龍 1 パリ
 私が初めてこの街を訪れたのは、もう十年以上前のことだ。それから二度訪れた。いつも同じ季節で、友人と一緒だった。
 手に触れる物すべてが冷たくて寒い。けれどもクリスマスの飾り付けが始まり、街も人も急に華やぎ始める頃。私の大好きな季節。しかし今度の旅は訳有りの一人旅。

 離婚問題が片付いたのが十一月の始めの事だった。
 エネルギーを使い果たし、心身共に疲れた私は、旅を思い立った。それがこの季節だった為に、この街を思い付いたのだ。
 大好きなこの時期のパリに身を置く事で、疲れた自分をいたわってやろうと思った。それにこの街には、私を知っている人が誰も居ない。一人になった事を実感するには持ってこいのシチュエーションに思えた。
 ホテルは迷わずにモンマルトルの傍に決めた。
 自分で旅行社へ行き、飛行機のチケットとホテルの予約を取った。いつもは人任せにしてしまう事だが、今回は傷心の一人旅。誰を頼る訳にもいかない。
 この時期のモンマルトルは、空気が澄んでいるせいか見上げるだけで涙が零れる程の蒼さを持った空と、確かな質感を持った特殊な白のサクレクール寺院が、絶妙なバランスを保ちながら、圧倒的な迫力を見せているはずだ。
 見る度に、二十歳の頃初めて見た時と同じ感動を感じさせてくれる。しかし、今の疲れ切った私にも、またあの感動を与えてくれるだろうか。それよりも、今の私にまだ感動するだけの力が残っているのだろうか。

 一人で、飛行機のエコノミーの窮屈なシートに体を預けて、十二時間あまり飛んだ。
 いつもなら、友人との楽しい会話で旅のプロローグとなる時間だ。しかし、今回は終わらせてしまった結婚生活や、別れた夫への私なりの想いを絶ち切るための作業にその時間を使った。
 辛かった思い出だけが幾つも蘇って来た。楽しかった事もあった筈なのに、それを思い出すには、もう少し時が経ち、辛さが思い出になる必要があるのだろう。
 悔しさや、情けなさと格闘しただけで、何一つ片付かないまま私の乗った飛行機は、パリ上空に着いてしまっていた。
 「まぁいい」
 ゆっくり時間をかけて片付けてしまえば良い。私には未だ沢山時間が残っているのだから。

 着陸準備に入り、シートベルトで体を固定する。私は飛行機の冷たい小さな窓に額を付けて街を見た。その小さく切り取られた窓枠の中には、私の記憶の中のパリと寸分違わぬ景色があった。トパーズを散りばめたような暖かい色の光が、凱旋門に向かって集まっている。何となく胸が詰まる。一人で見るパリの灯。

 空港を出てタクシーでホテルへ向かった。
 私はフランス語が判らない。行き先は紙に書いたものを運転手に見せた。彼が「ウィ」と言ったので一安心。
 少し肥った中年の運転手は、何処から来たとか、何しに来たのかとか、初めはフランス語で、そしてそれが私に通じないのを知って訛りのある英語で尋ねる。
 私は英語も話せない。しかしなんとなく何を尋ねたのかが判ったので、知っている単語を並べて答えた。
 「ジャポン」 「ミュゼ」そんな感じだ。
 陽気な彼は色々と話かけてくれるが、私があまりにも判らないので途中で諦めたらしく鼻歌を歌いながら運転した。
 小一時間程で車はホテルに着いた。私は少し多めにチップを渡し、タクシーを降りる。陽気な運転手は何か祝福の言葉の様なものを残して車を発進させた。

 ホテルに入り、フロントでパスポートを見せてチェックインする。ロビーには、まばらに人がいた。誰一人として私を知らない人達だ。しかし、その誰もをホテルの暖かい光は迎え入れていた。

 ベルボーイに案内されて部屋へ行く。エレベーターに乗り、五階で降りた。彼が鍵を開けてくれ、私は部屋に入る。彼は荷物を部屋に入れると鍵を置いて出て行った。
 扉の閉まる音を聞いた途端私は、突然予期しなかった孤独感に襲われた。本当に一人ぼっちだった。それも大好きな、楽しい思い出の沢山詰まったパリの街で。
 カーテンを開けて窓から外を見る。そこは石のグレーに覆われたパリの街だった。その窓越しの風景を見ていると胸の辺りに熱くて重い魂があるのを感じた。
 私は街を見ながら涙を流していた。その涙が胸に有る魂を更に膨らませる。

