパリに来た時の話、そしてお互いの趣味についての話などだ。
 尋ねられたことに答えるのではなく、問題のなさそうな事を自発的に話していた。
 初めは少し気になった彼の訛りも、その頃にはもう全く気にならなくなっていた。それどころか私は、彼が香港人であるのさえも忘れかけていた。

 お昼を少し回った頃、石で出来たオルレアンの町に着いた。石で出来た道に、石で出来た建物。絵の中で見る近世のフランスの風景がそのままそこにあった。
 私達は道端にあるレストランで昼食を取ることにした。フランスの田舎料理だ。
 ハーフボトルのワインを二人で分け、素朴なパテのような料理、茸をふんだんに使ったサラダ、それに鴨を赤ワインで柔らかく煮込んだもの。それらと、見た目も味も素朴なパンを、フランスらしくゆっくりと楽しんだ。
 二度目の食事を一緒に取ることで随分打ち解け、お互いに昔からの友達のような気がし始めていた。
 彼はとても良く気がついて、私はすべて彼に任せていた。料理も、彼が私の好みを尋ねながら幾つかピックアップし、私がそれをチョイスする。欲しいものがある時は彼に言えば、微笑んで頷きオーダーしてくれる。
 私がフランス語を話せないからだろうか?彼は完璧に私をエスコートしてくれていた。それが彼にとっては当たり前のことのようでもあった。
 私はとても満足していた。彼にエスコートされていることが、守られているような錯覚を与えてもいた。そのせいなのか、今朝の神の祝福のせいなのか、昨日泣きながら感じていたように、それまで信じてきた自分というものが本来の自分とは違うものだったのではないかという疑問を、うち消せなくなっていた。
 体のどこにも力を入れなくても、背筋は伸びるものなのだということに、その時初めて気付いた。何故なら背筋を真っ直ぐに伸ばし、肩の力を抜き、自然に微笑んでいる自分がそこに居たからだ。

 食事を終えて私達はカテドラル・サン・クロワに向かった。
 車の窓から、銀色の冠を被ったような塔が見え始めた。それはとても美しいのにも関わらず、昼食の時に感じていた幸福感を瞬時に吹き飛ばし、私を重苦しい気分にさせた。
 どんどんそれに近づくにつれ、その重苦しさが増してくる。
 私はその塔から目を逸らせていた。憂鬱だった。何も気に入らないわけではない。エディが何か嫌なことを言ったわけでもない。ただ、その塔が見え始めた頃から純粋な不安感に捕らわれていた。
 エディが駐車場に車を止めて言った。「ヨーコ、着いたよ。サン・クロア大聖堂だ。ジャンヌダルクの所縁の場所だよ」
 目を逸らせ続けていた塔が目の前に建っていた。
 「ねぇエディ。私何だか気分が悪いの。ここで待ってるから、良かったらあなただけで見てきてくれないかしら?」彼は首を傾げて私をのぞき込む。
 「そう言えば、少し顔色が悪いみたいだ。僕なら構わないさ。前に何度も来てるから。でも、車を動かさない方がいいかい?」
 私は首を振って答える。「いいえ。どこか違うところへ行って」
 彼は頷くと静かに車を発進させた。
 不思議な事に、車がその大聖堂を離れるに従って、私の気分は軽くなっていった。
 しばらく走ると次のシャンボール城が見え始めた。
 すると、またさっきと同じような憂鬱が私を支配し始めた。その憂鬱というのは、まるで空気と同じ温度で色も香りも全く無い水に気付かずに入って行くようで、少しずつ足の先から重くなっていく感じだ。私にはその不快感が、何に由来するものかが判らなかった。
 シャンポール城はとても規模が大きく美しい。遠くから眺めると屋根がとても複雑で、ホテルの結婚式に出てくるウェディングケーキのデコレーションを思い出させた。私は自分に向かって「あれはウェディングケーキなんだ」と言い聞かせながらまた目を閉じた。
 彼は車を止めると「降りて見るかい?」と言ったが、私は首を横に振った。「また、少し気分が悪いの」実際私は胃の中の物をすべて戻してしまいたいような嫌な気分だった。
 彼はそれに対して優しく頷き、車を発車させた。
 次に着いたのはさっきより少し小ぶりのブロア城だった。彼が車を城の前に止め、私の方を見て言った。「今度はどうする?」
 私は軽く首を振り答える。「行ってみましょう。だってどれも見ないなんてもったいないもの」
 私達は車を降りた。その時私は憂鬱の水に首まで漬かろうとしていた。けれども彼に悪いので今度は付いて行く事にしたのだ。しかし、その私の決断は間違っていた。

 まるで大男を背負っているような感じの重い体を、何とかだましながら入口を潜った。そして少し歩いたところに火を吐く恐竜の様な絵が飾られていた。
 「サラマンダー」そうエディがつぶやいた。それを聞いた瞬間、私は眩暈に襲われた。
 自分の意志が誰かに盗まれていた。エディは倒れそうになる私を慌てて支え、私を傍のベンチに座らせた。
 自分自身だと信じ続けてきた自分の意識が、自分自身で無くなっていた。とうとうあの水に頭まで漬かってしまったのだ。私は焦って意識を引き戻そうとするのだが、それは思うようには行かなかった。


 幼い頃の夢を見ていた。
 柔らかい日差しを浴びて歩いて行く小さな自分を、昨日の自分が追いかけていた。麦わら帽子をかぶり、白にブルーの水玉柄のブラウスに半ズボン姿の子供の私が、細い道を無心に歩いて行く。
 昨日の私は、子供の私を追いかける。しかしその小さな自分は振り向きもせずにどこまでも歩き続ける。それはどんどん遠くなり、霧の中に溶けるようにして見えなくなった。
 私は泣いた。自分を見失ったことがとても悲しかったのだ。遠くで誰かの呼ぶ声がしていた。
 「ヨーコ ヨーコ」
 それは母の様でもあり、父の様でもあった。誰かが私を水の中から引き上げていた。