 夫の浮気を知った時私は、結局最後まで泣かないですべてを処理した。強く、冷静で、嫌なことはいつも事務的に処理出来る女性。それが私の働く女性としての一つの理想であった。もちろん一人の時には枕に顔を埋め、声を立てずに泣いたりもした。眠れない夜も随分過ごした。しかし、朝にはむくんだ顔や腫れた目を氷で冷やし、それを誰にも知られないよう細心の注意をはらっていた。それを見せることは、それまで自分が作り上げて来たものの崩壊に繋がるように思えた。
 きっと別れた夫は、そんな可愛げの無い私が、嫌で堪らなかったのだろう。しかし、本当の私は今こうしてパリの街を見ながら泣いている。誰にも見られていない。もし見られたとしても、誰も私を知らない街。そしてこの街を出てしまえば私の生活に何ら影響を与えないと言うシチュエーションの中で、やっと私は私の美意識から解き放たれたのだった。
 最初は涙だけが溢れて来て、それが引き金となり嗚咽に変わる。誰にも遠慮することがないことに気付くとそれは大声に変わった。私は子供のように泣きじゃくり、気の済むまで一人で泣いた。そして泣き終わるとおなかがすいていた。

 バスルームで顔を洗い、化粧をし直した。誰に会うでもないのに化粧をしている自分がおかしくもあり、少しいじらしくもあった。いつもより優しく見えるように顔を作って、一人でホテルのレストランへ下りた。

 泣いた後で頭がボーっとしていた私は、レストランの入り口で東洋人の男の人とぶつかってしまった。
 「パルドン」私は謝る。彼は何か言った。私には判らない言葉。
 キョトンとした私に彼はもう一度言い直した。
 「失礼しました。日本の方ですか?」私は頷く。
 「これから食事ですか?」彼が言う。
 「ええ、そのつもりです」私は頷いて言った。
 彼はとても感じよく微笑んで見せ、言う。「僕も今から一人で食べようと思っていたんです。良かったらご一緒しませんか?」
 私は答えを渋っていた。私は元々人見知りをするタイプなのだ。仕事関係以外では、初めての人と話すのは苦手だ。

 ボーイが私達を二人連れだと勘違いしたのか、二人を一緒のテーブルに案内した。私は仕方なくテーブルに着く。彼は「良いですよね」と念を押して私の前に座った。私は曖昧に頷いた。
 「何を食べますか?」彼が尋ねた。
 「私、メニューを見ても判らないから、あなた、何か軽いものを頼んでくださる?」
 いつもなら周りを見回して、美味しそうなものを指差してオーダーするのだ。
 彼はじっくりメニューを見ると幾つかの料理をピックアップして私に尋ねる。私は彼がピックアップしたメニューの中に嫌いな物が無かったので、「それでいいわ」と答えた。
 彼はボーイを呼んで注文を告げ、最後に私に「ワインは?」と尋ねた。
 「少しなら」私は答える。彼はワインをリストの中からボーイに尋ねながら選んだ。
 日本と違って手間暇がかかる。私はその間窓の外を見ていた。思考力は完全に麻痺していた。ただ窓の外を通り過ぎる人や車をボーッと見ていた。私は彼のペースに巻き込まれようとしていた。と言うよりも、その時の私には自分のペースが判らなくなっていたと言った方が正しいだろう。
 注文を終えて彼は、私の方を向き直ると名乗った。
 「エディ リー」それが彼の名前だった。私は「タナカ ヨーコ」と名乗る。彼は香港から来たと言った。初め私を同国人かと思って広東語で話しかけたらしい。
 私が言う。「随分日本語がお上手なんですね」
 彼はそれに対して答える。「はい。僕は香港で宝石店をやっているのですが、日本からのお客さんが多いので五年前に一年間日本で勉強したのです」
 「何処に居たんですか?」
 「神戸です」
 「私は大阪から来たんですよ。住んでるのも勤めてるのも大阪です。仕事は婦人服のメーカーでパターンナーをしているの」
 「そうですか。女性を美しく飾るという意味でよく似た仕事ですね。それにもしかしたら僕が日本に居た時にどこかで擦れ違ったかも判りませんね」彼が言った。
 巧く笑えたかどうかは判らないが、私は少しだけ笑って見せた。そして尋ねる。「パリへは何時こられたんですか?」
 「昨日着きました」
 「何の目的でこちらへ?お仕事?それとも休暇ですか?」
 「今、僕の店が改装で久しぶりに休みが取れたので、休暇を兼ねて中世の装飾の勉強をしようと思ったのです。ヨーコは何時着いたのですか?」
 「私は、さっき着いたところ。つい一時間ほど前かな?」
 「一人でですか?」
 私は曖昧に頷いた。そしてつぶやくように言う。「ひとり旅がしたかったの」
 彼は少し首を傾げると、顔の前で指を組んだ。
 私は彼から目を逸らす。まずいことを言ってしまったと思った。見ず知らずの男に何を言ってしまったのだ。私は後悔していた。
 彼は指を解くと言った。「ヨーコ、フランス語は出来るの?」
 私は首を横に振る。「全然。フランス語も英語もだめ。日本語だけ」
 彼はあきれたように言う。「勇気があるのか・・」
 私は笑って言う。「滅茶苦茶なのよ。でもパリは四度目だし、いつもこの時期に来てるから、一人旅をしようと思いたった時にこの街しかないって思っちゃったの」
 私は何も考えないことにした。別に何も隠す必要はない。私の頭は今、何かを考えたり嘘をついたりするには疲れ過ぎている。そう思うと少しずつ緊張が取れて行くような気がした。それに彼は何となく懐かしい雰囲気を持っていた。
 ボーイがワインを運んできて、エディのグラスに恭しく注ぐ。彼は慣れた感じでテイスティングし、ボーイにフランス語で何か言った。ボーイは大きく頷くと私のグラスにワインを注ぎ、白い布で瓶の口を拭いてエディのグラスにも注いだ。ボーイが行ってしまって、私達は乾杯した。
 「ヨーコの一人旅の無事を祈って」彼はそう言ってグラスの向こうで感じ良く笑った。シンプルなグラスに注がれたボルドー色が、暫くの間目の中に残っていた。
 私は尋ねる。「あなたフランス語も出来るのね。住んでいるのが香港だったら英語も話せるんでしょう?」
 「はい。ここの大学に居たから。それにハイスクールはロンドンだったし。言葉には不自由しない」   
 「それに日本語も」私がそう言うと彼は頷いた。私は続ける。「おかげで私はおいしいワインにありつけたわ」そう言ってグラスを口に運ぶ。
 「面白い言い方だ」彼は言った。
 「あまりエレガントな言い方じゃないわね。でもあなたはなんだか私をリラックスさせるみたい」
 「僕もヨーコと初めて会ったような気がしない」
 私は笑いながら言う。「ガールハントだったらもっと若くて可愛い人にしなさいな」
 彼はグラスを飲み干すと自分で注いだ。そして目を上げて言う。「やっと笑ったね。でもそう言うつもりじゃない。本当に、昔どこかで会った様な気がするんだ」
 私は彼から目を逸らせる。彼の瞳は何か特別な力を持っているように思えた。彼の瞳とボルドー色が重なった。私より少し年上だろうか。よく判らない。しかし窓ガラスに写る自分の顔はとても疲れていて、彼よりもずっと老けて見えた。さっき泣いたせいか目も赤い。つくづく自分が嫌になった。
 エディの頼んだ物が次々を運ばれてくる。私は少しづつそれを取り分けてもらって食べる。残りは彼が食べた。ワインもあっと言う間に一本空いてしまった。彼はフランス人について話しながら、良く食べる。東洋人に対して差別感があるとか、ホモの男性に追い掛けられ易いとか、そんな話しをしながら気持ちが良い程の食べっぷりをみせた。私は相い槌を打ちながら、少しづつ食べる。彼の頼んだ料理はあまりしつこく無く、私の口には合った。それでもあまり沢山は食べられない。きっとさっき泣いたせいだろう。
 彼が料理のほとんどを食べてくれた。私はワインを何杯か飲み、それでおなかが一杯になった。結局二人で二本のワインを空けてしまっていた。
 酔いのせいか、エディとの会話のせいか、私は気持ちが楽になっていた。さっきまで一人で泣いていた自分がとてもおかしかった。しかし、泣いたことで自分が、本来の自分に戻るのを望んでいることに気付きかけていた。
 彼は食べ終えるとナフキンで口を拭い、言った。「ヨーコは明日からどうするの?」
 「ゆっくりと美術館へでも行ってみようと思っているわ。それにショッピングも楽しみたいし」
 彼は頷く。そして言った。「ロワールへは行ったことある?」
 「ええ、前に来た時に一度だけ。観光バスに乗ったの」
 「僕は明日、車を借りて行こうと思っているんだけど、良かったら一緒に行かない?」
 私は驚いて、彼から目を逸らせて首を横に振る。彼はじっと私を見つめている。いったいこの男は何を考えているのだろう。確かに彼は今私を誘っている。私にはその意味が良く理解出来なかった。それで私は言った。
 「せっかくだけど・・・いろんな意味で危険でしょう?」
 彼はいろんな意味について考えていた。そして真剣な目で言った。
 「ヨーコ、僕はお金に不自由していないから君を売り飛ばしたりしない。自分で言うのも何だけど、変質者でもないと思う。極くノーマルな人間だと思うよ。
 もちろん下心が無いと言えば嘘になるかも知れないけど、その下心と言ってもそんなにたいしたものじゃない。一人で観光をするより、素敵な女性と素敵なものを見た方がずっと心に残るって言う程度のものだよ。それでお互いの気が合えば、良い友達に成れるかも知れない。それは君次第だ。
 それに僕の車の運転は君の国のタクシードライバーより丁寧だと思う。その上あんなに愛想も悪くない。危険なんて君が一人でパリを歩き回っている方がずっと多いと思うな」
 私は日本の愛想の悪いタクシーの運転手を思い浮かべて、妙に納得した。それに反論するのも面倒になっていた。
 彼の言う下心という言葉が少し引っ掛かりはしたが、別に失うものは何もなかった。その上、ワインの酔いが私を大胆にさせてもいた。それでほとんどやけっぱちで答えた。
 「いいわよ。じゃあ一緒に連れてって」
 彼は嬉しそうに微笑んだ。どうせ自由な一人旅だし、まだ時間は沢山有る。
 彼はボーイを呼んで精算した。私は「半分払う」と言ったが、彼は笑って「ほとんど僕が食べたよ」と言うと、全部払った。私は丁寧に礼を言った。彼は「気にしなくていいよ」と言って笑った。そして尋ねる。「ヨーコ、車は何がいい?やっぱり日本車?」
 私は答える。「出来ればフランスらしい車がいいわね。せっかくパリまで来たんですもの」 
 彼は「判った」と言って席を立つ。私もそれに続いて席を立ちレストランを出た。