 目を開けると見知らぬ男の人が居た。それがエディであることを理解するまでに、少し時間がかかった。彼はとても心配そうに私をのぞき込んでいた。
 私は自分の顔を手で覆ってみる。それは確かに自分の顔だった。しかし、それが昨日の自分のものか、今の自分のものかは判らなかった。
 ゆっくり体を起こしてみた。憂鬱の水の重力から解放され、雲の上のような感覚だった。
 エディは私を支えるともう一度座らせる。私は何かを追い払うように首を振った。
 そして言う。「おねがいそとへつれてって」
 彼には聞き取れなかった。
 もう一度力を入れて言ってみる。「お願い 外へ 連れって」
 彼は頷くと私を支えて立たせ、歩かせようとする。でも歩けない。彼はもう一度私を座らせると、両手で抱き上げ、外へ連れ出してくれた。

 車のところまで戻ると、私をボンネットに座らせ、ドアを開けた。私はそっと手で体を支えながら歩いて車の中に乗り込んだ。彼はエンジンをかけ車内を暖めた。
 冷えた体が温まるに連れて段々体の自由が戻ってきた。
 私は、バッグの中からお守りの数珠を出し、それを握り締めて呪文を唱えた。
 霊感の強い友人から、「パリは魔物の棲む町だから持って行くように」と言われて持ってきていたのだ。しかし、まさか本当に役立つとは思っていなかったが、その時はただすがるものが欲しかったのだ。
 「ナウマクサマンダバザラダンカン ナウマクサマンダバザラダンカン ナウマク・・」 これは昔おばあちゃんに教わった呪文。それの効果か車の中の暖かさのせいかは判らないが、段々落ち着いて来て感覚が元に戻ってきた。
 エディは食い入るようにそんな私を見つめている。
 元に戻った私は何だか照れ臭くてうつ向いたまま言った。「ごめんなさい。こんな事初めてなのよ。もう大丈夫みたい」
 彼はシートにもたれかかると、大きく息を吐きながら独り言を言った。「サラマンダーか・・・」
 「サラマンダーって?」私が尋ねるた言葉は彼には届かなかった。
 私は彼を横目で見る。彼は目を閉じていた。
 「本当にごめんね」今度は少し力を出して言った。
 今度は彼の耳に届いたようだ。彼はシートから起き上がると言った。
 「何か見たのかい?」
 私は答えた。「急に意識が遠退いて、子供の頃の夢を見ていたみたい」
 「初めてだって言ったね」私は頷く。
 「今までに何か見えないものを感じた事はない?」
 「見えないものって?例えば幽霊とか?」彼は頷く。
 「そうね、気持ち悪い場所だなって思うぐらいよ。どうして?私貧血を起こしたんじゃないの?」
 彼は少し困った様な顔をした。
 私は不安になって尋ねる。「私が気を失っている間に、何かあったの?」
 彼は言い淀む。私はちゃんと向かい合い、彼の目を見て言った。「教えて」
 彼は仕方なさそうに答える。「霊が乗り移ったんだよ。君はフランス語でしゃべっていたんだ」
 「何て言ってたの?」
 彼は答えない。私は辛抱強く待った。
 彼が仕方なく言った。「来るなとか、帰れとか、東洋がどうとか。古い言葉だったし、とても訛っていたから僕にはよく判らなかった」
 彼はもうそれ以上答えない。
 私は諦めて言った。「これからどうするの?せっかくここまで来たんだし、あなた一人で見てきたら?」
 彼は首を横に振った。「いや、いいよ」そう言うと、車を発進させた。
 少し走ったところで彼が言った。「やっぱり・・・ここで一泊しようよ」
 私は尋ねる。「どうして?」
 彼が答える。「今日はゆっくり休んで、明日古城を見よう。きっと君は昨日着いたばかりで疲れてるんだ。だってせっかくここまで来たんだもの」
 私のせいでこうなってしまったので、仕方なくそれに同意した。

 彼は古城のホテルに車を付け、先に降りた。そして私の方に回ってドアを開け、手を差し伸べて降ろしてくれた。まだ少しふらふらしたが、彼の手を頼りに歩き始めると感覚はすぐに元に戻った。
 私はその時に触れた彼の手が、思ったより暖かく力強く感じられた。
 彼はロビーのソファーに私を座らせると、フロントへ行った。そして戻ってきて私に尋ねる。
 「スイートが一室しか空いていないんだけど、それでいい?」
 彼は何を考えているのだろう。しかしそこから一人でパリへ戻る自信のない私は、同意するしかなかった。
 それにとても不思議な事に、エディに対して危険な感じが全く無かったのだ。
 その時の私には、危険と言うものがどういうものなのかがちゃんと理解出来ていなかったのかも知れない。
 貞操の危機?そんなものはバツイチの私には関係なかったし、生命の危機を感じるにはエディは穏やかで、常識的に思えた。それに盗まれて困るものは何も持ってはいなかった。
 「ベッドルームが二つ有るんだったらかまわないわ」
 彼は軽く頷くとフロントに戻った。私も立ち上がり少し遅れてフロントへ行った。
 チェックインを済ませ、キーをもらった彼は、ウインクをすると言った。
 「妻って言うことにしておいたよ」
 私はあきれて何も言えなかった。

 ボーイに案内されて部屋へ入る。そこはとても広くて、緻密に織られた綺麗なゴブラン織りのソファーと、大理石で出来た暖炉のあるリビング、それにとても広くて天蓋付のベッドのある寝室も二つ有った。バスルームも各寝室についている。
 「すごい!まるでお姫様になったみたい」私ははしゃいで言った。
 自分のしようとしていることに対する罪悪感からはしゃいだでみせたのかも知れない。
 「僕が白馬に乗った王子様です」彼もおどけてそう言った。
 私はしっかり詰め物のされたソファーに腰掛けるとぼんやりと思った。
 私はいったい何をしているのだろう。離婚してまだ一ヶ月も経っていないのに、一人でパリに来て、そして夕べ知り合ったばかりの中国人の男性と、夫婦と偽って同じ部屋に居る。
 どうしちゃったんだろう?
 「ヨーコ、あなたいったい何考えてるの?」声に出して言ってみた。
 エディは不思議そうに私を見ている。
 私は煙草に火を付けると大きく吸った。そして、どうにでも成れと言う気分でソファーにゆったりと体をあずけて言った。
 「私、咽が乾いちゃった」
 彼は穏やかに笑うと電話で飲み物を注文した。
 私は「どうしてあんなことになったんだろう」と独り言のようにつぶやいた。
 エディは黙って私を見ている。いや、私というより私の影を見ているような感じだ。
 彼の神経がどんどん集中してきているのを感じた。彼の周りが青く輝き始めていた。それは初め目の錯覚のようで、チカチカと小さなフラッシュの様だったが、すぐにそれが一つに纏まり、青い、サファイヤのような青さを持った炎のようにゆらゆらと揺らめいた。
 その時私は、きっとあの炎は冷たいのだろうなと思った。冷たい炎。
 彼はじっと私を見つめたまま動かない。
 私は緊張した。何が起こるのだろう?まださっきの夢の続きなのだろうか?私はまた呪文を唱える。
 「ナウマクサマンダバザラダンカン ナウマクサマンダバザラダンカン ナウマク・・」
 何回か唱えた時、彼の緊張がフッと解けた。そして言った。
 「君はいったい何者なの?」
 私も言う「あなたこそ何者なの?魔術師なの?私はただの日本人のツーリストよ」
 彼が何か言いかけた時、ドアがノックされた。

 彼が立ち上がってドアを開ける。飲物を持ったボーイが部屋に入りテーブルにグラスとワインを置いた。コルクを開けようとするのをエディがおしとどめ、いつもの完璧な笑顔と共にチップを渡した。ボーイは礼を言って出て行った。
 エディは自分でゆっくりと、優雅な手付きでコルクを開け、ワインをグラスに注ぎ分けた。私はそれを一口飲む。とてもおいしいワインだった。
 「おいしい」私が言う。
 彼もそれを飲むと、言った。「確かに」そしてもう一口飲んでグラスを置いて言った。 
 「なぜ僕が魔術師なの?」
 「あなたは青い光を操ったわ」
 「君には僕の光が見えるんだね」
 私は頷く。
 彼が続ける。「じゃあ、話そう」
 そう言うと彼は顔の前で指を組んで、とても不思議な話を語り始めた。
 「夕べホテルのレストランの入口で君を見かけた時に、君の中に龍を見たんだ。僕はそれで君とぶつかってきっかけを作った」
 私は驚いて問い返す。「龍?龍ってあの蛇見たいな格好で、空を飛ぶあれ?」
 彼は頷く。「香港ではとても神聖なもの」
 「日本でもそうよ。龍神を祭る神社やお寺も沢山在るわ。龍は元々水の神様で山から流れ出した川が蛇行するのを見て古代の人達は天に昇って行くように思ったんでしょう?」
 彼は首を振る。「違う。龍は川なんかじゃない。龍は力なんだ。大地に宿る力。そして海に宿る力だ。人の力だってそうなんだ。中国で言う気の力に似ている。気の流れが龍の道。でもヨーコ、君には龍の姿が見える」
 私には彼が何を言おうとしているのかが掴めなかった。
 「判らないわ。どうして私と龍が結びつくのかも判らないし、それにあなたと龍の関係も判らない」私はそれだけ言って一気にグラスを飲み干した。
 彼が空になったグラスにワインを注いでくれる。そしてその瓶を置いて彼が言った。
 「君の龍は強力だ。でもまだ眠っている。君は龍が居る事すら気付いていない。だから炎を呼ぶんだ」
 私は驚いて尋ねる。「炎って?」
 「君はさっき車の中でも、そしてここでも炎を呼んだ」
 「もしかしてあの呪文のことかしら?」
 彼は頷き、続ける。「はい。不動明王の真言だ」
 「あれは、おばあちゃんが教えてくれた呪文なの。怖い時や困った時に唱えると助けて貰えるよって言って」
 「それはある意味では正しいかも知れない。不動明王自体が龍の化身したものだからね。炎の力で龍の力をカムフラージュするんだ。でも君が気を抜いた時には役に立たない。
 今の君には龍の力も炎の力もコントロール出来ないからね。
 ここにはさっきのサラマンダーの絵を見ても判るように龍の力を欲しがっている者達が沢山いる。
 早く君が龍の力をコントロールしないと、それを利用されて大変な事になる」
 彼はとても断定的にそう言ってのけた。
 またサラマンダーだ。それが何なのかも私には判らない。私はどうすればいいのか尋ねようかと思ったが、やめた。とても馬鹿馬鹿しかったし、何だかとても疲れていた。訳の判らない疲れだった。何も考えたくなかった。それに何故かとても眠りたい。それで私は尋ねるのを諦めて言った。
 「エディ。私とても眠いの。少し寝てもいいかしら」
 彼は微笑んで頷いた。そして大きな方のベッドルームの扉を開けると、ベッドの用意をしてくれた。