 彼がボタンを押してエレベーターを呼び、私を先に乗せ、続いて自分も乗った。私が自分の部屋の階を告げると、彼がボタンを押した。そして彼は最上階のボタンを押した。
 エレベーターの扉が閉まると彼は言った。「明日九時にロビーで待っているから。もしかしたら一泊になるかも知れないし、必要な物は用意しておいてね」私は面倒なので何も尋ねなかった。
 エレベーターの扉が開き、私は降りた。
 「おやすみなさい」彼が言う。
 「おやすみなさい」私も言った。

 部屋に戻ると私はバスにお湯を張り、着ていた物を脱いだ。そのままベッドに倒れ込み一人で居る事を体中で感じていた。そしてお風呂に入った。
 化粧を落とし、髪を洗う。ゆっくりとお湯につかっていると、少しづつ体のこわ張りが取れていくように感じた。長い時間飛行機のシートに座っていたのだ、思ったより体は疲れていた。そのまま眠ってしまいそうなので、シャワーを浴びてバスルームを出た。
 テレビのスイッチを入れるとニュース番組だった。私には関係ない国の関係ないニュースを、ふざけて真面目な顔をしたようなキャスターが巧く馴染んでいない表情でしゃべっていた。全く意味の解らない私に、それはとても気楽な感じを与えていた。
 髪が乾くまで意味の解らないままテレビを付けていた。そしてスイッチを切りベッドに入る。真っ暗な知らない部屋で一人っきりだった。怖くて眠れないかと思ったけれど、多分上等のワインの酔いのせいだろう、エディの事すら考える暇もなく、すぐに深い眠りに落ちた。