 私がベッドルームに入ると彼は出て行き、振り返って「鍵を掛けるんだよ」と言ってそっと扉を閉めた。
 私は洋服を脱いで椅子に掛ると、下着のままベッドに滑り込んだ。彼が私に悪意を持っていない事は動物的に理解していた。私は何の根拠もないにも係わらず、安心していた。

 ベッドに入ると突然眠りがやってきた。そして夢を見た。

 夢の中でも私は眠っていた。眠っている私の上におぼろげな影のような龍が居た。それがエディと話していた。
 中国語のようだ。私には聞き取れないが、意味は理解出来た。
 エディは龍になぜ目覚めないのか尋ねている。龍はそれに対して自分が目覚めるとヨーコが危険な目に遭うと言って目覚めることを拒んでいた。
 僕がヨーコを守るから目覚めてくれとエディは言う。
 龍は、無理だ。ヨーコは今とても傷ついているし疲れている。夫の浮気で離婚したばかりだし、仕事だって問題を山ほど抱えている。このまま無事に日本に帰してやってくれ。そうエディに頼む。
 エディはそれでも引き下がらない。君は日本で目覚めるのか?龍は判らないと答える。ヨーコが立ち直って元気になったらそんな事もあるかも知れないが、しかし私は眠っていた方が良いと思う。
 エディは言う。君が眠っていたくとも、きっと無理やり目覚めさせられる事に成るだろう。その時ヨーコはもっと辛い目に遭うんだ。僕に任せてくれないか・・・そんなやり取りだ。
 そしてその後エディは眠っている私に近付いて来た。そっと手を延ばし頬に触れようとする。
 龍が段々遠退く。エディの手が私の頬に触れようとした瞬間、目が覚めた。

 もう日が落ちて部屋は真っ暗だった。ドアの隙間から隣の光が洩れていた。ドアの向こうでエディが誰かと話していた。多分、広東語。国の誰かと電話で話しているのだろう。きっとそのせいであんな夢を見たのだ。
 私は起き上がると洋服を着てベッドルームを出た。時計を見るとちょうど一時間眠っていた。エディは電話を中断して日本語で言った。
 「おはよう!おなかすいただろう。ちょっと待っててね。話が終わったらレストランへ行こう」そう言うとまた電話の相手と広東語でしゃべった。
 私はその間煙草に火を付けボーっとしていた。ちょうど一本吸い終わった時、彼の電話は終わった。
 身支度を整え、彼と一緒にレストランへ行った。

 ボーイに案内されて席に付くと彼が言う。「ねえヨーコ。僕達はもっと知り合うことが出来ないだろうか?」
 「知り合うって?」私が尋ねる。
 彼がボーイに向かってフランス語で何か言うとボーイは「ウィ ムスィユ」と言って立ち去った。そして言った。
 「まず僕の話をしよう。良いかな?」
 「いいわよ」
 彼は続ける。「まず僕の名前は李小龍。でも今はみんなエディと呼んでいる。今36歳、香港で生まれた。
 祖父は風水師だ。風水と言うのは土地や建物の占い師のようなもので、香港や中国ではとても重要な仕事だ。
 父はあまり風水の仕事を好まなかったので、祖父が一番良い場所を選んで、宝石店を持たせた。
 母はインド人だ。父が宝石を買い付けに行った時に知り合い、結婚した。
 兄が一人居る。アンディと呼んでいる。年は僕より五つ上。
 僕は祖父にとても可愛がられて育った。祖父の名前が大龍そして僕が小龍。
 僕は祖父からいろんな事を学んだ。風水についても、他の色んな事についてもね。
 父の商売はとても巧く行っていたんだけど、僕が生まれてしばらくしてから店の女の人と恋に落ちて家に帰らなくなった。だから僕はあまり父の事は好きじゃなかった。でも祖父が居たから寂しく思ったことは無い。
 李の家系には龍使いの血が流れているそうだ」
 彼はとても誠実に話し続ける。ワインが運ばれてきても、彼は話し続けた。私もワインを飲みながらゆっくり付き合うことにした。さっき眠ったせいか、気持ちがとてもリラックスしていた。それに彼の話が私にとって真実である必要が無いせいか、彼に対して不信感を持つこともなかった。何故なら、その話の根底に流れるのは「龍」だったからだ。
 「父は僕が15歳の時に家に戻った。でも僕はロンドンのハイスクールへ行くことが決まっていたし、兄はアメリカに留学していた。
 僕には父と暮らした記憶がほとんどない。父はたまに帰ってくるけれどあまり僕や兄に興味を示さなかったんだ。
 僕はハイスクールを卒業し、フランス語と歴史に興味を持ってソルボンヌへ入学した。イギリスよりフランスの方が絶対的に美味しい物が多いからね。
 その時の友人が日本人で彼に簡単な日本語は習った。でも香港に帰って店をやり出した時に日本人の客がとても多いのでちゃんと覚えようと思って一年間日本で暮らしたんだ。この事は言ったよね」
 私は頷く。
 料理が運ばれてくる。彼は食べながらも話を止めない。
 「僕は今の仕事をとても気に入っていたんだ」彼は過去形で言った。
 私はそれについて尋ねる。「じゃあ、今は違うの?」
 彼は曖昧に笑うと言った。「龍を見つけた。僕は龍使いなんだ。どうしようも無い」彼は言葉を切った。
 「それって私の事なの?」
 彼は大きく頷いた。
 「僕は日本で言葉だけじゃなくて心霊学についても学んだ。日本はとても面白い。
 いろんな宗教がごちゃ混ぜになっていて、それなりに力を保っている。
 聖地と呼ばれる所へも行った。まだ生きている所も沢山有った。風水的に見てね。
 僕は何となく僕の使う龍が日本に居るような気がしていたんだ。でもみつからなかった。
 一人だけまだ幼い龍を背負った人に出逢ったけれど、それはまだ幼すぎて僕の龍じゃなかった。
 それで僕は諦めて香港に戻った。そして宝石店の仕事に没頭していた。
 店はとても巧く行っている。兄の店は全部で三つに成り、一つは兄が、そしてもう一つは兄嫁が、そしてもう一つを僕がやっているんだ」
 私は尋ねる。「お父様は?」
 「父は僕が卒業して香港に帰って三ヶ月で死んだ。その頃兄がもう店をやっていたし、それに父は家に帰ってから体調を崩して寝たり起きたりの生活だったから仕方なかったんだ。きっと僕が戻るのを待っていたんだろうな」
 彼は少しだけ辛そうな顔をした。
 「今回は僕の店が改装で長く休めそうだったので、久しぶりにパリに来た」彼は気を取り直してそう言った。
 「ええ、それは聞いたわ」私が答えた。
 彼は頷くと続ける。
 「こちらに来る前に祖父が言ったんだ」
 彼は言葉を切った。私は黙って次を待つ。そして彼は何かに踏ん切りを付けるように頷いて、また話し始めた。
 「祖父が、お前も龍を使う時が来たって言ったんだ。でも、僕は言った。だけど僕の龍はまだ見付からないって。すると祖父はもうすぐだ。そう言って後は何も答えてくれなかった。そして昨日僕は、君と出逢った」
 彼の話はそこで終わっていた。物語の前編の粗筋を読み終わったような終わり方だった。
 次は私が話す番だ。とても馬鹿馬鹿しいと思いながらも私は夢の中で龍が彼に語った事を話した。
 私が夫の浮気で離婚したばかりだと言う事や、仕事の事などを話し、龍が目覚める事を拒んでいた事などを伝えた。
 本当にどうしようも無く馬鹿馬鹿しい話だった。しかし何故か龍という存在を認めているような話し方になっていた。自分自身でそれが奇妙だった。
 私の知っている『昨日の自分』が話しているのではないようだった。
 私はいったいどうしてしまったのだろう?
 何故なのだろう?
 私の思考力を支えていたタガが無くなっているような感じだった。
 それにその時の私には、彼の龍の話を信じたところで、私に実害があるとは思えなかった。もし、私が何かを間違ったとしたら、それが一番初めの間違いだったのかも知れない。

 彼はしばらく目を閉じて考えると言った。
 「僕が必ず君を守る」
 夢の中と同じだった。私は巧く笑顔が作れない。
 「ヨーコは今シングルだ。僕もシングルだ。なんの問題も、障害もない。
 僕は今まで恋をする機会がなかったんだ。僕はずっと僕の龍を探し続けていたからね。
 そして僕はとうとう君を見つけた。僕と付き合ってくれないか?」
 彼は真剣にそう言うと私の目を見つめた。
 私はそれを聞いて吹き出しそうになったのをやっとこらえ、出来るだけ正直に言った。
 「エディ。私はあなたの事を嫌いじゃない。でも好きかどうかもわからない。だって私達夕べ出逢ったばかりなのよ。好きになるには時間も必要なの。それに私はさっき言ったように心がとても疲れているの。
 判るでしょう?もし本当に私に龍が居たとしても、私の夢の中で龍が言ったように、起こさないで。
 私はただの日本から来た旅行者で、何も特別な人間じゃないの。愛し合って結婚した夫にさえ裏切られて捨てられるような、そんな何の魅力もない女なのよ。
 若くもないし美しくもない。それは私が一番良く知っているわ。
 きっとあなたが私の中に見ている龍は、あなたの探している龍じゃないのよ。
 確かにあなたは私が知っている男性の中で一番美しくて一番魅力的だけど、今の私には動く心すらない。
 それに・・・あなたの求めているのは私じゃないのが私には判る。
 あなたの求めているのは龍なのよ。そんな話で女を口説くものじゃないわ」私は一気にしゃべり終えた。
 彼は私から目を逸らすと深く息を吸い込んだ。そしてそれを静かに吐き出して、もう一度私の目を見て言った。
 「確かに君の言うとおりだ。僕は焦り過ぎた。もう少し時間をかけよう。
 せめて君がフランスに居る間の時間を僕にくれないか。君の心の傷が癒えるのを見ていたいんだ。
 僕がその為にほんの少しでも役立てればいいと思う。僕は通訳にも成れるし、ボディーガードだって出来る。こう見えてもカンフーが出来るんだ。それに運転手にだって成れるし、荷物だって持てる。
 明日古城を見てパリに戻る。そしてパリでまたデートしよう。恋人ごっこをするんだ。パリにいる間だけ楽しめばいいじゃないか。そして君が日本に戻る時にはフィニッシュだ」
 彼は冗談のような提案をした。私は本気であきれていた。彼は更に続けた。
 「僕はヨーコの嫌がる事は決してしない。ヨーコはヨーコの好きなようにすればいい。もし誰かに恋をしても構わない。僕を気にしなくてもいいから」
 私には何故彼がそんな提案をするのかが理解できなかった。こんな私を口説いてどうしようというのだ。幾ら考えても、それにどんなメリットが有るのか判らない。
 もっと若ければ、一目惚れなどと思えたかも知れないが、そう思うには年を取り過ぎていた。しかし旅先というシチュエーションと、ワインの酔いが私を大胆にしていた。
 それに、私には失うものなど何も無かった。私が今持っているのは一週間のバカンスと、傷つき疲れた心だけだ。
 私がこの一週間のバカンスを彼に賭ける。彼はいったい何を賭けるというのだろう?
 「あなたは後五日で龍を目覚めさせるつもりなのね。そしてそれが出来なかったらあなたの負けなのね」
 彼は頷いた。
 「じゃあ、あなたが負けたらどうなるの?」
 「僕の龍を失うんだ」
 「それはあなたにとってとっても大切なものなのね?」
 「はい。僕はそのために生まれて来た」
 「OK あなたの賭に乗ってあげるわ」私は成り行きと、ほとんどやけっぱちでそう言った。
 その時私は彼の言う龍のことなど全く理解していなかった。ただ、彼の熱意と、昼食の時に感じていた彼と居ることの心地好さをもう少し味わいたかったのかも知れない。
 彼は力強く頷き、握手を求めた。私はその手を握った。とてもきれいな指だった。私は尋ねる。
 「ところであなた、あなたの言う龍が目覚めた時本当に私を守れるの?」
 彼は真剣な顔で答えた。「判らないんだ。僕の力で足りるものなのか、僕に守りきることが出来るのかどうか判らない。でも命を賭て守ってみせる。ただ僕の命で足らなかった時は・・・僕も怖いんだ。本当に怖いのに血が騒いで止まらない。ごめん」彼は少年の様な目で、そう言った。
 私は笑顔を作って言う。
 「あなたが本当に龍を起こしたら諦めるわ。たいしてこの命に執着があるわけでもないし、特にやりたい事がある訳でもないの。
 もしあなたが守れなくっても気にすることはないわ。私が今ここで決めたんですもの。決めたのは私よ。ついでだから言っておくけど私、賭にはとても弱いの。多分私は負ける方に賭けた筈よ」
 彼は言った。「僕は賭けに負けたことがない」
 「力強いお言葉をありがとう」私が言って二人で笑った。
 その時点で契約が成立していたのだ。龍を共有するという契約が。