 目覚めるとまだ外は暗かった。スタンドを灯して時計を見る。七時前だった。私はもう一眠りしようかと思ったけれど、朝の弱い私にはめずらしく頭がすっきりとしているので起きる事にした。
 部屋の灯をつけてカーテンを開ける。外は未だ暗いのに人々はもう活動している。
 私は窓を開けて外の空気を部屋に入れた。それは思っていたとおり冷たくてビシッと張り詰めていた。そのまましばらく外を見ていた。寝起きの顔がお面のように凍り付いた。それから熱いシャワーを浴びると体も完全に目覚めた。
 化粧をし、身支度を整え、バッグに化粧品と下着を入れて部屋を出た。それにしても何故エディは一泊するなんて言ったのだろう。
 彼の言う下心のためだろうか。
 お金もなく、若くも、美しくもないバツイチの私にどんな興味が有るというのだ。
 私はその事についてはあまり深く考えない事にした。もしかしたら彼は酔っ払っていたのかも知れない。ワインを二本も空けたのだから有り得ないことではなかった。ロワールへ誘った事だって覚えていないかも知れない。
 私はそんなことを考えながらレストランへ下りた。

 レストランへ入って、窓際の席に座った。
 真白いシャツに蝶ネクタイのギャルソンが、コーヒーか紅茶かと尋ねる。
 私が「テ・オレ」と言うと銀色に輝くポットを持ってきて、セッティングされてあったカップにたっぷりと注いでくれた。
 「メルスィー」言葉が下手な分笑顔でごまかそうと彼に微笑んでみせた。彼も思ったより幼い笑顔で笑い返し、料理が沢山置かれたテーブルを指さし、取って食べろと言うような身振りをしてみせた。つまりバイキングスタイルと言うことだ。
 私は立ち上がり、クロワッサンを三つと、テーブルに並べてある全部の種類のハムと、洋梨のペースト、それにヨーグルトを取って席に戻る。パリに来るといつもこれだけは食べる。日本では考えられないほどの食欲だ。
 私は一人でそれをとても幸せな気分で食べ終えた。それでもまだ時計の針は八時を指す寸前だった。窓の外はもう明るくなっている。私はフロントに鍵を預けてホテルを出た。

 モンマルトルの坂道を、白い息を吐きながら登った。一足毎に枯れ葉がかさかさと音を立てる。大きな犬を連れた人と擦れ違う。いつものパリの風景だ。私の中にあるパリの風景。このために長い時間窮屈な思いをして飛行機に乗り、ボーナスを全部はたいてここまで来たのだ。
 曲がりくねった坂道を登りきると、思っていたように、いや、思っていたままのサクレクール寺院がそこにあった。真っ青な空に真っ白な屋根が突き刺さっている。私が辛い時にいつも勇気付け続けてくれた風景だ。十年前に初めて来た時のまま、目を閉じても、目を開けても、私には同じ風景が見えた。

 時間が早く、まだ観光客は居ない。
 私は重い扉を押し開けてサクレクールの中に入る。
 薄暗い礼拝堂の中では、何人かの人が神に祈りを捧げていた。
 私はその人達の邪魔をしないように後ろの席にそっと座る。
 静かに時が流れた。
 初めはいろんな事が心に浮かび上がって来た。そしてそれらは悲しみや悔しさを連れていた。しかしそれに構わず、通り過ぎる貨物列車を見るように私はやり過ごした。
 離婚までの数ヶ月、離婚してから飛行機に乗るまでの間、そしてパリまでの飛行機の中で、充分過ぎる程その悲しみ達と一緒に過ごした。もう、それを追い掛ける気にはなれなかったのだ。
 そうしていくつもの想いをやり過ごしていると、いつの間にか心の中には何も無くなっていた。ただ空間だけがそこにあって、想いは何も無い。私は無心になって祈っていた。
 「神様 私に祝福を下さい」
 仏教徒である事を忘れて私は本当にそう祈り続けた。

 外に出ると、暗さに慣れた目に新しく昇ったばかりの太陽の光が眩しかった。その光の中で何もかもが輝いていた。
 「これが神の祝福なんだ。私は神の祝福を受けている」そう思うととても嬉しく、体の奥の方から力が沸いて来る様に思えた。
 時計を見ると九時五分前だった。私は急いで坂を下り、ホテルへ戻る。
 まるで、何かが始まる予感に急かされて居るようだった。