 それから二人でいろんな話をした。彼の昔の恋の話や、私の結婚と離婚についても出来るだけ正直に話した。そうすることで私の心は随分軽く成って行った。そうして居るうちに彼は段々昔会った誰かに似ているような気がしてきた。
 エディはとてもなつかしい誰かに似ている。彼の前では飾ることも気負うこともない。不思議な男だ。
 瞳のきれいな東洋人で、髪は真黒で背中まで伸ばし、それを一つに束ね、アルマーニのスーツを無理無く着こなしている。
 私が後5歳若かったら一目惚れしていたかも知れない。でも今は無理。自分に自信もないし、心に傷を負ってもいる。『恋をするだけのエネルギーなんて残っていないのよ。エディ』私は心の中でそう言ってみた。

 二人で部屋に戻ったのは11時を回った頃だった。部屋に戻った私はソファーに腰掛けて、彼に言った。
 「あなたとても綺麗な髪をしているのね。それに肌もとても綺麗」
 彼はそれに対し、香港では漢方のとても良い物が手に入るのだと言った。そして自分の寝室から綺麗な瓶を持ってきた。それはとても不思議な香りのするオイルだった。
 「マッサージをしてあげよう」と言って、彼は私の寝室のバスにお湯を張るとそのオイルを少し入れ、私に入るように言った。
 私は考えることを放棄して、彼を無条件に信じることにした。それに、その頃にはかなり彼に好意を感じても居た。
 「どうにでもなれ。どうせ成るようにしか成らないんだ」それが私の生きて行く上でのモットーだ。

 化粧を落とし、バスタオルを体に巻いてバスタブに体を沈める。彼が「入るよ」と声をかけてバスルームへ入ってきた。
 彼はシャツを腕まくりすると手のひらにオイルを取って、とても優しく、そして適格に私の顔や腕や足をマッサージする。私はとても心地好く、羽毛の布団の中でうつらうつらしているような気持ちになった。
 一通りマッサージが終わると彼は「冷たい飲み物を用意するから終わったら出ておいで」と言って出て行った。
 彼は本当にマッサージ以外の事をしなかった。私は自分の感じていたエディに対する安心感を確認できたことを嬉しく思っていた。
 私は丁寧に髪と体を洗い、バスローブを着て、髪をタオルで乾かしながらリビングへでた。彼も急いでシャワーを浴びたのか、髪を下ろしバスローブを着て寛いでいた。テーブルの上には綺麗な色の飲物が置かれ、彼はそれを飲んでいた。彼の勧めに応じて私もそれを飲んでみた。それはとても不思議な飲物だった。それを飲み終わるととてもけだるい感じがして、私はとても安らいだ気持ちになった。

 「おやすみなさい」私はそう言って寝室に引き上げ、ベッドにもぐりこんだ。何も考える暇もなく眠りは突然やってきた。



 目覚めると窓から柔らかな光が差し込んでいた。寝室のドアごしにエディが広東語で話しているのが聞こえた。
 私はベッドの上に起き上がると昨日一日の事を一つづつ丁寧に思い出した。とても信じられない一日だった。
 私は頭を一振りしてベッドを降り、バスルームに入り、顔を洗って手早く化粧をした。彼のマッサージの効果か、とても肌の調子が良く、まるで5歳も若返ったような感じだった。
 身支度を整え寝室を出ると、彼の電話は終わっていた。彼は髪を下ろし寛いでいた。とても清々しい笑顔で彼は言った。「おはよう 良く眠れた?」
 私も笑顔を作って言った。「あなたがとてもしつこくて眠れなかったわ」
 彼は声を出して笑うと言った。「僕が眠っているうちにもう一人の僕が君のベッドへ入っていったのかな?」
 私は言う。「あら、あれはあなたじゃなかったの?」
 彼は首を傾げる。
 私は笑いながら言う。「とってもよく眠ったわ。夢も見ないぐらいぐっすりとね。あれじゃ誰がベッドに入って来ても判らなかったはずよ」
 彼は大きく頷くと言った。「今朝の君はとてもきれいだよ」
 「ありがとう」私はとても素直な気持ちでそう言った。
 彼は立ち上がると私の顔に触れた。
 「肌もずいぶん回復した。早く心もこんなふうに回復すればいいのにね」そう言って額にくちづけした。私は少しドキドキした。
 彼は「食事に行こう」と言うとそのまま自分の寝室に入り、髪をまとめ、上着を羽織って出てきた。

 私達はレストランで食事をし、チェックアウトを済ませ、シトロエンに乗って古城に向かった。

 車窓から見えたシュノンソー城はとても女性らしいたたずまいを見せていた。
 車を降りて、冷たく冴えた空気の中を少し歩く。
 私は昨日の事が会ったので少し緊張していた。
 彼は何も言わずに歩く。
 私は入るのをためらっていた。
 彼はそんな私を見て、言った。
 「やっぱり止めよう。中に入らずに庭を散歩しよう」
 「本当にいいの?私ここで待ってるから、あなたゆっくり見てくれば?」
 彼は首を横に振る。「君と一緒にいたいんだよ。僕達には後5日しかないんだ。一分一秒も離れていたくない」
 私はその言葉に吹き出した。
 「まるで安物のメロドラマね」
 「メロドラマって?」彼が尋ねる。
 「とても良く出来ているラブストーリーのテレビ番組よ」
 彼は頷く。そして言った。
 「半分はジョークだけど後の半分は本気なんだよ」
 私は驚いて彼を見る。少し照れながらとても素敵に笑った彼がそこにいた。
 「僕は君と居ることがとても嬉しいんだ。何故だろう。まだ出逢って二日しかたっていないのに、僕は君を愛し始めている」彼はそう言うとうつ向いた。
 私はどうしていいのか判らなくなって歩き始めた。
 彼が追って来る。そして隣に並ぶと、言った。
 「気を悪くした?」
 私は立ち止って首を横に振る。
 「でも、とてもとまどってる。私、今自分の事だけで精一杯なのよ。それに私に魅力があるなんて思えないし、何よりもこんなふうに男性から打ち明けられたことなんて初めてなの。
 自分があなたみたいな素敵な男性に愛されるなんて、どうしても信じられない」
 「僕はとても正直に言ったつもりだ。僕だって何故こんなに君を求めるのか不思議だ。でも少しづつ思い出しかけてる。君のそばに居るときっと思い出すはずだ。そんな気がするんだ」
 私は尋ねる。「思い出すって、何を」
 「それもよく判らない。でも何かを思い出しかけている。そしてそれはとても大切な何かなんだ」
 私は笑顔を作って彼の顔をのぞき込んだ。とても真剣な顔をしていた。だまされてもいいか。そんなふうに思えた。私は彼の手を取って言った。
 「散歩しましょう。とっても気持ちのいい朝だわ。恋人ごっこだったのよね」
 彼が私の手を握り返す。そして言った。
 「はい。夕べは夫婦でもあったんだよ」
 私は首を傾げる。
 彼が言う。「ほらチェックインの時に」
 私は笑って言った。「そうそう。じゃあもっと仲良くしなきゃ」
 彼は笑って私を抱き寄せた。私の胸がドキッとした。私はびっくりして抵抗した。
 彼は笑って言う。「ヨーコは言うだけなんだから」
 私は胸の高鳴りを知られないように走った。彼は捕まえようと追い掛けてくる。本当にテレビドラマで見た恋人同志のようだった。

 結局お城の中には入らずに、周りを散歩した。
 とても静かな池があった。私達はその池の端に腰を下ろして水鳥を見ていた。
 彼は何も言わずに冷たくなった私の手を暖めてくれる。私は指先から彼の暖かさを感じていた。彼は黙ってとても長い時間そうしていた。
 私もしばらく黙っていたが、だんだん寒くなって言った。
 「ねえ、あなた寒くないの?」
 彼はふっと我に返ったように言った。「ごめん、ちょっと考え事してたみたいだ。車に戻ろう」そう言って立ち上がった。

 車に戻ると彼はエンジンを駆け、ヒーターの調節を最大にした。十分ほどで車内は快適な温度になった。私はコートを脱ぎ、後ろの座席に置いた。
 彼が言った。「パリへ戻ろう」
 「あなた全然お城を見ていないわよ。構わないの?」
 「構わない。それより君のパリに来た目的を果たさなければ」
 私は考える。私は何をしにパリへ来たんだろう。それを見透かしたように彼が言う。
 「美術館へ行ったり、ショッピングをしたりしたかったんだろう?」
 私は思い出したように頷いた。でも、そんな事はどうでも良いような気持ちになっていた。そんな私を見て彼は微笑んだ。そして車を発進させた。
 私は流れて行く景色を見ながら日本に居た時の自分が段々遠くなるのを感じていた。
 心に傷を負って一人でパリに来た。そして中国人の龍使いと車に乗っている。神はその為に私をパリへ導いたのだろうか。
 私は何もかもを認めてしまおうと思っていた。そんな不思議なことでも、常識では考えられないことでも、逆らわずに認め受け入れてしまおう。
 どんな事があっても失うものはこの命一つしかないんだ。この命を失ったところでまた生まれ変われば良い。
 何故かその時私にはそんなふうに思えた。昨日の私と、今日の私は違うのだ。肩に力を入れなくても、背筋はちゃんと伸びることを知ったのだから。
 中国人の龍使いではなく、彼と居ることでとても安らいでいる今現在の自分を信じよう。私はそう思った。

 私が尋ねる。「エディ。お爺様は電話でなんておっしゃったの?」
 彼は驚いたように私を見た。
 「あなた、夕べも今朝も電話してたでしょう?」
 彼は頷くと言う。「祖父は、愛が鍵だと言った」
 私は軽い眩暈を覚えた。漠然としている。いや漠然とし過ぎている。
 彼は続けた。「祖父はお前の中にどれだけの愛があるのか、その愛を、龍を背負った女性にどれだけ伝えられるのか、後はお前が考えればいいと。お前の父はそれが出来なくて早く死んだんだと言った」
 私は尋ねる。「あなたのお父様は、龍に興味が無かったんじゃないの?」
 彼は頷く。
 「そう僕も聞いていた。しかし本当は違ったらしい。店の女と出来てたんじゃなくて、龍に引きずり回された挙げ句に力尽きて死んだらしい。今朝になって始めて聞いた。祖父も母もそのことを僕に隠していた。それで僕のことをとっても心配している」
 私はしばらく黙って窓の外を見ながら考えていた。そして考えをまとめると言った。
 「エディ。何も無かった事にしましょう。私達は出逢わなかったの。私はここで車を降りて鉄道でパリに戻るわ。そしてホテルをチェックアウトするの。そうすれば一昨日の夜からの事が全部夢になる。
 すべてを振り出しに戻すのよ。私達は長くて楽しい夢を見ていたの。でも目覚めるといつもと何も変わらない毎日よ。どう?私の提案。素敵でしょう?」
 エディはそれには答えずに、車を道の端に止めた。サイドブレーキを引き、両手でハンドルを握り締め、その手に頭を付けた。しばらくそうしてから頭を起こすと両手でハンドルを大きな音を立てて思いっきり叩き、私を見て声を荒げて言った。
 「ヨーコ!君はまた僕から逃げ出してしまうのか?」彼の顔に真剣な怒りの表情が浮かんでいた。
 私は怯まずに尋ねる。「また逃げ出すってどう言う事なの?」
 彼は私の両肩をつかんで大声で言った。「僕はずっと君と出逢うためだけに生きて来たんだ。こんな地球の反対側までやって来て、やっと君を見つけ、こうして手を触れられる近さ迄辿り着いたと言うのに、君はまた逃げてしまうのか?僕にもう三十年も君を探せと言うのか?」そう言うと目に涙を浮かべた。
 私はそんな彼に驚いて何も言えない。彼は少し声を押さえて続ける。
 「君は生まれ変わる前にもそう言って僕から逃げたんだ」そう言うと、私の肩を離し車のシートに体をあずけた。
 今度は私が体を乗り出して彼の方を向いて言った。「どう言う事なの。生まれ変わる前って。それって前世の事?」
 彼は目を閉じて言う。「あの時は君が中国人で、僕が日本人の僧だった」思い出すように一言一言ゆっくりとしゃべる。いや、本当に思い出しながらしゃべっていたのだ。私もシートにもたれて聞いた。
 「僕が船で中国に渡り、仏教を学んでいた時に君と出逢ったんだ。
 君は大きな美術商の奥さんだった。
 僕が君の龍を見つけた時、君は僕に泣いて頼んだ。そっとしておいて、今の幸せを壊さないでと。
 僕にはどうしようもなかった。だって君は人の妻だったし、僕はただの修行僧だったんだ。
 それで僕は山に篭り、死ぬまで君を諦め切れずに経を読んで暮らした。
 違う!今、思い出した。あの時の僕は龍なんかじゃ無く、たおやかで美しい君を愛していたんだ。
 君の龍はただのきっかけでしかなかった。だから僕は今、会ったばかりなのにも関わらず、君をこんなに愛してしまうんだ。
 あの時の僕は、君への思いを断ち切るためにあらゆる苦行を試したけど、結局だめだった。忘れなれなかったんだ。
 それでまたこの生でも君を探していた。そしてやっと見つけたのに・・」
 彼は言葉を切った。彼はその後何も言わずに車を発進させた。

 私は窓の外を流れ去る風景を見ていた。私は少しづつ知らないことを思い出しかけていた。今の自分の思いが入り込む余地もなく、私は話し始めていた。
 「私はあの時の主人にあなたとの仲を疑われて家を出たのよ。そして船に乗ったの。なぜかしら。その辺りのことがまだ思い出せない。
 とにかく日本へ行く船に乗ったの。でも辿り着けなかったわ。そう、陸が見えた所で死んでしまったから。日本に辿り着いたのは私の死体だけだった。何だかとても辛くて悲しかったのを覚えている」
 彼は片手をハンドルら離すと私の手を握った。私は涙が溢れだしていた。誰かが私の体を使って泣いていた。私の知らない誰か。
 私は窓の方を向き、彼に見られないように涙を拭う。そして彼に尋ねた。
 「あなたそれをいつ思い出したの?」
 彼は私の手を握ったまま答える。「さっき、君の手に触れながら水鳥を見ていた時に。ずっと昔から見続けていた夢の断片が一つに繋がって、それが確信に変わった。君に触れていると色んな事を思い出す。今、あの時の君の名前を思い出したよ」
 私は彼をのぞき込む。
 「君の名前はフォン。そして僕の名前は龍山だった」
 『フォン』それが私の中で涙を流した者の名前なのか。
 ヨーコとフォンが尋ねる。「それであなたはどうするつもりなの?」
 彼は自信に満ちた声で答えた。
 「今度こそ君を愛し、君の龍を目覚めさせる」
 私は大きく息を吐いて、言った。
 「そこに危険が待っていても?」
 彼は大きく頷いた。

 車はどんどんパリに近付いていた。